カテゴリー「鉄道」の記事

2020年11月23日 (月)

えちごトキめき鉄道・雪月花

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ET122型気動車ベースの雪月花

大人の休日倶楽部が催行する【予約が取りにくい人気の観光列車を一度に楽しむ!信越の海・山・里の景色とこだわりの食を堪能『ろくもん』と『雪月花』 】、2日目は「雪月花」乗車である。長野駅直結のホテルメトロポリタン長野に宿泊した我々は、翌朝9時にロビーで集合し、「雪月花」が出る上越妙高駅まで新幹線で移動した。因みに「雪月花」は中国の詩からの引用で美しい自然の情景を示す語だと云う。「雪月花」が運転される「えちごトキめき鉄道」は、北陸新幹線の長野・金沢間開業(2015年)に伴い、旧信越本線の妙高高原から直江津間を「妙高はねうまライン」とし、旧北陸本線の直江津・市振間は「日本海ひすいライン」と名付けて開業した新潟県内の鉄道である。「トキめき」のトキは佐渡に渡ってくるトキ(朱鷺)を、「はねうま」は妙高山に雪解け時期に現れる馬の雪形を、「ヒスイ」は糸魚川地区が翡翠の大産地なのが線名の由来だそうだが、新幹線開業で分離された平行在来線は、全国どこも名前がキラキラ過ぎだ。第三セクターで営業のために目立つ必要があったにせよ、信越鉄道とか越後鉄道あたりが、オールド鉄道ファンにはしっくりくる。


「雪月花」の出発駅である上越妙高駅は信越本線時代には「脇野田」駅という地味な駅だったが、今は新幹線から直江津方面への乗り換え駅となり、駅前には早くも全国チェーンのビジネスホテルが建っている。「えちごトキめき鉄道」の問題は旧信越本線部分(妙高はねうま線)が直流で、旧北陸本線(ひすいライン)部分は直流と交流が混ざって電化されているために、同じ会社でありながら両線の車両が簡単には相互乗り入れできない点にある。このためリゾート列車を設定するにあたり、在来の電車を改造した車両ではなく、両線で運転可能な気動車として「ひすいライン」に配備されるET122型気動車をベースに新造されたのが「雪月花」である。2016年度グッドデザイン賞や2017年鉄道ローレル賞の賞状が「雪月花」車内に掲示されているように、パノラマウィンドウを採用し専ら観光列車用に新規設計された車両なので、一歩足を車内に踏み入れるだけでリゾート気分が盛り上がる意匠となっている。


10時19分に上越妙高駅を出た「雪月花」は、妙高山を右手に臨みつつ「妙高はねうまライン」を信越国境の妙高高原駅に向かってゆっくりと登っていく。途中スイッチバックの二本木駅で降り立つことができるが、ここは日本曹達・二本木工場の玄関駅で、かつて駅構内は旅客や貨物列車の往来で賑わったことが伺える。この駅をスイッチバック方式にしたのは停車した列車を引き出すのが困難だったためとの説明で、往時のD51で長大編成の貨物列車を始動させるのが如何に大変だったのかが想像できる。ホームから目の前の日本曹達の工場を見ていると、なぜ直江津ではなくこんな山間部にソーダ灰や塩ビの工場を作ったのか、原料の塩はどこから運んできたのかなどと疑問も次々と湧いてくる。鉄道遺産を訪れるとわが国の産業史が垣間見られ、中高年の脳にはなかなか良い刺激だという気がする。


都内の二つ星レストランシェフが越後の食材で調理したフレンチの重箱料理を楽しみつつ、妙高山の雄姿を眺めるうちに妙高高原駅で列車は折り返し、今来た線路を直江津に向かって下る。腹も一杯になった昼過ぎ、列車は直江津で再び進行方向を変え、今度は右手に日本海を望みつつ裏日本縦貫線の一部である「日本海ひすいライン」を走り始める。糸魚川向き先頭車には展望デッキがあり、食後のひと時はここで運転士の一挙手や、海岸線の前面展望を楽しめるのも観光列車ならではだ。途中の頚城隧道(くびきずいどう)には筒石駅というトンネル内の駅があり、地上へ至る階段を見ることができるように列車は停車する。この駅から地元の人が利用する300段弱の階段を、限られた停車時間なので地上まで駆け上がってみたのだが、筋トレのような勾配は満腹後の腹ごなしにちょうど良い運動となった。こうして「雪月花」は13時16分に終点・糸魚川駅に到着し、昨日の「ろくもん」に続き連日昼からの豪華飲み食いの旅は終わった。2日間に亘り極楽の道中だったが、グルメとは趣向を変え、産業遺産・鉄道遺構を訪ねる特別列車があったら人気が出るかもしれない。いずれにしても鉄道の旅は色々な発見があり、薄れかけていた知的好奇心が大いに刺激されるようだ。

