カテゴリー「鉄道」の記事

2021年2月 3日 (水)

半日鉄道プチ旅行・「妙な線路大研究」(竹内正浩・著)を読んで

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かねてから不思議に思っていたことがある。東京の西郊外に延びる東武東上線や西武新宿・池袋線、小田急線や京王線はターミナル駅から真っすぐ西に向かっているのに、都心の東側に路線を展開する東武伊勢崎線や京成線は東京近辺でなぜあれほど線路が複雑に曲がっているのだろうか。東武伊勢崎線は北千住から南は線路がくねくねと方向を変えるし、京成本線も上野公園下や日暮里に急カーブがあるほか、路線図を眺めるとあちこちで線路が屈曲しているのがわかる。また京成押上線はせっかく都心近くまで来ながら、永い間なぜか隅田川の向こうの押上で寸止めだったなど、東京の西で生まれ育ちこの辺りに地縁のない私には分からないことが多い。極めつけは両鉄道の線路が平行して走っている千住付近(下地図の黒〇中、京成本線の関谷・東武線の牛田駅近辺)で、ここでは浅草方面行きの東武上り線と、千葉方面に向かう京成の下り線が500米ほどまったく同じ向きに走っている。上り電車と下り電車が同じ方向に向かって走るさまを見る度に、ここはまるで鉄道のラビリンスかと妙な錯覚にとらわれるのだ。


新刊「妙な線路大研究・東京編」(じっぴコンパクト新書・竹内正浩著)がこの疑問を解決してくれた。筆者は膨大な資料に当たり、地理的条件だけではなく政治・行政、往時の軍の施設など多角的な視点から「なぜ鉄道がこの場所を通るのか」「なぜこの鉄道はこんなに妙な線形をしているのか」について詳しく述べている。品川駅の南に北品川駅があるとか、東武東上線や西武新宿線は山手線の内側まで進出する計画があった、などのトピックスに加えて、地下鉄・大江戸線は各駅を出るとまず下り勾配になって節電しながら加速し、駅の手前は上り勾配で減速しやすい構造になっていると目からウロコの解説もあちこちに散りばめられている。とくに本書には「なぜ東武と京成の都心の線路はY字なのか」「浅草と亀戸で悶え苦しむ東武鉄道」「京成の疑惑事件と浅草延伸断念」「なぜ東武線は荒川堤防ギリギリを通っているのか?」と興味深い事項に頁が割かれており、これを読んでやっと永年の疑問が氷解した。


なぜ、東武伊勢崎線や都内の京成線の線路が複雑なのかはこういう事らしい。そもそも武蔵野台地が広がっていた東京の西郊外に較べて、東側は早くから集落が発達していた上に、荒川(隅田川)・中川・江戸川など大きな河川が集まっており、鉄道敷設のための環境が厳しく真っすぐ線路を建設できなかった事が挙げられる。また隅田川より西の都心部は東京市電の路線網が広がっていた上、すでに関東大震災前に地下鉄(銀座線)の建設計画もあり、都市計画上、東武伊勢崎線や京成押上線が隅田川を超えて都心に進出する許可がなかなか下りなかった。そのため京成電鉄は押上から隅田川を超えて西進するのをあきらめ(ただし後年、都営地下鉄・浅草線に乗り入れて都心進出は実現)、別の鉄道会社が日暮里へのルートについて免許を持っていたのでこれを吸収合併しようやく上野方面に路線を伸ばした。また隅田川は川筋が蛇行しているので、その東岸に線路を敷いた東武は川の屈曲に沿って鉄道を作るしかなかった上、大正末期に隅田川のすぐ東に荒川放水路が掘られたため、一旦作った線路の付けなおしを余儀なくされ、ますますウネウネと曲がる路線となった。


