2025年1月19日 (日)

飛鳥II 2025年オセアニアグランドクルーズ出港

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大勢の見送り人に送られ横浜港大さん橋を出港、オセアニアグランドクルーズに向かう飛鳥Ⅱ

1月19日日曜日の午後2時、気温8度、曇り空の下、横浜港から飛鳥Ⅱは2025年オセアニアグランドクルーズに旅立った。明日1月20日(月)には西日本からのゲストを神戸港で乗せ、飛鳥Ⅱは40日間にわたるロングクルーズに南半球に向かう。オセアニアグランドクルーズと云えば我々にとっては因縁のクルーズである。2021年にはこれに申し込み、代金支払いも済んでいたものの武漢ウイルスの蔓延で催行中止、そのまま繰り越した2022年も感染騒動がおさまらずに再度中止となり、ようやく実現かと期待した2023年には、本船のエンジン不調で急遽運航取り止めと3度の空振りを喰らってしまったのである。ようやく感染騒ぎも収束し、エンジンも何度かのドックでようやく調子を取り戻して、今回は飛鳥Ⅱにとって2018年以来7年ぶりにオセアニアクルーズ実現となった。


さすがに3回も袖にされたオセアニアグランドクルーズだし、値段もアップとあって今年は乗船を見送ることにしたが、多くの船友が乗船すると聞いたので、今日は横浜港大さん橋に見送りに行ってきた。オセアニアグランドクルーズやハワイアラスカグランドクルーズは、通常40日ほどで100日以上かかる世界一周クルーズよりはかなり手軽、かつ体力や健康に自信がなくなった高齢者でもあまり無理のない長さゆえ人気が高く、このクルーズも横浜・神戸から600名乗船とほぼ満船とのこと。かつて世界一周クルーズなどで知り合った友人たちのなかにも、年齢をとるにつれ 「もうワールドクルーズは結構!、オセアニアグランドクルーズ程度がちょうど良い」とかなりの数が今回のこのクルーズに参加するので、見送り甲斐があると云うものである。


大さん橋の出国パスポートコントロールエリアに入る前のスペースには、船客待合エリアが設けられ、乗船客と見送りの人の話の輪が広がっていた。「今日は見送りに行くね」と事前に約束していた3組の他に、会場を見渡せばそこかしこに顔見知りの人たちの顔があり、「あれ、今回もご一緒?よろしくね」「いや今日は見送りだけです、お気を付けていってらっしゃい」などとお約束の会話が続く。最後に船上で会ってから何年かたちそれなりに老けた顔もあるが、クルーズに出発する前はみなウキウキと輝いてみえるもので、やはりここまで来れば皆と一緒に船に乗りたくなるのが心情である。一体どの位の人たちと挨拶を交わしたかと、帰宅後に指折り数えてみれば20組40名ほどとあって、横浜乗船が300名とすれば1割以上が顔見知りということになる。神戸からも何組か知人が乗ってくるだろうから、もし乗船していれば、毎日パームコートでお茶を飲むのも会話に忙しかっただろうなと一層乗船への思いが募ってきた。

飛鳥Ⅱ2021年オセアニアグランドクルーズ中止と2022年オセアニアグランドクルーズ発表(2020年10月29日)
飛鳥Ⅱ「2023年オセアニアグランドクルーズ」寄港地観光ツアー・船内生活説明会(2022年11月27日)
嗚呼!飛鳥Ⅱ2023年オセアニアグランドクルーズ運航中止(2023年1月20日)
飛鳥Ⅱ オセアニアグランドクルーズ 出港の日(2023年2月10日)

2025年1月16日 (木)

メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」恐ろしや

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風邪が大はやりのこの時期である。毎週通っているダンス教室の新年ダンスパーティも、主催者側がインフルエンザの罹患者多数で中止になってしまった。そんな折りだが、東京フィルが年に4回「響きの森クラシック・シリーズ」として文京シビックセンターで演奏する、フレッシュ名曲コンサートに義妹から誘われた。フレッシュ名曲コンサートとは「新春に相応しい名曲」を「フレッシュな指揮者やソリスト」(パンフレットの解説)で奏でるコンサートで、ヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」にドヴォルザークの「チェロ協奏曲」がこの日のプログラムである。新年とあって「春の声」も良いし、その次の2つの協奏曲を演奏するソリストたちは将来を嘱望される新進気鋭の若者たちだそうで、久しぶりのクラシック生演奏が楽しみであった。


コンサートに先立ち、自分自身は年末から鼻やのどがぐしゅぐしゅしているのがちょっと気にかかっていたが、熱も出なかったし、咳もほとんどなかったので、当日は躊躇なく出かけることにした。ただシーンと静まり返るホールでクラシック音楽を真剣に聴いている時に限って、のどがムズムズして咳払いをしたくなるのは、多くの音楽ファンの ”あるある”ではなかろうか。特に冬の寒い時には空気が乾燥していることもあって、喉が余計いがらっぱいものである。フルオーケストラの大きな音の最中に「コホン」と一つ軽く咳を紛らわすくらいで済めばよいが、それがきっかけとなって咳が止まらなくなるのは廻りに迷惑になるし、まるでウィルスを会場にまき散らすようで迷惑この上ない。簡単に咳が出来ない状況になればなるほど、普段なら気づかないぐらいの小さな喉の違和感が気になってしまうのが、人間の不条理なところである。


