カテゴリー「旅行・地域」の記事

2026年2月 1日 (日)

「個人では行きにくい中国地方の名所を一度にめぐる 島根・広島・山口ぐるっと満喫旅 4日間」瑠璃光寺五重塔と秋吉台、萩 ”おいでませ山口へ!”

20260201
瑠璃光寺の美しい五重塔 日本の三名塔とのこと

石見銀山や宮島などいわゆる有名観光地だけでなく、知る人ぞ知るという名所に連れて行ってくれるのも団体ツアー旅行の楽しみである。宮島から萩への道中、我々のバスは山口市内にある瑠璃光寺の五重塔脇に停車した。山口を中心に西国で勢力を誇った守護・戦国大名の大内氏11代目、大内盛見(もりはる)が1422年に建立した建物である。盛見の兄である大内義弘(よしひろ)は、時の最高権力者だった足利義満(よしみつ)に対して挙兵したものの、むなしく敗走して死を迎えたそうで、その兄の菩提を弔うために大内盛見が建てた塔とのことだ。バスから降りて眼前に見る五重塔の優雅に伸びた屋根は檜皮葺で、青空を背にすっくと立った建物と周囲の木々、背景の山の緑が調和して何とも言えぬ美しい光景である。それもそのはず、「大内文化」の最高傑作とされるこの瑠璃光寺五重塔は奈良の法隆寺、京都の醍醐寺の五重塔と並んで日本の三名塔と云われれているそうだ。私のような重工業に関連するビジネスの出身者にとっては、山口県と云えば山陽地方の徳山や防府、小野田、下関などの工業地帯であり、「大内文化」なる言葉に代表される内陸の山口市などはこれまで訪ねる機会がまったくなかった。優雅な五重塔を見るうち「おいでませ山口へ」というキャンペーンフレーズを思い出し、日本中まだまだ知らない場所だらけであることを改めて思い知るのであった。


美しの五重の塔で心を洗われた後は、特別天然記念物の秋吉台へとバスは進んだ。見渡す限りの草原に白い石灰の岩があちこち顔をのぞかせる日本最大のカルスト台地である。この雄大な景観を形造っている石灰岩は、およそ3億5千万年前に南方の海にサンゴ礁として誕生し、長い年月をかけて移動した後に、この地でカルスト台地を形成したと草原を前にしたジオパークセンター内の説明版に解説がある。実は昭和30年代に父の転勤で北九州・門司港に住んでいた頃に、ここには家族で来たことがあったが、あの頃、門司からどうやって来たのか記憶が定かでない。ただ、あれから60有余年を経て再訪がかなってみると、久しぶりにやって来たカルスト台地を前に、その後の人生いろいろな出来事があったものだという思いが胸をつく。あいにくの寒波に日本中が覆われた週末とあって、雪こそなかったものの寒風が吹き抜ける台地である。かつて家族で歩いたであろう遊歩道を少し歩いて記憶を蘇らせようかと思ったが、あまりの風の冷たさに、そこそこに暖かいバスの車内に駆け戻った秋吉台であった。


この旅の最後の訪問地は萩であった。世田谷に住んでいた子供の頃から、玉電・若林にある松陰神社が身近な存在だったので吉田松陰という名前にはとても親近感があった。その吉田松陰、高杉晋作、木戸孝充、山県有朋など明治維新で活躍した傑物が、萩という人口五万人にも満たない小さな町から出たことに興味があり、いつか行ってみたいと思う場所であった。萩は大内氏に代わった毛利氏の長州36万石の城下町で、「大内文化」の伝統を底流に、長州藩の藩校である明倫館の教育によって有能な人材を輩出し、彼らが時代のリーダーとなり明治維新で活躍したのである。旅の最終日、4日目の午前中は、萩の小ぢんまりした武家屋敷エリアを2時間ほど散策し、高杉晋作、木戸孝充などの生家を見て回ることができた。激動の時代に国を支えた人たちが、この小さな一画から多数出たということが信じられないような静謐な武家屋敷街であった。惜しむらくはここで地元のガイドの案内を聞ければ、明倫館の教育のことなども詳しく聞けたのだろうが、そこは団体旅行ということですべてを望むのは無理というもの。ただこれで島根県の西部や山口県の日本海側の土地鑑も大分ついたので、また機会があったら是非訪れてみたいと思いつつ帰路についた。(了)

 

秋吉台のカルスト台地
20260201_20260201205801

一度来てみたかった萩の武家屋敷町
20260201_20260201205802

2026年1月31日 (土)

「個人では行きにくい中国地方の名所を一度にめぐる 島根・広島・山口ぐるっと満喫旅 4日間」宮島

20260131
日目の昼食は出雲大社の参道にある蕎麦屋で出雲そばとぜんざい

石見銀山を駆け足で見た後は出雲大社に参拝し、中国山地を超えてその晩は広島市に宿泊である。東京人のふつうの感覚で云えば、石見銀山や出雲大社を訪れたら山陰地方に留まり、津和野に行くか、あるいは松江や鳥取を訪れる旅を考えそうだが、クラツーのこの旅行では一旦は広島に出て宮島見物をし、最後はまた山陰の萩に戻るという変わった日程が組まれている。その上、三次では先の広島サミットでワインを提供して最近話題になっているワイナリーを訪ね、翌日、宮島観光の後は、「日本の三大美塔」と云われる山口市の瑠璃光寺の五重の塔を見物、さらに秋吉台のカルスト台地まで寄ると云うから、まさに「個人では行きにくい」名所がテンコ盛の企画と云える。松江自動車道など道路網が整備され渋滞もないためにこのようなスケジュールが可能になるのだが、各宿泊地での起床は毎日6時頃、朝8時には宿を出るというけっこう厳しい旅であった。

