カテゴリー「クルマ・バス」の記事

2023年12月 8日 (金)

プリンス グロリア スーパー 6

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宵の銀座をブラブラと歩いて、4丁目の銀座日産ギャラリーの前を通りかかる。ふとガラス張りショールームの2階を見上げると懐かしいクルマが目についた。あれは1963年(昭和38年)に販売が開始されたプリンス グロリア スーパー 6ではないか。真っ黒なグロリアが眼に入った瞬間、父がかつて運輸省(現・国交省)の役人時代、真っ黒なショファードリブン(運転手付き)のこの車が、朝晩の送り迎えに来ていたことを思い出した。アメリカナイズされたフラットで優雅なボンネットのグロリアが家の前に横づけされると、子供心に毎朝ウキウキしたもので、当時の父の出勤する姿を思い出して、ショールームに鎮座するクルマの傍に行ってみることにした。


グロリアを産み出したプリンス自動車工業は、第2次大戦後、立川飛行機の出身者が創業した自動車メーカーであり、当時の先端的技術を取り入れた極めて技術優位の会社として名を馳せていた。残念ながらプリンス自動車は1966年に日産自動車の傘下に入ってしまったが、この会社が世に送り出したグロリアやスカイラインは後の日産の経営を支えてきた名車たちだ。トヨタと云えば当時はダサいデザイン、販売優先で技術は二の次という印象が強かったので、少年時代から長らく私はプリンス(日産)ファンであり、10数年前まではスカイラインGTを4代に亘って乗り継いできたのである。


ショールームに入り、しげしげとグロリア スーパー6を見ていたら、『SOHC 2リッター直列6気筒エンジン』とか『ド・ディオンアクスル採用』などという発売当時のこのクルマのキャッチコピーが自然に頭に浮かんできた。エンジンバルブを駆動するカムシャフトがエンジンの上部についているのがOVER HEAD CAMSHAFT ( OHC ) であるとか、後輪を駆動する機構がリジッドではなく斬新なド・ディオン式だとか、何となく判ったようなおぼろげな知識でクルマの雑誌や新聞広告を眺めては、「プリンスのクルマはすごいなあ」と子供心に憧れていたものだ。直列6気筒エンジンへのこだわりは今もなお続いてBMWになるのだが、それはさておき、父の送迎のクルマがグロリアの新車になったので、最新のマイカーが我が家にやって来たように感激したのである。


今だから云えるが、当時の役所のクルマは昼間は家族用に随分と融通が利いたものだった。運転手さん達も日がな一日役所に詰めているのも退屈だとみえ、「今日はどこかへドライブに行く?」と子供たちを誘ってくれることもよくあった。たまたま無二の親友の父君が農林省(現・農水省)の役人で、そちらは日産セドリックが送迎車であり、「今日は運輸省のプリンスグロリアで多摩テック(ホンダが多摩丘陵に作ったゴーカートの遊園地)に行こうか」とか「今日は農林省の日産セドリックで村山貯水池へ」などと、公用車を子供たちが自家用車の様に使い回していたからいい気なものだ。前席3人掛けのベンチシートに白いカバー、その頃はシートベルトの着用義務もなく、コラムシフトを操作する運転手さんの横に友達と2人並び、武蔵野のガタゴト道をドライブしてはクルマ談義に耽ったのがなんとも懐かしい思い出。今なら即刻公私混同、コンプライアンス違反でSNS大炎上間違いなし。銀座で出会ったグロリアの雄姿とともに、古き良き昭和30年代の思い出が蘇ってきた。

2022年5月12日 (木)

JR竹芝水素シャトルバス

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”東京みなと丸”による「東京港を観て学ぶツアー」を竹芝小型船船着場で下船した後は、「JR竹芝水素シャトルバス」で東京駅まで戻ることとした。脱炭素社会に向けたJR東日本グループの取り組みの一環として、水素と酸素から作った電気(燃料電池)で動くバスを使い、東京駅丸の内南口とJR東日本が再開発した竹芝地区を結ぶシャトルサービスなのだそうだ。この運航は平日8便(週末祭日は11便)で、実証実験中とあって運賃は無料である。「脱炭素」やら"SDGS"などと聞くと、金儲けの新しい手段と思えて胡散臭く感じ、ふだんは敬遠気味の私だが、せっかく竹芝にいるのだからバスファンとして新しい技術も体験しておくかと乗車したものである。ダイヤを調べると、船を下りてから発車まで一時間ほどあったので、ブラブラと芝離宮を散歩して新型バスを待った。


