カテゴリー「ジョギング・マラソン」の記事

2024年11月26日 (火)

第29回シニア健康スポーツフェスティバルTOKYO マラソン大会 (ねんりんピック岐阜2025 東京都予選)

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シルバーメダル コレクター

11月24日(日)に駒沢オリンピック公園陸上競技で行われた令和6年度、第29回シニア健康スポーツフェスティバルTOKYOマラソン大会 (東京都と東京都スポーツ協会主催 )に夫婦して参加した。私は男子70歳台の部3000米、妻は60歳台の部5000米への出場である。マラソン大会と云っても、今年は駒沢陸上競技場の場内でレースが開かれるため、実質トラックでの周回競技となる。駒沢競技場と云えば今から60年ほど前、中学生時代に世田谷区の連合陸上競技大会で走ったことがある。当時はまだアンツーカーのトラックで、区内の公立中学30余校の代表選手と共に2000米を競ったレースだったが、他校は陸上部の選手が多い中、素人の私が6位に入賞でき、その自信が以後永年に亘って走るきっかけになった場所だ。70歳をとうに過ぎているのに、その記念すべき競技場の走路を周回することが出来ると云うのも、何かの縁であろう。


このシニア健康スポーツフェスティバルの上位入賞者は、来年度の「ねんりんピック岐阜2025」の東京都代表選手の選考対象となるのもこの大会に参加する大きなモチベーションになっている。日曜日は秋晴れの下、空も高く「岐阜に行くぞ」と夫婦二人で上位入賞を期して競技場入りした。とは云いつつ、実は私はこの春から右膝を痛めており、半年間ほとんど練習は出来ていない。この間、医者や整骨院を巡った上、痛みが弱くなると無理に走り始めてはまた痛くなって休み、暫く歩いたり水泳でごまかして少し良くなると、また無理して走って痛くなりの「ランナーあるある」症候群に陥っていた。昨日も完走はおろか、ウォームアップも危ぶまれる状況であったが、「まあレースとなればアドレナリンも出て痛みも和らぐだろうし何とかなるか」と楽観的に考えて、取り敢えずスタートラインには立つことにした。


私のレースの前に妻の5000米競走がある。この種目は20数名の参加者だったが、参加者は日頃からそれなりに鍛えているような人が多そうだ。号砲一発、スタートして妻は終始3番手のグループにつける。この種の大会の常で先頭を切る1~2番手は生活のほとんどを走ることに費やしているのでは、と思える程のマニアックな走りで、残りがその後を追いかける展開となる。3位の集団は1キロ5分のペースをぴったり守るうち、1人落ち2人落ちして、妻は単独3位になるが、残る一人のおばちゃんがコバンザメのようにすぐ後ろにピタリとついている。「そいつを引き離せ」との我が思いもむなしく、最後の直線で妻は力を貯めていたそのおばちゃんに抜かれ、3秒差の4位と表彰台を逃してしまった。途中でわざと大幅に減速してコバンザメを先行させ、逆に最後にまくるという手もあったとは思うが、「そうしたら目標タイムに届かない」とそうはせず最後まで自分のペースを守った妻には拍手を送りたい。このまま後ろの人が最後にスパートしたら、既に一杯いっぱいの自分は絶対に勝てないな、とわかっていたので道中精神的にも辛かったそうだ。ちなみに更衣室でかのコバンザメに 「引っ張ってくれてありがとう」とお礼を言われ、感謝されないよりは良いかと苦笑いだった。


いよいよ60歳台と、70歳台合同の3000米競走の番がくる。こちらも20数名の参加者で、スタートしてもまずは気になるのは膝の痛みとあって、ラップを考えるどころではない。ただホンの僅かなデコボコでちょっとした力が膝にかかると”ズキューン”と差し込む痛みも、起伏のないトラックでは問題なさそうだ。こわごわと膝をかばいつつ1000米を過ぎるあたりから、これは何とか完走できそうだと意識をレースに集中することとした。しかしこの半年間の練習不足はいかんともしがたく2000米過ぎるとしんどくてたまらない。足も上がらなければ息も絶え絶えで、もがきながらなんとか走る状態である。こんなに苦しいなら膝が痛くなってくれた方が、途中でリタイアする良いエクスキューズになるのに、などと不埒な考えも脳裏をかすめる。そうこうして少しづつラップタイムを落としながらも足を前に運ぶうちに、なんとかかんとかゴールできたのは幸いだった。順位は全体で6番だったが、70歳台の部では2番でゴールにたどり着いたようだ。ゴールしてまず頭に浮かんだのは、とにかく完走できて良かったとの思いだが、想定以上の順位も長い間の蓄積によるものか。


