豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)
週末は新潟で行われた第108回日本陸上競技選選手権大会をTV観戦して楽しんだ。この大会、何と云っても400米ハードルで競走部後輩の豊田兼君(4年・桐朋)が47秒99の好記録で優勝し、今夏のパリオリンピック大会の出場切符を手にしたのが嬉しかった。競走部からは2000年のシドニーオリンピックに競歩の小池昭彦君が出場、2004年アテネ大会、2008年北京大会を除き、山形亮太君や横田真人君らが2012年ロンドン、2016年リオ、2021年東京大会と続けてオリンピックに選手に選ばれており、豊田君の出場で4大会連続と記録がまた伸びることになった。次の週末には武漢ウイルス感染騒動後、5年ぶりに體育會の39部を一緒に卒業したOB一同が集まる同期会が行われるが、総勢100名以上の他部参加者の前で後輩たちの活躍に我々競走部のOBはちょっと鼻が高い。
私自身、現役時代は大した選手ではなかったが、ビールを片手にテレビ画面に映しだされる選手達の姿を眺めていると、当時の色々なことが頭に浮かんで来る。あの頃のレースはアンツーカーやシンダーの土の上で行われていたので、私が走った中・長距離のレースでは昨日のような雨の日には、前後の選手の跳ね揚げで全身泥まみれになったものだ。当時は土のトラック用にスパイクの針が長かったため、集団で走ると前の選手のスパイクで脛を削られて、膝から下が血だらけということもあった。今は全天候トラックとなってあの頃より雨の日でも記録の落ちがぐっと少ないのだろう。また最近は女子選手も多くなり、そのユニフォームもカラフルになって陸上競技の大会も華やかになったことが画面から伝わってくる。なにしろ、かつては800米を超えるトラック競技は女性には過酷すぎると云われ、種目がなかったのだから時代は変わるものだ。(因みに女子種目の1500米は昭和44年(1969)、5000米は平成9年(1997)、三段跳びは昭和62年(1987年)、棒高跳びは平成7年(1995年)から日本選手権の実施種目になっている。)
昨日もテレビで女子の中・長距離レースを観戦しているうち、つい身が入って「このペースなら50年前のオレなら集団について行って最後のスパートで優勝できたな」などとつい口走ってしまうのだが、傍らの妻は「女子と比べることになんか意味があるの」となんとも冷ややかである。一方で男子800米決勝では社会人のベテラン選手たちがマイペースに徹し、高校2年生の落合選手の先行逃げ切りに対応もしなかったので、「大の大人が策もなく高校生に負けてどうすんだ、高校生なんぞに絶対負けられるかという気概をもって走れよ」「こういう時はだな、最後の直線に入るまで彼を集団でポケットして前に出させないんだ」とつい鼻息荒く語ってしまった。聞いていた妻は「高校生にそんな意地悪するものなの?やぁねぇ」と思わぬところで面白がっていた。
最近いつも感心するのは800米から5000米まで多種目に積極的な挑む田中希美選手のチャレンジ精神。特に土曜日は800米の予選を走り、その1時間半後に5000米決勝を走るというふつうは考えられない間隔でレースをこなしたのには驚いた。彼女はよほど強靭なメンタルと大きな目標を持って競技に励んでいるに違いない。この心意気があれば、いつの日かもう一皮むけて国際的にも有名な大選手になることだろう。その反対に日本の男子跳躍陣はどうも覇気がなく、走り幅跳びの今回の優勝記録は7米95と8米にも届かなかったのはなんとも不甲斐ない。山田宏臣氏が8米01を跳んだのは「地獄のジャンプ(2008年5月20日投稿)」1970年と今から54年も前のことであり、1969年(昭和44年)の日本選手権の優勝記録は7米90だから、その当時から走り幅跳びはあまり進歩していないようだ。雨の影響があったことはわかるが、棒高跳びや走高跳の記録も然り。何十年も記録が伸びないのは、跳躍選手の発掘・育成になにか欠陥があるのではなかろうか。いずれにしてもオリンピック・パリ大会は間もなく開幕である。4年に一度(今回は東京以後3年)の熱い夏がやってきた。
« 日々あれこれ | トップページ | KT50 慶應義塾體育会同期会と第100回早慶対抗陸上記念祝賀会 »
「スポーツ」カテゴリの記事
- 旧友と行く慶早戦(2024.11.11)
- 時代の証言者 こころで走る 瀬古利彦氏(2024.09.05)
- 袖ふり合うも多生の縁(2024.08.22)
- 第95回都市対抗野球大会 伏木海陸運送 vs 三菱重工East(2024.07.26)
- 豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)(2024.07.01)
コメント