カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2025年3月 6日 (木)

ビールはミニグラス、ワインには氷

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愛用のビアグラスは元々モロゾフのプリンが入っていた容器

少し前、ネットの「ダイヤモンド オンライン」上で、大平 哲也さんと云う福島県立医科大学の教授(医師)が、ワイングラスの大きさについての記事を寄せていた。何でもケンブリッジ大学の研究チームが、「過去100年で食器のサイズが大きくなったことが肥満につながった」とする仮説に注目して、ワイングラスについての調査を行ったそうだ。そのチームが1700年から2017年までのワイングラスを収集し、それぞれの容量を調べてみると、やはりワイングラスは大きくなり、容量は増えているのが分かったとのこと。この研究から、「確固たるエビデンスは得られていないものの、グラスのサイズを小さくすることでアルコール摂取量を減少できるのではないか」と考えているそうである。


このような考察に基づき、大平氏はビールや酒を飲む時には小さなグラスを使い、氷や水で割るアルコールは、多めに氷や水を入れよう、と提唱している。小さなグラスでお替わりするほうが、同じ量でも何杯も飲んだ気がするし、同じアルコール量を飲むなら水や氷で膨らました方が沢山飲んだ気になるのだと彼は言う。たしかに人間は情報の80%を視覚から得ていると云われているから、味が少々薄くても目の前に注がれた酒の嵩が多ければ酔った気分になるものだ。その一方で、大きなグラスで一気に飲むより、同じ量でもちびちびと杯を重ねた方が、何となく酔ったような気分になってくるのも事実である。


我々の感覚とは実にいい加減なもので、例えばジョギング中に上り坂に差し掛かった際は、道路の先を見てしまい「あそこまで行かねば」とウンザリするより、視線を足下から50センチほど前に落とし、「一歩一歩」と進んだ方が遥かに楽に頂上に到達する。同じ事をするのも視線一つで気分は変わる。同様に「小さなグラスを使って自分をダマす」「水を多めにして薄めることでたくさん飲んだ気分が味わう」(大平氏)ことが出来るのも心理の綾である。ということで、私は以前より家でビールを飲む際は、小さなグラスに入れてちびちび飲むことにしている。このグラスなら一杯が60~70CC、350CCの缶ビールなら5回も6回もお替わりできるので、何となく杯を重ねた気分を味わえる。これなら、スポーツ後の最高にビールが旨い時、最初の一杯目をぐっと飲み干しても、「あと4杯でも5杯でも持って来~い」と思えるゆとりを感じる。小グラスでお替わりしつつ缶ビール一本を飲み干せば、(ちょっと物足りないものの)もう何杯も飲んだから食事にするかと次に進める気にもなる。また邪道とは思いつつ、白ワインに氷を入れて嵩を増やせば、こちらもちょっと満足した気になる。おかげでγ-GTPもなんとか規定の数値に収まっている。

2025年2月27日 (木)

八千穂寿司のおいなりさん

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2月24日(月)、テレビ東京の「世界!ニッポン行きたい人応援団」は、シアトル郊外に住み、いなり寿司を愛するアメリカ人女性を日本にご招待する特集だった。この女性の亡き祖母は進駐軍の兵士と結婚してアメリカに渡り、初孫だった彼女に日本料理を教えたそうで、おばあちゃんの味を受け継ぎたいというのが番組に応募した動機とのことだ。シアトル近辺には軍の基地が多いため第2次大戦に従軍して帰国した元兵士の家族が多数住んでおり、進駐軍で日本に滞在した米兵が日本人女性と結婚して連れ帰ったケースも多々あった。私がシアトルに駐在していた時も、進駐軍の軍人だった夫と結婚しアメリカに移住したオバちゃんが秘書をやってくれたが、一人駐在でアメリカの右も左もわからぬ中、彼女の様々な仕事ぶりにとても助けられたことを思い出す。かつての秘書のオバちゃんに孫娘がいれば、ちょうど番組の女性くらいかと考えると彼女に親近感を覚え、いなり寿司の作り方を日本の名店で短期修行しようとするその姿が興味深かった。