コンチェルトはソリストと聴衆の真剣勝負の場だとも云える。繊細なバイオリンやチェロのソロ演奏時に、大きな咳をするのは憚れるので、当日はのど飴と口を潤すペットペットボトル持参で開演を待つことにした。ウインナ・ワルツ「春の声」に続き、いよいよこの日2曲目のメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲が始まった。誰もが知るお馴染みの主題や第2主題の展開に続き、佳境、ソリストの技の見せ所でもあるカデンツァに演奏が入るのだが、場内が息をのんで新進のバイオリニストの技巧に聴き入るあたり、ふと我に返るとむずむずと喉がかゆくなり始めた。このかゆみ、繊細な見せ場の場面で起きがち、そして一旦意識すればするほど気になるものだ。さぁ困った、ここはペットボトルの水で喉をうるおすか、はたまたのど飴を取り出すかとも思うも、わりと長めのカデンツァが奏でられるなか、シーンと静まり返る客席とあってガサゴソと手許を確かめるのもちょっと気がひける。


暫くすると、ムズムズ感もそう大したことがなさそうで、第一楽章終了までは何とか堪えられそうだと思い直し、楽章の切れ目で大きなカラ咳をしてノドを鎮めようと方針を転換することにした。そうこうするうち第一楽章はエンディングを迎え、さあ咳を遠慮なく盛大に放とうと構えていると、なんとこのコンチェルトはそのまま第二楽章に突入していくではないか。今まで同じ曲を他のコンサートでも聞いたこともあったが、その時は喉の違和感もなかったから、切れ目など一切気に留めなかったのが不覚だった。さすがメンデルスゾーンが苦労して書き上げた協奏曲だけあって、この曲は随所に他とは違った工夫が凝らされており、第二楽章と第三楽章も途切れずに、三つの楽章はすべて連続して演奏される形式だったとは目からウロコ。ただ終わるかと思った第一楽章で指揮者が身体の動きを止めず、木管楽器がすぐさま次を始めるのを呆気に取られて見ているうちに、いつしか喉の不快感もすっかり忘れて、気が付けばゆったりとした抒情的な第二楽章のメロディーに没入していたのであった。冬場のクラシック音楽会はいろいろと気を遣うものだ。

2025年1月10日 (金)

PETER, POLE & MARY(ピーター・ポール&マリー)ピーター・ヤーロウ氏逝去

フォークソンググループ PETER, PAUL & MARY(PPM)のピーター・ヤーロウ(PETER YARRAW)氏が1月7日ガンにより86歳でニューヨークで亡くなったことが報じられた。懐かしい名前を新聞で見て、家にあった古いPPMのCDアルバムを出して聴いてみることにした。PPMはピーター・ヤーロウとノエル・ポール・ストーキイー(NOEL PAUL STOOKEY)の2人の男性と女性のマリー・トラヴァース (MARY TRAVERS)の3人によって1961年に結成されたフォークグループで "PUFF"や "BLOWIN' IN THE WIND"、"500MILES"、天使のハンマー(IF I HAD A HAMMER)”など多くのフォークソングのヒット曲で知られてきたとおりである。私が彼らの音楽に初めて触れたのは中学2年生のとき、音楽好きな同級生たちが、学芸会の発表でギターを片手に”PUFF”などを披露してくれた時からである。耳に馴染みの良いメロディーと、歌詞カードさえあれば我々でもフォローできる分かり易い音楽が爾来好きになった。


ピーターはコーネル大学、ポールはミシガン州立大学出身のインテリであり、ベトナム戦争厭戦ムードが米国社会を覆っていた60年代当時、多くのフォークソング歌手がそうであったように、社会性に富んだアルバムを数多くリリースしていた。私は当時からどちらかと云えば右寄りの思想だったが、それは別として斬新で楽し気な響きにひかれ、彼らの音楽のメッセージ性は気にせずレコードやCDを聞いては一緒に口ずさんでいた。彼らは社会的な歌ばかりでなくペテロ・パウロ・マリアのグループ名が示すとおり、キリスト教に由来した歌や "THIS LAND IS YOUR LAND”のような故郷を讃える作品、子供向けの歌なども多数出しており、長い期間に亘ってギター2丁と3人の歌声だけで実に多彩な表現を奏でていた。一方でかの有名な"PUFF"では、「何かのメッセージがこの歌に込められているのでは?」との質問に、「ただ子供がPUFFという怪獣と遊んで大きくなったが大人になって別れただけ」と肩透かしの答えをしたように、分かり易いメロディラインとユーモア溢れる展開が多くの聴衆を楽しませてくれた。


1970年ごろPPMは一旦活動を中止するが、1978年に再開しており、私もシアトルに駐在していた1993年に、一度彼らのコンサートに出かけたことがあった。若い頃はキレイだなと思っていたマリーもその時には完全に「アメリカのおばさん」の体形になっていたのには驚いたが、街の中心のホールは満員盛況で賑わっていたことを思い出す。会場は私と同年配かやや年上の”良きアメリカ”を体現するような白人のカップルが多く、客席ではPPMの演ずる懐かしい歌に合わせ皆が一緒に歌詞を口ずさんでいたのが印象的だった。PPMもマリーが2009年に亡くなり、ピーターも世を去って、いまや残るはポール一人だけとなってしまった。ふと国内を見渡すと、ダークダックスも存命なのはいま一人、ボニージャックスは減員、デュークエイセスも高齢のため解散と、かつて一世を風靡した歌唱グループが次々と舞台から消えて寂しい限りだ。懐かしい人々が次々と鬼籍に入るのが齢をとるという事かと、コンサート会場で買ったPPMのTシャツを取り出してみては一人呟く。