フレンチのお重
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二本木駅スイッチバック
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2020年11月22日 (日)

しなの鉄道・ろくもん

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軽井沢駅にて:展示されているかつての峠のシェルパEF63と「ろくもん」

大人の休日倶楽部が催行する【予約が取りにくい人気の観光列車を一度に楽しむ!信越の海・山・里の景色とこだわりの食を堪能『ろくもん』と『雪月花』 】と名づけられた団体旅行に参加した。旧信越本線の長野県側を引き継いだ「しなの鉄道」が運転する観光列車「ろくもん」と、旧信越本線と旧北陸本線の新潟県部分を引き継いだ「えちごトキめき鉄道」の「雪月花」を一挙に楽しもうという企画ツアーである。旅は初日に軽井沢から長野まで「ろくもん」に乗り長野で一泊、2日目は上越妙高から糸魚川まで「雪月花」に乗車し、両日とも豪華昼食を車内で楽しみつつ、山間部から海岸線まで沿線の情景を楽しむと云う趣向である。GO TOが利用できるというので、以前「TOHOKU EMOTION」や「肥薩おれんじ鉄道」でこの種の列車の楽しみにすっかり味をしめた妻のたっての希望で参加することにした。


東京駅の集合場所に現れたのは「大人の休日倶楽部」とあって50歳以上と見られるシニアが16名で、まずは添乗員に引き連れられ皆で北陸新幹線で「ろくもん」の出発駅・軽井沢に向かう。しなの鉄道・軽井沢駅に造られた旧国鉄軽井沢駅の貴賓室を模した部屋で休むことしばし、10時34分発、115系電車を改造した3両編成の電車「ろくもん」に乗車となった。「ろくもん」とは信濃ゆかりの戦国武将、真田幸村の家紋だそうだ。軽井沢から長野まで74キロ余りを2時間15分かけ、地元のレストラン「アトリエ・ド・フロマージュ」のフレンチを味わいつつ、「美食・自然・文化を満喫する」(パンフレット)。指定されたシートに座り乗車料金に含まれるドリンクを注文すると、いきなり地ビールの缶が一人2本も出てくる豪華版ランチだ。最近は昼にアルコールを飲むことを極力さけているが、こんな日は午前中から堂々グビグビ呑めて嬉しい。


昼食なのでそうボリュームはないものの、長野に向かいながら、地元の鱒やサーモン、チョウザメほかプレミアム牛など素材の味を活かした料理が次々と出される。かつて新幹線開業前、特急「あさま」や急行「妙高」が1時間ちょっとで駆け抜けた区間を2時間以上費やして走るとあって、沿線の見どころでは徐行運転しながら詳しい案内放送、主要駅のホームで地元特産品のワゴンセール、随所でお約束の地元の送迎と嫌が上にも旅心が掻き立てられる。そうこうするうちに最初の缶ビール2本づつではおさまらず、地元産ボトルワイン(2500円)を頼んで2人で1本開けてしまった。昼からほろ酔い、まことに良き鉄道の旅である。と言いつつも酔眼をこじ開け沿線の情景を眺めると、旧信越本線は浅間山や白根山系の西麓を巻き、江戸時代の善行寺往還を辿りながら千曲川の河岸段丘に沿って施設された事が良くわかる。ゆっくりの旅は、新幹線の車窓からでは気が付かない地史がわかって面白いなどと思っているうちに終点・長野へ到着した。


この種のイベント列車は時間に余裕がある上に鉄道関係者がフレンドリーで、普段聞けないような鉄オタ質問が気軽にできるのも思わぬ利点である。軽井沢で先行電車の車輪空転により「ろくもん」の入線が遅れたが「山岳線用115系の2M 1T(2両モーター車1両付随車)で砂箱を装備しても結構空転するのですか?」と尋ねると「この落ち葉の季節、信濃追分などの上り勾配で雨の降り始めには車輪は空転しまくり、下り勾配ではそりの様に滑走してしまいます」。戸倉駅で「この中継信号機は出発信号が遠いから設置しているのですか」との問いに「お詳しいですね。信越本線時代は旅客も貨物も編成が長かったから出発信号機はあんなに先なのです」と駅の人が応じてくれる。JR貨物のタキ(タンク車)やEH200が入線して来るのは「けっこうな使用料をJR貨物から頂いています」とのことで、気になった鉄道好奇心がその場で確かめられる。景色も食もテツもあっという間の「ろくもん」の旅だったが、敢えて一点無理とわかって注文をすれば、碓井線の粘着運転ももうないのだから、115系のDT21Bコイルばね台車は、ふんわか料理を楽しめるように空気ばね付き台車に換装できればなお良いと思った。

地元産の食材を使ったフレンチ
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「ろくもん」車内
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2020年11月14日 (土)