 

こういう団体旅行に参加すると、同調圧力と社交性の欠如という「日本人らしさ」が発揮されているように感じることがままある。添乗員が「12時までにバスに戻って」と案内すれば、軍隊の10分前集合ではないのに、11時50分にはもうほとんどの参加者が自分の席に着いて静かに発車を待っている。我々は集合の3分前くらい前、ぎりぎりにバスに戻ってくることも多いが、車内を自分たちの座席に戻る際、都度「いつも遅いね~」という冷たい視線を通路の両側から浴びるような気がする。妻はギリギリになって「あ、もう一つ買うの忘れた」などと、バスの前で踵を返してみやげもの店に戻り、発車時刻直前に悠々と戻ってやきもきさせることもしばしば。決められた時間に遅れたわけでもないのだから、堂々としていれば良いものの、気の小さい私は、周囲のせっかちな視線に戸惑い気味である。その一方、バスが目的地につけば我先にと乗降ドアに殺到する人が多いのも不思議だ。見知らぬ者同士の団体旅行と云えば、総じて挨拶が下手な人が多いのも気になる。話してみると悪い人ではないのだが、道中目があっても視線をそらせ見て見ぬフリをする参加者も多い。数日間同じ旅を共にする『仲間』なのだから、挨拶や会釈、気の効いた会話くらいは交わしたら如何かと云いたくなる無表情な参加者は特に男性に多いようだ。どうも男は扱いづらい。

 

こうして旅の3日目は宮島にやってきた。日本三景の一つ、宮島は何度も訪れたことがあるので、今回はガイドによる厳島神社の参拝もそこそこに「宮島歴史民俗資料館」を時間をかけて見学することにした。宮島は平清盛をはじめとする平家一門の厳島信仰により広くその名を知られた社である。ここ宮島歴史民俗資料館で神戸一の谷から讃岐の屋島、最後に壇ノ浦と平家が瀬戸内を西に西にと敗走するさまを学ぶと、平家の落人が海辺の各地にひっそり住んだと云われる瀬戸内の歴史のロマンを感じることができる。また地乗り航法の時代には、宮島は瀬戸内海航路の重要な基地だったとの展示もある。北前船はじめ昔の船乗りはこの地で一休みした後、潮や風に乗って音戸の瀬戸から安芸灘、蒲刈島や三原瀬戸へと上方に向かったことだろう。目の前の海峡を眺めていると、当時の船乗りたちの姿が目に浮かぶようだ。ここで各自でとった昼食は、「勝谷菓子パン舗」の「勝谷あんマーガリン」パンと「広島お好み焼きパン」をトライした。このパン屋さんは、もともとは名物もみじ饅頭を作っていたそうだが、2018年からもみじ饅頭のアンを挟んだコッペパンを店の奥でこしらえるようになったそうだ。もみじ饅頭に代わる一風変わった地元新名物パンの食感は、「宮島にきたぞ」という実感を湧きたたせてくれた。同じ場所でも旅は何度来ても良いものだ。(続く)

 

今回は宮島民俗資料館をゆっくりと見学
20260131_20260131111701

宮島の新名物 「あんマーガリン」の勝谷パン舗
20260131_20260131111702

2026年1月29日 (木)

「個人では行きにくい中国地方の名所を一度にめぐる 島根・広島・山口ぐるっと満喫旅 4日間」石見銀山

20260109
観光用に整備された龍源寺間歩の坑内

 

世界遺産の石見銀山である。これまで出雲大社を訪れる機会があっても、その先の山陰本線の列車本数の少なさに銀山のある大田市まで来るのを諦めていたが、今回やっとバスの団体旅行で石見銀山を訪れることができた。江戸時代初期の最盛期には、世界の3分の1 にあたる銀の産出量を誇った我が国だが、そのかなりの部分を掘り出したのが、石見銀山とのことである。往時のヤマの姿が残されているだけでなく、環境保護や関連する諸施設の在り方、銀に関連する物流を伝える史跡や鉱山の社会性などが総合的に判断されての世界遺産認定だそうだ。と云っても石見銀山は世界遺産区域だけでも500haあり、緩衝地域はその6倍もあると云う。500ヘクタールと云うと500万平方メートルになるから、仮に幅が1キロとすれば奥行は5キロと広大な上、鉱山の町や銀の積出港だった温泉津(ゆのつ)までの街道、世界遺産センターなどを訪ねると見学は一日だけでは済みそうもない。とはいえ団体旅行ゆえ、ここだけ時間をかけるという訳にはいかないので、今回は最もポピュラーなコースで常時一般公開されている龍源寺間歩(間歩とは坑道のこと)を現地ガイドの案内で廻る3時間弱のツアーであった。


