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2025年1月

2025年1月29日 (水)

注文するのも ラク じゃない

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「ふてほど」市郎は居酒屋でタブレットで注文する

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炙り〆サバが200人前


中学時代の友人6人と渋谷の居酒屋で平日午後1時からの昼呑みをした。周囲をみれば相変わらず同じような年恰好のジジイのグループが多い。最近の都内盛り場の居酒屋は、午後のヒマな時間にこういう年配者の昼呑みで稼いでいるようだ。案内された席につくと、ここではテーブルに置かれたタブレットのパネルに表示されたメニューから飲み物や料理を注文をする方式であった。最近はやりのQRコードを読んで自分のスマホからオーダーする必要はなかったことに一同まずはホッとするが、それでも目の前のパネルに誰もなかなか触れたがらない。「俺はビール大」「おれはビール中にフライドポテトかな」などと時代遅れのオヤジ達それぞれが勝手に口走るうち、大学は理工学部を出た( 文科系出より少しは機械に強そうな )一人が意を決して「じゃあ俺が代表して」とタブレット端末を操作し始めた。ほどなく最初の一杯が出そろって無事乾杯と思いきや、またもや同じ数のビールに加え、頼んだフライドチキンが2皿も運ばれてきた。


料理を運んできた男性店員に「え?1つしか頼んでないのに」と理工学部が文句を云うと「いやオーダー入ってます」と彼は憮然と答える。「注文済みの確認の画面がなくて、注文が通っているか分からず余分にボタンを押したのかなあ?」と今度は理工学部がやや不安げに呟けば、「画面をちょっとスライドさせたら履歴確認できますよ」とその店員はいとも簡単に言う。言われるままそうしてみれば操作ミスなのか、数量欄には間違いなく2と入力されており、店員は「やれやれ」という顔で立ち去って行った。結局この日は操作不慣れな中、フライドチキン×2や串カツ×3、フライドポテト×3のように、揚げ物ばかりでカンベンというものや、飲みたかったのに注文がうまく行かず諦めた黒ビールなど、一体何を飲み食いしたのか、満足したのか足りないのか分からない状況だ。ただフライドチキンにかなり入っていたのか、ガーリックの匂いだけをまき散らして、一同まだ外は明るい中、ふらふらと家路についたのであった。


こうしてみると最近は注文一つするのもラクでない。そういえば昨年テレビで話題になった「不適切にもほどがある」を最近動画配信サービスで再び楽しんだのだが、1986年からタイムスリップしてきた主人公の市郎が、現代の居酒屋でタブレット注文したところ、炙り〆サバ200人前を誤って注文してしまった場面があった。どうやら我々も1980年代の意識のまま2025年を迎えているのか、機械操作に慣れないせいもあって、日常場面で困惑することがしばしばである。目の前の画面から「三択から選んで下さい」などと表示されると「 はてどうするか」と妙にオドオドするし、間違ったボタンを押してしまい「最初からやり直して下さい」となると、「ふざけるな!」と機械を殴りつけたくなる。なのでスーパーの会計はセルフレジよりもどんなに行列が長くても有人のレジに並ぶし、みどりの窓口のある駅では、券売機で購入可能な切符であっても窓口に行く。銀行から送金する際には「手数料も安いし簡単なのでATMで」と案内されても「窓口でやって領収印を欲しい」と主張して係員を呆れさせる。年寄りは時間なら幾らでもある。手数料を少々取られても問題ない。画面より人の手を使って作業が為された方がはるかに気持ちが良いのだ。

2025年1月24日 (金)

「 日本外交の劣化 」 山上信吾・著(文芸春秋社刊)