番組で彼女にいなり寿司のノウハウを教えた有名店の一つが、九段北のテイクアウト専門の「八千穂寿司」であった。この辺りは我がジョギングコースに近く、少し前よりこのお店があることは知っていたが、そこはJR市ヶ谷駅からは約600米もあり、一口坂という抜け道に面したあまり目立たぬ場所である。しかし「世界!ニッポン行きたい人応援団」でお店の人気や働く人たちの仕事ぶりが紹介されたのを見て、そんな名店ならば一度トライしてみようと、昨日はジョギング帰りに寄ってみた。午後のひととき、こじんまりしたお店にはすでに6人~7人の先客が列を作っていた。繁忙時を除き基本的には作り置きせず、注文を受けた分だけをすぐ後ろの調理場でこさえているため、簡単に客はさばけないようで、おばあちゃん始め4人~5人が一心に作業しているさまが並んだ列から見える。ふだん並ぶくらいなら要らない、ほかの物を買うとするせっかちな私ではあるが、家族総出で黙々と酢飯をお揚げにいれている厨房を見ると列を離れる気持ちにならず、何を注文するか陳列ケースを何度も確かめつつ待つことに。


約10分ほど待って買ったいなり寿司は、「いなり」単品 X 5(750円)、かっぱ巻き+かんぴょう巻+いなり2個(920円)入り「かっぱ合わせ」2点合計1670円プラス8%消費税。愉しみに折りを片手に持ち帰り、一口ほおばると油揚げは甘味がちょうどよく効き、味もしっかりした関東風、酢飯は口の中でほろりとほどけ、胡麻も入っていない素朴で懐かしいおいなりさんである。大将は神田淡路町の「志の多寿司」で修行したそうで、これぞ昔ながらの東京風というところ。子供の頃、玉電(現田園都市線)の真中(現駒沢大学駅)電停前に食堂があって、電車を降りるとそこのおいなりさんや、団子などを買って家路についたことを思い出してしまった。「八千穂寿司」はガリも本気の自家製、テレビで紹介されていた大将や会計の感じも良く、放送の余韻が去った頃にまた買ってみようかと思わせる味であった。お店は2021年に庶民的な巣鴨から靖国神社に近い九段北に移ってきたそうだが、大学や高校、オフィスが連なるこの街にちょっと似合わぬ「古き良き東京」の味わいである。

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2025年2月24日 (月)

神田川・環状七号線地下調節池

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方南町付近、環七通りの地下40米、長さ4.5キロ・内径12.5米の巨大地下調節池(トンネル)


「 神田川・環状七号線地下調節池」の見学ツアーに参加した。善福寺川の川べりにある取水施設を訪れ、地下に造られた普段は入れない巨大な水路を一同40人ほどで見学するのである。武蔵野台地の縁に町づくりがされた東京には、多摩川や荒川など幾つかの水系があり、その一つの神田川は三鷹市の井の頭公園に源を発し、途中で善福寺川や妙正寺川を合わせ、杉並区や新宿・豊島・文京の区境を東に流れる長さ24.6キロの一級河川の水系である。流域の都市化に伴い、かつては地面に吸収されていた雨水が直接都市河川に流れ込み、洪水の被害が大きくなることはよく報道されているが、この神田川水系でも東京の発展と共に大雨が降ればしばしば水害が起きていた。このような状況の下、中流域の浸水対策として昭和61年(1986年)から平成20年(2008年)にかけて整備されたのが、妙正寺川、善福寺川、神田川に通じる地下大水路である。


調整池トンネルと名づけられた地下の巨大水路に水を流し込むためには大掛かりな設備が必要である。まず東京西部に大雨が降った際に、神田川、善福寺川、妙正寺川の水位が一定以上になると、3つの河川のコンクリート護岸に設けられた取水口が手動で開けられる。取水口から流入した水は導水路で川べりの取水施設に導かれ、施設内にある導入孔(ドロップシャフト)と呼ばれる高さ40米ほどの特殊な立孔を通って、環状七号線の地下に設けられた調整池トンネルに流される。道路の地下深く、内径12.5メートル、南北に長さ4.5キロに亘るトンネルに3河川から集まる水量は、最大で合計54万m3(約50万トン)とのこと。大雨が去れば2日後にポンプを使って地下の水を汲み上げ、元の河川に戻す作業が行われるが、ポンプが稼働できるように、トンネル内には僅かな傾斜が施されているそうだ。


この日は、地下鉄方南町駅にほど近い善福寺川の取水施設で、まず係員による丁寧なガイダンスを受け、14階のビルに相当する長い階段を地下トンネルに向けて下りて行った。傾斜も急でステップの奥行も狭い階段で地下40米の地底に達すると、潜水艦にも使われる分厚い水密扉の向こうに、調整池トンネルに通じる内径6メートルの連絡路が伸びている。連絡路から本トンネルへ、係員が持つポータブルランプが足元を照らすが、ここは地下の奥深く、灯りがなければ真の闇だ。見学者のある日は絶対に水が流入しない仕組みになっているそうだが、もし南北に延びる暗闇の本トンネルの彼方から濁流が押し寄せれば、”グーニーズ”や”インディジョーンズ”の映画の世界かと思わず想像が逞しくなる。暗所恐怖症や閉所恐怖症気味の人は来るのを止めた方が良さそうだ。トンネル内は地下深いため、気温・湿度とも快適なるも、頭上には環七の渋滞があるとは信じられない空間である。地底に滞在すること1時間弱、色々な説明を受けて浸水対策がいかに大変な事業であるかを実感しつつ、今度は長い階段を登って外の空気が吸える地上に戻った。