龍源寺間歩を巡るツアーは駐車場から往復で5キロあり、坑道までの上り路(帰りは下り)や間歩内の狭い坑道を徒歩で廻るため、シニアにとってはけっこうな「健脚コース」である。もっとも往復の山道には一部で有料の電動カートも利用できるが、途中にある精錬所の跡など、あたりの雰囲気を感じるにはやはり徒歩に限る。ということで、我が団体一行40名弱も小雪の中を、テクテクと龍源寺間歩までの道を上っていった。しばらくすると、銀鉱脈が発見された仙ノ山を中心に露天掘りの跡や朽ちた坑道口があり、それらを見ていると往時はどういうふうに鉱山が経営されていたのかと興味が湧いてくる。歴史を紐解けば1500年代初期にこの地で銀が発掘されて以来、毛利氏や尼子氏などの有力戦国大名の間で土地領有の争いが絶えなかったそうだ。各間歩の経営は山師と云われる親方の下に銀堀り(カネホリ)と呼ばれる坑夫、精練に携わる灰吹士などが集まってほとんどが私有で運営され(徳川幕府の直営間歩も一部にあった)、精練された銀を奉行所(のち代官所)が買い上げたとのことである。銀山一帯は、戦国時代から江戸時代初期・中期にかけてもっとも繁栄したそうで、鉱山関係者や役人のほか寺社仏閣も多く、商人や芸人、遊女などで大変な賑わいだったそうだ。最盛期には周辺の町を合わせると20万人が暮らしたというから大変な産業地だ。


すぐ真上の天井に無数のコウモリが冬眠するせまい龍源寺間歩に入ると、劣悪な環境で作業するカネホリは一日4時間労働の4交代制だったとガイドさんの説明が入る。カネホリは粉じんによる健康被害で平均寿命は30歳だったが、それでも高給につられてとても人気がある仕事だったそうだ。代官所も彼らの衛生面や待遇には特に気を配っており、特殊なマスクの着用を奨めたそうで、鉱山の町で働く人とは「悪代官様」、「ははー!ご無理ごもっとも」という関係ではなかったとのこと。住人が良いものを食べていたため、鉱山の町から出た糞尿は他の地区より栄養価が高く、近隣の農家の肥料として高く売れたとガイドさんは往時のエピソードを披露してくれる。同じ世界遺産である長崎の軍艦島でも知ったことだが、日本の労働慣行は、使用人を馬車馬の如くこき使って利益を上げるのではなく、経営と現場が一体となり生産性を高めるのが伝統である。「朝鮮人労働者が強制労働で一方的に搾取された」などとかつての就業体制を批難する半島の人たちやパヨクが今も時々いるが、彼らは自分たちがそういう性根ゆえ、疑いもせずにほら話をこしらえるのだろう。いわゆる”慰安婦”問題然りである。こうして石見銀山のごく一部だけに触れたツアーだったが、機会があれば、灰吹法と呼ばれる精練方法や物流の実態、鉱山で栄えた大森の町並みなどをもっとゆっくり探求してみたいものである。ガイドさんにはお礼と共に「また来るね~}と挨拶して山をおりた。(続く)

 

露天掘りの跡の他、あちこちの岸壁にはかつての間歩の入口を見ることができる
20260129

2026年1月27日 (火)

「 個人では行きにくい中国地方の名所を一度にめぐる 島根・広島・山口ぐるっと満喫旅 4日間 」

20260127
羽田便が一日2便のこぢんまりした萩・石見空港

先週末は金曜日から月曜日まで、クラブツーリズム主催の「個人では行きにくい中国地方の名所を一度にめぐる 島根・広島・山口ぐるっと満喫旅 4日間」に参加した。江戸時代には世界で産出される銀のほぼ3分の1を占めたと云われる世界遺産の石見銀山、幕末の志士を数多く輩出した萩の城下町、それに小学校時代に家族で行った秋吉台のカルスト台地を訪れてみたいと予てから思っていたのだが、とにかくこの地方は関東からの交通の便が悪い。中国地方の日本海側を貫く山陰本線は、今や東西を連絡する列車がほとんどないローカル線となり、多くの優等列車は山陰・山陽連絡で山陽新幹線連絡に向けての運転だ。島根県~山口県を効率よく廻るには実質的にレンタカーしか手段がないのだが、まったく地理勘のない地方を相当な距離に亘ってドライブするのが億劫で、永年二の足を踏んでいたエリアである。こんな場所こそ地元の観光バスでぐるっと連れて行って貰うのが便利だと思っていたところ、クラツーの企画を新聞の折り込みチラシで知り参加したものである。


なんでもこのツアーは「萩・石見空港利用拡大促進協議会」の助成金を受けているそうで、往復航空運賃+貸切バス+3泊料金(うち夕食2回付)、それに石見銀山や宮島で現地ガイドもついて料金6万5900円 (プラス空港利用料900円)とリーズナブルな設定。ということもあってか、羽田空港に集合した一行は、総勢40名ほどと、これまで私が経験した団体旅行の中ではもっとも多い参加者である。数えてみるとカップルでの参加は6組12名、シニア男性一人参加が5名で、残りのほとんどが中高年の女性、それも一人参加が多いというオバちゃん主体のツアーとなった。中には世界中あちこち旅した女性もいるようで、今回は目的地からしてかなり 「通」好みの旅だと云えよう。この大集団を率いる添乗員は(比較的)若手の女性一人のみで、安い旅という事もあるのか、3泊の道中はバスガイドがおらず、運転手との打ち合わせを含む行程管理はすべて彼女の手に委ねられていた。通常、団体旅行の際には、出発の数日前に添乗員から自己紹介やら注意点などの案内電話があるのだが、今回これはなく、旅の案内もネットから自分でダウンロードせよとの省力化を徹底した成果が、この料金になるのだろう。個人的にはバスガイドのローカルな案内や土地の民謡を聞くのが団体旅行の楽しみの一つなので、もう少し高くても良いからバスガイドは乗車して欲しいところだった。