乗り場であるウォーターズ竹芝(WATERS takashiba)の新ホテル「メズム東京」のエントランスにある停留所に定刻にやってきたのは、青色のボディに「FUEL CELL BUS」のロゴも眩しいトヨタの燃料電池バス「SORA」である。燃料電池バスは屋根上に置かれた高圧タンク内の水素と大気中の酸素を化学反応させて発電し、発生したエネルギーを蓄電してモーターで走るとのことで、ちょうど水の電気分解の逆の作用を利用するのだという。自動車は内燃機関で動くものと長いあいだ思い込んできた上に、学生時代は化学など大嫌いだった私には、水素と酸素でバスが動くという事実はどうにも信じ難いし、せっかくバスに乗ったのにディーゼルエンジンの音が聞こえないというのも寂しい気がする。しかし動き出すと機械的なモーター音こそ聞こえるも普通の市内バスのようなスムースさで、SORAは東京駅に向かって走りだした。

 

最近の市内型低床型バスは全高が3米のところ、SORAは全長10.5米で全高は3.35米とやや屋根が高いのは水素タンクのほかに化学反応装置も積まれているためである。トヨタによると最高速度は時速65キロで、系列の日野自動車と共同開発のドライバーの各種安全装置が装備されているそうだ。乗り心地はやや硬めと感じたが、竹芝のある浜松町から第一京浜を東京駅に向かうには車の流れにもよく乗り、60キロくらいまでの加速もトルクフルに感じる。電気で動くクルマというと、どうしてもゴルフ場のカートを思いだしてしまうが、「SORA」の動力性能なら都市内の交通機関として十分実用的である事を体験できた。ただ1000万円~2000万円と云われる在来車に比べてこのバスは価格が1億円もするそうだし、水素供給のインフラやそのコストを考慮して今後どこまで需要が伸びるのか。「脱炭素」と云う怪しげなビジネスではあるが、珍しいバスの出現は乗り物好きにとっては好奇心が掻き立てられて楽しいものだ。

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2021年4月27日 (火)

自動車保険の通信型ドライブレコーダー装着

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自動車の任意保険の更改時期になった。最近はネット通販型の割安な自動車保険が勢力を増しているが、これに対抗して在来の大手損保会社からは高い料金に見合うようなあの手この手の新しい自動車保険の案内がくる。今年は「ドライブレコーダー付自動車保険・ドライブエージェントパーソナル」をどうですかと代理店から薦められ、あれこれ迷ったが結局これにすることにした。保険会社から貸与されたドライブレコーダーを自家用車に装着すると無線で運転情報がセンターに送信され、事故にあった場合に高度な対応が受けられるほか、事故防止支援サービスや安全運転診断サービスをエンジョイできるという商品だそうだ。


大学生の時に小さな物損事故を起こしたことがあるが、それから50年間、アメリカで一旦停止違反した以外、国内では無事故・無違反できたので高額の保険に入る必要もないかとは思う。そのアメリカの違反も他にクルマもいない住宅街のSTOPサインで、左右安全を確認したものの、COMPLETE STOPをしていないとたまたま巡回していたパトカーに見つかって切符を切られたものに過ぎない。しかし最近よく耳にする高齢者ドライバー事故増の報道や、UBER EATSなどの二輪車の無謀運転ぶりを見ていると、安全のためのコスト増は止む無しかと思い、保険だけは万全なものに加入しておくことにした。そろそろドライブレコーダーを買おうかと思っていたので、これもちょうど良い機会である。


