おおみそか
という訳で、今年も好き勝手にづらづらとブログを書きなぐってきた。その道の専門家ではない事がらが多いので、ものごとを良く知りもしない上に幼稚な文章でブログを書いていると時々ひとり恥じ入ってしまう事も多い。
そんな2009年であったが、今年は父の成年後見人手続きと逝去という事件があった。高齢であった事やこれまでの経緯を考えると、父が亡くなった事はむしろ天命と感じるのだが、成年後見業務や諸手続きを進める中で、法務局や家庭裁判所、弁護士や司法書士、いろいろな金融機関との折衝が重なり、これまでの人生で初めて経験する事が今年はかず多くあった。法的手続きのほか有料老人ホーム入寮手続きや後期高齢者・終末医療の実際の場面、老人に対する行政への対応なども家族として参加する事になり、その実態を主体的に理解できた事が多々あった。公務員共済と厚生年金のデータが共有されていないなど年金の問題も実感として捉えられたし、社会保険事務所が極めて真摯に対応してくれた事も驚きであった。
これらの様々な手続きを通じて、一人の人間は生物的に生きると云う事のほかに、社会的な様々な仕組みによって生かされていて、そのデータはいささかバラバラで非効率的ではあるのだが、それぞれが何らかの形で補い合い、織物が紡がれるように一人の人間の存在が担保されている事を実感したのであった。私でも年齢を重ねるに従って「 人は一人で生きているのではない、周囲の人や家族、社会や天から生かさせてもらっている 」 と珠勝にも感じる事があるのだが、父の後見人業務や死亡に伴う諸手続きを契機に、倫理的な意味だけでなく現実的にも益々そう云った念を強くした一年であった。
明日から2010年代、社会への文句や注文はブログに留め、心穏やかに楽しく過ごしたいものである。
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