3泊と行っても「萩・石見空港利用拡大促進協議会」の助成金の都合により、一日2便しかない羽田/萩・石見間のANA便フライトを利用することがマストとあって、行きは羽田空港を15:55発 / 萩・石見空港17:35着、帰りは萩・石見空港を11:20発 / 羽田空港12:45着と、結果としては旅の前後に関してかなり余裕のあるスケジュールとなった。そのため都内や近郊だけでなく、関東一円からの参加者は早朝早く自宅を出たり、帰宅が遅くなったりすることもなく便利だというメリットもあったようだ。何人かの同行者と食事の際などに話をしたが、茨木や栃木からも無理なく参加できると遅めの出発・早めの解散時間をよろこぶ声を聞くことができた。この週末は日本中が大寒波で「不要不急の外出は控えて下さい」とニュースが告げているため、旅程は一体どうなることかと訝りながら、羽田空港の集合場所に赴いたのだが、幸いなことに大雪の雲は島根県西部や山口県には余りかからず、飛行機も時間通りに出発することが分かってホッと一安心。旅の際中も、時に雪が散らついたものの晴れ間もあって、観光には差し障ることもなかったのがラッキーだった。みな普段の心掛けが相当良いのだろう(続く)

 

3泊、400キロ超のバス旅は地元、防長バス(車種:日野セレガ)の運転手さんが宿泊しながら一人でドライブ、バスガイドの声が聞けなかったのは残念だった。
20260127_20260127122901

2025年12月 1日 (月)

風情ある高岡の町

20251201
富山湾の海の幸 バイ貝、ブリ、アオリイカ、ノドグロ、白エビ、ヒラメのさしみ

 

人生に於いて、ある時までほとんど縁のなかった地方が、何かのきっかけで急に身近になることがある。我が家では富山県がそんな場所に当たる気がする。もともと仕事の関係で高岡市に近い富山新港を何度か訪れたことはあったが、これまで観光でゆっくりと訪れたことのない当地に最近はよく来るようになった(富山県に関連するブログは下のリンク先参照)。先週は仕事を兼ねた旅で、富山新港に近い高岡市を妻と一緒に廻ることができ、あらためて歴史あるその街並みに心を奪われた。高岡市は人口16万人で富山県の北西部、能登半島の東の付け根にある産業都市である。隣接する伏木地区は古代は越中の国府が置かれた土地であり、高岡は加賀前田家二代当主の前田利長が築いた高岡城の城下町として発展した。加賀藩の本拠地は金沢だったため、一国一城の令によりお城は廃城になるも、その後もここは加賀藩百万石の流通、経済の場として栄えた町である。江戸時代の後期から明治時代にかけては、伏木港が北前船の寄港地としてにぎわい、多くの廻船問屋や船主たちが活躍したのだそうだ。


富山県と云えば、山から海までいろいろと名物はあるが、まずは海産物だといえる。能登半島に抱かれた富山湾は3000米級の立山連峰が日本海に沈みこむ場所に位置し、水深が1000米もある深い海とのこと。半島の沖は北からの寒流と南からの暖流がぶつかる海域とあって、両方の海に住むサカナが集まる好漁場である上に、富山湾には神通川、庄川などの多くの河川が流れ込み、山からの栄養でプランクトンが豊富なのだという。自然の生け簀のような湾内には200種類ものサカナが生息し、中でもブリやホタルイカ、ベニズワイガニなどが美味で有名である。かつて出張で高岡に来た際に、地元の寿司屋で食べた氷見ブリが東京で食べる本マグロの大トロより旨いことに仰天したことは、『氷見ブリと「べるもんた」(1)(2)』で記したとおりだ。今回もお得意先の高岡の工場の人たちと、早めの忘年会を市内の料理屋で行い、寒ブリのシーズンにはやや尚早だったが、地酒でノドグロなどの海の幸を堪能した。


宴会の翌日は、夕方までに東京に帰れば良いから半日の高岡市内観光で、出張に一緒について来た妻とともに、ジョギングで名所を廻ることにした。日本の三大大仏と云われる(それにしては奈良や鎌倉のそれよりはかなり小さいが)高岡の大仏、商家の家並みが立ち並ぶ山町筋、鋳物師の町で千本格子や石畳の金屋町、高岡城址などを急ぎ足で見て回った。この町は空襲に遭わなかったために、明治~大正~昭和初期に出来た街並みがそのまま残っており、それが公園のように特別に隔離されていることもなく、町の景色としてごく普通にあるところが風情を感じさせる。かつては夜行列車で来るか、上野から富山まで特急「白山」や「はくたか」で6時間以上かけた距離も、北陸新幹線に乗れば東京~富山間は最速の「かがやき」で2時間強である。首都圏に住む人間にとっては、富山に限らず金沢や福井が今やとても身近な場所になったのが嬉しい。北陸新幹線が西に延伸するに連れ、これまであまり意識しなかった日本海側の各都市に、大変立派な歴史があり伝統の街並みが残っていることに、あらためて気が付かされる此の頃である。また富山県や高岡市をゆっくりと訪ねて来たいものだ。