半日鉄道プチ旅行・東急多摩川線

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かつての東急線電車の塗色、青と黄色の塗分けをした1000系とすれ違う

取引先の若者に「家はどこですか?」と聞くと「多摩川です」と答えが返ってくる。一瞬どこだか分からなかったが「あー、昔の多摩川園前ね。東横線の他に目蒲線もあって便利で良いですね」と言うと、彼は怪訝そうな顔をして黙り会話は途切れてしまった。後でどうしたことかと考えてみたら、今は目蒲線はもうないから最近沿線に越してきた若者には通じなかったことに気が付いた。目黒と蒲田を結んだ東急・目蒲線は目黒と多摩川園前(現多摩川)間が地下鉄と相互に乗り入れて東急・目黒線となり、残りの多摩川園前と蒲田間が東急・多摩川線となったのが西暦2000年のことで、それから早くも20年たって目蒲線時代を知らない若者がいても不思議ではないわけだ。


この会話に刺激され目蒲線時代の情景を思い出していると、その昔ラジオでも時々かかる程度にヒットした「目蒲線物語」という歌が頭に浮かんできた。「♯僕の名前は目蒲線、寂しい電車だ目蒲線、あってもなくてもどうでもいい目蒲線♪」という歌で、3~4両の旧型車両で東京の城南地区を地味に走る電車を茶化していた。とはいうものの1923年(大正12年)に出来た目蒲線は大東急の発祥路線であり、路線全長13キロながら目黒でJR山手線、蒲田では京浜東北線と連絡するほか、田園都市線を除く東急電鉄の各鉄道線に乗り換えられた大変便利な路線であり、地元の足として大いに機能していた。


20年前に2つに分かれた目蒲線のうち東半分である目黒線は、地下鉄乗り入れですっかり近代化され、今や堂々の幹線に格上げされている。この目黒線は2022年度に東急が相模鉄道と相互乗り入れした暁には、海老名や二俣川方面から20米車・8両編成の電車が走る予定で、「あってもなくてもどうでもいい目蒲線」時代から大出世である。しかし今回、半日鉄道プチ旅行でどの鉄道に乗ろうか考えた時、旧目蒲線のもう一方、まだローカル色が色濃く残る多摩川線を選ぶことにした。多摩川線は「乗るぞ」と決めないと、この後一生乗るチャンスがないかも知れないのも選択の理由である。


平日の昼下がり、蒲田駅の多摩川線ホーム先端にたたずむと、同じく蒲田を起点とする東急・池上線の18米3両編成の電車も見ることができる。東急の他の鉄道路線が20米4扉の大型車両で運転されているのに、この2線だけは18米3扉車というのが、いかにも地元限定の住民の足という感じがする。やってくる車両はかつて日比谷線乗り入れ車両として活躍した1000系のほか、7000系という新型車両があるのが目をひくが、これらも多摩川・池上線2線だけで運転される。


蒲田から終点の多摩川までは両端をいれても5駅、わずか5.6キロ、所要時間10分の多摩川線はワンマン運転となっている。ワンマンと云っても所定の停止位置に止まると、ドアの開閉操作は自動で行われるようで、駅に着いても運転士は2両目・3両目のモニター画面を見て安全を確認しているだけだ。車内はやはり地元のおばちゃんや高校生が目立ち「あの人、最近見ないけど病院に通っているの?」などと言う会話が聞こえてくる。蒲田でそこそこ埋まった座席も、終点多摩川に近づくと徐々に減っていくので、この時間はJR線から乗り換えて来た沿線住民の利用が多いのだろう。


乗っていると途中の鵜の木駅で、50年前に何度か乗り降りした事を突然思い出した。当時、高校3年の第二外国語は仏語を選択したのだが、そもそも英語さえ逃げていたので仏語などは論外。惨憺たる成績で、家で"toi et moi"(トワ・エ・モア)をトイエット・モイなどと発音したらしく、勉強にはあまり口を出さなかった母があまりの酷さに慌て、知り合いの娘さんに仏語指導を頼んだのだった。その彼女は立教大学仏文科の大学生で鵜の木駅近くの大きな家に住み、夏休みの間なら時間が取れるという事だった。鼻血ブーの男子校高校3年生は、2人きりで女子大生から勉強を教わるというシチュエーションに、妖しい妄想を抱いて鵜の木駅を降りて家に向かったが、やはり期待したような事は何も起こらなかったひと夏だった。などと思い出に耽っているうちに多摩川線の旅も終わり、あまりにあっけないので終点・多摩川から東横線・大井町線・田園都市線と東急線を乗り継いで家路に着いた。

 