結果、昨年と同じく3000米で2位だったが、タイムは30秒も落ちてしまった。「70歳台では万年2位か。ねんりんピックの東京代表はふつう1番の人が選ばれるからまた無理だな」と思いつつ、1位の選手に「岐阜のねんりんピックは頑張って下さいね」と声を掛けると、彼は「私は今年のねんりんピックに出たので、次は出られないんですよ」(ねんりんピックマラソンの部は毎年連続では出られないルール)とのことである。これは、ひょっとして2番でも10年ぶりに代表の座がまわってくるかもしれないと密かに期待をもたせる言葉だ。とはいうものの、家に帰って妻が撮った私のレースの動画をみると、あまりのヨタヨタ走りぶりに「オレはこんなか?」と驚く。速球を誇った往年の投手が、始球式で山なりのボールを投げやっとのことでキャッチャーに届いた場面を想起させるようなカッコ悪さである。年齢は確実に走力を落とすという事実を再認識させる動画ではあったが、シニアになっても夫婦して自ら好んで苦しいことにチャレンジできるのも、走っているからでこそであろう。こんな体験も良き人生の一ページかと晩のビールで2人して完走を祝った。もっとも妻は頑張りすぎて喉や気管支を痛め、レース後も夜まで咳とくしゃみが止まらないという、陸上競技の中長距離走あるある症候群にかかって気の毒だった。走るのも楽ではない。

女子5000米スタート地点
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男子3000米スタート地点
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2023年9月13日 (水)

新しいシューズ ASICS NOOSA TRY 15

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NOOSA TRY15 妻も同じシューズを購入

暑いというのに街中を走る人がいっそう増えた感じがする。テレワークで自宅にいる時間が増えた勤め人などが運動不足解消の為に走っているようだ。見ているとランニング雑誌のモデルのように、夏でもランニングパンツの下に黒や濃紺色系のスパッツを履いている人が多い。中には腰のランニングポーチに飲み物のボトルを入れているランナーもいる。暑さの中ではなるべく肌を露出した方が走りやすいし、水分でチャプチャプする重いボトルを身につけるより、都会ならICカードでも持ってそこら中にある自販機でドリンクを買った方がよほど効率的だと思うが、そういうのが流行りなのだろうからご苦労さんというしかない。こちらも自宅のパソコンでできる仕事がほとんどとあって、このところ気温もやや下がる夕方に走る毎日である。気が付けば史上最も暑いと云われたこの8月も走行距離が250キロと近年になく走ってしまった。


走るたびに毎日履くシューズは、いつも2足のものを同時並行で使用している。ミズノやナイキを履いていた時もあったが、最近は専らASICSである。10年以上前にアシックスの株を買ったところ、毎年春・秋に40%優待割引きが使える株主優待券が送られてくるようになり、それを利用して最新のシューズを購入しているのである。ASICS製品の中でも、このところ使用していたのは、ターサーという軽量モデルとGEL-KAYANOという比較的初心者用ジョギングシューズの2種。ターサーは1980年代からある馴染みのシューズで「今日は皇居一周(5キロ)を何分以内で走ろう」などとちょっと刺激を求めタイムを意識する日に履くのに対して、GEL-KAYANOはゆっくりとチンタラ走る日に履くと使いわけてきた。このうちGEL-KAYANOの方が10カ月ほど使ってヘタレてきたので買い替えようと銀座にあるASICSの直営店に行ってみた。


GEL-KAYANOはアシックスのいまお勧めランニング用シューズで、優れた安定性とクッション性の底を備えているとされており、この10か月間使ってきたのはモデルの29代目に当たるKAYANO29と名付けられた製品であった。しかしながらこの29は走行中の足裏の安定性を重視し過ぎたのか、先代のKAYANO28と較べてやけに幅広で、私の走り方だとバタバタと足音が大きいばかりであまり前に進む感じがしない。足の安定感よりもっと軽くてクッション性も高いものが欲しいので、店員に不満な点を説明するのだが、こういう時にフィーリングを伝えるのが結構難儀である。つい「1960年代、ASICS前身のオニツカタイガー製で君原選手が使っていた”マジックランナー”の様に軽くて通気性がよく、そこそこクッションのあるシューズが欲しい」などと古い話を持ち出しても「君原って誰?」と若い店員が戸惑っているのがわかる。直営店の店員ならかつてのベストセラーくらいは知っているだろうと思ったが、さすがに1960年代のシューズの事はよく分からないらしい。


