カテゴリー「旅行・地域」の記事

2025年1月 4日 (土)

クラブツーリズム 年末年始は名湯で過ごす・登別温泉『登別グランドホテル』2連泊3日間の旅

20250104_20250104132201
噴煙を上げる登別温泉・地獄谷


2025年の元旦は北海道、登別温泉の宿で迎えた。日ごろ忙しくこの時期しかまとまって休めない義妹に合わせて、クラブツーリズム主催の 「年末年始は名湯で優雅に過ごす 白濁の名湯・登別温泉 『5つ星の宿』に宿泊2連泊 3日間」の団体旅行に参加することにしたものである。一昨年正月の竜飛岬での年越しに続いて ”寒い時には寒さを存分に味わう”体験である。今回は往復新幹線利用、2泊3日で札幌、小樽に函館を廻る駆け足のツアーで、例によって列車やバスの集合時間さえ守れば、あとは何も考えずに個人ではとても回りきれないテンコ盛りスケジュールを満喫できるのできわめてラクチンな正月だ。今回の参加者はほぼ定員一杯の40数名弱の盛況で、参加者も老若男女さまざまであった。かつては前日の午後に出発する上野発の列車に乗り、青森で青函連絡船に乗り継ぎ、翌日の早暁ようやく上陸した北海道だったが、今や航空機を使わずとも、最速の新幹線「はやぶさ」で、東京から函館まで4時間弱で到達できる時代となった。北海道旅行もまことに手軽になったものである。


我々の宿は硫黄泉の「5つ星」登別グランドホテルであった。ここは登別温泉でも屈指の老舗ホテルであり、偶然にも高校の修学旅行で宿泊して以来、50数年ぶりの来館となった。外は雪のちらつく中、ホテルの自慢でどこか見覚えのあるドーム型のローマ風大浴場に浸かっていると、大昔の様々な思い出が蘇ってきた。当時の東北や北海道はまだ温泉と云えば混浴スタイルが基本で、登別グランドホテルも脱衣所こそ男女別だったが、それぞれのドアから入った大浴場は共用の混浴であった。外国からの観光客など極めて少なかった時代だが、たまたま宿泊の白人女性が、入口を開けて風呂場に踏み入れるや否や男性がいるのに腰を抜かさんばかりに驚いて、クルッと踵を返し出て行ったことを思い出した。男子高校生には衝撃的な場面だったが、あれはなにしろ50数年前、それも湯気の向こうの朧げな光景である。事の真偽と我が記憶の整合性を確かめようとフロントに「風呂は当時と構造が同じ?」「かつては混浴だった?」と聞いたら、「窓廻りなどはやや変わっていますが、基本的に大浴場は昔のままです」「その頃は混浴だったと聞いています」との答えである。そうか、あれは夢や幻でなく、正にこの風呂で実際に目にした刺激的な出来事だったのだと、記憶を新たにした正月である。


ツアー中は、同じバス会社の運転手やバスガイドと旅を共にするのが、昔と変わらぬ北海道のバス旅である。今回は函館のバス会社の気さくなおばちゃん風のガイドで、彼女の井戸端会議的な車窓案内が3日間車内を盛り上げてくれた。目的地に急ぐレンタカーと違って、この地の野菜の値段や美味しいラーメン屋などローカルな話題をふんだんに提供してくれるのが観光バスの良さ。雪道をものともしない運転手もプロの技である。そういえば修学旅行の時、道内を6泊7日かけて巡る車中で、17歳~18歳の生意気盛りの男子校生徒の案内をしてくれたバスガイドは当時21歳くらいのまだ純朴な道産子の女性だった。その頃に流行り始めた「知床旅情」などを一緒に歌いながら、若い女性と血気盛んな男子高校生が1週間も空間を共にすればお互い親近感が湧くのも当然である。たまたま我々の前に彼女が案内したのは、おしゃれで有名な都内ミッション系の某私立共学高校で、「なに、あの学校は?!! 車内で男女がいちゃいちゃしてホントに気持ちが悪かったです」「男子校の方がなんぼいいか」とのガイド嬢の言葉に「そうだ、そうだ」と、すっかり意気投合したものだった。中には帰京してから彼女と文通をした者や、旅行で上京した彼女を都内見学に連れて行った友人などもいたものだった。思いがけずに50数年ぶりに修学旅行の足跡を辿ることになり、記憶の底にあった若い頃の出来事を思い出しながら、その後の永年に亘る我が来し方にまで思いを巡らした正月だった。

 

函館五稜郭タワーから五稜郭を臨む
20250104

2024年12月22日 (日)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(4)玄武洞、地図アプリ

20241222
5つある玄武洞岩盤のうち「玄武洞」

「はなあかり」を城崎温泉で下車、豊岡で泊まった翌日は、夕方の(京都)嵯峨トロッコ列車の乗車券を予約してあったので、半日の時間の余裕ができた。妻は豊岡まで行くのなら玄武洞を見学したいと言っていたが、私は高校時代に習った地学の教師がひどく変わった人物で、岩石やら柱状節理と聞くと当時の不愉快なことを思い出すこともあり興味が湧かない。ましてや玄武洞は豊岡の街から6キロも離れており、バスなどの公共交通機関がなく、アクセスするにはレンタカーかタクシーを使うしかない行きづらい場所にある。だが、ここまで来て国の指定天然記念物でユネスコ・ジオパークにも指定された玄武洞を見ないのも勿体ないかと、”話のタネ”と思って(しぶしぶ)見学することを決めたのである。現地で聞けばタクシーならJR豊岡駅より玄武洞まで片道で3000円、往復6000円との事で、これはレンタカーの料金とほぼ同じだ。レンタカーならば京都に向かう午後の特急の時間に合わせ足の心配もぐっと減るが、クルマを借りたり返したりする手続きや給油の面倒を考えれば、手っ取り早くタクシーで往復する方が簡単そうだ。玄武洞にはタクシー会社への直通電話も設置されていることもわかり、帰路の配車も容易だったので結局タクシーを利用することとした。