送られてきた前方・後方撮影可能なドライブレコーダーは自分で装着することが前提なるも、車が特殊だったり作業が面倒だと思う人は保険会社が修理工場を紹介してくれる。電源はこの機種標準のシガーソケットではなく車両のヒューズボックスからとり、コードはウインドガラスのピラーゴムの中を外から見えないようきれいに配線したかったので、都内のオートバックスに1万円強の工賃を払って取り付けて貰うことにした。事故対応センターに直結するドラレコの諸設定はPCに強い妻に任せていよいよエンジンスタート。ドラレコの小さな画面でドライバーの顔認証がすむと、次に「今日は東京地方には強風注意報が出ているので注意して運転して下さい」と言う音声が流れてまずはびっくりである。さすが安全運転推奨の損保のドラレコだけある。


都心の広い道を走るとドラレコから「ブッ・ブッ・ブッ」という警告音とともに「走行レーンにご注意下さい」という音声が流れた。といっても都心の幾レーンもある広い道では、場所によってレーンをわずかに超えて走る方が安全という場所も多く、それを分かって意図的に白線を跨いでいるのだから、あまり度々警告されると「うるせえな!」と文句を言いたくなってくる。歩行者が急に横断し始めたのに気付いてブレーキをやや強く踏んだ際は、警告音と「急ブレーキを検知しました」の表示、ゆっくり走るバスを抜こうと少しダッシュしたら「急発進を検知しました」とこのお目付け役はなかなか細かい。このほか脇見警告機能や前方車両接近警告もあるそうだが、これらのお世話にはまだなっていない。ドラレコ監視の下エンジンを切ると「お疲れ様でした。今日はレーンの片寄りが2回、急アクセルが2回ありました。ご注意下さい」との事で、「あれで急発進?」とちょっとムッとはするが、次はなるべく安全にスムーズに走ろうと心するのである。

2020年8月25日 (火)

佐藤琢磨、インディ2度目の快挙

世界三大自動車レースの一つと云われるインディアナポリス500マイルレースで、佐藤琢磨選手が2度目の優勝を遂げた。快挙である。ということで、昨日は午後6時からNHK BSで完全中継録画されたレースを、4時間フルに興奮しながら見てしまった。例年なら5月最終週メモリアルデイの前日に何十万人もの観客を集めて行わるインディ500も、今年は武漢ウイルスのため8月末の開催、しかも無人の観客席という異様な状況でのレースである。それでも一周2.5マイル(4キロ)のオーバルコースをグルグル回って200周、平均300キロ以上の速度で500マイル(800キロ)を走り抜けるアメリカンスタイル自動車レースの迫力を久しぶりに画面で堪能した。


考えてみれば初めてインディ500の素晴らしさを知ったのは、1960年代なかば毎週末にテレビで放送していた海外作成の自動車レース記録番組からだった。当時インディアナポリス・スピードウェイで競うクルマは消火用ポンプがベースだと云われたオッフェンハウザー製エンジンを積みこみ、フロントエンジンでリアタイアを駆動する旧式のフォーミュラカーが主流だった。そこにイギリスのロータスがフォードエンジンを積み、今のようなリアエンジンの本格的モノコックボディにジム・クラークと云う天才ドライバーを擁して殴り込みをかけた。まだ私は免許証を取れない中学生だったが、なにより乗り物大好き少年で、もちろんクルマにも大いに興味があったから、その番組で見るロータスのモダンなインディカーに目を見張ったのだった。


昨夜、居間のテレビで佐藤琢磨と2位になったスコット・ディクソンの一騎打ちに手に汗を握りつつ見ていたら、60年代当時の14インチの白黒画面から流されていた番組は、いったい何というタイトルだったのだろうとふと気になった。レースシーンのバックに流れるタイトルミュージックが”007危機一髪”だったことは良く覚えているのだが、60年代の、それも当時はマイナーコンテンツだった海外自動車レースの放送などは、ネットで検索してもなかなかなかなかヒットしない。それでもインディ500の中継を見終わって、あちこちパソコンで探すうちに何とかたどり着いたのが、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の「世紀のデッドヒート」という番組だったらしいことが分かった。


