記憶の引き出し
この春で90歳になる父が入院している。今日現在、体調に差し迫って危険があるわけではないのだが、加齢の為に徐々に生命力が衰えて行っている様である。日中はうつらうつらしている事が多く、時々一人でぶつぶつとベッドで何かを呟いている。
良く聞いていると「ゴルフの迎えの車が来るから早く洋服を出しなさい」と母に言っていたり「それを言うと大臣の首がとぶので、そこの処は穏便に何とかしていただけないか」等と役所時代の事を喋っている事が多い。どうやら父は第一線で活躍していた40歳代の役人だった頃に戻って、記憶の中を日々遊泳している様だ。時々国会で政府委員として答弁したそうだが、その当時に戻って、盛んに議員相手に説明をしている時もある。
ふと現実に戻った時に、家族が 「そんな事を一生懸命言っていたよ」 と言うと 「そうかな~」 と言って笑ったりするが、またすぐうつらうつらと眠りに落ちる毎日である。
こういう父の姿を見ていると、人間の記憶というものの不思議さに驚く。つい最近まで、しっかりしていた時は、現実的で過去の事などは振り返らない人であった。ましてや40年も50年も前に経験した仕事の細事などは、意識の中からすっかり消し去られていた様に見えたのだが、実はそれは脳の中のどこかのセルに然と格納されていたのであろう。
人間の脳は、「引き出し」の様なもので、記憶はそれぞれの 「引き出し」に収納されていて、必要に応じてそれを出してきたり、しまったりする、という学者の話をテレビで聞くが、現実にこういう父の姿を見ると、そういう喩えが実感として迫ってくる。人生も終盤になるに従い、小さい頃に体験した事が 「引き出し」から出されて記憶として蘇り、一方昨日や今日の出来事は、「引き出し」には収められずに忘却の彼方に行くのだろうか。はたまた最近の出来事を収納した記憶の 「引き出し」は、すぐに錆付いて鍵が開かなくなってしまうのだろうか。若い頃の事を思い出している時間が、父は圧倒的に長い様だ。
閑話休題 (それはさておき)、幼児のときに受けた性的問題が記憶の底にしまい込まれて、長じて心の病の原因になるという説をフロイトは唱えた。父の例とは状況がまったく違うのだが、無意識の領域に蓄積された記憶に関するこういう現象を間近で見ると、フロイトのリピドー説もなるほど、とふと思うのである。
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