この「妙な線路大研究」を読んで現地踏査をしてみようと思い立ち、過日、上野駅から京成本線の各駅停車で関谷駅で降り、そこから東武伊勢崎線の堀切駅経由、鐘ヶ淵駅まで探索に行ってきた。関谷駅で千葉方面に向かう京成電車の各駅停車を下車すると、目の前に東武の牛田駅がある。この牛田駅から東武線で都心に戻るためには、改札口を入り向かい側の千葉県に向かうかのホームに立たねばならないのがなんとも奇異である。しかしここから東武の線路は90度近い急カーブで右に折れて南へ下り、堀切駅から荒川放水路の築堤に沿って鐘ヶ淵に向かうルートをとる。「妙な線路大研究」によると荒川放水路ができる前は、東武の線路は景勝地の堀切菖蒲園近くまで今は水路となった地をもっとゆったり大きなカーブを描いていたが、工事の完成で築堤の下をショートカットで南下せざる負えなくなったのだと云う。線路は鐘ヶ淵でまた右に急カーブをとって元々あった線を浅草や押上に向かうようになっており、水にまつわる歴史がこの近辺のトリッキーな線路配置を際立たせている。夕暮れにぶらぶらと歩きつつ、荒川放水路の築堤から東武伊勢崎線の線路を見ていると、ひっきりなしに通るのは地下鉄・半蔵門線経由で乗り入れてくる東急の車両で、東武が都心乗り入れに苦労したのは遠い過去の出来事なのだと改めて思い起こさせてくれた。

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東武伊勢崎線と京成線
東武線(赤)は荒川(中央)と隅田川(その左)の間を苦労しながら走る。牛田と鐘ヶ淵間は荒川開削までもっと大きなカーブだった。
京成線は押上線(下の紫)が隅田川の手前で終わり、日暮里までの現本線(上の紫)は後年に吸収合併した他鉄道の免許線である。
〇印が京成と東武が逆方向に向かって走る牛田駅付近

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荒川放水路開通で築堤の下を走るようになった東武伊勢崎線の線路(鐘ヶ淵から上流を望む)

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鐘ヶ淵駅の大カーブ。築堤下(右)を走ってきた線路はここから本来の経路で浅草(画面奥)へ向かう

2021年1月26日 (火)

「電車を運転する技術」西上いつき著

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鉄道趣味にはいろいろな分野があるが、ポピュラーなのは列車の運転席を見ることだろう。鉄道好きの男子ならば(最近は鉄子もいるが)、一度は電車の運転台(キャブ)に乗って自らがあの鉄の塊を動かしてみたいと思うはずだ。そんな憧れの場、運転台とはどういうものか、もと名鉄の運転士が執筆した新刊「電車を運転する技術(運転台のリアル)」(発行SB クリエイティブ)を本屋の店頭で見つけて購読した。私は電車に乗ると「かぶりつき」に陣取り、目前に迫る線路際の標識や信号、それに応じて巧みにマスコンやブレーキハンドルを操る運転士の所作、各種計器が示す車両の状況などを観察するのを楽しみにしているが、この本ではガラス超しに見るだけでは判らないキャブ内の真相が元プロによって紹介されている。


ページを繰ると、まず運転士の持つカバンの中には何が入っているかに始まり、車輪の「空転」や「滑走」が起きやすい場面やその対策、ダイヤより遅れた時の回復運転の方法、マスコンノッチの投入方などファンには興味津々のトピックが並ぶ。電車のブレーキでは、電力回生ブレーキが失効しやすい場合やら「2段制動3段ゆるめ」「階段制動階段ゆるめ」などかなりマニアックなテクニックも紹介され、なるほどと読みながら思わずニヤリとしてしまう。2007年に碓氷峠鉄道文化むらでEF63の体験運転「電気機関車は腰で運転する(2008年3月10日)」をした際に、「牽引する後部車両のブレーキの効き具合を『腰』で感じながら電気機関車は運転するものだ」という指導機関士の説明が印象的だったが、電車でも同じような感覚だそうで、電車と電気機関車の制動感覚にはそれほど差がないのかとちょっと驚きの箇所もあった。