自動車レースのあれこれを検索してうちに「世紀のデッドヒート」が放送されていた頃の、わが国のカーレース黎明期の印象的な場面が脳裏に蘇ってきた。1964年に鈴鹿で行われた第2回日本グランプリで、プリンススカイライン・ワークスチームの生沢徹選手が、式場壮吉選手のポルシェ904の前を走った時は、国産セダンがドイツの本物のレースカーを抜いたとテレビの前で興奮したものだった。大人になってからスカイラインを何台も乗り継いだ原点が、あのテレビ放送にあるのは間違いない。また1966年の第3回日本グランプリでは滝進太郎あやつるポルシェ・カレラ6のあまりのカッコ良さに感動し、飯倉にあったポルシェの総代理店・三和自動車のショールームに実車を見に行ったこともあった。昨日はインディ500の佐藤選手の見事な勝ちっぷりに刺激されて、昔のレース番組のことや、国産車勃興期でクルマやレースにあこがれていた若き日々のことを思い出していた。

中学時代、飯倉の三和自動車ショー・ルームで父のカメラでポルシェ・カレラ6を撮影

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2020年6月11日 (木)

国産車には上品なセダンがない

今乗っているドイツ車は2008年製で、今年で満12才を超えた。電気系統が弱いと云われる外車だが、この車もこれまで2度ほど大きなトラブルがあった。クルマも多くの部品からなる機械、それも最近はセンサーやら電子部品が多用されているので、10年も過ぎればあちこち不具合が出てくるのもやむを得ないところだろう。それにしても外車は壊れた箇所の部品代や車検、定期点検の費用が、国産車に較べ法外に高い。殊に都会に住んでいるとクルマがなくとも生活には特段困ることもないし、毎月3万円以上する駐車場料金の上に税金、保険代、車検など諸々の費用を考えると、もうクルマから卒業しようかとも思う。そうは云うものの永年所有していた自家用車が家から無くなるのもやや寂しいし、まあ早急に結論を出す事もないかもしれないとも思っているところだ。


このような心境で、たぶん人生最後になるであろうマイカーの買い替えをそろそろ検討してみようか、と考えている。そうなると最後はやはり故障が少ない国産車、できれば老人向けに最新の安全装置付きの車種にしようかと思うが、最近の国産車は大きなバンのようなSUV (SPORTS,ULITY VEHICLESというのだそうだ)ばかりが目立ち、「上質」なオーナードライバー向けのセダンが各メーカーのラインアップにはほとんど見当たらない。数少ないセダンにしても、総じて正面から見たスタイルがやたらと「怒り顔」、かつサイドやリアには不要なグラデ―ションや凹凸のデザインが施されておりどうも好感がもてないクルマばかりだ。


例えばトヨタの中ではセダンも積極的に展開しているレクサス車は、デザイン的にラジエーターグリルが目立ちすぎで、町でこのクルマを見るといかりや長介を思い出してしまう。片や永年乗っていた日産は「貧すれば鈍す」とあって、シニア向けの良いセダンを作るのを諦めてしまったようだ。最後の買い替えには、もしトヨタ車なら往年のプログレをもう少しスポーティでアグレッシブにしたような上品なモデル、日産なら昔のスカイラインやプリメーラのような小ぶりでキビキビしたセダンがあったら検討したいのだが、現状そんなクルマは売られていない。6気筒エンジンを持つ上品な国産、それもFRのセダンまたはクーペがあったらなあ、と自動車情報を眺めてはため息をつく。


ステイホームで閑な毎日、1962年のクラウンを描いてみた。この頃はクルマに夢があった。

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2016年6月 6日 (月)

ニッサン NOTE

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この週末は妻や会社の友人達と、しまなみ海道沿いに瀬戸内の各地を久しぶりに訪れた。広島空港でレンタカーを借り、島伝いにあちこちを見物しつつ四国の今治市まで、往復の行程はちょうど300キロであった。今回空港のニッサンレンタカー事務所で借りたクルマは、NOTE(ノート)という車種でまだ5000キロ走行しただけの新車である。そのノートの中でも廉価なXと云うグレードを運転したが、このクルマはエンジン排気量が1200CCで価格は150万円程度らしい。