 

1993年シアトルでのコンサートの際に購入したTシャツとCD
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2025年1月 8日 (水)

吉例「七草がゆ」と賀状や家族葬のこと

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妻が新春の吉例、七草がゆを昨日こしらえてくれた。例の”セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ”の七草である。七草がゆは歳の初めに粥とともに若菜を食べ一年の無病息災を祈る目的で、平安時代から定着した風習だそうで、お正月の飲み食いで疲れた胃腸の回復に、粥を食べてお腹を休める目的もあると言われている。春の七草や七草がゆについては、この時期に何度もこのブログで記してきたとおりなので、ちょっと検索してみると、2012年1月8日以来これまで4回アップしていることが分かった。初めて書いた2012年は、まだ毎日出社が必要なサラリーマン時代だったとは云え、一線を退き第2の職場で宴会が少なくなったことなどを記しており、次の2014年には会社に行く前に真冬でも朝30分ほど走っていたことに触れている。2022年にはオミクロン株のことを付記しているが、こうして同じ時期に過去のブログを読み返してみると当時の記憶が蘇り、それを辿りつつ新年に当たり心を新たにするようで面白い。


そういえば今年の正月は、「これをもって来年からは新年のご挨拶状を控えさせていただきます」という文面の賀状を結構受け取った。それも90歳を過ぎ字を書くのも覚束ないような年頃の人だけでなく、同期の友人や年下の60歳台の人達からもこういう賀状を何枚も貰ったのにはちょっと驚いた。賀状の交換は虚礼と云えばたしかに虚礼であり、何年も会っていないに関わらず「今年も宜しく」だとか「また会いましょう」など、とても本気とは思えぬ常套句を毎年繰り返すというのも考えてみれば変な話である。いまや本当に連絡をとろうと思えば、メールやLINEがすぐつながる時代なのに、正月だけ特別の遣り取りを続けるのもほとんど意味がない。ただ普段の生活では思い出さないような親戚や遠い知人から近況を添えた賀状を貰うと、「あの伯父さんも元気そう」「若い頃は苦労したようだがあいつも良かったなあ」などと、一瞬ではあるが過去の絆を思い出し、遠く離れてもお互いに完全に忘れているわけではないことを確認しあえる意味もある。そういう儀式は一年に一度くらいはあっても良いと私は思っている。


同じように最近は葬祭も簡素化されて、都会ではいわゆる「家族葬」が増え、友人はおろか親戚さえも知らぬ間に葬儀を執り行っているのが普通になってきた。高齢の親戚や友人の父母の身を密かに案じていると、旧年中に当人が亡くなったので来年の賀状は出しませんとの連絡葉書を受け取って驚くことがしばしばである。かつて会社員時代には、会社の仲間は勿論のこと、取引先の父君などが亡くなった際にも訃報が廻り、おっとり刀で通夜や告別式に駆け付けたから時代は変わったものだ。当時の携帯は国内でしか使えなかったから、海外出張から帰って成田空港で電源を入れた途端、「取引先の部長の父君が亡くなったので、その足で大阪の通夜に行けますか?」と会社から電話を受けたこともあった。そういう場に行けば、同業他社や業界関係者が多数集まっており、お清めの膳で一杯のみながら葬式外交や普段は交わせない会話も繰り広げられたのだった。葬儀は残された家族の為だけの儀式ではなく、故人に関わった関係者の区切りの場や儀礼の場でもある。時代の流れとは云え、賀状廃止や家族葬と聞くと、なんとなく寂しく感じる昨今である。

2025年1月 4日 (土)

クラブツーリズム 年末年始は名湯で過ごす・登別温泉『登別グランドホテル』2連泊3日間の旅

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噴煙を上げる登別温泉・地獄谷


2025年の元旦は北海道、登別温泉の宿で迎えた。日ごろ忙しくこの時期しかまとまって休めない義妹に合わせて、クラブツーリズム主催の 「年末年始は名湯で優雅に過ごす 白濁の名湯・登別温泉 『5つ星の宿』に宿泊2連泊 3日間」の団体旅行に参加することにしたものである。一昨年正月の竜飛岬での年越しに続いて ”寒い時には寒さを存分に味わう”体験である。今回は往復新幹線利用、2泊3日で札幌、小樽に函館を廻る駆け足のツアーで、例によって列車やバスの集合時間さえ守れば、あとは何も考えずに個人ではとても回りきれないテンコ盛りスケジュールを満喫できるのできわめてラクチンな正月だ。今回の参加者はほぼ定員一杯の40数名弱の盛況で、参加者も老若男女さまざまであった。かつては前日の午後に出発する上野発の列車に乗り、青森で青函連絡船に乗り継ぎ、翌日の早暁ようやく上陸した北海道だったが、今や航空機を使わずとも、最速の新幹線「はやぶさ」で、東京から函館まで4時間弱で到達できる時代となった。北海道旅行もまことに手軽になったものである。