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反中姿勢を露わにするトランプ政権の誕生で、戦狼外交もこのところホンの少しおとなしめだが、覇権国家として西側の民主主義国家に牙をむくのがお約束のシナである。台湾情勢も今後どう展開するか分からぬ中、元外交官の評論家たちを交えて情勢を分析をするテレビの政策番組も多い。尖閣の例でも明らかなように、彼ら評論家らの討論を聞いていると、シナに関しては一応「ケシカラン」との声を挙げながらも、相手の言い分も忖度し、我が国の過剰な反応を諫めるかの融和的な物言いに落ち着く発言もよく聞く。そんな中、最近テレビやネットで、一貫してはっきりとした反中を貫く意見を繰り返しているのが、前オーストラリア特命全権大使で、現在は外交評論家である山上信吾氏である。外務官僚上がりに似合わぬ明快、かつ小気味よい主張を繰り出す山上氏のことを注目していたら、昨年彼の新著「日本外交の劣化」が文芸春秋社から出版され、これが評判となっているらしいので購読してみた。


総じて日本の外交は問題が生じた際に事なかれ主義で、ややもすれば相手国に押され気味であり、外務省は国益をどう考えているのかと日ごろ私は心配していたのだが、山上氏が本書で指摘する外務省の実態をみれば、「やはりそういうことか、役人はそんな考えで動いているのか」と合点がいく箇所が非常に多い。曰くロビイング能力の劣化、気概の弱さ、外に出て行かない内向き志向、規律の弛緩、政治家との不適切な距離、チャイナスクールの視野の偏り、国益に背く行動など、いまの外務省の内部に巣食う宿痾を氏は本書で舌鋒鋭く批判する。自分の上司たちを実名で論評したかと思えば、総合商社のトップから中国大使となって注目を浴びた伊藤忠の丹羽氏(と思われる人物)も批評しており、読みながら勇気ある発信に感心することしきりである。東大法学部に入る前は桐朋学園でピッチャーだったというだけあって、全編忖度なしで「おいおい、ここまで書いても大丈夫なのかい?」と心配になるほどのスポーツマン的ド真中の豪速球直球の内容であった。


本書の後書きには「本書は、外交官としての私の遺言である。遺言である以上、かつての先輩、同僚、後輩との人間関係に遠慮して行儀よく丸く収めることは、とうにあきらめた。むしろ、今後の日本外交のために、歯に衣着せず、敬称を略して語ることとした」と氏は覚悟を披露しているが、こんな直言居士的性格のため、本人としては人事的に今一歩報われなかった口惜しさも随所ににじみ出る文章だ。しかしものごとをソフトに収めるのが「大人」のような世の風潮のなか、国益や後輩を思えばこそ歯に衣を着せず黒白はっきりと意見を通す氏の姿勢には好感がもてる。第2次トランプ政権の誕生で世界のパラダイムは大転換するであろうに、相変わらずグローバリズム追従かつ媚中の石破政権をバックにするのが今の外務省だと云える。内部崩壊の韓国、無法のシナやロシア、ロシアに歩み寄る北朝鮮など激しく移り行く国際情勢から目が離せない中で、外務省の重要性は一段と増している。山上氏のように保守の心情に立脚しつつ、日本人の矜持を持って国益を追求する人材が、今の外務省に多数いるのだろうか。読めば読むほどそんな心配を想起させる「日本外交の劣化」であり、氏が苦言を呈する人事・教育の適正化を同省に望みたいところである。

2025年1月21日 (火)

蒲蒲線構想、国交省に正式に申請

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のんびりと3両編成の東急多摩川線と池上線が発着する蒲田駅  青函トンネル付近 新幹線とJR貨物線の三線軌条