さて1000CC超前後のコンパクトカー、その中でもレンタカーに使われる低いグレードのクルマはこれまでに幾度も乗ったが、運転していてあまり楽しいという感じはしなかった。総じて直列4気筒のエンジンは安っぽいサウンドを奏で、内装は化学樹脂そのものの薄っぺらい仕様、室内にはエンジンの唸り音が共鳴したものである。なので今回もそんなものだろうと思いつつハンドルを握ってみた。


広島空港から山陽自動車道を通り、巨大な橋が連続するしまなみ海道を運転しながら、目の前のレバーやらボタンをあれこれをいじってみると、最近のクルマはこのグレードでも多彩な装備が満載なのが判る。前車に急接近するとブレーキがかかる(らしい)追突防止装置に目を見張り、少しでも車線を跨ぐと警告音が鳴るのに驚き、バックで駐車するとカーナビのモニターに、自車の位置と止めるべきスペースがくっきりと表示され感激。もっともアナログドライバーの私は、やはり後方をこの目で確認しないとバックできないのであるが・・・。


最も驚いたのがエンジンだった。1200CCで何と3気筒、79馬力でトルク10.8Kgと聞くとちょっと頼りなさそうに感じて、大人4人が乗ったこの車を加速させるにはよほど頑張らねばと思いきや、これが実にスムースかつフィーリングも気持ちよい。かつての安い4気筒の車をはるかに凌ぐエンジンサウンドやその快適さ、力強さで、この10年~15年のエンジンの急速な進歩が体感できる。室内は広大、かつ運転姿勢がかなり立っているので普段はスポーツタイプの愛車に乗る私には違和感があるが、ドライブはとても楽チンだ。ただ燃費を稼ぐ為に、交差点で停車する度にエンジンがストップするのだけは、エンストをおこした様で落ち着かなかった。


こうしてノートに3日間乗っていると、この種のクルマの”質感”が上がっている事を実感し、「クルマはこれで充分だよな」とも思えてくる。とくに生まれた時から自家用車が家にあったような最近の若者なら、これに乗れば「クルマってこんなものだよ」ときっと満足する事だろう。さて最後に満タンにして返すべくスタンドに行くと、入ったガソリンは15リッターだけ、何と1リッターで20キロ!も走った計算になる。モーターも一部使って走る最新のハイブリッドカーならこれをもっと上回るとの事で、こんなクルマばかりならガソリンスタンドは要らなくなると、時代の変化に驚いたのであった。一方で私たちが若い頃に感じたクルマへの憧れや高揚感が、こういう合理的なクルマからあまり感じられないのは、こちらがジジイになった証拠なのだろう。

2013年9月22日 (日)

BACK to THE 1980's

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クルマの雑誌など最近とんと買わなかったが、本屋の店頭にあるベストカー・プラス、10月18日増刊号・総力大特集 "BACK to THE 1980's"という本がふと気になり手にしてみた。「日本のクルマが最も熱かったあの時代」 というタイトルと、掲載された数々の懐かしのクルマの写真を見て、ちょっと立ち読みした後に迷わず購入してしまった。なぜ珍しくこんな雑誌を買ったかというと、この雑誌の巻頭の言葉に代表される、「1980年代。日本も元気だったが、クルマはもっと元気があった。」「あの頃日本のクルマには『夢』も『希望』も『羨望』もあり・・・」 「メーカーもユーザーも一緒に祭りに参加していたような、ちょっとおかしい、だけど絶対的に楽しかった時代・・・・」 と言う1980年代を振り返りたくなったのである。また最近のクラウンの妙なフロントグリルや、フーガのうねったボディを見るにつけ、シルビアやジェミニ、カリーナなど、あの頃のすっきりしたクルマのデザインに郷愁を覚えるのも購読の理由である。