その他にラッシュ時の運転やら悪天候時の注意など、興味尽きないトピックがテンコ盛りだが、1人前の運転士になるのはどのくらいの教育や経験が必要なのか、見習い運転士時代の教官との関係や葛藤など、一般人には見えない舞台裏の苦労も本書ではいろいろと披露される。以前、山陽本線の電車であったろうか、運転席の後ろにオムツの予備がおいてあるのを見て、「ちょっとトイレへ」などと云えないキャブの厳しさを見た気がしたが、その実態について一部でもこの本で触れることができ、定時に列車を運行する勤めの重さを改めて思い知った気持ちがした。先輩から受け継いだ安全運転のDNAが組織で脈々と流れているとして筆者は本書を閉めている通り、膨大な先人の知恵や経験の集積に現代の科学技術の成果が融合し、鉄道の定時・安全・快適性が担保されていることが本書でも理解できるのである。

2020年12月31日 (木)

半日鉄道プチ旅行・相模鉄道・JR直通列車

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終点・新宿で折り返す海老名行き 相鉄12000系(新宿からJR線内は各駅停車扱い)


年の暮れだが今年は特に何の予定もない。こんな時にはまた一人で知らない鉄道に乗ってみようかと呟くと、妻は早く行ってらっしゃいよと大賛成の様子。「小人閑居して不善を為す」の夫が手伝いもせずに家でゴロゴロしていると年末の大掃除の邪魔らしい。それならばと昨日は開通してちょうど一年になる相模鉄道・JR線直通列車に乗りに行ってみた。相鉄というと神奈川県民の足という感じで都民にはあまり馴染みがない路線である。この機会にふだん縁のない相鉄線を経験し、併せ神奈川の県央から都内に直通する新規ルートの試乗をしてみようと思い立ったのだ。


と云うことで昨日の昼下がりの新宿発、小田急線の小田原行き快速急行でまずは海老名へ向かった。新宿から海老名までの40キロ余りを40数分間、いつも混んでいる小田急線も年末のためか外出自粛の掛け声のためか、車内はがらがらである。例によってかぶりつきに陣取れば、登戸までの複々線区間に続き多摩丘陵から相模原と伸びる線路は、ロングレールで道床も良く整備され、聞こえるのは運転士の指さし喚呼の声と風切り音だけという快適さ。前を見ているうちにあっという間に海老名に着いた。ここ海老名は相鉄線の始発駅で、近代的な小田急・海老名駅をおりて相鉄線のホームに立つと、乗降客が少ない上に駅が改造工事中でちょっと侘しい感じだ。


とは云うものの、相模鉄道は海老名から横浜駅まで25キロの本線と途中駅・二俣川(ふたまたがわ)から分岐するいずみ野線など合わせ40キロの路線を有し、通勤客輸送のために20米4扉の大型車で最大10両編成が走る今では堂々の大手民鉄路線である。この相鉄は横浜駅方面の混雑緩和と悲願の都心乗りれのために、本線途中の西谷(にしや)からトンネルを掘りJR貨物の羽沢貨物駅付近でJR線に乗り入れ、東海道貨物線~山手貨物線を経由して新宿までの都心に直通するルートをちょうど一年前に開通させた。さらに2022年度には西谷から東急東横線の日吉までトンネルで結び、東急目黒線経由で都営地下鉄・三田線やメトロ・南北線まで列車を直通するのだというから、いまや神奈川県民だけではなく首都圏の鉄道マニアに注目される私鉄だといえよう。