こうして見学してきた地下調整水路の貯水量は約50万トン、と云われてもピンとこないが、東京ドームの容積が124万m3とあるから、豪雨の際はドーム球場半分位の量の雨水をここに蓄えておけることになる。ペルシャ湾から原油を運んで来る超大型タンカーが30万トン超なので、これに積めば1.6~1.7隻分の水量となる。大雨の日にトン数的に一体どれだけの雨が流域で降ったのか素人の我々には想像できないため、この貯水量がどれほど意味深いのかはよく分からないのだが、取水施設に展示されたデータによると、システム完成以来これまで調整池トンネルが稼働したのは46回もあり、神田川中流域での浸水の被害は激減したとのこと。地下調節池による損害額の減少効果は、設備投資(工事費は約1000億円だったとのこと)や運営費用をはるかに上回るとの係員の説明であり、このような大規模な河川対策を実施しているのは、東京と大阪の一部だけだそうだ。なるほどこういう設備に税金が使われ、浸水被害に大きな効果があるならば、高い地方税を払う価値もあるのかと納得しながら見学を終えたのだった。

 

善福寺川取水施設と護岸に設けられた取水口
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2025年2月12日 (水)

膀胱がん+前立腺がん 術後の定期検診

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膀胱がんの手術より6年半、前立腺がん摘出手術より4年半、今日は半年に一度の「悪性腫瘍特異物質治療管理」、いわゆる術後の定期検診の日である。近ごろ妻に「年齢の割によく寝るわね」と呆れられる通り、8時間以上ぐっすり眠る日が多いが、この睡眠時間は夜間トイレに立たなくなったことが大きい。昼間にトイレに行く回数も減っているので、体感的には泌尿器系についてまず問題はないだろうと感じているのだが、それでも検査の1週間ほど前になると、「もし今回何かあったらどうしよう」と不安が募る。2021年3月に記したとおり、そもそも膀胱がんも前立腺がんも自覚症状がまったく無かったところ、人間ドックや定例の健康診断の結果で専門医を受診せよと云われ、結局手術に至ったと云う経緯がある。それからすると、自分の感覚というものはそれほど当てにならない気もして、やはり検診の日が近づくと落ち着かない。


手術後の定期検診は採血と採尿に医師の診断である。採血からは取り切れなかった前立腺がんがある場合に数値が上がる腫瘍マーカーPSAの他に、血液やら全身の状態を表す健康診断なみの項目を調べる。尿検査は潜血反応以外に、尿路に欠陥がある場合に多く検出される細胞の病理検査など多岐の項目に亘っている。もっとも膀胱がんの術後5年目までは、あまり愉快とは云えない膀胱内視鏡検査があったが、これは卒業とあって検診が簡単になったのが嬉しいところ。とは云え朝8時半から業務が始まる病院の採血センターには、開始時間前に毎度すでに多くの人が並んでいる。ここでの採血・採尿が遅れると即日判定の結果が出るのが遅くなり、その日の主治医の診断時間も後ろにずれてしまうので、自分を含めせっかちな老人達が何十人も早朝から詰めかけるのである。


何回も同様のルーティンをこなしているとは言え、問題は採尿である。病院で採尿カップをもらう時刻は朝8時半過ぎ、習慣的に便意がやってくる時間である。当然のことながら男性の場合は立ったまま採尿するのだが、この時に便意が切迫していると曲者だ。立ってはいるが、尿を出そうとして下半身の筋肉を緩めるとお尻も緩み、便の方まで出そうになって、冷や汗ものとなる (もちろん出したことはない)。では、と1つしかない個室が空くタイミングを見計らい、まず排便をと考えて座ると、今度は尿が同時に出そうになる。今回は先に便意を覚えたため、まずは便をと個室に入ったが、うっかり同時に出てしまわないよう前を抑制しつつ後ろを解放するなどは至難の技である。結局座るやいなや、あっという間に前が先に開放されてしまい、慌てて採尿カップを構えてなんとか事なきを得たが、一部取り遅れもあり、量が足りないのではないかとやきもきした。