東京急行多摩川線(旧・目蒲線)の終点である蒲田駅はJR京浜東北線の蒲田駅への乗り換え駅である。この東急線及びJRの蒲田駅と、京浜急行本線と空港線の分岐点にあたる京急蒲田駅は約800米離れており、利用者が両駅を徒歩で連絡するのはとても不便な場所に位置している。よって東急多摩川線を延伸してこの間を結び、東急多摩川線の電車が京急空港線に直結すれば、東急沿線の城南地区から羽田空港へ行くのはぐっと便利になる。同時に東急多摩川線から東急東横線や地下鉄副都心線を経由し、相互乗り入れする西武池袋線や東武東上線の沿線、あるいは同じく東急線に乗り入れている相鉄線沿線からも羽田空港へのアクセスが延伸でとても良くなることになる。この東急蒲田駅と京急蒲田駅を結ぶ路線の建設、いわゆる蒲蒲線計画に関し、この度、東急と大田区が共同で設立した第三セクターより国交省に整備構想の認定申請が正式になされたとの報道があった。かねてから何度も噂されていた蒲蒲線計画だが、都度様々な理由で立ち消えになっていたものが、ようやく前進することになり、鉄道ファンとしては正式申請の報道に大いに興味を掻き立てられているところだ。


この計画の一番のネックだったのが、京急線の軌間(線路と線路の幅)が1435ミリに対して、東急線が1067ミリであり、東急の車両(あるいは東急に乗り入れする地下鉄や西武、東武、相鉄車両)が京急線に入れないことにあった。この隘路を突破するためには、青函トンネル内で北海道新幹線とJR貨物が行っているように3本目の軌条を京急線内に設置するか、外国で実施されている軌間を変えられるフリーゲージ台車を導入する必要があるが、いずれにしても軌間の異なる鉄道間の運転はそう簡単な話ではない。また東急多摩川線は車長18米で3ドアの車両が3両で走るローカル線であるのに対して、京急は18米3ドア車で8両編成、構想実現の折に多摩川線に乗り入れる東急の車両は20米で4ドア車が8両または10両編成と、サイズも車両数もみな規格が違うためにホーム長やホームドアーの調整も容易ではない。蒲蒲線の線路と京急空港線の間で新たに渡り線やポイントを設置するのも、住戸が密集した大田区の工業地域を走る空港線内で用地が確保できるのか疑わしい。このように東急の車両が京急空港線に乗り入れ、羽田空港まで直接運転をするのは物理的にも技術的にも難しい問題が多々あることが、期待されながらもこの構想が長い間進捗しない理由であった。


今回正式に国交省に申請したプランはいかなるものであろうか。大田区の『新空港線(蒲蒲線)メインページ』を見ると、まずは第1期工事として、東急多摩川線を蒲田駅より一つ手前の矢口渡駅より地下化して蒲田駅を地下駅にし、さらに地下を延伸して京急蒲田駅地下に至る線路を建設するとしている(下図)。これにかかる総工費は1250億円で、完成は2040年以降と発表されたとおり遠大な工事である。軌間の異なる車両の乗り入れについては、第2期工事で 『 フリーゲージトレインや三線軌条、駅での対面乗り換えなど、あらゆる整備方法を、技術面・採算面も含めて関係者間で引き続き検討していきます。』(同ホームページ)とやはり宿題が先送りされている。しかしこの第1期工事だけでも、今約37分かかる東急線自由が丘―京急蒲田駅間が、約15分と大幅に短縮されると云うので、東京城南部や埼玉や神奈川方面からの羽田空港アクセス時間が短縮されることは大いに期待できよう。


ただ京急蒲田駅は市街地にある分岐駅という制約から、2階が上り線、3階が下り線となる2面6線のホームで「蒲田要塞」の別名があるほどの変形構造。京急の羽田空港行は列車によって1番線発、または4番線発と都度変わるので乗り慣れないとしばしばホームを間違えそうになる駅である。第1期工事が完成して、新しい蒲蒲線で京急蒲田駅の地下ホームに到着しても、大きな荷物を持った多くの乗り換え客が、一斉に都度発車の階数が変わるホームに間違わずに直行できるのだろうか。私自身、京急蒲田駅で過去に右往左往した経験があるのでその点は心配だ。そもそも東急線の終着駅が「京急蒲田」というのもなんだか違和感を感じてならない。となれば第2期工事が完成して、東急蒲蒲線の電車が京急空港線に直接乗り入れ、空港まで乗り換えなしで行ける日が来ることを祈るのみだが、その頃はこちらも生きているか怪しいものだ。まずは第1期工事後に「東武東上線川越市発、京急蒲田駅行空港快速」などというミステリートレインまがいの列車が走るかもしれないのが鉄道ファンとして楽しみではある。