海老名駅のホームで時刻表を確かめると、年末年始は休日ダイヤで海老名発の新宿行き特急は一時間に2本しかなく、折悪しくちょうど出て行ったばかりだった。次の新宿行きまで30分もあるので、折り返しでホームに停車中の各駅停車に乗り、変貌中の相鉄線をじっくり見つつ二俣川(ふたまたがわ)で後続の特急を待ち合わせることにした。乗車した各駅停車の電車は8000系電車で、がらがらの車内でセミクロスシートを独占できるのが何とも気持ち良いのだが、走り出すと床下からは、油切れのギアが噛むかのような爆音が響いてくる。二俣川で特急の待ち時間に次々とやってくる相鉄車両を観察したところ台車の2つの車軸間の距離が長く、台車枠の外にディスクブレーキがついている変わった構造のものが多い。帰宅後に調べてみると相鉄線の在来車両は、直角カルダン駆動と云ってモーターが線路に平行に架装された今では珍しい台車ゆえの轟音と分かったが、乗ってみなければわからない事は多いものだ(現在の鉄道車両はほとんどが平行カルダン)。


二俣川から乗った特急新宿行き12000系はJR線乗り入れ用の新造車両で、こちらは平行カルダンになっているが、車両前面にはラジエーターグリルのような格子柄があって電車というより大型トラックのような顔つきである。相鉄の技術陣やデザイナーは他の鉄道とは一味違うものを目指す、という自負でもあるのだろうか。電車は羽沢から本来は貨物線用の港北トンネルと生見尾トンネルを経由して鶴見に至り、新川崎の貨物ターミナルを通過したのち、旧品鶴線(現在横須賀線などに使用)を通って蛇窪信号所から山手貨物線(埼京線)の大崎駅に乗り入れる。二俣川から新宿まで45分ほど、前方を見ているとこれまで何度か”貨物線の旅”で通った珍しい行程が多く、”かぶりつきファン”にとっては絶好のルートだと云えよう。トンネル続きで運転士の真後ろの大窓のブラインドが降ろされる区間も、空いた車内で前に立つ人もない側窓から前面展望をゆっくりと楽しめた。それにしても相鉄の車両が埼京線の線路を走る光景にはまだ目にしっくりこない。いずれ相鉄が東急線に乗り入れて、西武や東武の車両とネービーブルーの相鉄の車両が並んだらどんな気持ちになるだろうか。こうして家を出てから帰るまで4時間弱、料金も2000円もしない大人の遊びであった。


羽沢横浜国大駅 外側2線がJR線に接続する線路、トンネルに向かう内側2線は2022年度開通予定の東横線・日吉に通じる線路
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原宿付近の埼京線を走る相鉄車両(相鉄が原宿とは何とも奇異に感じる)
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2020年12月 1日 (火)

★貨物線乗車の旅★お座敷列車「華」で満喫 首都圏ぐるり旅 両国発品川行き

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早くも12月、師走となった。武漢ウイルス騒動で散々の一年になろうとしているが、こんな時こそオヤジたちは遊びまわりたいものだ。ということで、この日曜日は「びゅうトラベルサービス」の主催の「お座敷列車『華』で満喫、首都圏ぐるり旅(新金線・武蔵野貨物線・東海道線・高島線)」に乗車した。2019年の5月に「★貨物線乗車の旅★お座敷列車「華」で満喫 首都圏ぐるり旅 新宿発品川行き」(リンク:当時のブログ)を楽しんだシニア5人組と同じメンバーである。485系特急車両を改造したお座敷列車で、普段は通ることのできない東京周辺の貨物(一部専用)線を一日がかりで乗車するオタクのための企画だ。ただし今回は武漢ウィルス感染予防で定員152名のところ80名での催行とあって、料金は以前より高く設定されている。


列車は団体専用列車などにしか使われない両国駅の行き止まりホーム3番線から発車し、まずは総武快速線で稲毛駅近くの黒砂信号所で折り返し新小岩まで戻ってくる。総武線の新小岩から常磐線の金町までの約7キロがこのツアー目玉の一つ、貨物専用線の新金線(しんきんせん)の旅である。いつもは貨物列車だけが通過する新金線を「華」はしずしずと走って行くのだが、この列車を見に来たカメラ片手の多くの鉄道ファンが沿線から手を振ってくれるので、なんだか乗っているこちらも嬉しいようなこそばゆい複雑な気持ちになってきた。