我々の宿は硫黄泉の「5つ星」登別グランドホテルであった。ここは登別温泉でも屈指の老舗ホテルであり、偶然にも高校の修学旅行で宿泊して以来、50数年ぶりの来館となった。外は雪のちらつく中、ホテルの自慢でどこか見覚えのあるドーム型のローマ風大浴場に浸かっていると、大昔の様々な思い出が蘇ってきた。当時の東北や北海道はまだ温泉と云えば混浴スタイルが基本で、登別グランドホテルも脱衣所こそ男女別だったが、それぞれのドアから入った大浴場は共用の混浴であった。外国からの観光客など極めて少なかった時代だが、たまたま宿泊の白人女性が、入口を開けて風呂場に踏み入れるや否や男性がいるのに腰を抜かさんばかりに驚いて、クルッと踵を返し出て行ったことを思い出した。男子高校生には衝撃的な場面だったが、あれはなにしろ50数年前、それも湯気の向こうの朧げな光景である。事の真偽と我が記憶の整合性を確かめようとフロントに「風呂は当時と構造が同じ?」「かつては混浴だった?」と聞いたら、「窓廻りなどはやや変わっていますが、基本的に大浴場は昔のままです」「その頃は混浴だったと聞いています」との答えである。そうか、あれは夢や幻でなく、正にこの風呂で実際に目にした刺激的な出来事だったのだと、記憶を新たにした正月である。


ツアー中は、同じバス会社の運転手やバスガイドと旅を共にするのが、昔と変わらぬ北海道のバス旅である。今回は函館のバス会社の気さくなおばちゃん風のガイドで、彼女の井戸端会議的な車窓案内が3日間車内を盛り上げてくれた。目的地に急ぐレンタカーと違って、この地の野菜の値段や美味しいラーメン屋などローカルな話題をふんだんに提供してくれるのが観光バスの良さ。雪道をものともしない運転手もプロの技である。そういえば修学旅行の時、道内を6泊7日かけて巡る車中で、17歳~18歳の生意気盛りの男子校生徒の案内をしてくれたバスガイドは当時21歳くらいのまだ純朴な道産子の女性だった。その頃に流行り始めた「知床旅情」などを一緒に歌いながら、若い女性と血気盛んな男子高校生が1週間も空間を共にすればお互い親近感が湧くのも当然である。たまたま我々の前に彼女が案内したのは、おしゃれで有名な都内ミッション系の某私立共学高校で、「なに、あの学校は?!! 車内で男女がいちゃいちゃしてホントに気持ちが悪かったです」「男子校の方がなんぼいいか」とのガイド嬢の言葉に「そうだ、そうだ」と、すっかり意気投合したものだった。中には帰京してから彼女と文通をした者や、旅行で上京した彼女を都内見学に連れて行った友人などもいたものだった。思いがけずに50数年ぶりに修学旅行の足跡を辿ることになり、記憶の底にあった若い頃の出来事を思い出しながら、その後の永年に亘る我が来し方にまで思いを巡らした正月だった。

 

函館五稜郭タワーから五稜郭を臨む
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2024年12月29日 (日)

2025年はトランプ政権の再登場で日本の覚悟が試される

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この時期に「日中戦略的互恵」で良いのか?

年の瀬である。明ければいよいよ1月21日から米国で第2次トランプ政権が始まる。ワシントンD.Cでは、すでに対シナ強硬派と見られる閣僚や政権中枢メンバーも発表され、新政権は初日から全力で、バイデン大統領政権がこの4年間行ってきたリベラルな政策をひっくり返す新大統領令を次々と出すというから実に楽しみだ。まずは不法移民の取り締まり強化と国外追放、地球温暖化対策の諸協定や諸施策からの離脱、関税の追加導入、特にシナ相手に大幅なタリフ増を行うことなどが予想されている。ここのところ世間に流布されて来たグローバリズムのくびき、特にジェンダーフリーやいわゆる”ポリコレ”による制限を一蹴し、WOKE(=意識高い系)運動から「常識を取り戻す」と彼は宣言していると云うから拍手を送りたい。そう云えば日本国内ではバイデン大統領の下、エマニュエル大使の強引な内政干渉によりLGBT法案が成立してしまったが、本家本元の米・民主党は ” 行き過ぎたポリコレ”でコケてしまい、LGBT法案ではすっかり足をすくわれた格好になっているのが自公政権。だからバカな法案を拙速で通すんじゃないと言ったでしょ、と内心密かに笑いが止まらない。

 

先日JALに搭乗したら、日本語に続き、"LADIES AND GENTLEMEN" というお馴染みのアナウンスが、なんと " GOOD AFTERNOON, EVERY ONE”に変わっていてのけぞった。なんでも「ジェンダーに中立的な表現」を導入したとの航空会社のホームページの説明だが、妻は「有象無象っぽい " EVERY ONE"よりも " LADY"の方がいいのに」と苦笑いをしていた。このような行き過ぎたジェンダーフリーブームにトランプ氏は「性は男と女の2つのみ」「トランスジェンダーの狂気を止める」と広言し、LGBT問題などでバイデン政権により毀損された女性の権利保護に立ち向かうそうだ。なんとも頼もしい男だ。まさにGENE AUTRY の「COWBOY CODE」で歌われたような "HE MUST RESPECT WOMEN, PARENTS, AND HIS NATION'S LAW”を体現するマッチョ大統領の再登場である。 言葉狩りやメディアによる表現の規制ではなく、「まっとうな常識」の世界に戻る初年度が、来る2025年であることを期待したい。