 

大田区のサイト:「新空港線(蒲蒲線)メインページ」より転載
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2025年1月19日 (日)

飛鳥II 2025年オセアニアグランドクルーズ出港

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大勢の見送り人に送られ横浜港大さん橋を出港、オセアニアグランドクルーズに向かう飛鳥Ⅱ

1月19日日曜日の午後2時、気温8度、曇り空の下、横浜港から飛鳥Ⅱは2025年オセアニアグランドクルーズに旅立った。明日1月20日(月)には西日本からのゲストを神戸港で乗せ、飛鳥Ⅱは40日間にわたるロングクルーズに南半球に向かう。オセアニアグランドクルーズと云えば我々にとっては因縁のクルーズである。2021年にはこれに申し込み、代金支払いも済んでいたものの武漢ウイルスの蔓延で催行中止、そのまま繰り越した2022年も感染騒動がおさまらずに再度中止となり、ようやく実現かと期待した2023年には、本船のエンジン不調で急遽運航取り止めと3度の空振りを喰らってしまったのである。ようやく感染騒ぎも収束し、エンジンも何度かのドックでようやく調子を取り戻して、今回は飛鳥Ⅱにとって2018年以来7年ぶりにオセアニアクルーズ実現となった。


さすがに3回も袖にされたオセアニアグランドクルーズだし、値段もアップとあって今年は乗船を見送ることにしたが、多くの船友が乗船すると聞いたので、今日は横浜港大さん橋に見送りに行ってきた。オセアニアグランドクルーズやハワイアラスカグランドクルーズは、通常40日ほどで100日以上かかる世界一周クルーズよりはかなり手軽、かつ体力や健康に自信がなくなった高齢者でもあまり無理のない長さゆえ人気が高く、このクルーズも横浜・神戸から600名乗船とほぼ満船とのこと。かつて世界一周クルーズなどで知り合った友人たちのなかにも、年齢をとるにつれ 「もうワールドクルーズは結構!、オセアニアグランドクルーズ程度がちょうど良い」とかなりの数が今回のこのクルーズに参加するので、見送り甲斐があると云うものである。


大さん橋の出国パスポートコントロールエリアに入る前のスペースには、船客待合エリアが設けられ、乗船客と見送りの人の話の輪が広がっていた。「今日は見送りに行くね」と事前に約束していた3組の他に、会場を見渡せばそこかしこに顔見知りの人たちの顔があり、「あれ、今回もご一緒?よろしくね」「いや今日は見送りだけです、お気を付けていってらっしゃい」などとお約束の会話が続く。最後に船上で会ってから何年かたちそれなりに老けた顔もあるが、クルーズに出発する前はみなウキウキと輝いてみえるもので、やはりここまで来れば皆と一緒に船に乗りたくなるのが心情である。一体どの位の人たちと挨拶を交わしたかと、帰宅後に指折り数えてみれば20組40名ほどとあって、横浜乗船が300名とすれば1割以上が顔見知りということになる。神戸からも何組か知人が乗ってくるだろうから、もし乗船していれば、毎日パームコートでお茶を飲むのも会話に忙しかっただろうなと一層乗船への思いが募ってきた。

飛鳥Ⅱ2021年オセアニアグランドクルーズ中止と2022年オセアニアグランドクルーズ発表(2020年10月29日)
飛鳥Ⅱ「2023年オセアニアグランドクルーズ」寄港地観光ツアー・船内生活説明会(2022年11月27日)
嗚呼!飛鳥Ⅱ2023年オセアニアグランドクルーズ運航中止(2023年1月20日)
飛鳥Ⅱ オセアニアグランドクルーズ 出港の日(2023年2月10日)