とは云うものの、さすが専門店のプロである。私の要望を聞いて「似たような感じのシューズは多分これでしょう」と持ってきたのが、「ヌーサトライ15」(NOOSA TRY15)というモデルであった。ゴッホからインスピレーションを得たと云われるカラーリングは少々ファンキーだが、KAYANO29より細身の外見で足底クッションもゴムの様に単純にソフトで弾力性があって良い。元々はトライアスロン用に開発されたもので、競技の合間にシューズを履き替えやすいように、靴ベロ部分に指を入れて脱ぎやすくするプルタブが付いている。最近のモデルの特徴でつま先が丸く反り上がっており、見た目には違和感を感じるが、店内で試し履きしたところやや踵から接地する私には特に不自然な感じはなかった。値段は15400円と高いものの2万円近いGEL‐KAYANOよりは安いし、4割引いて貰えば最新のシューズが1万円以下で買えるとあって今回はこれに決定である。さっそく家に帰って近所で試走すると、想像したとおり軽くて足裏もソフトで一安心。これから徐々に涼しい季節になると、同じような気合で走っても、このシューズなら軽やかで足も前に進む感じがする。年齢的にあと何年ジョギングが続けられるのか分からないが、新しいシューズは走るモチベーションを後押ししてくれる。

2022年11月 2日 (水)

ねんりんピック予選用 アシックス・ターサー

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60歳台前半に、東京都代表として「ねんりんピック栃木大会」と「ねんりんピック長崎大会」のマラソンの部に出場してから早くも6年以上が経過した。時の経つのは早いもので今年は70歳台になり、「ねんりんピック」本大会を走るチャンスが巡って来た。11月23日(祝)に駒沢公園陸上競技場で行われる第27回東京都シニア健康スポーツフェスティバルのレースが、来年愛媛県で開かれる本大会の予選を兼ねるため、これの3000米競走(トラック)の部に出場することにしたのである。ねんりんピックはマスターズ陸上と違い、男性の年齢別刻みが59歳から69歳、70歳から79歳、80歳以上の3つしかない。10歳の年齢差の人が同じレースを走ることになるが、歳をとるにつれ筋力の衰えが顕著となり、60台後半では新規60台参入者と勝負しても競えないのは明らかだ。よってこの6年間は予選に出る事をためらっていたが、やっと一番アドバンテージを持って勝負ができる年齢になった。


10年ほど前に新宿シティハーフマラソンで、70歳になろうかと云う招待選手の君原健二さんを抜き去ったことがある。東京・メキシコ・ミュンヘンオリンピックのマラソン代表で五輪銀メダリストだった君原さんを追い抜けることに感激したが、あの偉大な選手でさえ歳をとると市民ランナーに抜かれてしまうのか、年齢をとるとはそういうことかと、改めて「老い」の現実を目前にして驚いたものだ。我が身を顧みれば、ジョギング中に街中のショーウインドウなどに自分の走りが反射して映ると、なんとヨタヨタとして遅いんだとその走姿に愕然とする。2年前の腹腔鏡手術の際に、お腹に穴が開けられ腹筋が緩んだこともあり臍周りがぷっくりと出てしまったのも気になる。しかし歳をとったらそれなりにあがきつつ、ゆっくりと走る事を楽しめばよい、若い時と違って時間はたくさんあるのだと納得するようにしている。


ねんりんピックの陸上競技は3000米のほか、5000米と10000米の種目があるが、各年代別の各種目には、この人は一体何歳なのと思わせる怪物のように速いランナーもちらほらいる。彼らの話を聞くと走る事を中心として一日のスケジュールが決まっているようだし、レース前日は禁酒するなどその熱心かつストイックな姿勢にはいつも関心するばかりだ。学生時代には合宿所を消灯後に抜け出して夜のまちに時々繰り出したし、市民ランナーとなっても楽しく走ることがモットー、もちろんレース前日も構わず飲酒する私にとっては、とても真似のできない求道的ランナーたちも多い。今年はこんな人たちと予選を一緒に走るのだから、足元だけはそれなりのシューズにするかと、先日は銀座にあるアシックス直営のランニングショップを訪れた。


日ごろ履いている厚い底のジョギング用ではなく、「自分の足で蹴る感覚」「スピードトレーニング向け」「速くなるためのシューズ」とメーカーがうたう、本格志向の定番の「ターサー」を久しぶりに予選で履こうと思いついたのだ。血気盛んな頃はターサーをよく履いたが、あれからウン十年、今のコンディションで薄底シューズで怪我しないか、少しは速く走れるか、と新しいシューズを手にその軽さを感じては何となくワクワクしていた。ターサーも最近は定価が15000円もするので、その日はもったいなくてつい古いシューズでジョギングに出てしまい、「せっかく買ったのに眺めてるばかりで履かないの?」と妻に笑われた。彼女は私が予選を突破すれば一緒に愛媛に行く算段で、競技場やら付近の観光地を調べ始めたが、予選が通過できるかがまず問題である。

2022年10月17日 (月)