追記:多摩川線には蒲田より延伸して京急空港線に乗り入れ羽田空港に至る蒲蒲線構想がある。そうなれば旧目蒲線の蒲田口も再び脚光を浴びるだろうが、標準軌(1435ミリ)の京急線に狭軌(1067ミリ)の東急線がどう乗り入れるのか乗り越えるべき課題は大きい。

2020年11月11日 (水)

半日鉄道プチ旅行・東急世田谷線

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仕事がテレワーク体制となって時間の余裕ができ、首都圏近郊の半日鉄道の旅への興味がますます湧いてくる。先々週の西武新宿線・東武東上線の川越往復に続き、今回は東急世田谷線に乗ることにした。東急世田谷線は路面電車だった旧東急玉川線(玉電)の支線で、都電荒川線とともに東京で生き残った珍しい軌道線(路面電車)である。軌間は1372ミリで運転手の目視に頼る無閉塞運転を行う鉄道だが、世田谷線は荒川線と異なり三軒茶屋・下高井戸の全区間を専用軌道で走る。私は子供の頃玉電沿線の世田谷区駒沢に住んでいたので、三軒茶屋で下高井戸行きに乗り換えて、塾に通ったり京王線方面によく出かけたものだった。思い出のノスタルジック・ツアーである。


玉電といえば、東京オリンピックの頃から大山街道(現国道246)の交通渋滞が著しく、路面を走る電車も走ったり止まったりのなか、三軒茶屋から下高井戸方面だけはスイスイと走り快適だった。専用軌道を走っていたという事から、1969年に国道246号線拡幅と首都高3号線建設のため玉電が廃止された際に、この区間だけが世田谷線として単独で生き残ったのである。世田谷線は全線わずか5キロだが、始点と終点で京王本線と田園都市線、途中の山下駅で小田急線豪徳寺駅に乗り換えることができ、沿線には国士館大学や世田谷区役所などもあって一日5万人以上が利用している。


下高井戸からほぼ50年ぶりに乗る世田谷線の車両はすっかり新しくなり見違えてしまったが、小さな電車がトコトコと住宅地を走る風景は昔と変わらない。平日の昼過ぎとあって車内も近所の高齢者や高校生たちが目立ち、近隣の庶民の足と云う感じである。松陰神社で下車して世田谷区役所近くの商店街を散策すると、まだ「昭和」の雰囲気が色濃く残り、その昔自転車であたり一帯を駆け巡っていたころの景色とさして変わっていないようだ。勝手知ったる世田谷とあって、住宅街を足の向くまま田園都市線の駒沢大学駅方面に歩いていくと、犬を連れた高齢男性の散歩姿や庭の水やり姿が目立つ。地元に残った同級生の多くがああなったのだろうか等と思いつつ、帰路、玉電の代替として敷設された地下鉄の田園都市線(新玉川線)に乗ると、セピア色のノスタルジーの世界から一気に現実に戻って来た。

2020年10月27日 (火)

半日鉄道プチ旅行

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買ってきた「鉄道ジャーナル」の最新号を読んだいたら無性に電車に乗りたくなった。考えてみれば最近乗るのはもっぱら暗闇の地下鉄ばかりだ。テレワークの日々だが窓から外を見れば絶好の外出日和、さして急な仕事もない日に、一日中家のパソコンの前に座ってなぞいられない。思いたったが吉日で、午前中にお隣埼玉県の川越まで行きは西武鉄道で、帰りは東武鉄道で往復し、電車に乗るのを楽しむことにした。仕事は午後ゆっくりやればよいと割り切り、まずは高田馬場まで東京メトロの地下鉄で行き、西武新宿線にそこから乗るのだ。西武新宿線は大手私鉄の幹線としては、いまどき珍しく地下鉄との相互乗り入れがなく、沿線の景色が「昭和」を思いおこさえてくれるのが旅心を刺激する。


朝のラッシュも過ぎたころ、高田馬場から乗った下り川越行き急行電車は予想通りガラガラの車内で、例によって運転席直後の「かぶりつき」に陣取った。乗車した2000系2084は、マスコンとブレーキハンドルが別々の運転台で、いまふうなVVVF制御でない「在来」車。武蔵野を走る無骨な鉄道らしい普通鋼に黄色の車体で、いかにも「西武鉄道」の電車という外観が良い。高田馬場駅を出て10分少々、都内23区を出るあたりから、周囲に緑や畑も見え早くも郊外に来たことが実感できる。前を見ていると、あちこちで路盤や線路脇の改良工事をしており作業員が振る安全確認の小旗が目立つが、「ローカル感が漂う」などと揶揄される新宿線も、見えぬところでさまざま改良工事を行っているようだ。こうして運転士の後ろで信号確認やら速度制限、力行・惰行票などの喚呼を心の中でしていると、なにやら自分が運転士になった気になってくる。