2025年1月16日 (木)

メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」恐ろしや

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風邪が大はやりのこの時期である。毎週通っているダンス教室の新年ダンスパーティも、主催者側がインフルエンザの罹患者多数で中止になってしまった。そんな折りだが、東京フィルが年に4回「響きの森クラシック・シリーズ」として文京シビックセンターで演奏する、フレッシュ名曲コンサートに義妹から誘われた。フレッシュ名曲コンサートとは「新春に相応しい名曲」を「フレッシュな指揮者やソリスト」(パンフレットの解説)で奏でるコンサートで、ヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」にドヴォルザークの「チェロ協奏曲」がこの日のプログラムである。新年とあって「春の声」も良いし、その次の2つの協奏曲を演奏するソリストたちは将来を嘱望される新進気鋭の若者たちだそうで、久しぶりのクラシック生演奏が楽しみであった。


コンサートに先立ち、自分自身は年末から鼻やのどがぐしゅぐしゅしているのがちょっと気にかかっていたが、熱も出なかったし、咳もほとんどなかったので、当日は躊躇なく出かけることにした。ただシーンと静まり返るホールでクラシック音楽を真剣に聴いている時に限って、のどがムズムズして咳払いをしたくなるのは、多くの音楽ファンの ”あるある”ではなかろうか。特に冬の寒い時には空気が乾燥していることもあって、喉が余計いがらっぱいものである。フルオーケストラの大きな音の最中に「コホン」と一つ軽く咳を紛らわすくらいで済めばよいが、それがきっかけとなって咳が止まらなくなるのは廻りに迷惑になるし、まるでウィルスを会場にまき散らすようで迷惑この上ない。簡単に咳が出来ない状況になればなるほど、普段なら気づかないぐらいの小さな喉の違和感が気になってしまうのが、人間の不条理なところである。


コンチェルトはソリストと聴衆の真剣勝負の場だとも云える。繊細なバイオリンやチェロのソロ演奏時に、大きな咳をするのは憚れるので、当日はのど飴と口を潤すペットペットボトル持参で開演を待つことにした。ウインナ・ワルツ「春の声」に続き、いよいよこの日2曲目のメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲が始まった。誰もが知るお馴染みの主題や第2主題の展開に続き、佳境、ソリストの技の見せ所でもあるカデンツァに演奏が入るのだが、場内が息をのんで新進のバイオリニストの技巧に聴き入るあたり、ふと我に返るとむずむずと喉がかゆくなり始めた。このかゆみ、繊細な見せ場の場面で起きがち、そして一旦意識すればするほど気になるものだ。さぁ困った、ここはペットボトルの水で喉をうるおすか、はたまたのど飴を取り出すかとも思うも、わりと長めのカデンツァが奏でられるなか、シーンと静まり返る客席とあってガサゴソと手許を確かめるのもちょっと気がひける。


暫くすると、ムズムズ感もそう大したことがなさそうで、第一楽章終了までは何とか堪えられそうだと思い直し、楽章の切れ目で大きなカラ咳をしてノドを鎮めようと方針を転換することにした。そうこうするうち第一楽章はエンディングを迎え、さあ咳を遠慮なく盛大に放とうと構えていると、なんとこのコンチェルトはそのまま第二楽章に突入していくではないか。今まで同じ曲を他のコンサートでも聞いたこともあったが、その時は喉の違和感もなかったから、切れ目など一切気に留めなかったのが不覚だった。さすがメンデルスゾーンが苦労して書き上げた協奏曲だけあって、この曲は随所に他とは違った工夫が凝らされており、第二楽章と第三楽章も途切れずに、三つの楽章はすべて連続して演奏される形式だったとは目からウロコ。ただ終わるかと思った第一楽章で指揮者が身体の動きを止めず、木管楽器がすぐさま次を始めるのを呆気に取られて見ているうちに、いつしか喉の不快感もすっかり忘れて、気が付けばゆったりとした抒情的な第二楽章のメロディーに没入していたのであった。冬場のクラシック音楽会はいろいろと気を遣うものだ。