玄武洞は円山川沿いに聳え立つ5つの巨大な絶壁で、そこではきれいに発達した柱状節理の岩盤をみることができる。なんでもこの地帯は火山由来の玄武岩で構成されており、熱い溶岩が地表に出て冷却される際に、収縮するに従い外側から規則性のある割れ目が出来、これが柱状節理と呼ばれる連続した石の柱になったとのことである。岩盤に隣接して建てられた玄武洞ミュージアムでは、玄武岩という岩石の日本名はここ玄武洞から名づけられたこと、玄武岩はマグマからできた地球表面でもっとも多い岩石で海洋底は玄武岩が優勢であること、玄武岩の磁性を測定すると地磁気の変化がわかる事などを教えてくれる。1926年に地球磁場の反転を世界で初めて唱えたのも、この玄武洞などで磁性が現在と逆向きであることを見いだした京都大学の松山基範博士だったことを館内の展示で知ったが、今ならノーベル賞を超えてもおかしくない大発見がここを舞台にして日本人によって為されたとは驚きの事実であった。地磁気の逆転によって地球環境は大きな影響を受けることは云うまでもないが、地球科学の発展に日本人が多大な貢献をしたことを知り、地学に対するかつてのネガティブなイメージが少しは拭われたような気がした。


その後、豊岡にとって返し、特急「きのさき」で京都に向かったが、久しぶりの山陰本線列車に乗車とあって飽くことなく車窓の景色を楽しむことができた。最近は便利になって、スマホの地図アプリで列車がどこを走っているのか瞬時にわかるので、バッテリーが減るのも気にせずにスマホの画面と沿線の景色を見比べるのが旅の楽しみである。景色だけでなく乗っている車両がどういう形式なのか、停車する町の人口や歴史なども即座に検索できるとは、凄い世の中になったものだ。手元のスマホのマップを見ていると「きのさき」は豊岡を出てから円山川水系沿いに川を上り詰め、和田山を経由し分水嶺を超えた後は、由良川水系の支流を下り福知山に至ることが分かった。ここからは由良川の別の水路沿いに上流に向かい、再び日本海と太平洋を隔てる分水嶺を経て、大阪湾に注ぐ桂川水系に分け入り京都を目指す行路を辿っている。山陰本線に限らず、東北本線や中央本線など古くに敷かれた鉄路は、山を越えるのにほとんどが川沿いに僅かずつ標高を稼ぎ、サミットをなるべく短い隧道や切通しで超え、別の水路に至り町へ下るケースが多いようだ。重機械のない時代に山地を越えて鉄道を敷設することが如何に難事業であったのか、先人の苦労を偲ぶことが出来るのも、手許に地図があってならではの事である。列車に乗るとすぐブラインドを下げたり、スマホでも動画を見たりゲームをしている人が多いが、新しいツールを使って歴史や地理の旅を楽しむのも新たな喜びである。(このシリーズ完)

JR西日本289系 特急電車「きのさき」
20241222_20241222140501

2024年12月19日 (木)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(3) 『嵯峨野トロッコ列車』乗車

20241219
DE10の次の車両は吹き曝しのリッチ号5号車

豊岡で一泊した翌日は午前中にユネスコ・ジオパークに指定された玄武洞を見学し、その後の帰路に山陰本線で京都方面まで出て、嵯峨野観光鉄道トロッコ列車に乗車することにした。妻があれも見たい、ここも行きたいと考えに考えをこらした末の旅程だが、旅行会社が企画する団体旅行も顔負けの諸行事テンコ盛のスケジュールになってしまった。同じ値段ならだいたい女性の方が欲張りな内容を求めがちなのが世の常と云えよう。この時期は嵯峨野の紅葉も盛りを過ぎているが、夕方以降に沿線のライトアップ&イルミネーションを楽しむ 「光の幻想列車」とする便が運転されるので、これに乗車するのである。ということで豊岡から乗車した特急「きのさき」を亀岡駅で降りて普通列車に乗り換え、山陰本線の嵯峨嵐山駅で下車、ここからJR線に隣接するトロッコ嵯峨駅に向かった。この季節に限らずトロッコ列車はどの便も満員とあって、あらかじめトロッコ嵯峨駅/トロッコ亀岡駅間の往復列車の乗車券は一か月前の発売開始日にオンライン予約済である。