トランプ政権は地球温暖化の対策の枠組みであるパリ協定からの離脱も真剣に考えており、温室効果ガスの排出増加への懸念よりも国内の石油と天然ガスの増産を通して物価上昇(インフレ)の抑制をはかると主張している。大統領選中の彼のスローガンは「ドリル、ベイビー、ドリル(掘って、掘って、掘りまくれ)」であった。先般、兵庫県にある玄武洞を訪問し、傍らのジオ・パークにある博物館を見て知ったのだが、地球は巨大な発電機であり地球磁場の反転は繰り返し起きているとのこと。いうまでもなく磁場の反転となると我々の生活に重大な影響を与えることであろう。そのほかにも隕石の衝突、火山の爆発、太陽フレアの変化など、地球環境の変化には解明されていない実に様々な要因があるようだ。人類によるCO2排出も地球環境変化の要因の一つではあろうが、一知半解の浅知恵で排出権クレジットなど胡散臭いビジネスが行われているのでなかろうか。これらを見るにつけ、いま流行りのCO2規制よりもトランプのやり方が正しいような気がしてならないのだ。


トランプ政権のスタートを前に、もっとも懸念されるのが石破内閣である。トランプ大統領に会えないのは、彼のこれまでの言動に起因するので自業自得だが、なぜ先日わざわざ日中外相会談を行ったのか大いに疑問が湧く。尖閣諸島にはシナの公船が毎日威嚇にやってくる。多くの日本人のビジネスマンが理由も明らかにされずにシナの当局に拘束されているうえ、福島の原発から排出される水を「汚染水」と呼び、日本のEEZ内にブイをいくつも設置し「合法だ」と言いはるのがシナだ。深圳の日本人児童刺殺事件も、経済が大きく落ち込んでいる政府の反日プロパガンダの影響だと云われれている。国是として反日を掲げるそのシナが、いま日本に近づこうとしているのは、トランプ政権の厳しい対中デカップリング策を前に、日米関係に横槍を入れ日米を離反させることが目的なのは明確である。いまトランプが手を振り上げようとするこんな微妙な時期に、わざわざ北京に外相を送り「日中戦略的互恵関係」や「日中経済対話開催」だの「シナ人観光ビザを30日に拡大」などと、彼が激怒するような会談を行う必要があるのか。石破政権の外交音痴ぶりには「おいおいバカ殿ご乱心!それで大丈夫か?」とほとほと心配になる。


さて何度も言うが 「 MAKE AMERICA GREAT AGAIN」を掲げるトランプ政権が誕生した後は、日本は政治・経済で重大な岐路に立つことになろう。「自国の安全保障はまず自国で考えろ」「同盟よりDEAL」というのが彼の考え方だから、我が国の防衛予算の大幅増加へのプレッシャーや、日米貿易摩擦の解消に向けての議論も待ったなしの厳しい局面を迎え、相当な「オミヤゲ」も必要になるはずだ。そうなれば日本は安くなったアメリカの天然ガスや化石燃料をより大量に購入するとともに、米国の軍需産業から武器・兵器をもっと調達すれば良いではないか。来年は大東亜戦争が終わってから80年である。進駐軍が即席で作った憲法を後生大事に守り、長い間の平和ボケが続いた挙句、今やGDPの伸びはG7で最低となった日本である。トランプ大統領の就任で、来年からは日本も国の在り方を変えるような相当の覚悟が試されることになろうが、政権や国会はいまのままで本当に大丈夫なのか?。リベラルポピュリズムに答えて社会保障費の支出ばかりが膨らみ、増税一本やりの上に親シナ議員ばかりが目立つ自民党や公明党のだらしないサマを見ていると、日本は米国の新政権と本当に太刀打ちできるのだろうか。新年念頭から心配である。

2024年12月23日 (月)

海に眠るダイヤモンド

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2017年4月に訪れた端島

TBSテレビの日曜ドラマ「海に眠るダイヤモンド」全10話が昨日完結した。黒いダイヤモンドと持て囃され、我が国の重工業化の一翼を担ったのが石炭である、これは石炭掘削の島、長崎市沖の端島(軍艦島)を舞台にした物語で、島に暮らす人々を描いた人間ドラマであるとともに、石炭産業従事者の実態をかなり忠実に表現しようとしたセミ社会派ドラマでもあった。端島には2017年4月に訪問したことがあり、コンクリートの塊となった島の有様を眼前にしたが(リンク:セレブリティ・ミレニアム日本一周春色クルーズ(4)軍艦島)、ドラマでは国内石炭産業が活況を呈した時期の生き生きした島の様子が、CGなども交えて再現され、毎週興味深く画面を見ることができた。「海に眠るダイヤモンド」は1960年代に端島の食堂の娘であった朝子(杉咲 花)と、老婆になって現在の東京で生きるその後の彼女自身(宮本信子)、それに朝子と結婚するはずだった島で働く若者の鉄平(神木隆之介)と、彼にそっくりな現代のホスト稼業の玲央(同)の2組が、それぞれ2重になって進む同時並行ストーリーで、時代考察や状況描写もきっちりして安心して見ていられたが、一方で昨日の最終回を見終ってストーリーの展開に些かの疑問が湧いて来たのも事実である。ということで見終わった余韻が消えぬうちに勝手な我が感想を書いてみたい。