川越まで一時間弱の西武の旅を終え、次は折り返し東武東上線で池袋に戻る旅である。乗り換えのため西武新宿線の終点・本川越駅から東武東上線の川越市駅までは歩くが、そこは徒歩10分もかからない距離で、何ということもないごく普通の地方都市の道だ。用もないのにわざわざ川越まで来たのだから、土産の一つも探そうかと思っているうちに、何の収穫もないままに東上線の駅前に着いてしまった。帰路久しぶりに乗った東武東上線は、私の知っていたかつての東上線とは別の鉄道かと思える変貌ぶりだ。昔は東上線と云えば、主要駅に東武労組の旗がはためき、昼間から運転席後ろのブラインドは閉められ、運転士は発車待ちまで漫画を読んでいたものだった。時代は変わり今や赤旗など見られず、職員も制服をきちんと着こなして規律ある仕事ぶりに見える。


乗り込んだ「かぶりつき」は30000系31606でこちらの運転台はワンハンドル、ATC制御で車両情報がすべて運転席前のモニターに表示される形式である。そのために前方の信号表示を確認すると云う「かぶりつき」のお楽しみは半減するが、デジタル表示の速度計やブレーキ制御針の動きは見ていると面白い。この東上線は昔は都内を出ると田や畑ばかりの田園風景だったが、線路の周辺一帯はすっかり住宅地に変わり、今や志木から和光市までは地下鉄有楽町との複々線となっている。和光市駅で東京メトロ有楽町線に乗り入れる東急5000系を見ると、一瞬「ここはどこだっけ?」と混乱する。かつては和光市は大和町と云って、工場に一面畑だったのが変われば変わるものである。こうしていろいろ驚いているうちに終点・池袋に到着して、あっという間に半日のプチ鉄道の旅は終わってしまったが、思い立った日に用もなく電車に飛び乗り数時間、沿線の景色や変貌を楽しむのもよき気分転換だと思った。次は都電荒川線か東急世田谷線に乗ってみようかと計画しながら午後の仕事でパソコンに向かっている。

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2020年7月11日 (土)

飯田橋駅・新ホーム

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水道橋駅(旧飯田町駅)方面に向かい300R急カーブの旧ホーム、飯田橋駅開業時からホームは徐々に旧飯田町駅に向かい延伸したのか?

最寄りのJR総武緩行線・飯田橋駅(東京都千代田区)ホームが7月12日から新しくなる。現在の飯田橋駅ホームは300R(=半径300米)のカーブに、一部33.3パーミル(1000米の間に33.3米上下する)もの勾配に沿って設置されており、ホームと電車との隙間(すきま)が最大33センチあき、線路のカント(左右両線路の高低差)によりホームよりドア入口が20センチ高くなる箇所があると云う結構スリリングな構造である。乗降客には掲示や放送でこのギャップについて注意を促していたが、それでも年間平均10件ほどの転落事故が起きていた。もし"電車でGO"で雨の中飯田橋駅に満員電車を定位置に停車させる設定があれば、毎回緊張の場面連続というような運転士にも難所の駅であろう。実際にホームを監視する駅係員の見張り場所は、曲がったホームの両端を見渡せるように地面から数米高い場所にあって、管理する側も相当な神経を使ってきたことがうかがえる。


7月12日以降はこの300R部分を避け線路の勾配も緩やかにした上で、ホームを南西方向の市ヶ谷方面に200米に延長した様な形で新ホームが稼働する。安全面では大きな進歩だが、しかしこれまで飯田橋駅を利用する度に、なぜこのようなトリッキーな場所にかつて駅を造ったのか、という疑問を常々感じていた。このあたりの経緯を述べた本やサイトが見当たらないので、どうしても個人的想像をたくましくしてしまうのだが、そもそも昭和3年に開業した官鉄・飯田橋駅は、それまで約250米ほど市ヶ谷寄り(西)にあった牛込駅と、反対側500米ほど水道橋駅寄り(東)にあった飯田町駅が統合して出来た駅である。新駅を旧両駅の中間より牛込駅に近い場所にしたのは外堀通り・目白通り・大久保通りが交差して市電の乗り換えなどの便が良かったこと、当時市内有数の遊興の地だった神楽坂への利便性を考えてのことだと思われる。


当時の官鉄線の電車はせいぜい2~4両ほどで運転されていただろうから、飯田橋駅が造られた当初は水道橋寄りにある300R急カーブにかからず、その手前でホーム長が収まっていたはずである。しかし時代の進展で電車の編成が長くなるにつれホームを延伸する必要が生じるが、統合前の旧両駅との間隔を考えると、どうしても遠くなった飯田町(水道橋)寄りの乗降客の利便を考慮する必要がでてきたのではなかろうか。飯田町方面は陸軍関連の施設もまだ多数存在していた時代である。こうして駅は飯田町方面にホームが伸び、最後は東にある急カーブまで延伸した駅になったというのが私の推理である。さて7月12日以降は急カーブにかからない安全な新ホームが使われることになり、これまでの水道橋と飯田橋の駅間距離900米、飯田橋と市ヶ谷間の駅間距離1500米が、それぞれ1100米と1300米に平準化され快適性も増しそうだ。また新ホームの使用とともに飯田橋駅西口駅舎も新装オープンするから楽しみである。それにしても線路の場所やら勾配を見ているだけで、これだけ色々な想像が浮かんでくるのだから鉄道はやっぱり面白い。