嵯峨野トロッコ列車は、トロッコ嵯峨駅とトロッコ亀岡駅の7.3キロを走り1991年より運転が行われている。この区間はもともとJR山陰本線の線路であったが、同線が複線電化工事で新線に付け替えられることに伴い、旧来の施設を利用して新たに観光列車として営業を開始したものである。このトロッコ列車はJR西日本より譲り受けたDE10型ディーゼル機関車が動力源となり5両のトロッコ客車を牽引・推進する運転で、(機関車の付け替えはなく)亀岡方の1号客車には総括制御の運転席が設けられている。また嵯峨方の機関車隣の5号車は窓ガラスのない 「ザ・リッチ」と呼ばれるいかにもトロッコらしい車両になっている。路線の途中にはトロッコ嵐山とトロッコ保津峡の2駅があり、保津川の渓谷美や名残りの紅葉をめでながら、トロッコ列車は旧山陰本線の古い橋梁や隧道を片道25分(折り返しの往復で50分)ほどかけて進んで行く。線路は峡谷の左岸、右岸の両方を走るので、全車指定席のどちらのサイドに座っても不公平感なく景色を眺められる。ただ行きの亀岡まではガラスの風防がある2号に乗車したが、帰りは「リッチ」号の5号車にわざわざ席を予約したところ、外は底冷えの空気吹きさらしとあって寒いことこの上なかった。


これらの客車は車体長14米の元無蓋車のトキ25000形を改造した車両で、乗り心地はお世辞にも良いとは言えない。一応、2軸ボギー台車を履いてはいるものの、本来は石炭や原木を積んで走っていた貨車なので、揺れは直接身体に伝わってくるし、自動連結器の遊びも大きく、起動・制動の度にガッチャンと騒音や振動が激しいのが気になる。もちろん全車両とも冷暖房がなく前世紀期の遺物的な乗り物だが、これこそが「トロッコ列車」だ、と割り切れば揺れる車内も楽しいものとなる。ただ驚いたのは、基点のトロッコ嵯峨駅を出た直後に、現在の山陰本線の下り線路を900米ほどトロッコ列車が走ること。全区間単線で1列車しか運行されないため、トロッコ鉄道としての閉塞の問題はないとしても、JR西日本の近畿アーバンネットワークの一部を、この列車が往復とも併用するのは大丈夫なのだろうかとふと心配になる。ひんぱんに列車が往来する幹線の本線線路を、トロッコ列車がのろのろ通過する状況にやや違和感を覚えぬでもないが、この点はJR西日本の総合指令所監視の下、ATSが安全を担保しているのであろう。紅葉の美しさや夕方のイルミネーションには心を打たれるものの、妙なことが気になるのが鉄オタのオタクたる所以である。

イルミネーションに映える紅葉と渓谷
20241219_20241219141902 20241219_20241219141901

2024年12月17日 (火)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(2) 『はなあかり』乗車

20241217-1      20241217_20241217152801
半個室の1号車車内、右壁に地元工藝品のショーケース       若狭カレイなどの下り列車の若狭町家弁当

さて敦賀で前泊し、朝は有名な気比神社にお参りしてから、念願の新型車両 「はなあかり」乗車である。「はなあかり」が運転される敦賀・城崎温泉間は、敦賀‐東舞鶴間がJR小浜線(84.3キロ)、東舞鶴‐西舞鶴間がJR舞鶴線(6.9キロ)、西舞鶴‐宮津間が京丹後鉄道の宮舞線(24.7キロ)、宮津‐豊岡間は京丹後鉄道の宮豊線(58.9キロ)、豊岡から終点の城崎温泉(9.6キロ)がJR山陰本線からなり合計184.4キロである。土曜日の午前10時40分に敦賀駅を発車する下りの「はなあかり」は、途中で美浜、小浜、東舞鶴、宮津などに停車し、全区間を4時間59分かけてのんびりと走る。「はなあかり」の列車名は 「地域に光を当て、地域が華やぐイメージ」 「西日本の様々な地域のとっておきに『あかりを灯す』列車であること、地域を明るくする列車であることを表現」したものだとJR西日本は発表している。「季節ごとに、運行エリアを変えて、お客様と各地域を結び、地域のとっておきを発信する」(同発表)列車でJR西日本管内の各路線を走るが、その運行開始第一弾として3月16日に延伸開業したばかりの北陸新幹線に接続する若狭・京都府北部をフィーチャーした観光列車として運転が企画されたそうだ。


「はなあかり」の車両は、JR西日本が山陰方面や陰陽連絡に使用するキハ189系特急用車両を改造したもので、3両編成すべてグリーン車(キロ)である。このうち1号車はスーペリアグリーン車と称する半個室型の車両、2号車は特産品の販売やイベントにも使用できるフリースペースのある一人用座席車と一部ボックス席、3号車が一人用座席と一部ボックス席の混合配置の車両となっている。乗車した1号車は凝った地元工芸品を飾った半個室車両(定員10区画x2の20名)であり、2号車(定員16名)や3号車(定員18名)の一人用席は、かつて151系「こだま」型に連結されていたパーラーカー(クロ151)の一人用シートをモダンにしたようなデザインだ。パーラーカーと云えば昭和30年代、当時の大企業の役員や政治家などがふんぞり返ってタバコをくゆらすかの雰囲気だったが、いま、それよりも豪華な空間で沿線の名産品を集めた弁当 (事前予約でオーダー、下り列車は定価3500円、上り列車は3900円)を楽しみつつ移り変わる車窓の景色を眺められるとは何とも良い時代になったものだ。タネ車のキハ189系は性能的には130キロ運転も可能だそうだが、乗車してみるとあまり路盤も強化されていない若狭湾沿いローカル線を、エンジン音も高らかにゴトン、ゴトンとジョイントを刻んでゆっくり走るのは趣きがあって良いものだった。