TOKYO LEGACY HALF(東京レガシーハーフマラソン)2022 DNS記

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2時間設定のG組だった妻が撮ったスタート地点の模様

「もう一つの東京マラソン始まる」と銘打たれた第1回のハーフマラソンTOKYO LEGACY HALF 2022が昨日開催され妻が完走した。大会は「2020(オリンピック)東京大会のレガシーの創造と継承に加え」「走る楽しさで未来を変えていく」(東京マラソン財団理事長あいさつ文)との趣旨で、東京都や陸連などが主催する今年から始まった車いすとランナーによるハーフマラソンである。国内外から一流招待選手のほかに14000名の市民ランナーが都心を走るということで、都内の道路各所には1か月くらい前から交通規制を知らせる掲示が出ており、このレースが初めて開催されることををすでに知っている都民も多かった。新しくなった国立競技場を発着地として都心を走るコースなので人気も上々のようだったが、参加費が一人2万円というのが気になるポイントであった。当選したらその時に考えようと妻と二人でレースに参加申し込みをしたところ、二人とも当選通知が来てしまい、高いなと思いながらも記念すべき第一回大会だしと合計4万円の参加費を支払って参加することにした。


とはいうものの、私自身はこの1ケ月ほど左のひざ痛に悩まされており、痛い場所をかばって走っていたら腰まで痛みが出る始末である。ようやくこの一週間ほど膝の痛みも和らいできたので、大会に出走しようか大いに迷うところであった。もう一つ心配なのが21キロを果たして完走できるかという点だ。4年前の膀胱がん手術のあとも毎日8キロから10キロのジョギングはしているものの、15キロ以上走る練習はまったくしていない。そのうえ2年前の前立腺がん手術以来、下着に装着するようになった尿漏れパッドの存在も不安である。日常生活や10キロ程度のジョギングなら市販で最少の10CC吸収というパッドで済むのだが、その2倍以上の距離と時間を走るとなるとこれで大丈夫であろうか。勢いで高い参加費を払ってしまったが、レースが迫るにつれて色々考え出すと気がかりなことが次々浮かび段々と憂鬱な気分になってきた。


どうしようかと迷いつつも大会前々日に行われたランナー登録とナンバーカードの受領に、受付会場である新装の霞ヶ丘・国立競技場に一応行ってみることにした。永年慣れ親しんだ国立競技場のスタンドやトラックはオリンピックですっかり近代的になり、新しい時代を感じさせてくれたが、最近のマラソン大会の手続きもかつてとは大違いである。以前は往復ハガキで申し込み、当選すれば通知のハガキを持ってレース当日会場に行き、ナンバーカードを貰うのがほとんどだったが、今やスマホで電子チケットを提示するばかりか、スマホに登録した顔写真との照合も受けないといけない。スマホを持っていない高齢ランナーはお呼びでないと言わんばかりのやり方である。例によって申し込みや情報登録などの手続き一切を妻に任せているお気楽ランナーの私は(妻が私分は私の)スマホに登録したこれらを提示するために、会場では妻の後ろにピタっとくっつき、「おい、どこを押せばその画面になるんだ?」と一々彼女に尋ねなければならないから面倒だ。レース当日もスタートする競技場の入場にスマホを見せる必要があるから、これが無ければスタート地点にたどりつけないのである。これではまるでスマホに使われている大会かと文句の一つも言いたくなり、益々走りたくなくなったが、若いランナーたちは何とも思わないのだろう。


いろいろと心配はあるものの、まあ取り合えず膝をかばってチンタラと走り始めて具合が悪くなったら無理せずリタイアして電車で帰ってくれば良いかと思ったら、私のスタート位置はかなり前の方のB組であった。ネットで申し込む際に、妻が「(私の)予想タイムは1時間30分にしとくからね」と家のパソコンの前で呟くのを「ウン、それにしといて」とナマ返事をしたような気もするが、考えてみればハーフマラソン1時間半は60歳の頃のタイムである。あれから10年、とても今の走力、それも「チンタラ走り」では、スタート直後からC組以下にゴボウ抜かされるに決まっており、B組ではずっとシンガリを走ることになりそうだ。これまで各地のマラソン大会で、AやらBなどスタート順が早い選手を追い抜く際には、実力以上の完走タイムを自己申告してこんな位置で走っているとは何ともみっともない、と心の中で馬鹿にしていたが、今度はそれが自分の姿になるかと思うと急に心が萎えてきた。この時ばかりは日ごろ妻の話を半分くらいしか聞いていないことを大いに反省したが、これもあとの祭。それやこれやで、当日朝にスタートしないことを決心し、久しぶりにDNS (DID NOT START)の気分を味わった。参加料2万円が『出場記念』のTシャツの引き換えだけになったのは何とも悔しいが、「一応の目標タイムを切れた!」と帰って来た妻はますます意気軒高である。