電車とギャップが大きいこれまでの飯田橋駅ホーム
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2020年3月19日 (木)

高輪ゲートウエイ

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史上最速で桜の開花が報道されたように、東京にいつもより早い春がやってきた。陽気に誘われるまま、会社の昼休みにこの3月14日に開業した「高輪ゲートウエイ」駅までぶらぶらと散歩に行ってみる。「高輪ゲートウエイ」は山手線や京浜東北線にできた久しぶりの新駅で、駅名公募の際には「高輪」や「芝浦」「芝浜」と云う多くの応募名をおしのけ、とってつけたようなカタカナの名前が採用され話題になった駅である。近くにある江戸時代の高輪大木戸がゲートウエイの名の由来だとされるが、このあたり田町から品川の間は、山手線でも駅間距離が2.2キロと一番長かった区間で、その中間に新しい駅ができたことになる。

もっとも新駅が造られた場所は、その海側(東側)にJRの広大な車両基地が広がっており、当面そちら側からはアクセスができない変則的なところである。開業当初に出入り口が設けられたのは山側(高輪側)のみで、その近隣は泉岳寺などの寺社のほかは高級住宅地街が広がり、それほど多くの人が利用するとは思えない環境だ。またほど近い場所に京急・都営地下鉄の泉岳寺駅があるので、新駅を造っても、利用者が少なくて有名な京浜東北線の上中里駅(北区)のようなことになるのではと危惧される。しかし新駅の地区は近い将来、品川の再開発プロジェクトの一環として高層オフィス街の建設と就業人口の増大が期待されているそうで、それに対応してJRは世界へのゲートウエイの役割を担う駅を開きカタカナ駅名を採用したのだと云われている。

開業した真新しい駅に行くと、昼休みもあってか駅前は利用者より見物客が多く、高架の駅前テラスから風景を眺める人、駅舎をバックに記念撮影する人などが目立つ。ふと傍らを見ると3~4名の中学1年ほどの男の子たちの会話が聞こえてきたが、そのリーダーはよほどの鉄道少年らしく、開業した駅の事を自慢げに仲間に語っていた。昼のそよ風の下、聞くともなく彼の話を聞いていると、そのうちに鉄オタの性か、こちらも誰かにウンチクをたれたくなってきた。「よく知っているねえ~」と少年に声をかけ、「目の前に広がる線路にはかつて田町電車区や品川客車区、東京機関区があってね、新幹線ができる前の東海道線の特急や急行が整備されて運転されていたんだよ」とつい鉄の先輩風を吹かしてしまう。と、神妙に聞き入っていた子供たちの脇の中年男性がにこにこして割って入り「良くご存じですね、勉強になります」と答えてくれる。「あ、お父さんですか、これは失礼」と赤面の体であわてて話を切り上げ会社に戻ったが、知っている知識をつい偉そうに誰かに喋りたくなってしまうのは変わらぬ我が性癖なのだろう。

2020年1月25日 (土)

シニアの鉄道趣味

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最近、鉄道への興味が復活してきた。子供の頃あれだけ好きだった鉄道である。当時、入場券で東京駅の14番線・15番線に通って東海道本線を下る優等列車の入線に心をときめかせ、自転車で遠征しては小田急線や品鶴線の列車の写真を撮ったものだった。家ではHOゲージの線路を広げ、その頃2冊しかなかった月刊誌「鉄道ファン」か「鉄道ピクトリアル」のどちらかを小遣いをためては買っていた。長ずるに連れ鉄道への興味も失せ、いつしか移動手段としてしか捉えられなくなっていたが、最近ゆっくりできる時間が増えたのか、はたまた人生の退行期なのか鉄道雑誌をまた買うようになった。

 

雑誌をパラパラとめくりつつ、なぜ多くの人たち、最近は女性も、鉄道の趣味に魅了されるのか考えてみた。ということで例えば老舗の鉄道本「鉄道ジャーナル」3月号を読むと、その3割ほどが特集「列車の旅を愉しむ」で、九州の豪華列車「ななつ星」などの乗車記のほか、海外の鉄道紹介記事もあり、主に「乗り鉄」を満足させてくれる内容だ。同誌はつづいて近鉄の新特急「ひのとり」やJR東の新型「サフィール踊り子」さらに小田急の一般車両動向など、この趣味のテッパン、新旧の車両披露のページが多い。さらに「歴史の街並みを歩く」という地誌もの、「木造駅舎の証言」や「橋梁エポック」と云った建造物関係の記事、「撮り鉄」のためのカメラ講座、他にバリアーフリーと云った社会的記事なども掲載されていて、昨今の鉄道趣味誌の内容が盛り沢山なのがわかる。