この日は一部みぞれ模様の雨か雪、時折雲間から陽がのぞくという冬空で、その日本海側特有の鈍色の空の下を列車は進んだ。妻は父方の郷里が舞鶴なので幼い頃に何度か沿線を訪ねて来たことがあり、とても郷愁を覚えるそうだが、ふつう関東に住んでいる者には、天橋立以外はあまり縁のないエリアである。と云う事で美浜では原発はあの山の向こうかと想像し、三方五湖の一画の久々子湖を初めて望み、二度目の由良川橋梁を渡るなど、あちこち車窓に目を凝らしているとあっという間に時が過ぎてゆく。小浜や東舞鶴など主な駅では 「はなあかり」は10分以上停車して、ホームで地元特産品の販売に接することができるし、改札口を出て駅前で土地の空気を吸うことも可能だ。運転士も気軽に乗客の応対をしてくれるので、電化区間の小浜線でホームに降りた運転士に 「普段は電車を運転するのですか?気動車ですか?」と問えば 「両方です」との答えが返ってきた。天橋立をバックに宮津湾に浮かんだ大型船からは、海外から運んできたニッケル鉱石を荷揚げするさまなども見え、車窓は「汽車ポッポ」ではないが、「♪ 廻る景色の面白さ ♪」である。目的地に早く到達する旅でなし、美味しいものを食べ呑みながら景色を愛でつつ、「♪ 見とれてそれと知らぬ間に早くも過ぎる幾十里 ♪」の世界に浸るうちに、「はなあかり」は城崎温泉駅に到着してあっという間に5時間の旅は終了した。

 

宮津湾ではニッケル鉱石の荷揚げ風景も遠望できた         2号車はクロ151ばりの一人用座席
20241217_20241217152802     202412173

2024年12月16日 (月)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(1) 一筆書き切符

20241217_20241217123301
下が東京都区内発→東京都区内行き乗車券 経路が印刷(行程が多すぎて京都・新幹線は手書き)された一筆書き切符

『11年ぶりの10時打ち 観光列車「はなあかり」』(11月17日)でゲットしたプラチナチケットの旅に妻と二人で行ってきた。「はなあかり」は10月4日から12月22日までの週末限定で、北陸新幹線の終点・敦賀駅とJR小浜線、京都丹後鉄道、JR山陰本線経由で城崎温泉駅までを結ぶ観光列車である(土曜日は敦賀→城崎、日曜日が城崎→敦賀方向で運転)。オールグリーン車からなる3両編成気動車のうち、1号車はスーペリアグリーン車とする半個室風の特別車両で、今回はこの1号車が予約ができたために、東京を出発する前から乗車への期待は盛り上がる一方であった。この旅は、まず今年開通した北陸新幹線の敦賀駅まで金曜日の夕方に行って敦賀で一泊、翌土曜日に下りの「はなあかり」で終点の城崎温泉まで乗車、豊岡に戻り宿泊した後、日曜日朝に天然記念物でユネスコ世界ジオパークである玄武洞を見学し、帰りは嵯峨野トロッコ鉄道で紅葉も体験、京都から東海道新幹線で帰って来るというクラツーも顔負けの欲張りスケジュールだ。


東京から北陸新幹線で敦賀まで行き、若狭湾沿いに地方交通線や第三セクター線を乗り継ぎ、山陰本線経由で京都に出て、最後は東海道新幹線で東京に戻る旅となれば、いわゆる「一筆書き」の乗車券を発行してもらうのがお得である。「一筆書き」とはJR運賃の遠距離逓減制を利用して、乗車駅から複数の駅を経由して、同じ経路を決して二度たどらず(あるいは同じ経路を往復せず)一筆書きする様に乗車駅へ戻って来る経路で購入する切符のことを云い、使い方によってはとても経済的だが、きれいに一筆の行路を辿らねばならないのがミソ。この切符では同じ区間を重複することは「一筆」にならないので、行路をどう決めるかが難しいところである。今回の旅程では、東京都区内から豊岡まで往路と復路の切符を別々に買うより、都内発着で豊岡を最遠地とし往路は北陸、復路は東海道経由とした一筆書き切符の方が、乗車運賃が3千円ほど安くなることが時刻表と首っ引きの計算で分かった。「大人の休日倶楽部」の3割引き運賃の他に、「一筆書き」だけでも夫婦2人で運賃が6千円もセーブできるなら、これを利用しなければ損というものだ。


ところが今回の「一筆書き」には一か所難所があった。下り列車の「はなあかり」は最後の区間である山陰本線に豊岡から乗り入れるが、その豊岡では降車の客扱いがなく乗客は全員10キロほど北にある終点の城崎温泉駅まで連れていかれる。終点で「はなあかり」を下車後に南に位置する京都方面に向かう予定の我々は、この場合、城崎‐豊岡間の山陰本線は同じ区間を2度通ることになり、これでは一筆書きでなくなり乗車券が無効になってしまう。この事態を防ぐために、終点の城崎温泉駅で一旦改札を出て、豊岡-城崎温泉間の運賃200円を乗り越し精算し、改めて城崎温泉からその日の宿がある豊岡駅行の200円の切符を買うこととした。「一筆書き」切符はこうした行路上の制約が多いが、もう一つ問題点は、経由地が多いため最近増えている駅の自動改札機が対応しない場合があることだ。自動改札機は、入場記録や出場記録の整合性が取れていないとその後の駅でエラーになり「係員に切符を見せるよう」促されるし、そもそも地方では自動改札機が設置されていない駅も多い。今回は途中から改札口(新幹線改札を含む)を通るたびに、どこから来てどこへ行くのか、一々切符を見せて駅員に説明する手間が必要であった。安く旅を仕立てるのも楽ではないが、どの駅でも有人改札口で説明をすると気持ちよく通してくれるばかりか、「遠路お疲れ様です」と声をかけてくれる駅員もおり、旅の風情も一段と増したのだった。