外来迅速検体検査と呼ばれる血液・尿検査の結果が出るまでの1時間ほどを待合室で過ごし、半年ぶりに主治医の呼び出しとなる。毎度「何ごともありませんように」と祈りつつ恐る恐る診察室の引き戸をあけると、医師は検査結果を横目で睨みつつ、こちらの最近の調子を尋ねる。前立腺手術後にほとんどの人で起きる尿漏れも、ようやく感知できないほどになったことなどを報告すると、医師はパソコンのカルテに入力しながら「数値はどれも問題ありません。尿もキレイです」「次は半年後に来てください」と嬉しい検査結果の解説である。これで今回も無罪放免、この春から久しぶりにロングクルーズに行こうと進めていた計画も一歩前進である。泌尿器系では検査前の飲食・飲酒はあまり結果に関係ないとは知りつつも、採血・採尿を控えて、ここ数日は何となく健康に良さそうな食事をし、飲酒も量を越えないように心していたが、今日はお祝いにジャンクフードにウイスキー濃いめの水割り晩酌である。

2025年1月29日 (水)

注文するのも ラク じゃない

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「ふてほど」市郎は居酒屋でタブレットで注文する

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炙り〆サバが200人前


中学時代の友人6人と渋谷の居酒屋で平日午後1時からの昼呑みをした。周囲をみれば相変わらず同じような年恰好のジジイのグループが多い。最近の都内盛り場の居酒屋は、午後のヒマな時間にこういう年配者の昼呑みで稼いでいるようだ。案内された席につくと、ここではテーブルに置かれたタブレットのパネルに表示されたメニューから飲み物や料理を注文をする方式であった。最近はやりのQRコードを読んで自分のスマホからオーダーする必要はなかったことに一同まずはホッとするが、それでも目の前のパネルに誰もなかなか触れたがらない。「俺はビール大」「おれはビール中にフライドポテトかな」などと時代遅れのオヤジ達それぞれが勝手に口走るうち、大学は理工学部を出た( 文科系出より少しは機械に強そうな )一人が意を決して「じゃあ俺が代表して」とタブレット端末を操作し始めた。ほどなく最初の一杯が出そろって無事乾杯と思いきや、またもや同じ数のビールに加え、頼んだフライドチキンが2皿も運ばれてきた。


料理を運んできた男性店員に「え?1つしか頼んでないのに」と理工学部が文句を云うと「いやオーダー入ってます」と彼は憮然と答える。「注文済みの確認の画面がなくて、注文が通っているか分からず余分にボタンを押したのかなあ?」と今度は理工学部がやや不安げに呟けば、「画面をちょっとスライドさせたら履歴確認できますよ」とその店員はいとも簡単に言う。言われるままそうしてみれば操作ミスなのか、数量欄には間違いなく2と入力されており、店員は「やれやれ」という顔で立ち去って行った。結局この日は操作不慣れな中、フライドチキン×2や串カツ×3、フライドポテト×3のように、揚げ物ばかりでカンベンというものや、飲みたかったのに注文がうまく行かず諦めた黒ビールなど、一体何を飲み食いしたのか、満足したのか足りないのか分からない状況だ。ただフライドチキンにかなり入っていたのか、ガーリックの匂いだけをまき散らして、一同まだ外は明るい中、ふらふらと家路についたのであった。


こうしてみると最近は注文一つするのもラクでない。そういえば昨年テレビで話題になった「不適切にもほどがある」を最近動画配信サービスで再び楽しんだのだが、1986年からタイムスリップしてきた主人公の市郎が、現代の居酒屋でタブレット注文したところ、炙り〆サバ200人前を誤って注文してしまった場面があった。どうやら我々も1980年代の意識のまま2025年を迎えているのか、機械操作に慣れないせいもあって、日常場面で困惑することがしばしばである。目の前の画面から「三択から選んで下さい」などと表示されると「 はてどうするか」と妙にオドオドするし、間違ったボタンを押してしまい「最初からやり直して下さい」となると、「ふざけるな!」と機械を殴りつけたくなる。なのでスーパーの会計はセルフレジよりもどんなに行列が長くても有人のレジに並ぶし、みどりの窓口のある駅では、券売機で購入可能な切符であっても窓口に行く。銀行から送金する際には「手数料も安いし簡単なのでATMで」と案内されても「窓口でやって領収印を欲しい」と主張して係員を呆れさせる。年寄りは時間なら幾らでもある。手数料を少々取られても問題ない。画面より人の手を使って作業が為された方がはるかに気持ちが良いのだ。

2025年1月16日 (木)

メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」恐ろしや

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風邪が大はやりのこの時期である。毎週通っているダンス教室の新年ダンスパーティも、主催者側がインフルエンザの罹患者多数で中止になってしまった。そんな折りだが、東京フィルが年に4回「響きの森クラシック・シリーズ」として文京シビックセンターで演奏する、フレッシュ名曲コンサートに義妹から誘われた。フレッシュ名曲コンサートとは「新春に相応しい名曲」を「フレッシュな指揮者やソリスト」(パンフレットの解説)で奏でるコンサートで、ヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」にドヴォルザークの「チェロ協奏曲」がこの日のプログラムである。新年とあって「春の声」も良いし、その次の2つの協奏曲を演奏するソリストたちは将来を嘱望される新進気鋭の若者たちだそうで、久しぶりのクラシック生演奏が楽しみであった。


コンサートに先立ち、自分自身は年末から鼻やのどがぐしゅぐしゅしているのがちょっと気にかかっていたが、熱も出なかったし、咳もほとんどなかったので、当日は躊躇なく出かけることにした。ただシーンと静まり返るホールでクラシック音楽を真剣に聴いている時に限って、のどがムズムズして咳払いをしたくなるのは、多くの音楽ファンの ”あるある”ではなかろうか。特に冬の寒い時には空気が乾燥していることもあって、喉が余計いがらっぱいものである。フルオーケストラの大きな音の最中に「コホン」と一つ軽く咳を紛らわすくらいで済めばよいが、それがきっかけとなって咳が止まらなくなるのは廻りに迷惑になるし、まるでウィルスを会場にまき散らすようで迷惑この上ない。簡単に咳が出来ない状況になればなるほど、普段なら気づかないぐらいの小さな喉の違和感が気になってしまうのが、人間の不条理なところである。


コンチェルトはソリストと聴衆の真剣勝負の場だとも云える。繊細なバイオリンやチェロのソロ演奏時に、大きな咳をするのは憚れるので、当日はのど飴と口を潤すペットペットボトル持参で開演を待つことにした。ウインナ・ワルツ「春の声」に続き、いよいよこの日2曲目のメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲が始まった。誰もが知るお馴染みの主題や第2主題の展開に続き、佳境、ソリストの技の見せ所でもあるカデンツァに演奏が入るのだが、場内が息をのんで新進のバイオリニストの技巧に聴き入るあたり、ふと我に返るとむずむずと喉がかゆくなり始めた。このかゆみ、繊細な見せ場の場面で起きがち、そして一旦意識すればするほど気になるものだ。さぁ困った、ここはペットボトルの水で喉をうるおすか、はたまたのど飴を取り出すかとも思うも、わりと長めのカデンツァが奏でられるなか、シーンと静まり返る客席とあってガサゴソと手許を確かめるのもちょっと気がひける。


暫くすると、ムズムズ感もそう大したことがなさそうで、第一楽章終了までは何とか堪えられそうだと思い直し、楽章の切れ目で大きなカラ咳をしてノドを鎮めようと方針を転換することにした。そうこうするうち第一楽章はエンディングを迎え、さあ咳を遠慮なく盛大に放とうと構えていると、なんとこのコンチェルトはそのまま第二楽章に突入していくではないか。今まで同じ曲を他のコンサートでも聞いたこともあったが、その時は喉の違和感もなかったから、切れ目など一切気に留めなかったのが不覚だった。さすがメンデルスゾーンが苦労して書き上げた協奏曲だけあって、この曲は随所に他とは違った工夫が凝らされており、第二楽章と第三楽章も途切れずに、三つの楽章はすべて連続して演奏される形式だったとは目からウロコ。ただ終わるかと思った第一楽章で指揮者が身体の動きを止めず、木管楽器がすぐさま次を始めるのを呆気に取られて見ているうちに、いつしか喉の不快感もすっかり忘れて、気が付けばゆったりとした抒情的な第二楽章のメロディーに没入していたのであった。冬場のクラシック音楽会はいろいろと気を遣うものだ。

2025年1月10日 (金)