 

こうしてみると鉄道趣味と一口でいっても、乗り鉄・撮り鉄・車両鉄のほか、沿線の歴史や地理地誌への興味、駅・橋・トンネルなど構造物への関心、システムへのアプローチなど幅広いものが含まれることがわかる。理科系としては車両工学・機械工学や電気工学に始まり管理工学にデザインや土木建築工学、文化系でみると歴史・地理のほか鉄道事業体の経営学や鉄道経済学、交通政策、大衆心理学、美術系では写真・動画や絵、文学的にはエッセイや詩、さらに鉄道模型も「鉄道趣味」の一画をなしている。「鉄道趣味」は子供のものだけでなく、社会経験を積んだおとなの知的興味の対象としてきわめて間口が広く、かつ奥深いため多くの人を惹きつけるのだと思われる。となると私の「鉄オタ、アゲイン」も子供の頃とは違った視線や、より広い角度から鉄道にアプローチできる気がしてくる。

 

この点では「鉄道ジャーナル」3月号の「車窓はスマホよりおもしろい」と題された車窓の楽しみ方の記事のなかで、山田亨さんという鉄道研究家のコメントが私にはとても印象深かった。今ではほとんどなくなった夜行列車の夜景の愉しみかたとして、この記事で山田氏は「家々の明りですよ、明りの一つひとつに人々の暮らし、大げさに言えば人生があるんだなと思うと感傷的になりました」と述べている。そう、今ではほとんどなくなった夜行列車の車窓を思いだすにつけ、同じ感慨に浸った当時のわが身を振り返ってみたくなるものだ。子供の頃と違ってこんなコメントに共感できるのも、シニアーの鉄道趣味の喜びの一つなのだろう。

以前のブログ「旅情(2009年6月9日)」

2019年9月 5日 (木)

TOHOKU EMOTION その2

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気動車列車に乗るのは、2014年の肥薩おれんじ鉄道「おれんじ食堂」以来だ。もっとも肥薩おれんじ鉄道はもともとは鹿児島本線の線路とあって、電化されている区間を気動車が走るため、沿線の景色は電柱が立ち並びちょっと興覚めだったが、今回はホンモノ非電化JRローカル線のディーゼルカーである。TOHOKU EMOTION(東北エモーション)に使われる110系気動車は、JR東日本で1990年から増備がすすめられた標準形式とあって、かつての幹線・亜幹線用キハ28やキハ58形式とどう乗り心地が違うのかも体験してみたい。

TOHOKU EMOTIONで使われる3両の車輛は、キハ110系を2013年に郡山車輛センターで改造、キハ110の700番台と名付けられている。前述のとおり久慈方より先頭車がオープンダイニングカー、中間がカウンターキッチンのあるキッチンカー、最後尾が7部屋の個室が並ぶコンパートメントカーで、キハ‐キクシ‐キハの編成となっている。ここで、はて聞き慣れない「キクシ」とは何ぞや?と疑問が生じた。気動車(ディーゼルカー)は各車輛にエンジンがついているので、気動車のキに等級を現すロ(二等車)やハ(三等車)をつけているだけかと思っていたし、真ん中のキッチンカーは食堂車なのだから単純に「キシ」ではないのか?

さっそく調べてみるとこの”ク”は、実は編成に「くっつく」車輛であるという意味のクから来るらしい。これまでクモハなどの”ク”は運転台のある車両につける記号だとばかり理解しており、クの語源など考えたことがなかったが、これは目からウロコだ。(同様に同じ付随車サハの”サ”は、編成に「差し込む」のサなのだと云う)この列車の中間車輛(カウンターキッチンカー)は床下のディーゼルエンジンが走行用でなく車内電源用で、停車中もひときわ大きなエンジン音を奏でているが、たしかに動力源が発電専用なら「くっついて走る」=クだというのも道理である。キサシは知っていたが、とにもかくにもキクシなどという珍車輛を、今回初めて経験することができた。

