ミッドウェイ
ホノルルを出て3日目、飛鳥Ⅱはミッドウェイ島の南250マイルを走り、日付変更線を越え約40日振りに東半球に戻って来た。優勢な太平洋高気圧に覆われた周辺の海域は穏やかで、一路横浜を目指して飛鳥Ⅱは全速で航行している。デッキに出て平和な海や青空を見ていると、かつてこの辺りで日米艦隊の壮絶な海戦が行われた事が嘘の様に思える。ミッドウェイ沖海戦は、昭和17年4月に米機動部隊から発艦した爆撃機が日本本土を空襲、これに肝を冷やした大本営が、防衛圏の拡大と敵空母をおびき寄せ殲滅する為に、太平洋の要衝ミッドウェイ島攻略を企図した事から昭和17年6月に起こった日米機動部隊の戦いである。
ミッドウェイ島攻略を目指す南雲中将率いる機動部隊と、これを迎え撃つスプルーアンス提督の機動部隊との間で交わされた乾坤一滴の戦いは、日本の暗号がアメリカ側に解読されていた上に、幾多の作戦ミスが重なり、日本側の大敗北となった事は、多くの書物や映画などで知られるところだ。この戦いでわが国は、赤城・加賀・蒼竜・飛龍の4隻の制式空母や多くのベテランパイロットを失ったのに対し、アメリカの空母沈没は1隻でパイロットの損耗も日本の半分であり、ミッドウェイの敗北が、太平洋における日米の戦いのターニングポイントとなった訳である。
太平洋の中央付近に位置するミッドウェイ島の近海を航行してみると、当時の兵器の能力から考えて、ここに基地を構える事の重要性が実感できる。ミッドウェイ島攻略の戦略的な面と、それに乗じて真珠湾攻撃で撃ち損じた米国の空母をおびき寄せるのが日本海軍のもくろみであったと云われるが、ホノルルから船で3日、横浜まで5日の航程に島が位置する事を考えると、ここが決戦の場所となった地理的な必然性が理解できる気がする。
昭和17年6月、あの日わが空母が地上攻撃用の爆弾を、艦隊攻撃用の魚雷に換装している隙に、敵の急降下爆撃機が襲来した不運がなかりせば、以後の戦局はどう変わっていたのだろうか。水平線の彼方に広がる夏雲を眺めていると、歴史に”イフ”はないものの、劇画"ジパング”の様な”もしも戦史”ストーリーが白昼夢の様に脳裏に展開する。そして太平洋で亡くなった日米の多くの兵士の犠牲の上に、今こうして平和に航海できるという幸せをかみ締めるクルーズの終盤である。
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