 

2代目の前田利長が7人の鋳物師を呼び寄せて住まわせた高岡の金屋町
20251201_20251201135501

2023年2月20日氷見ブリと「べるもんた」(1)
2023年2月16日氷見ブリと「べるもんた」(2)
2022年7月5日大牧温泉
2022年7月8日瑞泉寺・五箇山合掌造り・”ベル・モンタ―ニュ・エ・メール(べるもんた)
2023年6月1日立山黒部アルペンルート(1)
2024年6月4日立山黒部アルペンルート(2)と上高地

2025年11月24日 (月)

飛鳥Ⅱロングクルーズの縁 かき小屋

20251124_20251124114701
九十九島セットのかき、一人前は10個ほど

花火の翌日の昼食は、佐世保市郊外、九十九島湾にあるカキ小屋に連れて行ってもらった。かき養殖のいかだの上に簡単な椅子・テーブル、炭火のコンロが置かれ、とれたてのカキをそのまま焼いて食べる専門店である。いかだの脇にはボートやヨットの係留場所もあり、クルマで来る人の他に、船遊びの途中に乗り付けてかきを楽しむ客もいる。海水中に吊り下げた網の中のかきはプランクトンを食べて、1年半から2年かけて出荷サイズになるのだが、海水温が適度かつエサや酸素が過不足ない環境でないと育たないため、季節や天候によって吊り下げる水深を調整してやる必要があるそうだ。えさのプランクトンの生育には河川から流れ込む大地の栄養が必須で、問題になっている海水温の上昇に加えて護岸のコンクリート化や、浄水しすぎによる川の水の栄養不足がかきの生育不良に繋がるらしい。いま全国生産の6割をしめる広島県産など瀬戸内地区でかきが不漁だと報道されているが、ここ九十九島湾ではそんな事はないようで、訪れた昼は満席の盛況であった。


注文した料理は、殻付きのかきが1キログラムに、かきチャウダーやかき炙り笹めしがついた「九十九島セット」で、なんとこれで2,500円と産地ならではの破格の値段である。この日は追加でサザエやヒオウギ貝(ホタテのような2枚貝)も注文して貝尽くしの昼食となった。殻付きのかき1キロとは、大体一人当たり大小のかきが10個ほどもあるので、一年分のかきを食べるようなけっこうなボリュームである。この生がきを炭火であぶると、ほどなく殻の淵がパカッと簡単に開くものと、なかなか開かずにナイフでこじ開けねばならないものとがあって、最初はほど良い焼き具合が分からないのだが、見様見真似で周囲の席を観察しているうち次第に火の通り加減を体得し、から剥きのころ合いもうまくなってくる。取り出したかきには適度な塩味がついているため、そのまま食べても良いし、醤油を一滴垂らすのもまた良しである。かつて生のかきで当たったことがある妻は、最初は慎重に火の通りを待っていたが、慣れてくると「おいしい、おいしい」と殻を剥く手が止まらなくなった。


その晩は、佐世保市内の料理屋さんで、この冬出たてのフグ料理を頂いた。てっさが東京のふぐ店で出されるより厚く切られているのは産地ならではで、ブロッコリーの素揚げと共に盛られたふぐの唐揚げも独特の味付けで印象的なうまさだ。てっちりと雑炊の定番コースで、酒も進んだ佐世保の夕べであった。こうして船の中で知り合ったご夫妻、それも出合ってから半年ばかりで、誘われるままにお邪魔するのはいささか図々しいかと躊躇する気が起きぬわけではない。100日以上のクルーズで時間を共有して意気投合し「是非陸でまたお会いしましょう」などと約束しても、そのままになってしまう相手が多いなか、先方が我々を歓待してくれるのはやはり何かのご縁があったからだろう。人生後半、こういう繋がりは貴重だし大切にしたいものだ。クルーズと云えば食事や寄港地などが何かと話題になるのだが、船内で生まれた新しい交友関係が人生を豊かにしてくれるのも、ロングクルーズがもたらしてくれる恩恵の一つだと感謝しつつ帰京した。

 

絶好の秋晴れの空の下、九十九島のかき筏の上にて
20251124

2025年11月20日 (木)

飛鳥Ⅱロングクルーズの縁 ハウステンボスに滞在

20251120_20251120134701
ここはオランダか ワッセナーの夕暮れ

202511202
各戸の前には桟橋が

先の「飛鳥Ⅱ2025年世界一周クルーズ」で仲良くなった、長崎県のハウステンボス住宅街(ワッセナー)に住む友人のお宅へ遊びに行ってきた。我が国で最大級のテーマパークであるハウステンボスに隣接して造成されたワッセナーは、周囲を縦約800米 X横 250米の水路に囲まれた土地に、戸建て130戸とマンションスタイル120戸、計250戸の住宅が建てられている地域である。因みにワッセナーとはオランダに実在する古い町の名前なのだそうだ。オランダ風の家々に加えて、各戸の前に引かれた水路からヨットやプレジャーボートで、そのまま大村湾へ出ることが出来るのが魅力の街並みである。敷地内は警備会社によってセキュリティーが確保されているために、普通は警察のパトロールも入ってこないそうで、東京に住んでいる我々が九州にあるそんな街を体験することができるのも、ロングクルーズならではのご縁によるものだ。