2025年1月10日 (金)

PETER, PAUL & MARY(ピーター・ポール&マリー)ピーター・ヤーロウ氏逝去

フォークソンググループ PETER, PAUL & MARY(PPM)のピーター・ヤーロウ(PETER YARRAW)氏が1月7日ガンにより86歳でニューヨークで亡くなったことが報じられた。懐かしい名前を新聞で見て、家にあった古いPPMのCDアルバムを出して聴いてみることにした。PPMはピーター・ヤーロウとノエル・ポール・ストーキイー(NOEL PAUL STOOKEY)の2人の男性と女性のマリー・トラヴァース (MARY TRAVERS)の3人によって1961年に結成されたフォークグループで "PUFF"や "BLOWIN' IN THE WIND"、"500MILES"、天使のハンマー(IF I HAD A HAMMER)”など多くのフォークソングのヒット曲で知られてきたとおりである。私が彼らの音楽に初めて触れたのは中学2年生のとき、音楽好きな同級生たちが、学芸会の発表でギターを片手に”PUFF”などを披露してくれた時からである。耳に馴染みの良いメロディーと、歌詞カードさえあれば我々でもフォローできる分かり易い音楽が爾来好きになった。


ピーターはコーネル大学、ポールはミシガン州立大学出身のインテリであり、ベトナム戦争厭戦ムードが米国社会を覆っていた60年代当時、多くのフォークソング歌手がそうであったように、社会性に富んだアルバムを数多くリリースしていた。私は当時からどちらかと云えば右寄りの思想だったが、それは別として斬新で楽し気な響きにひかれ、彼らの音楽のメッセージ性は気にせずレコードやCDを聞いては一緒に口ずさんでいた。彼らは社会的な歌ばかりでなくペテロ・パウロ・マリアのグループ名が示すとおり、キリスト教に由来した歌や "THIS LAND IS YOUR LAND”のような故郷を讃える作品、子供向けの歌なども多数出しており、長い期間に亘ってギター2丁と3人の歌声だけで実に多彩な表現を奏でていた。一方でかの有名な"PUFF"では、「何かのメッセージがこの歌に込められているのでは?」との質問に、「ただ子供がPUFFという怪獣と遊んで大きくなったが大人になって別れただけ」と肩透かしの答えをしたように、分かり易いメロディラインとユーモア溢れる展開が多くの聴衆を楽しませてくれた。


1970年ごろPPMは一旦活動を中止するが、1978年に再開しており、私もシアトルに駐在していた1993年に、一度彼らのコンサートに出かけたことがあった。若い頃はキレイだなと思っていたマリーもその時には完全に「アメリカのおばさん」の体形になっていたのには驚いたが、街の中心のホールは満員盛況で賑わっていたことを思い出す。会場は私と同年配かやや年上の”良きアメリカ”を体現するような白人のカップルが多く、客席ではPPMの演ずる懐かしい歌に合わせ皆が一緒に歌詞を口ずさんでいたのが印象的だった。PPMもマリーが2009年に亡くなり、ピーターも世を去って、いまや残るはポール一人だけとなってしまった。ふと国内を見渡すと、ダークダックスも存命なのはいま一人、ボニージャックスは減員、デュークエイセスも高齢のため解散と、かつて一世を風靡した歌唱グループが次々と舞台から消えて寂しい限りだ。懐かしい人々が次々と鬼籍に入るのが齢をとるという事かと、コンサート会場で買ったPPMのTシャツを取り出してみては一人呟く。

 

1993年シアトルでのコンサートの際に購入したTシャツとCD
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2025年1月 8日 (水)