反社組織から大金を持ち逃げして端島に来た謎の歌手リナ(池田エライザ)を護るために、一味のヤクザ者を射殺した鉄平の兄(斎藤 工)だが、その兄は炭鉱事故で死んでしまう。あとに残ったリナやリナと兄との間にできた子(鉄平の甥っ子)を組織の追っ手から護るために、自ら兄の犯行の濡れ衣を着て一人逃避行を続けるのが、主人公の鉄平である。狭い島から逃れ警察に事情を話しても理解されず、その後もヤクザたちに追われ続ける鉄平だが、いつまでもその様な境遇に甘んじ、結婚を決めた朝子にさえ連絡を取らなかった彼の行動に果たして意味があったのか、というのが最大の疑問である。端島を脱出した後でも手紙なら朝子に送れるし、もし投函場所から足がつくと考えるなら都度違う場所から出せばよい。朝子にもヤクザの監視の目が光っているなら、親友の賢将(清水尋也)宛に手紙を書き、鉄平の思いや状況を間接的に朝子に伝えることも出来たはずである。何故それらの手も講じず、鉄平はただただ永年に亘って朝子を深く思いつつも、放っておいたのか大いに気になる処である。


組織の掟を破って逃げたリナでさえ、端島を脱出した後は、ヤクザに追われることもなく無事に生き延びている。その子(鉄平の甥っ子)は澤田(酒向 芳)となり晩年は朝子の秘書になって現れた通りだ。その程度のヤクザ組織の包囲網なら、鉄平は東京や大阪などの大都会か、或いは誰も知らない田舎の町で暫く一人ひっそりと生きていけたはずだ。実際に全国指名手配の凶悪犯さえなかなか逮捕されないご時世である。違う土地で男一人まじめに暮らしているならば、まずヤクザの組織には見つからないだろうから、ほとぼりが冷めた頃に朝子を呼び寄せれば良かっただろう。そもそも玲央と鉄平は、「似ていない」と最後に(現代の)朝子も言っているが、結局のところ1960年代の鉄平と今に生きる玲央は、何の繋がりもなかったとの結末は大いにのけぞった。また鉄平の親友である賢将がかつて朝子に気があったことや、詐欺師が偶然島に現れたことなど、どうも釈然としないサブストーリーがドラマの中に散りばめられ、2時代並行物語でただでさえ難しい話が一層複雑になっていたのも気が散るところ。察しの悪い私は、同時録画中のテレビ画面を止めて「今、なんて言ったの?」とか「これはどういう事?」とうるさがる妻に問いかけ、繰り返し同じ場面を再生しなければついて行けぬこともしばしばであった。


などと思う処もあるが、最終回の展開は涙無くして見る事の出来ない良くできたドラマで、この3カ月の間は大いに楽しませてもらった。TBSはヒダリに大きく旋回しているニュースやサンデーモーニングなどの報道を一切やめて、ドラマ専門のチャンネルになったら良いのではなかろうか。

2024年12月22日 (日)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(4)玄武洞、地図アプリ

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5つある玄武洞岩盤のうち「玄武洞」

「はなあかり」を城崎温泉で下車、豊岡で泊まった翌日は、夕方の(京都)嵯峨トロッコ列車の乗車券を予約してあったので、半日の時間の余裕ができた。妻は豊岡まで行くのなら玄武洞を見学したいと言っていたが、私は高校時代に習った地学の教師がひどく変わった人物で、岩石やら柱状節理と聞くと当時の不愉快なことを思い出すこともあり興味が湧かない。ましてや玄武洞は豊岡の街から6キロも離れており、バスなどの公共交通機関がなく、アクセスするにはレンタカーかタクシーを使うしかない行きづらい場所にある。だが、ここまで来て国の指定天然記念物でユネスコ・ジオパークにも指定された玄武洞を見ないのも勿体ないかと、”話のタネ”と思って(しぶしぶ)見学することを決めたのである。現地で聞けばタクシーならJR豊岡駅より玄武洞まで片道で3000円、往復6000円との事で、これはレンタカーの料金とほぼ同じだ。レンタカーならば京都に向かう午後の特急の時間に合わせ足の心配もぐっと減るが、クルマを借りたり返したりする手続きや給油の面倒を考えれば、手っ取り早くタクシーで往復する方が簡単そうだ。玄武洞にはタクシー会社への直通電話も設置されていることもわかり、帰路の配車も容易だったので結局タクシーを利用することとした。


玄武洞は円山川沿いに聳え立つ5つの巨大な絶壁で、そこではきれいに発達した柱状節理の岩盤をみることができる。なんでもこの地帯は火山由来の玄武岩で構成されており、熱い溶岩が地表に出て冷却される際に、収縮するに従い外側から規則性のある割れ目が出来、これが柱状節理と呼ばれる連続した石の柱になったとのことである。岩盤に隣接して建てられた玄武洞ミュージアムでは、玄武岩という岩石の日本名はここ玄武洞から名づけられたこと、玄武岩はマグマからできた地球表面でもっとも多い岩石で海洋底は玄武岩が優勢であること、玄武岩の磁性を測定すると地磁気の変化がわかる事などを教えてくれる。1926年に地球磁場の反転を世界で初めて唱えたのも、この玄武洞などで磁性が現在と逆向きであることを見いだした京都大学の松山基範博士だったことを館内の展示で知ったが、今ならノーベル賞を超えてもおかしくない大発見がここを舞台にして日本人によって為されたとは驚きの事実であった。地磁気の逆転によって地球環境は大きな影響を受けることは云うまでもないが、地球科学の発展に日本人が多大な貢献をしたことを知り、地学に対するかつてのネガティブなイメージが少しは拭われたような気がした。


