プリンス グロリア スーパー 6
宵の銀座をブラブラと歩いて、4丁目の銀座日産ギャラリーの前を通りかかる。ふとガラス張りショールームの2階を見上げると懐かしいクルマが目についた。あれは1963年(昭和38年)に販売が開始されたプリンス グロリア スーパー 6ではないか。真っ黒なグロリアが眼に入った瞬間、父がかつて運輸省(現・国交省)の役人時代、真っ黒なショファードリブン(運転手付き)のこの車が、朝晩の送り迎えに来ていたことを思い出した。アメリカナイズされたフラットで優雅なボンネットのグロリアが家の前に横づけされると、子供心に毎朝ウキウキしたもので、当時の父の出勤する姿を思い出して、ショールームに鎮座するクルマの傍に行ってみることにした。
グロリアを産み出したプリンス自動車工業は、第2次大戦後、立川飛行機の出身者が創業した自動車メーカーであり、当時の先端的技術を取り入れた極めて技術優位の会社として名を馳せていた。残念ながらプリンス自動車は1966年に日産自動車の傘下に入ってしまったが、この会社が世に送り出したグロリアやスカイラインは後の日産の経営を支えてきた名車たちだ。トヨタと云えば当時はダサいデザイン、販売優先で技術は二の次という印象が強かったので、少年時代から長らく私はプリンス(日産)ファンであり、10数年前まではスカイラインGTを4代に亘って乗り継いできたのである。
ショールームに入り、しげしげとグロリア スーパー6を見ていたら、『SOHC 2リッター直列6気筒エンジン』とか『ド・ディオンアクスル採用』などという発売当時のこのクルマのキャッチコピーが自然に頭に浮かんできた。エンジンバルブを駆動するカムシャフトがエンジンの上部についているのがOVER HEAD CAMSHAFT ( OHC ) であるとか、後輪を駆動する機構がリジッドではなく斬新なド・ディオン式だとか、何となく判ったようなおぼろげな知識でクルマの雑誌や新聞広告を眺めては、「プリンスのクルマはすごいなあ」と子供心に憧れていたものだ。直列6気筒エンジンへのこだわりは今もなお続いてBMWになるのだが、それはさておき、父の送迎のクルマがグロリアの新車になったので、最新のマイカーが我が家にやって来たように感激したのである。
今だから云えるが、当時の役所のクルマは昼間は家族用に随分と融通が利いたものだった。運転手さん達も日がな一日役所に詰めているのも退屈だとみえ、「今日はどこかへドライブに行く?」と子供たちを誘ってくれることもよくあった。たまたま無二の親友の父君が農林省(現・農水省)の役人で、そちらは日産セドリックが送迎車であり、「今日は運輸省のプリンスグロリアで多摩テック(ホンダが多摩丘陵に作ったゴーカートの遊園地)に行こうか」とか「今日は農林省の日産セドリックで村山貯水池へ」などと、公用車を子供たちが自家用車の様に使い回していたからいい気なものだ。前席3人掛けのベンチシートに白いカバー、その頃はシートベルトの着用義務もなく、コラムシフトを操作する運転手さんの横に友達と2人並び、武蔵野のガタゴト道をドライブしてはクルマ談義に耽ったのがなんとも懐かしい思い出。今なら即刻公私混同、コンプライアンス違反でSNS大炎上間違いなし。銀座で出会ったグロリアの雄姿とともに、古き良き昭和30年代の思い出が蘇ってきた。
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