2万円払って貰った記念のTシャツ1枚
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2020年6月30日 (火)

皇居・北の丸公園

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都心と思えぬ緑の庭園を走る

皇居周回コースは今や都心で走る人のメッカのような場所となり、多くのランナーが昼夜問わず走っている。信号もなく安全で走りやすのだが、週に何度も走っているとさすがに飽きてくるものだ。そんな時にはすぐお隣にある皇居・北の丸公園でジョギングをすることが多い。公園と云えば都心には日比谷公園や皇居東御苑などもあるが、日比谷公園が和洋折衷の庭園、東御苑は名所・旧跡となっているのに対し、北の丸公園は都心の緑の森の公園だといえよう。皇居北の丸はもともと江戸城の火災除け用地だった場所で、江戸中期より徳川家の御三卿家である田安・清水両家の領地になっていたそうだ。明治以降は近衛師団の兵営地で立ち入りができなかったが、戦後は森林公園として整備され、東京オリンピックに際してその一画には日本武道館が建てられている。昭和44年からは環境省が管理する公園として、常時一般に開放されている場所である。


この皇居北の丸は周囲の長さは約1.6キロほどのこじんまりした場所なのだが、園内に造られた遊歩道を辿れば、一周1.3キロほどの起伏に富んだ周回コースをつくることができる。ただしここでは環境省北の丸公園利用案内に「個人・団体を問わず、公園内の歩道・遊歩道、車道等においてランニング(ジョギングを含む)される場合、タイム計測やインターバル・ダッシュ等に代表されるような、いわゆる『スプリント・ラン』については、例え全力疾走でなくとも絶対に行わないでください。また、大会等への参加を見越したマラソンの練習についても、その疾走スピードは『他の来園者・利用者にとっては脅威』なので絶対に行わないでください。」とあるように、他の通行人の迷惑になるような、あるいは集団で走るような行為はご法度である。あくまでゆったりと公園の情景の一部となるように走ることが求められるのである。


という事で私はタイムを計測したり目標をもって走る際には隣の皇居周回コースを、ゆっくりと気分よくジョギングしたい日には北の丸公園を利用することにしている。緑多き園内は中央に池が配置され、その周囲は山道あり渓谷あり竹林もあり、さらには湿性植物園などもあって景色に飽きることがない。森の中には旧近衛連隊の碑もあり、コンパクトな敷地の中に上手に公園が造られている事がわかる。春は桜の花、今の季節なら木漏れ日を、秋になれば紅葉を楽しみながら園内を巡ると、走る辛さも忘れ、いつまでもこの道が続いて欲しいと云う気持ちにさえなってくる。ここは最寄の地下鉄竹橋駅や九段下駅からやや離れているため、普段は訪れる者も少なく、地元の人や近隣の勤め人が訪れる程度である。本当はなるべく秘密の場所にしておきたいような静かな公園なのだが、都会のど真ん中で緑豊か、鳥の声を聞きながらゆっくり走ったりそぞろ歩くには最適の場所なのである。

深山幽谷のような一画もある北の丸公園
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2020年5月15日 (金)

ジョギングを継続するには

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皇居のコースも武漢ウイルス禍でランナーが減った

完全テレワークになって2か月。週に一度はファイリングなどの為に事務所に行く以外は通勤の必要もなく、商談も面倒な事は「今や時期にあらず」で先延ばしされるため時間に余裕がある。おりしも気候がよく外で走るには絶好の季節とあって、ついついジョギングの距離や時間も増える。今日はまだ月の半分、15日目なのだが日記をみるとすでに今月は140キロほど走っており、このまま行くと月末には走行距離が300キロ近くになるだろう。昔は長距離の選手は月600キロ、多い月で800キロくらい走ると云われていたから、速さや練習の質はまったく違えどもかつての部活時代の半分近くは走っていることとなる。


考えてみれば中学3年で走り始めてから50年以上になる。まずは今でも毎日のように元気に走れることを、お天道様に感謝せねばなるまい。ただ日課のジョギングも、日によっては走ることが億劫で気がすすまない時がある。また走り始めても何故か積極的に身体が前に進まないような気がする日もある。そんな際にどうやって「走る気持ち」をキープするかは、ジョギングを続けるにあたり腐心する事だと云える。まず実践するのは、同じ走るのでも、日々の気分によって走る目的を変え、違うコースを走ることだ。かつて学生時代に、当時バリバリ順天堂の沢木監督を招いて話を聞いたことがあり、同僚が「飽きずに長い距離を走るにはどうすれば良いのですか?」と質問すると「まずは400米のトラックを何十周も走りきれるようになってからそんな事は考えなさい」と言われてしまったが、競技するわけでないジョガーならまず嫌にならないような動機付けが必要と云えよう。