PETER, PAUL & MARY(ピーター・ポール&マリー)ピーター・ヤーロウ氏逝去

フォークソンググループ PETER, PAUL & MARY(PPM)のピーター・ヤーロウ(PETER YARRAW)氏が1月7日ガンにより86歳でニューヨークで亡くなったことが報じられた。懐かしい名前を新聞で見て、家にあった古いPPMのCDアルバムを出して聴いてみることにした。PPMはピーター・ヤーロウとノエル・ポール・ストーキイー(NOEL PAUL STOOKEY)の2人の男性と女性のマリー・トラヴァース (MARY TRAVERS)の3人によって1961年に結成されたフォークグループで "PUFF"や "BLOWIN' IN THE WIND"、"500MILES"、天使のハンマー(IF I HAD A HAMMER)”など多くのフォークソングのヒット曲で知られてきたとおりである。私が彼らの音楽に初めて触れたのは中学2年生のとき、音楽好きな同級生たちが、学芸会の発表でギターを片手に”PUFF”などを披露してくれた時からである。耳に馴染みの良いメロディーと、歌詞カードさえあれば我々でもフォローできる分かり易い音楽が爾来好きになった。


ピーターはコーネル大学、ポールはミシガン州立大学出身のインテリであり、ベトナム戦争厭戦ムードが米国社会を覆っていた60年代当時、多くのフォークソング歌手がそうであったように、社会性に富んだアルバムを数多くリリースしていた。私は当時からどちらかと云えば右寄りの思想だったが、それは別として斬新で楽し気な響きにひかれ、彼らの音楽のメッセージ性は気にせずレコードやCDを聞いては一緒に口ずさんでいた。彼らは社会的な歌ばかりでなくペテロ・パウロ・マリアのグループ名が示すとおり、キリスト教に由来した歌や "THIS LAND IS YOUR LAND”のような故郷を讃える作品、子供向けの歌なども多数出しており、長い期間に亘ってギター2丁と3人の歌声だけで実に多彩な表現を奏でていた。一方でかの有名な"PUFF"では、「何かのメッセージがこの歌に込められているのでは?」との質問に、「ただ子供がPUFFという怪獣と遊んで大きくなったが大人になって別れただけ」と肩透かしの答えをしたように、分かり易いメロディラインとユーモア溢れる展開が多くの聴衆を楽しませてくれた。


1970年ごろPPMは一旦活動を中止するが、1978年に再開しており、私もシアトルに駐在していた1993年に、一度彼らのコンサートに出かけたことがあった。若い頃はキレイだなと思っていたマリーもその時には完全に「アメリカのおばさん」の体形になっていたのには驚いたが、街の中心のホールは満員盛況で賑わっていたことを思い出す。会場は私と同年配かやや年上の”良きアメリカ”を体現するような白人のカップルが多く、客席ではPPMの演ずる懐かしい歌に合わせ皆が一緒に歌詞を口ずさんでいたのが印象的だった。PPMもマリーが2009年に亡くなり、ピーターも世を去って、いまや残るはポール一人だけとなってしまった。ふと国内を見渡すと、ダークダックスも存命なのはいま一人、ボニージャックスは減員、デュークエイセスも高齢のため解散と、かつて一世を風靡した歌唱グループが次々と舞台から消えて寂しい限りだ。懐かしい人々が次々と鬼籍に入るのが齢をとるという事かと、コンサート会場で買ったPPMのTシャツを取り出してみては一人呟く。

 

1993年シアトルでのコンサートの際に購入したTシャツとCD
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2025年1月 8日 (水)

吉例「七草がゆ」と賀状や家族葬のこと

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妻が新春の吉例、七草がゆを昨日こしらえてくれた。例の”セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ”の七草である。七草がゆは歳の初めに粥とともに若菜を食べ一年の無病息災を祈る目的で、平安時代から定着した風習だそうで、お正月の飲み食いで疲れた胃腸の回復に、粥を食べてお腹を休める目的もあると言われている。春の七草や七草がゆについては、この時期に何度もこのブログで記してきたとおりなので、ちょっと検索してみると、2012年1月8日以来これまで4回アップしていることが分かった。初めて書いた2012年は、まだ毎日出社が必要なサラリーマン時代だったとは云え、一線を退き第2の職場で宴会が少なくなったことなどを記しており、次の2014年には会社に行く前に真冬でも朝30分ほど走っていたことに触れている。2022年にはオミクロン株のことを付記しているが、こうして同じ時期に過去のブログを読み返してみると当時の記憶が蘇り、それを辿りつつ新年に当たり心を新たにするようで面白い。