吉例「七草がゆ」と賀状や家族葬のこと

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妻が新春の吉例、七草がゆを昨日こしらえてくれた。例の”セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ”の七草である。七草がゆは歳の初めに粥とともに若菜を食べ一年の無病息災を祈る目的で、平安時代から定着した風習だそうで、お正月の飲み食いで疲れた胃腸の回復に、粥を食べてお腹を休める目的もあると言われている。春の七草や七草がゆについては、この時期に何度もこのブログで記してきたとおりなので、ちょっと検索してみると、2012年1月8日以来これまで4回アップしていることが分かった。初めて書いた2012年は、まだ毎日出社が必要なサラリーマン時代だったとは云え、一線を退き第2の職場で宴会が少なくなったことなどを記しており、次の2014年には会社に行く前に真冬でも朝30分ほど走っていたことに触れている。2022年にはオミクロン株のことを付記しているが、こうして同じ時期に過去のブログを読み返してみると当時の記憶が蘇り、それを辿りつつ新年に当たり心を新たにするようで面白い。


そういえば今年の正月は、「これをもって来年からは新年のご挨拶状を控えさせていただきます」という文面の賀状を結構受け取った。それも90歳を過ぎ字を書くのも覚束ないような年頃の人だけでなく、同期の友人や年下の60歳台の人達からもこういう賀状を何枚も貰ったのにはちょっと驚いた。賀状の交換は虚礼と云えばたしかに虚礼であり、何年も会っていないに関わらず「今年も宜しく」だとか「また会いましょう」など、とても本気とは思えぬ常套句を毎年繰り返すというのも考えてみれば変な話である。いまや本当に連絡をとろうと思えば、メールやLINEがすぐつながる時代なのに、正月だけ特別の遣り取りを続けるのもほとんど意味がない。ただ普段の生活では思い出さないような親戚や遠い知人から近況を添えた賀状を貰うと、「あの伯父さんも元気そう」「若い頃は苦労したようだがあいつも良かったなあ」などと、一瞬ではあるが過去の絆を思い出し、遠く離れてもお互いに完全に忘れているわけではないことを確認しあえる意味もある。そういう儀式は一年に一度くらいはあっても良いと私は思っている。


同じように最近は葬祭も簡素化されて、都会ではいわゆる「家族葬」が増え、友人はおろか親戚さえも知らぬ間に葬儀を執り行っているのが普通になってきた。高齢の親戚や友人の父母の身を密かに案じていると、旧年中に当人が亡くなったので来年の賀状は出しませんとの連絡葉書を受け取って驚くことがしばしばである。かつて会社員時代には、会社の仲間は勿論のこと、取引先の父君などが亡くなった際にも訃報が廻り、おっとり刀で通夜や告別式に駆け付けたから時代は変わったものだ。当時の携帯は国内でしか使えなかったから、海外出張から帰って成田空港で電源を入れた途端、「取引先の部長の父君が亡くなったので、その足で大阪の通夜に行けますか?」と会社から電話を受けたこともあった。そういう場に行けば、同業他社や業界関係者が多数集まっており、お清めの膳で一杯のみながら葬式外交や普段は交わせない会話も繰り広げられたのだった。葬儀は残された家族の為だけの儀式ではなく、故人に関わった関係者の区切りの場や儀礼の場でもある。時代の流れとは云え、賀状廃止や家族葬と聞くと、なんとなく寂しく感じる昨今である。

2025年1月 4日 (土)