という事でジョギングを無理なく継続するのは、走るコースを日々変えることだろう。桜の季節には花見ができる場所まで走ってみる、新緑の頃は公園まで走って行くなどのほか、たまには郊外まで走って行き、帰りは電車にするなど目先を変えることで気分転換がはかれる。ガイドブック片手に都内・近郊の名所、旧跡を訪ねて走るのも良き気分転換の機会である。都内でも10キロも走れば、さまざま場所に江戸時代の遺構や歴史的な遺跡が発見できる。最近はそういう場所に説明版や案内の掲示なども整っているので、じっくり往時の気分に浸るのも良い。その他に自分一人で決めたコース上(私の場合には皇居周回コース)で目標タイムを設定し、タイムトライアルをするのも刺激になる。その記録を取っておくと1年前、5年前、10年前に同じ季節の同じコースでどの位で走れたのが判り、それが練習の励みになったり、反対に自分の老化を実感できたりするものだ。


最近実践しているのが坂道を「喜んで」上る事である。坂道は傾斜の先を見ずなるべく足元だけを見つめて上ると、心理的な負担が少なく感じるものだが、逆に勾配を「意識」し、これを「克服」するように思って走ることにしてみた。というのは65歳を過ぎて体幹、特に大腿四頭筋や腸腰筋が衰えると云われるので、坂道はこれらを鍛える絶好の機会ととらえ、むしろこれを迎え入れる気持ちにしてみたのである。上りながら体幹に意識を集中してみると、人間は嫌いなものでも積極的に立ち向かい、それに意義を見出せば辛さも半減することが今さらながら判る。また腕ふりも走るセオリーに反し、前後ではなく時に左右に振ってみると辛さが和らぐということを最近感じている。ただ、どんな日でも走り終わった後のごほうび、缶ビールの栓をプシュっと開けゴクンと一口飲む場面を想像する事が、走り出す一番のモチベーションになっているのは間違いない。

時には丸の内の有名菓子店に買い物に走るのも練習の一環
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2020年5月 3日 (日)

ジョギングにマスクがいるのか?

どうにもわからないことがある。武漢ウイルスに際し、他人にうつさない為に、ジョギング中にマスクをつける人がいるのはなぜなのか。かつて陸上競技の長距離でマスクをつけて走る練習をする学校があったが、マスクを着用することで空気の取り込み量が減り、その負荷が酸素摂取能力を高めるという目的があったようだ。このようにマスクをして走ると空気のスムースな取入れが阻害され、身体はすぐに息苦しくなって余計な負荷がかかることになる。また、これから汗をかく季節になると、布や紙でできたマスクはすぐに汗で濡れてしまい、長い時間とても着けていられなくなる。今回マスク必要説の根拠にされたと云う欧州の研究例では、走るランナーの後ろ10米くらいまで空気的な影響があり飛沫が飛ぶ可能性があるかのように書かれているが、どうもそれはスリップストリームなど実験の場での流体力学的な推論のようだ。その実験とウイルスの感染が直ちに結び付くのかは甚だ疑問な内容と云えよう。


武漢ウイルスは「飛沫」と「接触」で感染するとされる。しかし、そもそも走っている最中にジョガーは飛沫など飛ばすのだろうか。走りながら会話や咳をしたり、痰を吐けば飛沫は飛ぶであろうが、多くのジョガーがそうしているように黙って走っている限り飛沫がどこから出るというのだろうか。広辞苑で調べると「飛沫」とは「飛び散るあわ。しぶき。とばしり。」であり、「とばしり」とは「とびちる水。しぶき。飛沫。」とある。さらに「飛沫感染」とは、「唾液や喀痰の飛沫などによる病気の感染」であって、普通にジョギングしている限り唾液や喀痰、あわ、しぶき、とばしりなどは出ないのに「飛沫感染」とはどういうことなのだろうか。あるサイトでは、ジョギング中は勿論だが、歩いていても人からは「飛沫」がでると主張しており、そうなるとただ普通に呼吸をしているだけで、世の中どこも飛沫だらけということになってしまう。どうもこの問題では、客観的事実より気分が優先してしまっているように感じてならない。それとも「飛沫」は辞書的な定義と、医学的な定義が違うというのだろうか?