その後、豊岡にとって返し、特急「きのさき」で京都に向かったが、久しぶりの山陰本線列車に乗車とあって飽くことなく車窓の景色を楽しむことができた。最近は便利になって、スマホの地図アプリで列車がどこを走っているのか瞬時にわかるので、バッテリーが減るのも気にせずにスマホの画面と沿線の景色を見比べるのが旅の楽しみである。景色だけでなく乗っている車両がどういう形式なのか、停車する町の人口や歴史なども即座に検索できるとは、凄い世の中になったものだ。手元のスマホのマップを見ていると「きのさき」は豊岡を出てから円山川水系沿いに川を上り詰め、和田山を経由し分水嶺を超えた後は、由良川水系の支流を下り福知山に至ることが分かった。ここからは由良川の別の水路沿いに上流に向かい、再び日本海と太平洋を隔てる分水嶺を経て、大阪湾に注ぐ桂川水系に分け入り京都を目指す行路を辿っている。山陰本線に限らず、東北本線や中央本線など古くに敷かれた鉄路は、山を越えるのにほとんどが川沿いに僅かずつ標高を稼ぎ、サミットをなるべく短い隧道や切通しで超え、別の水路に至り町へ下るケースが多いようだ。重機械のない時代に山地を越えて鉄道を敷設することが如何に難事業であったのか、先人の苦労を偲ぶことが出来るのも、手許に地図があってならではの事である。列車に乗るとすぐブラインドを下げたり、スマホでも動画を見たりゲームをしている人が多いが、新しいツールを使って歴史や地理の旅を楽しむのも新たな喜びである。(このシリーズ完)

JR西日本289系 特急電車「きのさき」
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2024年12月19日 (木)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(3) 『嵯峨野トロッコ列車』乗車

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DE10の次の車両は吹き曝しのリッチ号5号車

豊岡で一泊した翌日は午前中にユネスコ・ジオパークに指定された玄武洞を見学し、その後の帰路に山陰本線で京都方面まで出て、嵯峨野観光鉄道トロッコ列車に乗車することにした。妻があれも見たい、ここも行きたいと考えに考えをこらした末の旅程だが、旅行会社が企画する団体旅行も顔負けの諸行事テンコ盛のスケジュールになってしまった。同じ値段ならだいたい女性の方が欲張りな内容を求めがちなのが世の常と云えよう。この時期は嵯峨野の紅葉も盛りを過ぎているが、夕方以降に沿線のライトアップ&イルミネーションを楽しむ 「光の幻想列車」とする便が運転されるので、これに乗車するのである。ということで豊岡から乗車した特急「きのさき」を亀岡駅で降りて普通列車に乗り換え、山陰本線の嵯峨嵐山駅で下車、ここからJR線に隣接するトロッコ嵯峨駅に向かった。この季節に限らずトロッコ列車はどの便も満員とあって、あらかじめトロッコ嵯峨駅/トロッコ亀岡駅間の往復列車の乗車券は一か月前の発売開始日にオンライン予約済である。


嵯峨野トロッコ列車は、トロッコ嵯峨駅とトロッコ亀岡駅の7.3キロを走り1991年より運転が行われている。この区間はもともとJR山陰本線の線路であったが、同線が複線電化工事で新線に付け替えられることに伴い、旧来の施設を利用して新たに観光列車として営業を開始したものである。このトロッコ列車はJR西日本より譲り受けたDE10型ディーゼル機関車が動力源となり5両のトロッコ客車を牽引・推進する運転で、(機関車の付け替えはなく)亀岡方の1号客車には総括制御の運転席が設けられている。また嵯峨方の機関車隣の5号車は窓ガラスのない 「ザ・リッチ」と呼ばれるいかにもトロッコらしい車両になっている。路線の途中にはトロッコ嵐山とトロッコ保津峡の2駅があり、保津川の渓谷美や名残りの紅葉をめでながら、トロッコ列車は旧山陰本線の古い橋梁や隧道を片道25分(折り返しの往復で50分)ほどかけて進んで行く。線路は峡谷の左岸、右岸の両方を走るので、全車指定席のどちらのサイドに座っても不公平感なく景色を眺められる。ただ行きの亀岡まではガラスの風防がある2号に乗車したが、帰りは「リッチ」号の5号車にわざわざ席を予約したところ、外は底冷えの空気吹きさらしとあって寒いことこの上なかった。


これらの客車は車体長14米の元無蓋車のトキ25000形を改造した車両で、乗り心地はお世辞にも良いとは言えない。一応、2軸ボギー台車を履いてはいるものの、本来は石炭や原木を積んで走っていた貨車なので、揺れは直接身体に伝わってくるし、自動連結器の遊びも大きく、起動・制動の度にガッチャンと騒音や振動が激しいのが気になる。もちろん全車両とも冷暖房がなく前世紀期の遺物的な乗り物だが、これこそが「トロッコ列車」だ、と割り切れば揺れる車内も楽しいものとなる。ただ驚いたのは、基点のトロッコ嵯峨駅を出た直後に、現在の山陰本線の下り線路を900米ほどトロッコ列車が走ること。全区間単線で1列車しか運行されないため、トロッコ鉄道としての閉塞の問題はないとしても、JR西日本の近畿アーバンネットワークの一部を、この列車が往復とも併用するのは大丈夫なのだろうかとふと心配になる。ひんぱんに列車が往来する幹線の本線線路を、トロッコ列車がのろのろ通過する状況にやや違和感を覚えぬでもないが、この点はJR西日本の総合指令所監視の下、ATSが安全を担保しているのであろう。紅葉の美しさや夕方のイルミネーションには心を打たれるものの、妙なことが気になるのが鉄オタのオタクたる所以である。