さてJR盛岡支社・八戸運輸区所属の110系700番台は、空気ばね付きのボルスタレス台車で、トルクコンバーターの変速も昔の気動車と違って実にスムースである。窓から見る枕木も一部コンクリート化されて軌道もしっかりしているようだ。八戸線は2011年の東日本大震災による津波の被害でしばらく運転ができなかったが、再開にあたって保線もしっかりやり直しているのかもしれない。こうしてみると八戸線に限らず、ローカル線列車の乗り心地も、最近は各段の進歩を遂げているようだ。かつて夏のローカル線ディーゼル車に乗れば、線路近くまで生い茂った草木が列車の風圧でなびくさまを車窓から眺め、あけ放った窓から肘でも出していると、前方の垂れ流しトイレから飛沫がポショっと飛んできたりしたものだ。TOHOKU EMOTIONの冷房が効いた車内で舌鼓を打っていると、鉄道の旅も快適で多様化したものだと隔世の感がある。

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2019年9月 4日 (水)

TOHOKU EMOTION その1

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先週末はJR東日本のジョイフルトレイン、レストラン列車の "TOHOKU EMOTION"(東北エモーション)に乗車した。"TOHOKU EMOTION" は週末や祝祭日に、青森県八戸と岩手県久慈を結ぶJR八戸線を、団体専用扱いで運転される豪華気動車列車である。往路は八戸駅を11時05分に出発して約2時間、当地名産の食材を使ったランチを堪能し、復路約2時間は、地元産のデザートビュッフェを楽しむという趣向になっている。折り返しの久慈駅では1時間半ほど停車するので、2013年のNHK朝ドラ「あまちゃん」をフィーチャーした「あまちゃんハウス」見物などの時間もある。

北東北随一の工業都市である八戸は、これまで何回も出張に来た場所なのだが、ここから三陸海岸を南下する八戸線やその沿線は一度も訪れたことがない。全線65キロの非電化・単線のローカル線に乗り、海岸をながめながら美味に舌鼓を打つのもよいかと思うと、目に親しんだいつもの八戸もなぜか違う場所のように見えた。その八戸駅1番線ホームに入線した "TOHOKU EMOTION" 用3両編成の白い列車には、我々の他に多くのカップル、その他同窓会なのか大勢のおばちゃんたちのグループが乗車する。この種の遊覧列車では先頭車両の写真を撮る客が多いものだが、カメラ片手に先頭車両に駆けていく人がほとんどいないというのは、鉄オタより食い道楽比率の方が高いからか。

列車は久慈方より先頭車がダイニングカー、中間がカウンターキッチンのあるキッチンカー、最後尾が7部屋の個室が並ぶコンパートメントカーである。ダイニングカーは2~4名掛けのテーブル席で最大20名着席でき、キッチンカーには厨房とデザートビュッフェのスペースにもなるカウンター、コンパートメントカーは各部屋4名まで収容出来るので、満員でも乗客は50人弱の定員である。この列車にシェフやサービス掛かりが5~6名乗車し、これに気動車の運転士・車掌がいるから乗客とクルーの比は最大でも6対1くらいのゆったりした車内空間である。この列車用に改造された車内アコモデーションもご当地の意匠を意識していて好感がもてる良い具合だ。

定刻に八戸駅を出発すると間もなくランチサービスが始まり、八戸市のはずれである鮫駅につく頃には飲み放題のドリンクやこの地の名産品であるホヤのフリットや、マンボウのこわた酢味噌和えなどのアペタイザーが供される。昼食にはちょっと早いのだが八戸~久慈往復で11,900円の料金(運賃込み)の他、片道3,000円のコンパートメント料金を行きも帰りも奮発(ただしこれらの代金は大人の休日倶楽部カードで決済すると5%引きとなる)、八戸までの東北新幹線や前泊ホテル代などもかかっているから、出てくるものは可能な限り楽しまねば損、と気合が入る。ビールのあとはワインや日本酒を頼み、素晴らしい晴天のもと、ウミネコの名所蕪島や種差海岸など風光明媚な海岸を眺めつつ、冬瓜とふかひれのスープや三陸産ホタテ浜焼き、岩手鴨のロースト、〆の海鮮ちらし寿司のわっぱ迄次々に出て来る美味に舌鼓をうちながらすっかり出来上がって13時頃久慈駅に着いた。

久慈は思いのほか暑さが厳しく少し動くだけで汗が噴き出たが、「あまちゃんハウス」見学のあと道の駅くじ「やませ土風館」まで足を延ばして帰りのスイーツ用のスペースを捻出した。久慈駅14時20分発デザートビュッフェ便では、最初にデザートを持って来てくれるが、食べ終わる頃2号車ではビュッフェサービスが始まった。流石にもう食べられないと思ったが、食い意地の張っている妻は「オードブルもあるみたいよ」と取りに行った。そこで復路もアルコールが飲み放題とわかり、白ワインまで注文して戻って来た。ランチの満腹の上に無理やりスイーツを詰め込んで、更に妻はアルコールとオードブルまで食べて夕方八戸駅に戻って来る頃には、しばらく食べ物は見たくない、というグルメ列車の旅であった。

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往路の前菜のアソート

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復路のケーキとオードブル

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