そういえば年号が昭和から平成に変わったのが1989年、その年の暮れに東証の日経平均株価が3万9000円近い史上最高値になった様に、1980年代日本はバブルに浮かれていた。クルマではハイソ・カーブームやシーマ現象がおこり、国内向けの需要によって、日本車がガラパゴス的に発展する事が許された時代でもあった。その頃を懐かしむ自動車評論家のコメントを読んでいると、当時の世相や自分の若い時代を思い出し、「ああ、そうだったよね」と思わず膝をうち、余りにも画一化され、効率一辺倒になった現代と比較してしまうのである。誌上対談で評論家の一人は 「(80年代は)自動車の進歩といろんな足並みが、偶然も含めてぴったり合ったという感じがしますね。団塊の世代で子供の頃ハングリーで、大人になって頑張るというもろ肉食系の世代の人達の確固たる需要があって、というようにいろんなものがきれいにシンクロしましたよね。」 と述べている。


熱気ムンムンの当時を振り返り、別のクルマ評論家は、「ケシカランことに近ごろの若いものは、好きな女の子をドライブに誘って、一気に仲よくなろうという 『ピュアな野望』 は抱いてはいないようです」 「ああ、なんて嘆かわしい。クルマなんてものは野望や下心を抱いてナンボです」とし、「言っちゃなんですが、今50歳前後の世代は、誰よりも強くクルマの神通力を信じ込んでいます。それは多感な若かりし頃に、クルマが今よりもずっと輝かしい存在だったからかもしれません」と書いているが、この評論家より10歳以上年上の我々世代は、より一層クルマへの思い入れが強いといえよう。事実、私も80年代は新車が出ると自動車誌を買ったり、パンフレットを取り寄せたりで、結局10年間で4台もクルマを乗りついでは、いつもピーピーしていた事を思い出す。それにしても、こうして過去のクルマを振り返ると、自分のこれまでの来し方や、過ぎ去った人生を思い出して懐しいし、雑誌とは云えクルマの発展を纏めて回顧してみると、それだけでちょっとした機械文明論を読んでいる気がするのである。

もう一度乗りたい超感覚スカイラインR32
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2012年6月13日 (水)

男・還暦・GTアゲイン

トヨタが13年ぶりに販売したスポーツカー、トヨタ・86が売れて受注8000台を突破したと云う。スバルと共同開発した86は富士重工お得意の水平対向4気筒エンジンを積んだ小型のFR車で、”ボッボッボッ”という水平対向エンジン独特の音を響かせる久々のクルマらしいクルマをトヨタが発売したと注目されている様だ。そういえば最近はどこへいってもワン・ボックスカーばかりで、子供が何人もいる家庭ならいざ知らず、やたら大きなボディのSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビィークル)も含めて、これらからは”ファン・トゥ・ドライブ”という雰囲気が伝わってこない。一方の売れ筋、ハイブリッドカーも遊園地の電気自動車か、とクルマへの興味がうせてしまうのがこのごろである。


巨大ワン・ボックスカーの日産エルグランドやトヨタのアルファ-ドなどが、そこのけとばかり高速道路の追い越し車線を突っ走っていると、”何だかなー!?”と思うし、セダンにしても最近はやたら巨大になったトヨタ・レクサスLSやニッサン・フーガあたりを見ると、何か戦車が道路を疾走している様で、そのおどろおどろしい姿に辟易とする。アメリカでホンダ・アコードやニッサン・G35(日本ではスカイライン)クラスのクルマを見ると、乗っているのが大体ヤッピー風だったりして、なかなか良いなと感じるのだから、日本製のセダンも元来捨てたものではないが、なぜか小型~中型の国産セダンやクーペが日本では最近まったく売れないと云う。


80年代のハイ・ソ・カーブームは、一体どこへ行ってしまったのだろうなどと考えていた処に、トヨタの小型FRスポーツカー86の登場である。この20年、クルマがただの道具になってしまったり、やたら偉そうに大きくなったりする中で、オーセンティックなクルマが復活するのはとても喜ばしいものだと思うのである。私もそのうち高齢になってクルマの運転が出来なくなるのだろうが、それまであと1台~2台クルマを買い換えるに違いない。自分のライフスタイルを考えながら次の車は何にするかなどと自答し、老人こそ夫婦2人でスポーツカーやクーペ、カブリオレに乗るのも良いものだ、などと一人で合点をうちながらトヨタ86の絶好調を伝える記事を読んでいた。