そういえば今年の正月は、「これをもって来年からは新年のご挨拶状を控えさせていただきます」という文面の賀状を結構受け取った。それも90歳を過ぎ字を書くのも覚束ないような年頃の人だけでなく、同期の友人や年下の60歳台の人達からもこういう賀状を何枚も貰ったのにはちょっと驚いた。賀状の交換は虚礼と云えばたしかに虚礼であり、何年も会っていないに関わらず「今年も宜しく」だとか「また会いましょう」など、とても本気とは思えぬ常套句を毎年繰り返すというのも考えてみれば変な話である。いまや本当に連絡をとろうと思えば、メールやLINEがすぐつながる時代なのに、正月だけ特別の遣り取りを続けるのもほとんど意味がない。ただ普段の生活では思い出さないような親戚や遠い知人から近況を添えた賀状を貰うと、「あの伯父さんも元気そう」「若い頃は苦労したようだがあいつも良かったなあ」などと、一瞬ではあるが過去の絆を思い出し、遠く離れてもお互いに完全に忘れているわけではないことを確認しあえる意味もある。そういう儀式は一年に一度くらいはあっても良いと私は思っている。


同じように最近は葬祭も簡素化されて、都会ではいわゆる「家族葬」が増え、友人はおろか親戚さえも知らぬ間に葬儀を執り行っているのが普通になってきた。高齢の親戚や友人の父母の身を密かに案じていると、旧年中に当人が亡くなったので来年の賀状は出しませんとの連絡葉書を受け取って驚くことがしばしばである。かつて会社員時代には、会社の仲間は勿論のこと、取引先の父君などが亡くなった際にも訃報が廻り、おっとり刀で通夜や告別式に駆け付けたから時代は変わったものだ。当時の携帯は国内でしか使えなかったから、海外出張から帰って成田空港で電源を入れた途端、「取引先の部長の父君が亡くなったので、その足で大阪の通夜に行けますか?」と会社から電話を受けたこともあった。そういう場に行けば、同業他社や業界関係者が多数集まっており、お清めの膳で一杯のみながら葬式外交や普段は交わせない会話も繰り広げられたのだった。葬儀は残された家族の為だけの儀式ではなく、故人に関わった関係者の区切りの場や儀礼の場でもある。時代の流れとは云え、賀状廃止や家族葬と聞くと、なんとなく寂しく感じる昨今である。

2024年10月18日 (金)

健康診断・右脚ブロック(続き)

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9月12日にこのブログ(健康診断・右脚ブロック)で記したように、この7月に受けた健康診断で「要精密検査」と云われた心電図は、9月の循環器科での診断では「正常範囲」という結果となった。ただし9月の受診時には血圧が高いので1ヶ月ほど自宅で朝・晩に測り、それを記録した「血圧手帳」を持参のうえ、心臓エコー検査を念のため受けて下さいと云われていた。こうして1ヶ月強、先日はこのエコー検査の為に記録済の血圧手帳を持って再び病院を訪問した。なにせ生来の気の弱さと医者嫌いのため、病院に行くだけで脈拍は80以上に上がり、上の血圧が180から190にもなる所謂「白衣恐怖症」の身である。9月に診察を受けた際にも、女性医師がパフパフと手動で空気を入れる従来の血圧計で測ると1回目は上が160、2回目150、下も100前後とあって、「家で朝・晩毎日血圧を測れ」との彼女の指示を無視するわけにもいかなくなった。


と云うわけでこの一か月強、朝・晩、自宅の血圧計を持ち出してはカフを腕に巻くのが日課であった。この間は10日間ほどクルーズ船の旅にも出たので、船には小型の簡易血圧計を持ち込んで毎日の船上での測定。一日のうちで最も血圧が高いと云われる朝は、起き抜けでまだ目が完全には覚めきらない状態で2回、夕方はアルコールが入ると血圧が下がるので、その直前の6時半頃に2回、毎日毎日血圧を測っては平均値を記入してきた。夕方の忙しい時には都合の良い数値を適当に書いてしまおうかとも思わないではなかったが、医師の指導に逆らうほどの勇気を持ちえないわが気の小ささに苦笑しつつ、冷えた缶ビールを目の前にして血圧計のスイッチを押し続けたのであった。


その結果は、朝が上140~150・下が90~100、夕方は上は120~130・下が80であったが、とにかく血圧は年がら年中変化して捉えどころがない所がくせ者である。前夜に酒を飲みアルコールがまだ体内に残っている朝や、その日仕事が忙しい事が見込まれる朝には確実に最高血圧は150を超える。逆に昼に水泳をした日は数時間たった夕方でも上が100くらいであり、いったい何の数字を手帳に記入したらよいのか混乱するほど変化が激しい日もある。私のように自宅にいる者ならまだしも、会社員ならオフィスの手許には血圧計がないし、会議や宴会もあるから、一体どうやって毎日測定して相当程度に正しい数値を出せるのか不思議なところではある。


