神田お玉が池
子供の頃、熱狂した漫画・赤胴鈴之助の師匠、千葉周作の道場は「神田お玉が池」にあり、人形佐七も「お玉が池」の親分であったから、「お玉が池」というのは少なくとも江戸時代当時は、実在する池だと思っていた。江戸から東京になって、大きな川や堀は次々埋められ、中小河川は暗渠になっていったから、かつて江戸市内や東京市内を縦横に流れた水路は、時代と共に見る影もなく目に入らなくなっている。「お玉が池」もそんな近代になって消えた池かと思っていた。
「お玉が池」は、かつては桜が綺麗な大きな池で、池の端にあった御茶屋の娘、器量良しのお玉が二人の男に言い寄られて悩んだ挙句、池に身を投げたのでこの名が付いたという実在の大きな池だった様である。しかしながらこの大池は江戸時代のごく初期・1610年頃までに、埋め立てられたか干上がったかしたらしく、江戸時代の地図には池の記載がない。千葉周作の実在の道場はごく小さくなった「お玉が池」か、シンボルとして地名に残る”お玉が池”にあったというのが事実の様である。
池の源流としては東京の西郊、小平市あたりに端を発する石神井川と思われるが、石神井川は現在、王子駅東方近辺で隅田川に注いでいる。しかしかつてこの川は王子の飛鳥山付近から南にその流れを変え、上野不忍池の池に流れ込んでいたらしい。この流れは其の後さらに神田お玉が池近辺を潤し東京湾に注いでいたのではないか、と私は推測しているが、このあたり石神井川の流路の変更などについては、北区飛鳥山博物館に詳しく展示・説明がされていて興味深い。
さて例によって梅雨の合間の昼休み、東京名所旧跡めぐりの散歩をして、神田岩本町あたりを歩いていると、”お玉が池種痘所跡”という石碑に出会う。近辺には当時の繁華街・人形町があり江戸で最も古い”石町・時の鐘”などもあって、江戸の香りが幾らか残っている感じでもある。種痘所は安政5年(1858年)5月7日蘭学者らがこの地に開設し、これが後に東京大学医学部になったと説明の碑にある。
お玉が池がなぜ江戸のごく初期に消失してしまったのか、自然のなせる事だったか人工的なものだったか大変興味がそそられるのだが、少なくとも明治になるまでは、このあたりが”お玉が池”と云われ、近辺が江戸の生活や市民文化の重要な位置を占めていた様が伺える。そういえば祖父も東大医学部の教授であったから、何がしかのご縁がこの石碑にもあろうか、と云う思いがちょっと胸をかすめた昼休みであった。
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