折しも泊めて頂いた夕べは、ハウステンボスで「九州一花火大会」が開かれ、打ち上げ現場の直近に準備されたエリアで2万発の花火を楽しむことができた。最近はどこの花火大会も大混雑で、待ったり並んだりが大嫌いな私は、場所取りなどをする気はまったくおきないのだが、ここでは奥方手作りのつまみにビールでゆったりと特等席から打ち上げを見ることができた。かつて花火大会に今ほど大勢の見物客が繰り出さなかった時代は、打ち上げ場所の至近で見物できたからか、目の前に花咲く大輪の光の祭典を見ているうち、ふと子供の頃に見た隅田川や多摩川の花火を思い出してしまった。この夜は天気も良いし心配された寒さもそれほどではなく、ビールを飲んでもトイレがごく近くに設置されている絶好のロケーションで、適度な人混みの中でゆっくりと盛大な花火大会を見物していると、やはり東京近辺は何のイベントにせよ過密過ぎると感じた。


一方で天国のようなワッセナーでも、食料品や日用品を買うのはクルマで数キロ離れたスーパーに行かねばならないから、高齢となっても運転は必須だと友人は言う。また我々の感覚からすると敷地内の中古物件売買は億を超える単位なのかと思ったら、成立する価格は5千万円くらいが多いそうで、その点も異常なマンション価格高騰にあえぐ都内とはちょっと相場が違うようだ。もともと友人夫妻は佐世保の中心部に住んでいたので、近々佐世保駅に近い新築マンションに引っ越すとのことで、やはり銀行や郵便局、市役所、買い物などでここは不便だと嘆いていた。周囲からはどんなに素晴らしく見える生活でも、それぞれに一長一短があるものだ。花火の翌日は、昼食に九十九島のカキ小屋でカキやサザエを堪能し、夜は佐世保市内で今の冬出始めのフグ料理を頂いて、一年分のカキやフグを楽しんだ週末だった。奇しくもカキ小屋に向かう道中には、佐世保ドックに入渠中の飛鳥Ⅱが車窓に見えて、船が取り持つ不思議な縁を感じたのだった。

 

佐世保ドック入渠中の飛鳥Ⅱのご縁で知り合った不思議
20251120

2025年1月 4日 (土)

クラブツーリズム 年末年始は名湯で過ごす・登別温泉『登別グランドホテル』2連泊3日間の旅

20250104_20250104132201
噴煙を上げる登別温泉・地獄谷


2025年の元旦は北海道、登別温泉の宿で迎えた。日ごろ忙しくこの時期しかまとまって休めない義妹に合わせて、クラブツーリズム主催の 「年末年始は名湯で優雅に過ごす 白濁の名湯・登別温泉 『5つ星の宿』に宿泊2連泊 3日間」の団体旅行に参加することにしたものである。一昨年正月の竜飛岬での年越しに続いて ”寒い時には寒さを存分に味わう”体験である。今回は往復新幹線利用、2泊3日で札幌、小樽に函館を廻る駆け足のツアーで、例によって列車やバスの集合時間さえ守れば、あとは何も考えずに個人ではとても回りきれないテンコ盛りスケジュールを満喫できるのできわめてラクチンな正月だ。今回の参加者はほぼ定員一杯の40数名弱の盛況で、参加者も老若男女さまざまであった。かつては前日の午後に出発する上野発の列車に乗り、青森で青函連絡船に乗り継ぎ、翌日の早暁ようやく上陸した北海道だったが、今や航空機を使わずとも、最速の新幹線「はやぶさ」で、東京から函館まで4時間弱で到達できる時代となった。北海道旅行もまことに手軽になったものである。


我々の宿は硫黄泉の「5つ星」登別グランドホテルであった。ここは登別温泉でも屈指の老舗ホテルであり、偶然にも高校の修学旅行で宿泊して以来、50数年ぶりの来館となった。外は雪のちらつく中、ホテルの自慢でどこか見覚えのあるドーム型のローマ風大浴場に浸かっていると、大昔の様々な思い出が蘇ってきた。当時の東北や北海道はまだ温泉と云えば混浴スタイルが基本で、登別グランドホテルも脱衣所こそ男女別だったが、それぞれのドアから入った大浴場は共用の混浴であった。外国からの観光客など極めて少なかった時代だが、たまたま宿泊の白人女性が、入口を開けて風呂場に踏み入れるや否や男性がいるのに腰を抜かさんばかりに驚いて、クルッと踵を返し出て行ったことを思い出した。男子高校生には衝撃的な場面だったが、あれはなにしろ50数年前、それも湯気の向こうの朧げな光景である。事の真偽と我が記憶の整合性を確かめようとフロントに「風呂は当時と構造が同じ?」「かつては混浴だった?」と聞いたら、「窓廻りなどはやや変わっていますが、基本的に大浴場は昔のままです」「その頃は混浴だったと聞いています」との答えである。そうか、あれは夢や幻でなく、正にこの風呂で実際に目にした刺激的な出来事だったのだと、記憶を新たにした正月である。