このまま何もしなければ日本では42万人が武漢ウイルスに罹ると発表した学者がいたし、少し前には2週間後の東京は今のニューヨークになるとネット記事をのせた在米のジャーナリストもいた。「何も対策をしない」などということはその時点でもすでにあり得ない前提だったし、その後も状況に応じて対策は変化しているから、そのような数学の学理的な発表はまるで意味がない。また国民皆保険制度がなく、医療環境が日本とは大きく異なり、経済格差も大きいニューヨークと東京では条件がまったく異なるのに、比較することに意味があるのかと思っていたら、2週間後の東京はやはりそうなってはいなかった。どうやら武漢ウイルスに関しては、第一線で実際に治療に奮闘していない「その他」の人たちによる恐怖ビジネスが展開されているようだ。この騒動が終わったら、どの(自称)識者、どのメディアと(自称)ジャーナリストが無責任な不安を煽りたてたのか、だれか一覧表でも作ってくれないかと最近思っている。

 

追記:今日(5月3日)昼過ぎに皇居コースで定点観察したところ、目の前を通過する50人のジョガーのうち30人がマスクを着用していた。ただしマスクをまず着用しない外人やシリアスランナーが多く走る時間にはこの比率は下がると思われる。

2019年9月16日 (月)

MGC マラソン グランドチャンピオンシップ 沿道応援

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飯田橋(37キロ)地点の先頭集団、優勝の中村選手(2番目)や3位大迫選手

来年の東京オリンピック代表選考会となるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)が、自宅近くの外堀通りを通るというので昨日は沿道に観戦に行ってみた。とかく物議をかもすオリンピックのマラソン代表選考だが、今回は最近の各地の大会で実績をつくった限られた選手たちによる一発勝負のこのレース(MGC)1位・2位が自動的に代表になる。大事な一発選考レースに出場する男女エリートランナーたちが、目の前をどんな走りで通り過ぎるのか楽しみなところだ。ラグビーのワールドカップや来年のオリンピックの観戦チケットが何万円もすることにやや違和感を感じてしまうなか、マラソンの沿道観戦だけは無料というのもちょっと良い。

わが家からは往路・復路とも歩いて沿道で観戦できる距離なのだが、今回は男子が精鋭30名で女子はわずか10名余の参加とあって往路は一瞬で目の前を通り過ぎてしまう。まだまだ日差しが強い中、行きの選手を見送ったあとに1時間半も炎天下で待つのは疲れるので、昨日はレース前半の模様をテレビ観戦し、レースが近づく10時半ごろに飯田橋駅近くに繰り出すことにした。テレビで見るレースも中盤、そろそろかと家を出てみると外堀通りに向かうすべての道には警察官やボランティアの整理係が立ち、猫一匹通さない交通規制が敷かれている。きっと来年のオリンピック本番を見据えて予行の意味もあるのだろう。

待つことしばし、最近はスマホなどでレースの展開が克明にわかるので、選手が通り過ぎるのを待つのも余裕である。沿道はやはり応援する観客で埋まっているものの、4万人の市民ランナーを応援する人たちでびっしりの東京マラソンより道路間際で応援することができる。いよいよ警察やオフィシャルの車両に続き、テレビ中継車の後ろに選手が迫ってくると、沿道は拍手や応援が一斉に飛び交う。見ると目の前では前半飛び出したホンダの設楽選手の足が止まり、すぐ後ろ50米ほどの集団に吸収されそうな場面が展開されている。エリート選手の集まりといえど、さすがに暑さの中、ここまで駆けてきた選手たちの足取りは軽くはないようだ。

飯田橋は復路の37キロ地点で、ここから外堀通り・靖国通りを曙橋まで約3キロだらだらと上りが続き、そのあとコースは富久町から四谷四丁目まで急坂を駆け上がる。レースも山場、市民ランナーと違って通り過ぎる選手たちからは、オリンピック参加に向かう必死の様子が伺えて応援する方もつい力が入ってしまうものだ。特に暑さの中、この先の長い坂に挑戦する女子選手たちにはひときわ大きな声援を送りたくなる。やはり選ばれたランナー達だけのレースとあって、通りすぎてしまうとあっという間のマラソン観戦だったが、彼らの力走を目の前でみると何かエネルギーを貰った気持ちになるから不思議なものだ。マラソンや駅伝を沿道で観戦した後はいつもそうなるとおり、日課のジョギングはいつになく力が入って速く走ってしまったのである。

女子7位 福士選手
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2019年6月27日 (木)

いだてん~東京オリムピック噺~・前半終了

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金栗四三のバナー

日曜夜のNHK大河ドラマには近年まったく興味がなかったが、今年の「いだてん~東京オリムピック噺」の前半部(6月末までの陸上編)は毎回必ずチャンネルを合わせ楽しみに見た。滑舌の悪いたけしを落語家として配するミスキャストもあって番組は低視聴率に泣いているそうだが、主人公・金栗四三はじめかつて陸上競技界の草創期に活躍した大先輩たちの話がとても興味深い。むかし教科書や専門誌で読んだ雲の上の彼らの生きざまがドラマを通じて活き活きと展開されると、伝説の存在が急に身近に感じられるようだ。