クラブツーリズム 年末年始は名湯で過ごす・登別温泉『登別グランドホテル』2連泊3日間の旅

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噴煙を上げる登別温泉・地獄谷


2025年の元旦は北海道、登別温泉の宿で迎えた。日ごろ忙しくこの時期しかまとまって休めない義妹に合わせて、クラブツーリズム主催の 「年末年始は名湯で優雅に過ごす 白濁の名湯・登別温泉 『5つ星の宿』に宿泊2連泊 3日間」の団体旅行に参加することにしたものである。一昨年正月の竜飛岬での年越しに続いて ”寒い時には寒さを存分に味わう”体験である。今回は往復新幹線利用、2泊3日で札幌、小樽に函館を廻る駆け足のツアーで、例によって列車やバスの集合時間さえ守れば、あとは何も考えずに個人ではとても回りきれないテンコ盛りスケジュールを満喫できるのできわめてラクチンな正月だ。今回の参加者はほぼ定員一杯の40数名弱の盛況で、参加者も老若男女さまざまであった。かつては前日の午後に出発する上野発の列車に乗り、青森で青函連絡船に乗り継ぎ、翌日の早暁ようやく上陸した北海道だったが、今や航空機を使わずとも、最速の新幹線「はやぶさ」で、東京から函館まで4時間弱で到達できる時代となった。北海道旅行もまことに手軽になったものである。


我々の宿は硫黄泉の「5つ星」登別グランドホテルであった。ここは登別温泉でも屈指の老舗ホテルであり、偶然にも高校の修学旅行で宿泊して以来、50数年ぶりの来館となった。外は雪のちらつく中、ホテルの自慢でどこか見覚えのあるドーム型のローマ風大浴場に浸かっていると、大昔の様々な思い出が蘇ってきた。当時の東北や北海道はまだ温泉と云えば混浴スタイルが基本で、登別グランドホテルも脱衣所こそ男女別だったが、それぞれのドアから入った大浴場は共用の混浴であった。外国からの観光客など極めて少なかった時代だが、たまたま宿泊の白人女性が、入口を開けて風呂場に踏み入れるや否や男性がいるのに腰を抜かさんばかりに驚いて、クルッと踵を返し出て行ったことを思い出した。男子高校生には衝撃的な場面だったが、あれはなにしろ50数年前、それも湯気の向こうの朧げな光景である。事の真偽と我が記憶の整合性を確かめようとフロントに「風呂は当時と構造が同じ?」「かつては混浴だった?」と聞いたら、「窓廻りなどはやや変わっていますが、基本的に大浴場は昔のままです」「その頃は混浴だったと聞いています」との答えである。そうか、あれは夢や幻でなく、正にこの風呂で実際に目にした刺激的な出来事だったのだと、記憶を新たにした正月である。


ツアー中は、同じバス会社の運転手やバスガイドと旅を共にするのが、昔と変わらぬ北海道のバス旅である。今回は函館のバス会社の気さくなおばちゃん風のガイドで、彼女の井戸端会議的な車窓案内が3日間車内を盛り上げてくれた。目的地に急ぐレンタカーと違って、この地の野菜の値段や美味しいラーメン屋などローカルな話題をふんだんに提供してくれるのが観光バスの良さ。雪道をものともしない運転手もプロの技である。そういえば修学旅行の時、道内を6泊7日かけて巡る車中で、17歳~18歳の生意気盛りの男子校生徒の案内をしてくれたバスガイドは当時21歳くらいのまだ純朴な道産子の女性だった。その頃に流行り始めた「知床旅情」などを一緒に歌いながら、若い女性と血気盛んな男子高校生が1週間も空間を共にすればお互い親近感が湧くのも当然である。たまたま我々の前に彼女が案内したのは、おしゃれで有名な都内ミッション系の某私立共学高校で、「なに、あの学校は?!! 車内で男女がいちゃいちゃしてホントに気持ちが悪かったです」「男子校の方がなんぼいいか」とのガイド嬢の言葉に「そうだ、そうだ」と、すっかり意気投合したものだった。中には帰京してから彼女と文通をした者や、旅行で上京した彼女を都内見学に連れて行った友人などもいたものだった。思いがけずに50数年ぶりに修学旅行の足跡を辿ることになり、記憶の底にあった若い頃の出来事を思い出しながら、その後の永年に亘る我が来し方にまで思いを巡らした正月だった。

 

函館五稜郭タワーから五稜郭を臨む
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