20241217
緑→赤→青の一筆書き行路。豊岡-城崎間の往復(400円)は別料金。

2024年12月 5日 (木)

石山寺・平等院・近江路

20241205
瀬田の唐橋

仕事人生も終わり、暇になった友人たちから様々なお誘いが来て忙しい。先の週末は、この春に滋賀県の大津に移住した小・中学時代の同級生の家を、昔からの友人と共に訪れてきた。絶好の秋晴れに恵まれ、テレビの大河ドラマ「光る君へ」で、益々人気となっている石山寺や宇治の平等院を友人の案内で参拝し、今が盛りの紅葉に映える名所巡りを楽しむことができた。いま京都市内は外国人観光客でごった返しており、四条通りや有名観光地周辺では歩道も歩けないほどだが、さすがに石山や宇治まで足を伸ばせば、外国人が押し寄せるというほどでもなく、適度に賑やかな風情だったのがとても良かった。思い返せば今からちょうど60年前、父の転勤で神戸に住んでいた頃にこの2つの古刹を訪れたことがあったが、記憶に残っている当時の情景よりすべてが整備されキレイになったようである。つくづく日本は豊かな良い国だと感じた旅であった。


大津と云えば、東京に住む人間としては、こんなチャンスでもなければゆっくり滞在する土地でもない。東海道新幹線に乗れば「まもなく京都です」の車内放送で、周囲の乗客が慌ただしく降車準備を始めるのが大津の付近だし、上りの新幹線列車では座席を確認したり荷物を収納したりと落ち着かないうちに瀬田の唐橋を車窓にちらっと眺めつつ通過、と云うことで滋賀県の県庁所在地にも関わらずここはひどく印象が薄い場所であった。しかし実際に来て今回短時間ながら琵琶湖の遊覧船に乗る機会を得ると、大津や滋賀県は歴史上とても重要な場所だったことを改めて知ることになった。滋賀(近江)は東から鈴鹿山脈を越えて琵琶湖に至る東海道、長野や岐阜から内陸を通って来る中山道、日本海側各地を結ぶ北陸道などの結節の地であり、なによりかつては琵琶湖舟運の拠点が大津であった。この辺りは昔から交通の要衝であったのだ。


上代から日本は、大陸や朝鮮半島との交易で栄えた日本海側が物流のメインルートであったから、各地から船で運ばれた物資は敦賀や小浜で陸揚げされ、琵琶湖の舟運に載せ替えられて大津や堅田(大津市)まで運ばれていたと云う。大津からは陸路で大坂まで運ばれた物資もあったが、川船を使って瀬田川(淀川)を下る物流もあり、さらに大坂の河口からは木津川、大和川の水路を利用して積み荷が奈良盆地まで上ることができたそうだ。大津は往時は関西物流の一大拠点で、それが大津(大きな湊)と呼ばれた所以なのであろう。奈良遷都(710年)の前、大津に国の都が置かれたのが667年というのも、この地が当時の先進の地であり、人の交流やモノの輸送で国を統轄するのにふさわしい場所であったと云うことに違いない。時代が下ればこの要衝の地で近江商人が生まれ、今もその末裔が伊藤忠商事や西武鉄道などとなり日本経済を牽引しているのである。大津や滋賀(近江)の歴史が我が国の発展に大きく寄与したと分かると、毎度新幹線で通過するだけでは勿体ない気がしてきた。次は近江電鉄に乗って、ゆっくりと近江盆地を訪ね歩いてみたいと思っている。SEEING IS BELIEVING である。

20241205_20241205122601
紅葉の石山寺参道

20241205_20241205122602
宇治平等院

2024年7月14日 (日)

播州赤穂 訪問

20240714_20240714152701
赤穂城 本丸への城門

20240714
当時の建物が現存する大石邸長屋門


忠臣蔵に興味を持つようになったのは、子供のころ(昭和39年)にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」を見てからだ。長谷川一夫演じる大石内蔵助の「 おのおのがた、討ち入りでござる 」という名セリフ、滝沢修のなんとも憎々しい吉良上野介、宇野重吉演ずる蜘蛛の甚十郎の暗躍などを今でもよく覚えている。当時さっそく大佛次郎の原作「赤穂浪士」の文庫本を買って読んだし、その後も事あるごとに忠臣蔵ゆかりの地を訪ねるのが好きだった。本所松坂町の吉良邸「江戸散策その4(2008年11月16日)」や新橋の浅野内匠頭の切腹終焉の地「12月14日 赤穂浪士の討ち入り(2018年12月14日)」、高田馬場の堀部安兵衛の決闘「高田馬場の決闘(2020年6月22日)」の場所を訪ねたことは過去のブログにアップした通りで、その他にも品川の泉岳寺にある四十七士の墓にお参りしたこともある。三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜・俵星玄蕃」は全曲暗記しており、ドライブ中に渋滞にはまると一人クルマの中でハンドルを握りつ 「♪ 槍は錆びてもこの名は錆びぬ~♯」と唸ったりする。