この大河ドラマ、かなり面白おかしく造られたストーリー展開なのだが、実は随所に陸上経験者なら知っている背景や裏話が入っており、それを読みとくのもこの半年間の楽しみだった。我が国の長距離競走の先駆者だった金栗四三の活躍はもちろん、私も履いたハリマヤシューズと陸上界の関わり、東京高師(現・筑波大)が日本の体育やスポーツ普及になした貢献、日本女子体育大学の創始者・二階堂トクヨと高師の関係、箱根駅伝と読売グループなどなど、他にも「な~るほど、そうだったのか」と目からうろこの逸話も毎回見られたのだった。

話の中で、人力車夫の存在がかなり大きな要素になるのは、陸上競技の草創期に「プロ」のランナーであった人力車夫がトラック種目で活躍して問題になっていた事が背景にあるのだろう。実際に明治36年の第8回陸上競技大会(現在の日本選手権)のマラソンでは、1位から5位までを人力車夫が占めたが、結局アマチュア規定違反で失格になっている。また大正14年の第6回箱根駅伝は、日大が3区に登録選手の身代わりで人力車夫を起用し問題になり、日大は翌年の出場を取りやめたこともある。

ドラマの中ではハリマヤのマラソン足袋が大きく取り扱われており、事情を知らない人は実存した一介の足袋商店の異例の扱いにいぶかる声も出そうだ。しかし長距離走の黎明期に金栗四三の助言を得て、多くの選手に足袋を供給したハリマヤの貢献は知る人ぞ知るところである。「いだてん」は玄人好みのドラマだとも云われていたそうだが、まさに云いえて妙の評価だと思う。とにもかくにも主人公の金栗四三がいなければ、お正月の箱根駅伝もなかったわけで、そう考えると彼の存在は私の人生にも影響を与えてくれた事になる。さてドラマの後半、水泳の田畑政治の活躍はいかばかりだろうか、これも楽しみである。

大塚にある金栗足袋発祥の地の銘板
20190627

2018年10月 5日 (金)

60歳代後半のランナー

人生も60歳代後半になると、筋力の衰えを如実に感ずるものである。60歳くらいまでは皇居一周、ちょうど5キロで高低差約30米のコースを20分以内で走れたが、いまやとてもそんな記録はだせない。それでも65歳になる前は、頑張ると21分くらいで一周できたのが、65歳以降になると22分を切るのに 「ハーハー!、ゼーゼー!!」と喘ぐ始末である。速度にすると5キロの距離を時速15キロで走れたものが、時速13.5キロくらいでしか走れなくなったというわけである。


そう云えば、かつて国際大会で活躍したような元大選手が、還暦過ぎにレ―スに招かれて走るのを見ると、名選手もずいぶん遅くなったと感じたものだ。特に65歳以降に招待された場合は、若い頃と違って、よぼよぼした走りで、まるで他人事として見ていたのだった。ところ変わって今度は自分がその年齢の老人になると、ちょうど彼らのようで、おのれのフォームが町のショーウインドウに映るところなどをみると、一生懸命に走っている割にはよたよたのゆっくりジョギングのように見えて何とも情けなくなってくる。


たとえばいま私が、皇居一周を時速13~14キロで走ろうとした時、ふつうスタートして3キロ~3.5キロくらいで息が苦しくなる。以前なら苦しくともそのままのリズムで5キロ程度は押し通せたのだったが、60歳代後半となると、そこで腕を意識的に振ったり、ステップを維持しようと努力しても、ただバタバタと苦しさに全身もがくばかりでスピードが持続できない。生理学的な知識はないのだが、筋持久力というのだろうか、酸素やスタミナが切れた状態のなかで、筋肉が踏ん張る能力が失せてきた事を如実に感ずるである。


これが老化という事なのだろう。若い頃はまったくの無名選手で、いつも他人の後塵を浴びせられてきたのだが、永く走ってきたおかげで、今は同年代のレースでメダルや賞状を貰えるようになった。だが最近こうも遅くなってくると、次は「70歳代以上」という部門がある大会を狙って走るしか良い思いができないかという気もしてくる。もっとも最近思わぬ大病・手術をして気弱になった私に妻がくれた斎藤茂太氏の「モタさんの楽ラク人生術」という本には、「他人と比較するな」 「ある年齢になったら無理に体を鍛えるなかれ」「年齢相応と思って生きるのが楽なみち」とあって懸命に走るのはもう卒業するかという気持ちも一方でおこるのである。

20181005

息の苦しくなる3.5km過ぎ

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