ピーター岡田
ウオーリー与那嶺氏が他界した。我々の世代の男性なら長島・王などと共にショート広岡・セカンド土谷・キャッチャー藤尾、外野はエンディー宮本とウオーリー与那嶺などと当時のジャイアンツの主力選手の名前がすらすらと出てくるのではないだろうか。そういえば後年、巨人のV10を阻止した時の中日監督も、与那嶺氏だったと訃報を見てあらためてプロ野球の歴史を思い出し、戦後の日本のスポーツ界は少なからず日系米人に支えられて来た事に気づくのである。新聞で日系二世の与那嶺氏の経歴などを見ているうち、私は戦後の日本のアメリカン・フットボール界に大きな貢献をした同じ二世のピーター岡田氏の事を思い出した。
1990年代初めアメリカ西海岸に、私は駐在を命じられ赴任したのだが、最初の数ヶ月は家族も来ず一人暮らし。当時、言葉も地理も不案内の上、慣れぬ単身での生活に苦労していたのだが、その時に知人を通じて紹介してもらったのがピーター岡田氏とそのファミリーである。ピーター岡田氏は戦後間もない頃、進駐軍の軍人として日本に駐留していた時に大阪の豊中中学(現・豊中高校)や池田中学(現・池田高校)でフットボールを教え、その指導で行われた豊中中学と池田中学のタッチ・フットゲームはわが国初めての「中等学校米式蹴球試合」として記録に残っていて、彼の貢献を称えて今でもアメリカンフットボールの全国大会にはピーター岡田氏のトロフィーがあるそうだ。
その岡田氏に初めてお会いしたのは、彼が70歳前後の頃だろうか。材木の取引で成功し子供たちも立派に独立した後、岡田氏は大きな湖に面した広いアパートで悠々自適の生活を夫婦二人で送っておられた。日本語も大分あやしくなっていたが、日系二世に良くある様に、父母の母国である日本から来て、慣れぬ米国生活に戸惑っている日本人には、身内同様に親身になって世話をしてくれたのである。感謝祭の休暇で時間を持て余した時などは、彼のファミリーと一緒に七面鳥をご馳走になったし、近辺の美味しいレストランなども随分教えてもらった。1998年の全米プロゴルフ選手権の舞台となったサハリ・カントリークラブなど、一介の駐在員ではなかなかプレイできない名門ゴルフ場にも連れて行ってもらうなど、アメリカ生活の基礎は彼に導いてもらった部分が大きいと今でもとても感謝している。
岡田氏の口からは「日本人の魂」などという言葉がよく飛び出してきたが、普段そんな事をあまり意識していない私などは、その言葉や武士道的な彼の精神に却ってびっくりしたものである。与那嶺氏にしろ岡田氏にしろ、日系人は戦争中は不幸な境遇を味わったに違いないが、我々が忘れた日本人の「魂」を、彼らはどこか心のよりどころにして、人生を生き抜いて来た様に感じる。与那嶺氏のかつての果敢なプレーを称える新聞記事を読むにつけ、戦後戦勝国の人間として日本に来て、敗戦で打ちひしがれた日本人に敢闘精神を思い出させ、日本人が忘れた「SAMURAI」精神を鼓舞してくれたのが、彼ら日系人のスポーツ関係者ではないかとあらためて認識するのである。
残念ながらピーター岡田氏は2004年に84歳で亡くなったが、豊中高校の中庭には彼の贈った石碑が埋め込まれていおり、そこには
「不幸な戦争が終わり、それに続く数々の混乱のなかで、私は高校生達に生きる活力を与えるため、1946年10月1日、この豊中に“タツチフットボール”の種を蒔いた。これが日本の高校アメリカン・フツトボールの発祥となった。」と彫られているそうだ。
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