赤穂浪士たちの何が、日本人の心にこれほど刺さるのだろうか。誰もが知っているとおり、元禄14年(1701年)、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家で監督役であった吉良上野介に切りかかる刃傷(傷害)事件を起こし、ために幕府は直ちに内匠頭に切腹を命じ、浅野家は取りつぶしの処分を下される。一方的な幕府の裁定に納得できぬ赤穂藩の家臣たちは浪人となり、復讐のために雌伏の時を過ごすこと一年有余、ついに総大将の大石内蔵助を筆頭に47人の浪士(浪人)が吉良邸に討ち入りし憎き吉良の首を取り、亡き主君の本懐を遂げるドラマが「忠臣蔵」であり「赤穂浪士」である。今なら狂信的なテロ集団の組織的犯罪とでも云われる行為だが、公儀(幕府の法律)に反してまでも、忠義(主君や国家に対してまごころを尽くして仕えること=広辞苑)に尽くすところが、深く日本人の琴線に触れるのだろう。「俵星玄蕃」で「命惜しむな名をこそ惜しめ」とうたわれたように、いつの時代も赤穂浪士の志が軽佻浮薄の世を憂う人々に持て囃されるのである。(俵星玄蕃の話は後世に作られたものであるが・・・)


と云っても東京ではこれほど忠臣蔵ゆかりの地に詣でたにも関わらず、肝心な赤穂浪士のふるさと、播州赤穂の地はなかなか訪問する機会がなかった。なにせ東京から赤穂に行くには、新幹線なら「こだま」か一部の「ひかり」しか停車しない兵庫県の相生から、単線の赤穂線に乗り換えるしかなく、その赤穂線は昼間の時間帯には一時間に一本の運転頻度とあって、ちょっと寄ってみようかというわけには行かなかった。しかしいつまで待っていても、本当に行くには自ら行動を起こすしかチャンスは廻ってこない。シニア世代は、時間ならたっぷりあるのである。そう思っていたらたまたま先週末、海運関係の友人たちとしまなみ海道の(伊予)大島にある千年松の地に集まり気勢を上げる恒例の宴会に参加する機会があり、それなら往路に一日余分に日程をとっても念願の赤穂の町に寄り道しようと思いたった。


朝9時過ぎに播州赤穂駅に降り立てば、梅雨時期に関わらず曇り空から晴れ間がのぞき、暑さも感じぬそよ風で、なにやら赤穂義士たちに天から歓迎された気がする。駅からほど近く、ぶらぶらと歩ける範囲に浅野家や義士ゆかりの花岳寺、きれいに整備された赤穂城跡、大石内蔵助を祭った大石神社などが点在して、市内をゆっくり散策することができる。赤穂市立歴史博物館では、この町の上水道が江戸初期に開通し江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水」と呼ばれたこと、入浜塩田による製塩ではこの地がパイオニアであり、良質の塩を上方や江戸に送り出したことなど郷土の誇りが展示されていた。そう云えば吉良上野介の領地である三河でも製塩が行われていたので、塩の生産に関するトラブルで浅野内匠頭には吉良に遺恨があったという説もある。かつてドリフターズの志村扮する吉良が「 この赤穂の田舎侍めが・・・・」と加藤茶扮する浅野内匠頭をさんざん馬鹿にして、それがもとで「 おのれ吉良殿 !!」と加藤が刀を抜いて刃傷沙汰になるコントがあったが、「赤穂五万五千石」は決して田舎大名などではなく、産業を奨励した立派な殿様であり、それが赤穂浪士の忠君に結び着いたであろうと推測できた。しかしここまで来ると、さすがにインバウンドの外国人がほとんど見られないのが良い。忠義などはシナ人や朝鮮人には理解不能であろう。やはり忠臣蔵は日本人の心のふるさとである。

 

製塩の終わりの過程 石釜模型(赤穂市立歴史博物館)
20240712

2024年5月22日 (水)

「海里」(上り)乗車(酒田・海里の旅③)

20240522
上り「海里」のイタリアン弁当(手前)とドルチェ(奥)、イタリアンのボリュームはこれだけ?


酒田の町の探訪を終え、新潟までの帰路は白新線経由の羽越本線「のってたのしい」観光列車「海里」乗車である。昨年4月に新潟発 酒田行の「海里」下り列車に乗車した際(「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅 2023年4月3日)は食事とドリンクの付いた旅行商品用の車両である4号車を利用したので、今回も同じく4号車に乗車することにした。その時は新潟の有名料亭の弁当を車内で味わったが、逆ルートでは沿線の鶴岡のイタリアン弁当とドルチェが出るとのことで、どう味やサービスが変わるのか違いをみるのも楽しみである。新潟からやって来て午後1時半に到着した「海里」専用ハイブリッド気動車HBE300系は、折り返し午後3時3分に酒田駅を出発して上り列車になる。乗車すると早速、4号車の車内に配置された2人の専任サービス掛の女性が飲み物の注文にやって来た。彼女たちはJR東日本関連会社から派遣され、週末に運転される「海里」に乗車しない日は、新幹線の車内販売も手掛けているそうだ。車内を見渡せば、我々夫婦の他には個人手配らしき壮年カップルと、その他6人~7人の団体旅行客が1組だけと余裕がある。以前は満席だったので、上りと下りで乗車率にばらつきがあるのか尋ねたところ「その時の状況によってまちまちです」との笑顔の答えだった。