”男・還暦・スポーツカー・アゲイン”である。

2011年9月 3日 (土)

ポルシェ904 VS スカイラインGT

9月1日から会社員に戻った。30数年間の会社勤めを辞め、友人と二人で自営業を始めたのが4年前。以来マイペースで仕事をしてきたが、やはり2人でやる会社にして往々に起こりがちな価値観の相違が顕在化して、喧嘩などをする前にコンビを円満解消したのが昨年末であった。そんな時「うちの会社に来ませんか?」とありがたいお誘いがあって、今の会社へ契約社員として勤める事になった。仕事の中味は勝手知ったる内容だが、この5年間で業務のシステム化が更に進んで、何をするのもパソコンに社員コードやさまざまな暗証番号を入れなければ、一歩も前に進まないのにアナログおじさんは困惑する。また大部屋での仕事も久しぶりで、今は「人とパソコンに酔っている」という状況か。それにしても還暦近くなって、また新規雇用してくれるとはありがたい事で、精々子供の様な若い社員達の邪魔にならない様、かつ少しでも私の経験が活かせる様、しばらく試行錯誤の日々になるだろう。


それはさておき、この前のブログ「ぼくの日本自動車史」の話である。私は、この本の著者・徳大寺有恒氏が「本格的スポーツセダンを目指しながら、あまりにも浪花節」と評するスカイラインのファンで、代々このクルマを乗り継いでいる。子供の頃にド・デオン・アクスルとかグリスアップ不要などとほとんど意味がわからないまま旧プリンス社(現ニッサン)が先進性を披瀝する広告に魅せられていたのだが、プリンス・スカイラインを決定的に意識し「大人になったら絶対買おう」と思ったきっかけが1964年の日本グランプリである。このGTレースで生沢徹選手のスカイラインが式場壮吉選手のポルシェ904を一瞬抜いたのがテレビで実況生中継されたのを見て、大いに興奮し戦後の日本の工業製品が、欧米製品の後ろ影を踏む位まで近づいた様に感じたのだった。


私の自動車選好の原点だったこのレースの真相が「 ぼくの日本自動車史 」に語られていて、「 なるほどそうだったか 」と最近、目からウロコの思いした。ちょっと長いがその箇所を「 ぼくの日本自動車史 」から引用してみたい。

<引用開始>

「式場君が持ち込んだポルシェは、スカイラインとは次元が違うクルマだ。904は重量がわずか570KGしかない本格的なレーシングカー。かたや2000GTは1t以上もある重戦車のような乗用車なのだ。この両車が本気で闘ってまともな勝負になるわけがない。そいつは式場君はもちろん、スカイラインに乗っていた生沢徹君も同様、よくよくわかっていたことである。」

「(略)、このレースには、紅一点の女性ドライバーが初代フェアレディに乗って参加していた。彼女は5周も走れば、早くも周回遅れになるという飛んでもないノロマな走りっぷりであった。式場君はこのフェアレディーをヘアピンカーブで抜こうとしたが、フェアレディーはいきなりフラフラと尻を振った。危ないとブレーキを踏む。そこをスカイラインの生沢君がドーンと抜いたのである。」

「式場君や生沢君はレースを通じた仲のいい仲間だった。このレースが始まる前も生沢君は、『 おい、式場、万が一オレが抜いたら、一周ぐらいトップを走らせてくれよ 』と、冗談で語っていた。式場君はスカイラインに抜かれた瞬間、この言葉を思い出した。その気になれば式場君はこのヘアピンの先の直線でスカイラインを軽く抜けたのだが、『 ひとつ、グラウンドスタンド前ぐらいは徹のやつに走らせてやるか 』と思い、生沢君のスカイラインを先行させた。かくしてスカイラインがポルシェを従えてグランドスタンド前に現れる、かの伝説のシーンとあいなったわけだ。」