ツアー中は、同じバス会社の運転手やバスガイドと旅を共にするのが、昔と変わらぬ北海道のバス旅である。今回は函館のバス会社の気さくなおばちゃん風のガイドで、彼女の井戸端会議的な車窓案内が3日間車内を盛り上げてくれた。目的地に急ぐレンタカーと違って、この地の野菜の値段や美味しいラーメン屋などローカルな話題をふんだんに提供してくれるのが観光バスの良さ。雪道をものともしない運転手もプロの技である。そういえば修学旅行の時、道内を6泊7日かけて巡る車中で、17歳~18歳の生意気盛りの男子校生徒の案内をしてくれたバスガイドは当時21歳くらいのまだ純朴な道産子の女性だった。その頃に流行り始めた「知床旅情」などを一緒に歌いながら、若い女性と血気盛んな男子高校生が1週間も空間を共にすればお互い親近感が湧くのも当然である。たまたま我々の前に彼女が案内したのは、おしゃれで有名な都内ミッション系の某私立共学高校で、「なに、あの学校は?!! 車内で男女がいちゃいちゃしてホントに気持ちが悪かったです」「男子校の方がなんぼいいか」とのガイド嬢の言葉に「そうだ、そうだ」と、すっかり意気投合したものだった。中には帰京してから彼女と文通をした者や、旅行で上京した彼女を都内見学に連れて行った友人などもいたものだった。思いがけずに50数年ぶりに修学旅行の足跡を辿ることになり、記憶の底にあった若い頃の出来事を思い出しながら、その後の永年に亘る我が来し方にまで思いを巡らした正月だった。

 

函館五稜郭タワーから五稜郭を臨む
20250104

2024年12月22日 (日)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(4)玄武洞、地図アプリ

20241222
5つある玄武洞岩盤のうち「玄武洞」

「はなあかり」を城崎温泉で下車、豊岡で泊まった翌日は、夕方の(京都)嵯峨トロッコ列車の乗車券を予約してあったので、半日の時間の余裕ができた。妻は豊岡まで行くのなら玄武洞を見学したいと言っていたが、私は高校時代に習った地学の教師がひどく変わった人物で、岩石やら柱状節理と聞くと当時の不愉快なことを思い出すこともあり興味が湧かない。ましてや玄武洞は豊岡の街から6キロも離れており、バスなどの公共交通機関がなく、アクセスするにはレンタカーかタクシーを使うしかない行きづらい場所にある。だが、ここまで来て国の指定天然記念物でユネスコ・ジオパークにも指定された玄武洞を見ないのも勿体ないかと、”話のタネ”と思って(しぶしぶ)見学することを決めたのである。現地で聞けばタクシーならJR豊岡駅より玄武洞まで片道で3000円、往復6000円との事で、これはレンタカーの料金とほぼ同じだ。レンタカーならば京都に向かう午後の特急の時間に合わせ足の心配もぐっと減るが、クルマを借りたり返したりする手続きや給油の面倒を考えれば、手っ取り早くタクシーで往復する方が簡単そうだ。玄武洞にはタクシー会社への直通電話も設置されていることもわかり、帰路の配車も容易だったので結局タクシーを利用することとした。


玄武洞は円山川沿いに聳え立つ5つの巨大な絶壁で、そこではきれいに発達した柱状節理の岩盤をみることができる。なんでもこの地帯は火山由来の玄武岩で構成されており、熱い溶岩が地表に出て冷却される際に、収縮するに従い外側から規則性のある割れ目が出来、これが柱状節理と呼ばれる連続した石の柱になったとのことである。岩盤に隣接して建てられた玄武洞ミュージアムでは、玄武岩という岩石の日本名はここ玄武洞から名づけられたこと、玄武岩はマグマからできた地球表面でもっとも多い岩石で海洋底は玄武岩が優勢であること、玄武岩の磁性を測定すると地磁気の変化がわかる事などを教えてくれる。1926年に地球磁場の反転を世界で初めて唱えたのも、この玄武洞などで磁性が現在と逆向きであることを見いだした京都大学の松山基範博士だったことを館内の展示で知ったが、今ならノーベル賞を超えてもおかしくない大発見がここを舞台にして日本人によって為されたとは驚きの事実であった。地磁気の逆転によって地球環境は大きな影響を受けることは云うまでもないが、地球科学の発展に日本人が多大な貢献をしたことを知り、地学に対するかつてのネガティブなイメージが少しは拭われたような気がした。