金町からは常磐線と武蔵野貨物線を使い東海道線に乗り入れる行程となる。武蔵野貨物線には越谷・新座・梶ヶ谷と随所に貨物ターミナルが配置されており、この線路が都心を回避し東京から放射状に伸びる各線をつなぐ物流のバイパスとして機能していることがわかる。全国を走る貨物列車はこのようなターミナルでコンテナが積み下ろしされ、行先ごとに編成が組み直されるのだが、その光景を目のあたりにすると我々の知らないところで物流の網が緻密に組み立ててられていることが実感できる。東海道線に乗り入れた「華」は根府川で折り返し、横浜の高島貨物線経由、終点の品川に戻って来た。


朝10時から夕方6時前まで、吉川美南(武蔵野線)と根府川(東海道線)以外はドアも開かず、ただ東京の周りをぐるっと車内に缶詰の300キロの旅である。鉄&鉄子の5人組は例によって首都圏の全路線配線図やら貨物線の時刻表などを広げ、ウイルス禍といえども朝からの酒盛りテッチャン談義であっという間に時間が過ぎてしまった。旅客線から貨物線へ移る亘り線のポイントでは皆で思わず拍手をしてしまうなど、そうじゃないフツーの人から見たらちょっとおかしな集団であっただろう。ただ「華」もお座敷列車として改造されてから20年以上経過し、内装はだいぶ疲れている。以前にも指摘したとおり、車内のスクリーンを大型にして前面展望や沿線の案内、乗務員の所属や氏名、各線の歴史的経緯や役割などを流す程度のサービスは期待したいところだ。地方の第三セクターのイベント列車が頑張っているなか、JRやびゅうトラベルは一層奮起しテツを楽しませて欲しい。

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2020年11月23日 (月)

えちごトキめき鉄道・雪月花

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ET122型気動車ベースの雪月花

大人の休日倶楽部が催行する【予約が取りにくい人気の観光列車を一度に楽しむ!信越の海・山・里の景色とこだわりの食を堪能『ろくもん』と『雪月花』 】、2日目は「雪月花」乗車である。長野駅直結のホテルメトロポリタン長野に宿泊した我々は、翌朝9時にロビーで集合し、「雪月花」が出る上越妙高駅まで新幹線で移動した。因みに「雪月花」は中国の詩からの引用で美しい自然の情景を示す語だと云う。「雪月花」が運転される「えちごトキめき鉄道」は、北陸新幹線の長野・金沢間開業(2015年)に伴い、旧信越本線の妙高高原から直江津間を「妙高はねうまライン」とし、旧北陸本線の直江津・市振間は「日本海ひすいライン」と名付けて開業した新潟県内の鉄道である。「トキめき」のトキは佐渡に渡ってくるトキ(朱鷺)を、「はねうま」は妙高山に雪解け時期に現れる馬の雪形を、「ヒスイ」は糸魚川地区が翡翠の大産地なのが線名の由来だそうだが、新幹線開業で分離された平行在来線は、全国どこも名前がキラキラ過ぎだ。第三セクターで営業のために目立つ必要があったにせよ、信越鉄道とか越後鉄道あたりが、オールド鉄道ファンにはしっくりくる。


「雪月花」の出発駅である上越妙高駅は信越本線時代には「脇野田」駅という地味な駅だったが、今は新幹線から直江津方面への乗り換え駅となり、駅前には早くも全国チェーンのビジネスホテルが建っている。「えちごトキめき鉄道」の問題は旧信越本線部分(妙高はねうま線)が直流で、旧北陸本線(ひすいライン)部分は直流と交流が混ざって電化されているために、同じ会社でありながら両線の車両が簡単には相互乗り入れできない点にある。このためリゾート列車を設定するにあたり、在来の電車を改造した車両ではなく、両線で運転可能な気動車として「ひすいライン」に配備されるET122型気動車をベースに新造されたのが「雪月花」である。2016年度グッドデザイン賞や2017年鉄道ローレル賞の賞状が「雪月花」車内に掲示されているように、パノラマウィンドウを採用し専ら観光列車用に新規設計された車両なので、一歩足を車内に踏み入れるだけでリゾート気分が盛り上がる意匠となっている。