イルミネーションに映える紅葉と渓谷
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2024年12月17日 (火)

「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(2) 『はなあかり』乗車

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半個室の1号車車内、右壁に地元工藝品のショーケース       若狭カレイなどの下り列車の若狭町家弁当

さて敦賀で前泊し、朝は有名な気比神社にお参りしてから、念願の新型車両 「はなあかり」乗車である。「はなあかり」が運転される敦賀・城崎温泉間は、敦賀‐東舞鶴間がJR小浜線(84.3キロ)、東舞鶴‐西舞鶴間がJR舞鶴線(6.9キロ)、西舞鶴‐宮津間が京丹後鉄道の宮舞線(24.7キロ)、宮津‐豊岡間は京丹後鉄道の宮豊線(58.9キロ)、豊岡から終点の城崎温泉(9.6キロ)がJR山陰本線からなり合計184.4キロである。土曜日の午前10時40分に敦賀駅を発車する下りの「はなあかり」は、途中で美浜、小浜、東舞鶴、宮津などに停車し、全区間を4時間59分かけてのんびりと走る。「はなあかり」の列車名は 「地域に光を当て、地域が華やぐイメージ」 「西日本の様々な地域のとっておきに『あかりを灯す』列車であること、地域を明るくする列車であることを表現」したものだとJR西日本は発表している。「季節ごとに、運行エリアを変えて、お客様と各地域を結び、地域のとっておきを発信する」(同発表)列車でJR西日本管内の各路線を走るが、その運行開始第一弾として3月16日に延伸開業したばかりの北陸新幹線に接続する若狭・京都府北部をフィーチャーした観光列車として運転が企画されたそうだ。


「はなあかり」の車両は、JR西日本が山陰方面や陰陽連絡に使用するキハ189系特急用車両を改造したもので、3両編成すべてグリーン車(キロ)である。このうち1号車はスーペリアグリーン車と称する半個室型の車両、2号車は特産品の販売やイベントにも使用できるフリースペースのある一人用座席車と一部ボックス席、3号車が一人用座席と一部ボックス席の混合配置の車両となっている。乗車した1号車は凝った地元工芸品を飾った半個室車両(定員10区画x2の20名)であり、2号車(定員16名)や3号車(定員18名)の一人用席は、かつて151系「こだま」型に連結されていたパーラーカー(クロ151)の一人用シートをモダンにしたようなデザインだ。パーラーカーと云えば昭和30年代、当時の大企業の役員や政治家などがふんぞり返ってタバコをくゆらすかの雰囲気だったが、いま、それよりも豪華な空間で沿線の名産品を集めた弁当 (事前予約でオーダー、下り列車は定価3500円、上り列車は3900円)を楽しみつつ移り変わる車窓の景色を眺められるとは何とも良い時代になったものだ。タネ車のキハ189系は性能的には130キロ運転も可能だそうだが、乗車してみるとあまり路盤も強化されていない若狭湾沿いローカル線を、エンジン音も高らかにゴトン、ゴトンとジョイントを刻んでゆっくり走るのは趣きがあって良いものだった。


この日は一部みぞれ模様の雨か雪、時折雲間から陽がのぞくという冬空で、その日本海側特有の鈍色の空の下を列車は進んだ。妻は父方の郷里が舞鶴なので幼い頃に何度か沿線を訪ねて来たことがあり、とても郷愁を覚えるそうだが、ふつう関東に住んでいる者には、天橋立以外はあまり縁のないエリアである。と云う事で美浜では原発はあの山の向こうかと想像し、三方五湖の一画の久々子湖を初めて望み、二度目の由良川橋梁を渡るなど、あちこち車窓に目を凝らしているとあっという間に時が過ぎてゆく。小浜や東舞鶴など主な駅では 「はなあかり」は10分以上停車して、ホームで地元特産品の販売に接することができるし、改札口を出て駅前で土地の空気を吸うことも可能だ。運転士も気軽に乗客の応対をしてくれるので、電化区間の小浜線でホームに降りた運転士に 「普段は電車を運転するのですか?気動車ですか?」と問えば 「両方です」との答えが返ってきた。天橋立をバックに宮津湾に浮かんだ大型船からは、海外から運んできたニッケル鉱石を荷揚げするさまなども見え、車窓は「汽車ポッポ」ではないが、「♪ 廻る景色の面白さ ♪」である。目的地に早く到達する旅でなし、美味しいものを食べ呑みながら景色を愛でつつ、「♪ 見とれてそれと知らぬ間に早くも過ぎる幾十里 ♪」の世界に浸るうちに、「はなあかり」は城崎温泉駅に到着してあっという間に5時間の旅は終了した。

 

宮津湾ではニッケル鉱石の荷揚げ風景も遠望できた         2号車はクロ151ばりの一人用座席
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«「はなあかり」「嵯峨野トロッコ列車」の旅 その(1) 一筆書き切符

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