我々は、まず選べるウェルカムドリンクで庄内地方産の地ビール「月山」を注文したが(下りはエチゴビールであった)、この時間の列車で嬉しいのはアルコールが心置きなく呑めること。新潟駅を朝10時過ぎに出る下り列車では、朝っぱらから車内でガンガン呑むのも、と周囲の目を気にする私にとってはアルコールの追加連続にちょっと気がひけたものだ。酔って他人に迷惑をかける訳ではないが、酒飲みの心境としては近くに同輩がいて、皆が楽しそうに呑んでいればこちらも杯が進むのである。この日は夕方とあって周りも呑んでいるし、一日かけてけっこう坂の多い酒田の町を自転車で走り回った身である。早速出されたビールは五臓六腑に染み渡り、やはり酒は体を動かした後に限ると、特にウマい1本目のビールはあっという間に空になった。お待ちかねのイタリアンとドルチェは、どちらも味は良かったが、イタリアンの方は「本当にこれだけ?」という少なさであった。時間的に昼食に遅すぎ、夕食には早過ぎで中途半端だから致し方ないし、腹が減っているなら売店のある3号車で追加の食べ物を買っても良し、途中停車駅では改札外に出られるので外から調達も可なのだが、楽しみにしていたメシが腹の足しにほど遠いのは予想外だった。ということで、前の晩に買った乾き物の残りを取り出し、追加のビールやワイン(ともに有料)を楽しみながらの乗車となった。


午前と較べてこちらが断然良いと思ったのが、日本海の景色であった。この日は雲一つない好天とあって、海岸沿いに走る羽越本線からは、水平線の彼方に傾く太陽と海岸べりの景勝が見えて乗客の目を楽しませてくれる。陽光が海面にキラキラと反射する光景は午前中の便では見られないメリットで、列車も見どころではかなり速度を落として走る。「笹川流れ」で有名な桑川駅では30分ほど休憩があって、海岸に出て周囲の奇岩や沖に浮かぶ粟島の景色をゆっくり見ることもできるのが、この臨時快速列車が「観光列車」である所以。桑川駅では運転士さん自らホームで記念撮影のシャッターを押すサービスをしてくれるので、ついでに「ハイブリッドのこの列車を運転する感覚は気動車ですか?電車ですか?」と質問したところ、「電車です。僕の免許も気動車ではなく電車です。」との答えが返ってくる。普通の列車ではまず味わえない乗務員との会話も、「のってたのしい」列車ならではである。4号車は新潟に向かう先頭車とあって、酔眼をこすりつつ大きく開けた前面展望を楽しんでいるうち、あっという間に3時間半の旅は終わり新潟駅に到着した。

 

車窓から見る夕陽に映える日本海と遠くに浮かぶ粟島
20240522_20240522223401

2024年5月20日 (月)

酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)

20240520_20240520121301
日和山公園にある千石船(北前船)の1/2のレプリカ

20240520_20240520121201
北前船の東西航路を開発した河村瑞賢像(日和山公園)

酒田は江戸から明治時代の前・中期まで沿岸航路で活躍した北前船の発航の地である。貨物の輸送と云えば、かつて明治の後期にかけて鉄道が全国に開通するまでは、もっぱら沿岸航法による海運がその手段であった。寛文時代、江戸幕府は天領であった出羽(秋田・山形)の米を大坂(大阪)まで大量輸送すると共に、国内の物流網を整備するため、豪商かつ政商で公共工事に長けた河村瑞賢に沿岸航路の整備を命じている。これに応じて瑞賢は酒田を起点に1671年、津軽海峡から太平洋沿岸諸港を経由して江戸に至る東回り航路、1672年に酒田から日本海諸港を経由して関門海峡を越え、瀬戸内海を通って大坂、さらには江戸に至る西回り航路を開発した。彼は綿密な気象・海象の調査を実施し、酒田から大阪や江戸までの航路や水路を開いたばかりでなく、徴税の免除や水先船の設置など各種制度の改廃や整備を行い、さらに船体や船乗りの状態をチェックする番屋を主な港に設けて、安全かつ安定的な海運基盤の確立に尽くしている。現在の海運界においても簡単に実現できない航路や港湾などのインフラ整備や、安全や労務に関する仕組みの構築を全国的に行えたのは、幕府の権威が津々浦々まで行き渡っていたことと、瑞賢の卓越した指導力によるものだと云えよう。


旅の2日目は観光列車「海里」の酒田駅発車は15時3分と遅いので、朝から駅前で借りた観光用レンタサイクル(無料)を繰って、こじんまりした酒田の旧市街地を巡ることにした。地域貢献に力を尽くした大地主の本間家の屋敷や、米の集積や保存に造られた立派な山居倉庫は前回に来た時に訪問したので今回はパス。まずは河村瑞賢の銅像の立つ日和山公園を訪れ、そこに置かれた千石船の2分の1のレプリカや、港の場所を示した1813年製造の常夜灯を見学した。次に寄った酒田海洋センターは、港町らしく商船や漁船の展示が豊富で、海運界OBの私にとっても興味深い場所であった。天気に恵まれ、こうして地図を片手に変速ギアもないチャリをギコギコこぎながらの町の散策を続ける。大きな港町には立派な料亭がよくあるのだが、ここでも港からほど近い住宅街の一角に由緒正しそうな料亭が幾つか現存しており、かつての辺りの繁栄を偲ばせてくれる。北前船の船頭は操船指揮だけでなく、各地の特産品を自ら買い求めて、港々で商売する商人でもあり、運送業兼商社の役目を果たしたので、港に北前船がつくと船乗りや地元の商人たちで料亭が大賑いしたそうだ。そんな料亭の一つ 「山王くらぶ」 では、郷土のつるし飾りであるまことに豪華な「傘福」の展示を見ることができ、ここがその昔「東の酒田、西の堺」と謳われ栄えた土地であることを感ずることができた。