「(略)スタンドを埋めた十数万人のファンは、ワーっと熱狂し、大歓声を上げた。その瞬間、みんなポルシェに憧れながらも、突然、日本人の血が沸き上がったのである。(略)」「式場君のポルシェはその大歓声の中で、悠々とスカイラインを抜き返した。そしてそれを最後にスカイラインは二度とポルシェを抜き返す事はできなかった。しかし、この偶然のドラマはスカイラインと云うクルマを日本人のクルマ好きの心に強く焼き付けた。(略)」

<引用終了>

日本のレースの揺籃期とは言え、なんと洒脱な戦いぶりであろう。生沢選手にしろ式場選手にしろ金持ちの息子で、そういう人達がレースをしていた時代の事である。もしこの話が本当だとすれば、スカイラインに憧れて購入した私などの消費者は、彼ら金持ちの一流のシャレに乗せられた事になるわけだ。しかし何だか世知辛い最近の世相からすると、微笑ましい「古き良き60年代」を思い出させる逸話であって、そんな夢の様な話に乗せられてクルマを代々選ぶのも良いか、とも私は思うのである。


2011年8月28日 (日)

フォード・フュージョン

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今回の旅行で、久しぶりにアメリカ本土でクルマを運転するためにAVISでクルマを借りる事にしたが、どうせアメリカで乗るならフル・サイズカーという事で、同社のホームページにあった”シボレー・インパラ”または同型という車種を予約した。”シボレー・インパラ”と云えば幾多の変遷があるものの、一世を風靡したアメリカのフル・サイズカーである。フルサイズのアメ車と云えば、前のシートは横一列の長いベンチ・シート、メーターはタコ・メーターなどくそ喰らえとばかり置き時計の様な四角いスピード・メーター、路面の継ぎ目をタイヤが拾うといつまでもフンワカ揺れている様な良き時代の車を何となく思い浮かべるのである。


シアトルダウンタウンのAVISで手続きをすると、カウンターの店員はいきなり早口で「フュージョン?」と聞いてくる。アメリカの店頭の常で、相手が外国人であろうと何であろうと喋る速度に容赦などないのだが、いきなり耳慣れぬ事を問われると、こちらは「何?またレンタカーに新しい約款でもできたの?」と一瞬身構えてしまう。ここでひるんではならじと、改めて「それはクルマの車種?」と問うと「そう、フォードだ」と答えるが、大体からしてAVISだからGM系列かと思っていると、フュージョンというのはフォードから2007年に発売された新しい車種だそうで、知らぬも当然。「GMのインパラ」だと思って行ったら「フォードのフュージョン」では面食らうのだが、仮にも日本の地方空港で「トヨタ・クラウン」を予約した外人客に、枕ことばもなしにいきなり「(ニッサン)フーガ?」と聞く事はない。こんな時、もし大東亜戦争に勝っていたら、日本語と日本式サービスが世界でもっと汎用されただろうに、と愚痴ってしまうのである。


などとレンタカーのチェックアウトにあまり良い思いをした事はないが、借り出したのが”フォードフュージョン”である。フルサイズカーなどと云っていたが、トヨタクラウンなどより、全長はやや短く見た目は日本のミドルサイズカーと変わらない。これをみるとアメ車が小さくなり、日本車が大きくなったのだと改めて実感する。ダッシュボードはごく普通のアメリカ仕様で、諸スイッチは丸いツマミ、メーターは本田のハイブリッド・カーさながら遊園地の電気自動車かゲーセンのドライブゲーム並のギンギラギンである。フワフワでソフトなハンドリングはついカーブで切り過ぎてしまい、「これぞアメ車!」と思わず唸ってしまうほどである。すべてに「 クルマって生活用具だからこの辺りで割り切って置こうよ」というクルマ社会ならではのいさぎ良さが却って心地良い。最近のアメ車はセパレートシートにタコメーター装備と、恰好は欧州や日本車とさして変わりないが、やはり中味はアメリカ向けだな、と予想通りの乗り心地に安堵感さえ覚えたのであった。

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