10時19分に上越妙高駅を出た「雪月花」は、妙高山を右手に臨みつつ「妙高はねうまライン」を信越国境の妙高高原駅に向かってゆっくりと登っていく。途中スイッチバックの二本木駅で降り立つことができるが、ここは日本曹達・二本木工場の玄関駅で、かつて駅構内は旅客や貨物列車の往来で賑わったことが伺える。この駅をスイッチバック方式にしたのは停車した列車を引き出すのが困難だったためとの説明で、往時のD51で長大編成の貨物列車を始動させるのが如何に大変だったのかが想像できる。ホームから目の前の日本曹達の工場を見ていると、なぜ直江津ではなくこんな山間部にソーダ灰や塩ビの工場を作ったのか、原料の塩はどこから運んできたのかなどと疑問も次々と湧いてくる。鉄道遺産を訪れるとわが国の産業史が垣間見られ、中高年の脳にはなかなか良い刺激だという気がする。


都内の二つ星レストランシェフが越後の食材で調理したフレンチの重箱料理を楽しみつつ、妙高山の雄姿を眺めるうちに妙高高原駅で列車は折り返し、今来た線路を直江津に向かって下る。腹も一杯になった昼過ぎ、列車は直江津で再び進行方向を変え、今度は右手に日本海を望みつつ裏日本縦貫線の一部である「日本海ひすいライン」を走り始める。糸魚川向き先頭車には展望デッキがあり、食後のひと時はここで運転士の一挙手や、海岸線の前面展望を楽しめるのも観光列車ならではだ。途中の頚城隧道(くびきずいどう)には筒石駅というトンネル内の駅があり、地上へ至る階段を見ることができるように列車は停車する。この駅から地元の人が利用する300段弱の階段を、限られた停車時間なので地上まで駆け上がってみたのだが、筋トレのような勾配は満腹後の腹ごなしにちょうど良い運動となった。こうして「雪月花」は13時16分に終点・糸魚川駅に到着し、昨日の「ろくもん」に続き連日昼からの豪華飲み食いの旅は終わった。2日間に亘り極楽の道中だったが、グルメとは趣向を変え、産業遺産・鉄道遺構を訪ねる特別列車があったら人気が出るかもしれない。いずれにしても鉄道の旅は色々な発見があり、薄れかけていた知的好奇心が大いに刺激されるようだ。

フレンチのお重
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二本木駅スイッチバック
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2020年11月22日 (日)

しなの鉄道・ろくもん

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軽井沢駅にて:展示されているかつての峠のシェルパEF63と「ろくもん」

大人の休日倶楽部が催行する【予約が取りにくい人気の観光列車を一度に楽しむ!信越の海・山・里の景色とこだわりの食を堪能『ろくもん』と『雪月花』 】と名づけられた団体旅行に参加した。旧信越本線の長野県側を引き継いだ「しなの鉄道」が運転する観光列車「ろくもん」と、旧信越本線と旧北陸本線の新潟県部分を引き継いだ「えちごトキめき鉄道」の「雪月花」を一挙に楽しもうという企画ツアーである。旅は初日に軽井沢から長野まで「ろくもん」に乗り長野で一泊、2日目は上越妙高から糸魚川まで「雪月花」に乗車し、両日とも豪華昼食を車内で楽しみつつ、山間部から海岸線まで沿線の情景を楽しむと云う趣向である。GO TOが利用できるというので、以前「TOHOKU EMOTION」や「肥薩おれんじ鉄道」でこの種の列車の楽しみにすっかり味をしめた妻のたっての希望で参加することにした。