などと1ヶ月以上それなりに苦労して記録した手帳を持参して、30分にも亘る心臓のエコー検査を済ませ循環器科の医師の2回目の診察となった。診察台にあるエコー検査の動画画像を見ながら先生は、「この心臓右側の動きがやや遅れ気味なのが右脚ブロックですが、これはまあ大丈夫でしょう。心臓の各弁もとてもよく動いていますし、隔壁も正常です」とのコメントである。血圧手帳を一瞥した彼女は、「この数値は薬を飲むかどうかのボーダーラインです。ただ運動を良くしているようなので、当面は塩分を控え気味するなど注意して生活して下さい」「ご存じかと思いますが、血圧が130台で降圧剤を処方する医師もいますが、私はなるべく薬を使わない考えです」とのことで、次のアポイントもなしの無罪放免ということになった。健康診断から3カ月以上に亘った「心電図要精密検査」騒動も、予想通り何事もなく終わりを告げ、これからは定時に血圧を測る作業から解放された。人騒がせな健康診断ではあったが、結果オーライでほっと一息の秋の空の下である。

2024年10月13日 (日)

カブリオレの屋根を開ける候

20241013bmw

昨日の都内の気温は最高で約25℃、湿度が50~60%とあって、やっと過ごしやすい気候になってきた。今日も25℃ほどの予想とのこと。7月初めから3ヶ月に亘る猛暑も去り、ほっと一息である。この気温や湿度は東京で云えばちょうど5月終わりから6月初め頃のそれとほぼ同温・同湿になるが、同じ気候なら、私は初夏の頃よりこの季節の方が好きである。なにより毎日の日課であるジョギング(最近はウォーキングの日もある)に出る時、「これからますます気温が高くなっていく」と先を見て憂鬱になるより、「毎日寒さに向かう」と考える方が遥かに心理的負担が軽い。秋の気配が濃くなるに連れ、夏と同じ力で走っていてもスピードは自然と速くなるし、汗をかく量が減って呼吸が楽になるからである。妻はだんだん明るくなる春~初夏にかけての気候が好きらしいが、私は町の木々が徐々に色づいて落ち葉が散る風情の方により趣きを感じるのだ。


という季節になり、我がカブリオレのルーフも3カ月ぶりにオープンで走れるようになってきた。いまや車齢16年のおばあちゃんグルマとなったが、このところBMW自慢のシルキー6(直列6気筒)エンジンの吹け上りがとても気持ちよい。決してとばしたりはしないのだが、都内の道路でも時速20キロから60キロくらいまでの加速は、ツインターボの効果もあってアクセルコントロールが楽しい。ところで、これに乗っていると新たな出会いがあるものだ。今朝はマンションのガレージでルーフを開け出発しようとスイッチをオンしたところ、すぐ脇のクルマに乗り込もうとしていた小学校低学年の男の子が、「あ、屋根があく」と興味深くこちらを見ているではないか。じっと凝視される手前、ニコニコと彼に笑顔を向ければ、若いお父さん、お母さんがクルマから降りて手を振って挨拶してくれる。こうなると彼らとは今後エレベーターで会っても話を交わすことになるだろう。住人同士、普段あまりコミュケーションをとる機会がないマンションでも、このようにクルマを媒介として顔見知りができることもある。


その後、ルーフを開けて一人皇居近くを流していると、すぐ後ろから新しいBMWセダン(320)がピタリとついてくるのに気が付いた。なにか文句でもあるのかと注意していると、赤信号で停止した私の真横の車線にそのBMWがピタリと停まり、同じような年齢のドライバーが窓を開けて話しかけてきた。どうやら「クルマの調子はどうですか?」と彼はしゃべっているらしい。「以前、同じクルマに乗っていたんだけど、ルーフの故障などしませんでした?」と語りかけてくるので、「一回調子が悪くなって部品を代えたらエラク高くて参りましたよ」と答えると、「私も同じで、それは保険で直しました」などと交差点での会話が弾む。彼は「今乗っているこのクルマはディーラーの代車で、BMWアルピナの納車待ちなんですよ」と、どうやらきわめて高価な新車を待つワクワク感をカブリオレ仲間に話したくてたまらないようだ。「それは素敵ですね。早く納車されると良いですね」と共感しつつ、「最近のBMWのキドニーグリルは大きくなりすぎですよね」などと短い信号待ちの時間でも話は弾む。そうこうするうちに信号が変わって発進したが、その後はお茶の水付近まで2キロほど並走し、最後はお互いに手を振りつつ道を右と左に分かれた。都心の道路で見ず知らず同士でも、こんな出会いがあるのもカブリオレならではである。別れ際、彼が放った「オープンエアドライブ、楽しんで下さいね!」の挨拶が心地良かった。

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