その後、豊岡にとって返し、特急「きのさき」で京都に向かったが、久しぶりの山陰本線列車に乗車とあって飽くことなく車窓の景色を楽しむことができた。最近は便利になって、スマホの地図アプリで列車がどこを走っているのか瞬時にわかるので、バッテリーが減るのも気にせずにスマホの画面と沿線の景色を見比べるのが旅の楽しみである。景色だけでなく乗っている車両がどういう形式なのか、停車する町の人口や歴史なども即座に検索できるとは、凄い世の中になったものだ。手元のスマホのマップを見ていると「きのさき」は豊岡を出てから円山川水系沿いに川を上り詰め、和田山を経由し分水嶺を超えた後は、由良川水系の支流を下り福知山に至ることが分かった。ここからは由良川の別の水路沿いに上流に向かい、再び日本海と太平洋を隔てる分水嶺を経て、大阪湾に注ぐ桂川水系に分け入り京都を目指す行路を辿っている。山陰本線に限らず、東北本線や中央本線など古くに敷かれた鉄路は、山を越えるのにほとんどが川沿いに僅かずつ標高を稼ぎ、サミットをなるべく短い隧道や切通しで超え、別の水路に至り町へ下るケースが多いようだ。重機械のない時代に山地を越えて鉄道を敷設することが如何に難事業であったのか、先人の苦労を偲ぶことが出来るのも、手許に地図があってならではの事である。列車に乗るとすぐブラインドを下げたり、スマホでも動画を見たりゲームをしている人が多いが、新しいツールを使って歴史や地理の旅を楽しむのも新たな喜びである。(このシリーズ完)

JR西日本289系 特急電車「きのさき」
20241222_20241222140501

2024年12月19日 (木)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(3) 『嵯峨野トロッコ列車』乗車

20241219
DE10の次の車両は吹き曝しのリッチ号5号車

豊岡で一泊した翌日は午前中にユネスコ・ジオパークに指定された玄武洞を見学し、その後の帰路に山陰本線で京都方面まで出て、嵯峨野観光鉄道トロッコ列車に乗車することにした。妻があれも見たい、ここも行きたいと考えに考えをこらした末の旅程だが、旅行会社が企画する団体旅行も顔負けの諸行事テンコ盛のスケジュールになってしまった。同じ値段ならだいたい女性の方が欲張りな内容を求めがちなのが世の常と云えよう。この時期は嵯峨野の紅葉も盛りを過ぎているが、夕方以降に沿線のライトアップ&イルミネーションを楽しむ 「光の幻想列車」とする便が運転されるので、これに乗車するのである。ということで豊岡から乗車した特急「きのさき」を亀岡駅で降りて普通列車に乗り換え、山陰本線の嵯峨嵐山駅で下車、ここからJR線に隣接するトロッコ嵯峨駅に向かった。この季節に限らずトロッコ列車はどの便も満員とあって、あらかじめトロッコ嵯峨駅/トロッコ亀岡駅間の往復列車の乗車券は一か月前の発売開始日にオンライン予約済である。


嵯峨野トロッコ列車は、トロッコ嵯峨駅とトロッコ亀岡駅の7.3キロを走り1991年より運転が行われている。この区間はもともとJR山陰本線の線路であったが、同線が複線電化工事で新線に付け替えられることに伴い、旧来の施設を利用して新たに観光列車として営業を開始したものである。このトロッコ列車はJR西日本より譲り受けたDE10型ディーゼル機関車が動力源となり5両のトロッコ客車を牽引・推進する運転で、(機関車の付け替えはなく)亀岡方の1号客車には総括制御の運転席が設けられている。また嵯峨方の機関車隣の5号車は窓ガラスのない 「ザ・リッチ」と呼ばれるいかにもトロッコらしい車両になっている。路線の途中にはトロッコ嵐山とトロッコ保津峡の2駅があり、保津川の渓谷美や名残りの紅葉をめでながら、トロッコ列車は旧山陰本線の古い橋梁や隧道を片道25分(折り返しの往復で50分)ほどかけて進んで行く。線路は峡谷の左岸、右岸の両方を走るので、全車指定席のどちらのサイドに座っても不公平感なく景色を眺められる。ただ行きの亀岡まではガラスの風防がある2号に乗車したが、帰りは「リッチ」号の5号車にわざわざ席を予約したところ、外は底冷えの空気吹きさらしとあって寒いことこの上なかった。


これらの客車は車体長14米の元無蓋車のトキ25000形を改造した車両で、乗り心地はお世辞にも良いとは言えない。一応、2軸ボギー台車を履いてはいるものの、本来は石炭や原木を積んで走っていた貨車なので、揺れは直接身体に伝わってくるし、自動連結器の遊びも大きく、起動・制動の度にガッチャンと騒音や振動が激しいのが気になる。もちろん全車両とも冷暖房がなく前世紀期の遺物的な乗り物だが、これこそが「トロッコ列車」だ、と割り切れば揺れる車内も楽しいものとなる。ただ驚いたのは、基点のトロッコ嵯峨駅を出た直後に、現在の山陰本線の下り線路を900米ほどトロッコ列車が走ること。全区間単線で1列車しか運行されないため、トロッコ鉄道としての閉塞の問題はないとしても、JR西日本の近畿アーバンネットワークの一部を、この列車が往復とも併用するのは大丈夫なのだろうかとふと心配になる。ひんぱんに列車が往来する幹線の本線線路を、トロッコ列車がのろのろ通過する状況にやや違和感を覚えぬでもないが、この点はJR西日本の総合指令所監視の下、ATSが安全を担保しているのであろう。紅葉の美しさや夕方のイルミネーションには心を打たれるものの、妙なことが気になるのが鉄オタのオタクたる所以である。

イルミネーションに映える紅葉と渓谷
20241219_20241219141902 20241219_20241219141901

より以前の記事一覧

フォト
2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
無料ブログはココログ