東京駅の集合場所に現れたのは「大人の休日倶楽部」とあって50歳以上と見られるシニアが16名で、まずは添乗員に引き連れられ皆で北陸新幹線で「ろくもん」の出発駅・軽井沢に向かう。しなの鉄道・軽井沢駅に造られた旧国鉄軽井沢駅の貴賓室を模した部屋で休むことしばし、10時34分発、115系電車を改造した3両編成の電車「ろくもん」に乗車となった。「ろくもん」とは信濃ゆかりの戦国武将、真田幸村の家紋だそうだ。軽井沢から長野まで74キロ余りを2時間15分かけ、地元のレストラン「アトリエ・ド・フロマージュ」のフレンチを味わいつつ、「美食・自然・文化を満喫する」(パンフレット)。指定されたシートに座り乗車料金に含まれるドリンクを注文すると、いきなり地ビールの缶が一人2本も出てくる豪華版ランチだ。最近は昼にアルコールを飲むことを極力さけているが、こんな日は午前中から堂々グビグビ呑めて嬉しい。


昼食なのでそうボリュームはないものの、長野に向かいながら、地元の鱒やサーモン、チョウザメほかプレミアム牛など素材の味を活かした料理が次々と出される。かつて新幹線開業前、特急「あさま」や急行「妙高」が1時間ちょっとで駆け抜けた区間を2時間以上費やして走るとあって、沿線の見どころでは徐行運転しながら詳しい案内放送、主要駅のホームで地元特産品のワゴンセール、随所でお約束の地元の送迎と嫌が上にも旅心が掻き立てられる。そうこうするうちに最初の缶ビール2本づつではおさまらず、地元産ボトルワイン(2500円)を頼んで2人で1本開けてしまった。昼からほろ酔い、まことに良き鉄道の旅である。と言いつつも酔眼をこじ開け沿線の情景を眺めると、旧信越本線は浅間山や白根山系の西麓を巻き、江戸時代の善行寺往還を辿りながら千曲川の河岸段丘に沿って施設された事が良くわかる。ゆっくりの旅は、新幹線の車窓からでは気が付かない地史がわかって面白いなどと思っているうちに終点・長野へ到着した。


この種のイベント列車は時間に余裕がある上に鉄道関係者がフレンドリーで、普段聞けないような鉄オタ質問が気軽にできるのも思わぬ利点である。軽井沢で先行電車の車輪空転により「ろくもん」の入線が遅れたが「山岳線用115系の2M 1T(2両モーター車1両付随車)で砂箱を装備しても結構空転するのですか?」と尋ねると「この落ち葉の季節、信濃追分などの上り勾配で雨の降り始めには車輪は空転しまくり、下り勾配ではそりの様に滑走してしまいます」。戸倉駅で「この中継信号機は出発信号が遠いから設置しているのですか」との問いに「お詳しいですね。信越本線時代は旅客も貨物も編成が長かったから出発信号機はあんなに先なのです」と駅の人が応じてくれる。JR貨物のタキ(タンク車)やEH200が入線して来るのは「けっこうな使用料をJR貨物から頂いています」とのことで、気になった鉄道好奇心がその場で確かめられる。景色も食もテツもあっという間の「ろくもん」の旅だったが、敢えて一点無理とわかって注文をすれば、碓井線の粘着運転ももうないのだから、115系のDT21Bコイルばね台車は、ふんわか料理を楽しめるように空気ばね付き台車に換装できればなお良いと思った。

地元産の食材を使ったフレンチ
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「ろくもん」車内
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2020年11月14日 (土)

半日鉄道プチ旅行・東急多摩川線

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かつての東急線電車の塗色、青と黄色の塗分けをした1000系とすれ違う

取引先の若者に「家はどこですか?」と聞くと「多摩川です」と答えが返ってくる。一瞬どこだか分からなかったが「あー、昔の多摩川園前ね。東横線の他に目蒲線もあって便利で良いですね」と言うと、彼は怪訝そうな顔をして黙り会話は途切れてしまった。後でどうしたことかと考えてみたら、今は目蒲線はもうないから最近沿線に越してきた若者には通じなかったことに気が付いた。目黒と蒲田を結んだ東急・目蒲線は目黒と多摩川園前(現多摩川)間が地下鉄と相互に乗り入れて東急・目黒線となり、残りの多摩川園前と蒲田間が東急・多摩川線となったのが西暦2000年のことで、それから早くも20年たって目蒲線時代を知らない若者がいても不思議ではないわけだ。


