ついにスマホに換えるの記
従来の携帯電話はガラケーと云って、日本独自の形式でガラパゴス的な進化をたどった携帯電話なのだそうだが、これまではこの”ガラケー”で何の不自由も感じていなかった私である。日頃ガラケーを使う用事と云えば妻に何かをたのむか我が家にカエルコール、すなわちメシを作ってくれと連絡するのが関の山。たまに友人や親戚から電話やメールが来たりもしていたが、それ以外に誰かと頻繁に連絡を取り合う必要も、外でパソコンのお世話になる必要もない生活である。通勤電車に乗って多くの人が黙々とスマホに熱中しているあり様を見ると、何を皆一心不乱にしているのか何やら異様な雰囲気さえ感じてしまう一方で、なぜスマホが人々をそれほどまでトリコにするのか若干興味が無い事もなかった。
で、電気店に行って「スマホで一体何をするの?」と色々質問したところ、「お客様の生活ではスマホは必要ありませんね、ガラケーの方が通信料も安いし、そのままでよろしいのでは?」と半ばバカにした様な店員の返事が返ってきたものである。そうは云うものの皆が携帯からスマホになる中、あまりにも世の中の動きに取り残されるのも何かなあ、という考えが心のスミに浮かぶのが気の弱い私の性質である。そんな中で2ヶ月ほど前に妻がそろそろスマホに代えるというのを機に、ならばこの際私もまったく同じ機種に取り替えようか、とついにガラケーをスマホに換える事にした。解説書などは一切読む気がない私でも、理工系の妻が使うのと同じ機種なら「おーい、これはどうすんだ?」と一言わめくだけで操作に戸惑う事もないし、彼女がいろいろ使い方やアプリに習熟するその成果を後でちょいと借りれば良いわけである。
といってもいざ買い換えてみると今までの携帯と使い勝手は大いに違うし、画面に現れる予測文字は小さいしと慣れるには苦労が多い。会社でメール一つ返事するのに四苦八苦して溜息をついていると、周囲の若者たちが 「○○さんもスマホに換えたのですか」 と、彼らはこういうものには目ざく反応するものだ。もっとも老眼がすすんだ身とあっては電車の中では眼鏡なしに小さな画面や文字を読めないし、ましてや車中でゲームをやろうなどと云う気にはさらさらならない。ただ混んだ電車や会社の昼休みに還暦をとうに過ぎたおっちゃんがスマホをポケットからととり出し、「あの人、気だけは若い!」というポーズを見せる小道具としてはちょっと使えそうだ。という事で、この週末には我が家のITに関する ”主任” である妻にネットラジオ局のアプリをインストールしてもらい、今朝はモーツアルトを聞きながら出勤したのだった。そういえば妻は「どうして『主任』レベル呼ばわりするの、ちゃんと『CIO=Chief Information Officer』と呼びなさい」とますます意気軒昂なのがちょっとくやしい。
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