北前船といっても、酒田は津軽海峡を抜ける東回りよりも西回り航路で賑わったようだが、それは江戸時代の商業の中心地である大坂が海路で近いことが第一の理由であるらしい。因みに地図で測ると、酒田から関門海峡を経て瀬戸内海を大坂まで行けば直行で約1400キロ、これに対して酒田から津軽海峡を抜けて東京湾までは約1300キロ、そのまま大坂までは約1800キロの行程である。最上川の水運を利用して内陸から運ばれた庄内米や特産品の紅花 (顔料や染料の元で油も採れ当時は人気商品だったとのこと) を酒田で北前船に載せ替え上方に運ぶには、日本海を経由し、瀬戸内海の潮流に乗って運送するルートが効率的であった。日本海は冬場以外は海が穏やかだし、大陸や朝鮮半島との交易を通じて発展した港町が点在する他、瀬戸内には多くの港があり、津々浦々で商売する北前船にとっては、西回り航路のほうが太平洋岸より商売がし易かったに違いない。上方の市況や積み荷の保存状況を考えて、敦賀から琵琶湖の水運に載せ替えたり、舞鶴や小浜から山越えで急ぎ京や大坂へ運んだ物資もあるのかも知れない、などと想像するとこれを調べるだけで老後の一大研究ができそうだ。そういえば能登の黒瓦が日本海沿岸の諸港に広まったのも北前船によるという話を聞いたし、”にっぽん丸”で訪れた佐渡の小木(宿根木地区)は、かつて多数の北前船建造の大工を擁した地であったことを思い出した。酒田の方言は京言葉に近いという地元の話を聞くと、日本の各地は昔から船によって繋がっていたことを実感するのである。

 

料亭 「山王くらぶ」 に飾られた豪華な地元のつるし飾り・傘福
20240520_20240520121202

2022年5月 ”にっぽん丸”で訪れた佐渡島 小木(宿根木)、 復元された千石船(北前船)のデッキ
20240520

2024年5月19日 (日)

五月雨を集めて早し最上川 (酒田・海里の旅①)

20240519_20240522224101

「五月雨を集めて早し最上川」。そう松尾芭蕉に詠まれたこの季節に、最上川の景色を楽しみ、併せて河口にある酒田の町を再度見学する旅をした。酒田は昨年4月、新潟‐酒田間の白新線・羽越本線で運転される観光列車「海里」の北向き(下り)に乗車し、終着駅として初めて降り立った地である(リンク:「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅)。今は人口10万人ほどのさりげない海辺の地方都市だが、ここは江戸時代に西回り行路の北前船の発航の地となり、「東の酒田、西の堺」と云われるほど栄えた町であることをその際に知ってとても驚いた。スケジュールの都合で昨年はゆっくりと市内各所を見ることが出来なかったため、今回は酒田始発の「海里」の南行(上り)乗車と絡め、再びこの地を訪れることにしたのである。「乗って楽しい列車」である「海里」の4号車は、食事つき旅行商品となっており、新潟より酒田に向かう午前の下り列車は新潟の料亭の弁当、逆コースの午後の酒田発上りは庄内地方のイタリアンとスイーツが出されると、前回とは別の趣向なのも乗車の楽しみである。


酒田まで行くには、時間的には上越新幹線の新潟駅で羽越線(白新線経由)の特急「いなほ」に乗り換えるのが一番早いが、行きと帰りが同じ経路というのもつまらない。よって今回は山形新幹線の終点駅である新庄まで「つばさ」で行き、新庄から陸羽西線で酒田に出るルートをたどることにした。もっとも陸羽西線は平行する国道のトンネル工事の影響で列車が走らず、現在は代行バスによる営業のため、東京・酒田間では新潟経由より2時間以上も余計に時間がかかる。しかし時間に縛られないのが、閑ならいくらでもあるシニアの旅の特権である。「奥の細道最上川ライン」との別名もある陸羽西線に沿ってチンタラとバスの旅も良かろうと、今年は「大人の休日倶楽部」の3割引き切符で山形新幹線に乗車することにした。バス区間はトイレも不便だろうという見立てで、新庄までの新幹線ではお約束であるビールもやや控えめにした旅の序章であった。


新庄駅前で待っていた山形交通の代行バスは車内は空いていたが、平日の午後とあって地元の高校生やら勤め人がパラパラと乗っており、いかにも地元の足であるローカル線の「代行」という雰囲気。新庄から酒田まで55キロ、途中12駅の駅前や駅至近の広場に停車しつつ、バスは2時間近くかけてゆったりと走る。バス道からは、初夏の陽光が川面に映える最上川が近付いたり離れたりで、鉄道で旅するよりこちらの方がよほど景色は良いようだ。最上川と云えば1983年から翌年にかけた放送されたNHKドラマ「おしん」は、このあたりを中心に主人公の幼少期の脚本が作られたそうで、おしんがいかだに載せられて子守奉公に出る有名なシーンそのままの景色が車窓に続き見ていて飽きない。かつては川の舟運によって稲作物や紅花が河口の酒田港に運ばれ、北前船に載せ替えられ上方や江戸に輸送されたと云うが、その史実通り、最上川は水量が多く、庄内地方の輸送の大動脈として機能したことがよく分かる道中であった。代行バスは陸羽西線の各駅前に出入りするために、時には鄙びたごく地元の道路を走り、「トイレ休憩」もあって想像したよりずっと楽しい旅であった。

より以前の記事一覧

フォト
2025年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