この会話に刺激され目蒲線時代の情景を思い出していると、その昔ラジオでも時々かかる程度にヒットした「目蒲線物語」という歌が頭に浮かんできた。「♯僕の名前は目蒲線、寂しい電車だ目蒲線、あってもなくてもどうでもいい目蒲線♪」という歌で、3~4両の旧型車両で東京の城南地区を地味に走る電車を茶化していた。とはいうものの1923年(大正12年)に出来た目蒲線は大東急の発祥路線であり、路線全長13キロながら目黒でJR山手線、蒲田では京浜東北線と連絡するほか、田園都市線を除く東急電鉄の各鉄道線に乗り換えられた大変便利な路線であり、地元の足として大いに機能していた。


20年前に2つに分かれた目蒲線のうち東半分である目黒線は、地下鉄乗り入れですっかり近代化され、今や堂々の幹線に格上げされている。この目黒線は2022年度に東急が相模鉄道と相互乗り入れした暁には、海老名や二俣川方面から20米車・8両編成の電車が走る予定で、「あってもなくてもどうでもいい目蒲線」時代から大出世である。しかし今回、半日鉄道プチ旅行でどの鉄道に乗ろうか考えた時、旧目蒲線のもう一方、まだローカル色が色濃く残る多摩川線を選ぶことにした。多摩川線は「乗るぞ」と決めないと、この後一生乗るチャンスがないかも知れないのも選択の理由である。


平日の昼下がり、蒲田駅の多摩川線ホーム先端にたたずむと、同じく蒲田を起点とする東急・池上線の18米3両編成の電車も見ることができる。東急の他の鉄道路線が20米4扉の大型車両で運転されているのに、この2線だけは18米3扉車というのが、いかにも地元限定の住民の足という感じがする。やってくる車両はかつて日比谷線乗り入れ車両として活躍した1000系のほか、7000系という新型車両があるのが目をひくが、これらも多摩川・池上線2線だけで運転される。


蒲田から終点の多摩川までは両端をいれても5駅、わずか5.6キロ、所要時間10分の多摩川線はワンマン運転となっている。ワンマンと云っても所定の停止位置に止まると、ドアの開閉操作は自動で行われるようで、駅に着いても運転士は2両目・3両目のモニター画面を見て安全を確認しているだけだ。車内はやはり地元のおばちゃんや高校生が目立ち「あの人、最近見ないけど病院に通っているの?」などと言う会話が聞こえてくる。蒲田でそこそこ埋まった座席も、終点多摩川に近づくと徐々に減っていくので、この時間はJR線から乗り換えて来た沿線住民の利用が多いのだろう。


乗っていると途中の鵜の木駅で、50年前に何度か乗り降りした事を突然思い出した。当時、高校3年の第二外国語は仏語を選択したのだが、そもそも英語さえ逃げていたので仏語などは論外。惨憺たる成績で、家で"toi et moi"(トワ・エ・モア)をトイエット・モイなどと発音したらしく、勉強にはあまり口を出さなかった母があまりの酷さに慌て、知り合いの娘さんに仏語指導を頼んだのだった。その彼女は立教大学仏文科の大学生で鵜の木駅近くの大きな家に住み、夏休みの間なら時間が取れるという事だった。鼻血ブーの男子校高校3年生は、2人きりで女子大生から勉強を教わるというシチュエーションに、妖しい妄想を抱いて鵜の木駅を降りて家に向かったが、やはり期待したような事は何も起こらなかったひと夏だった。などと思い出に耽っているうちに多摩川線の旅も終わり、あまりにあっけないので終点・多摩川から東横線・大井町線・田園都市線と東急線を乗り継いで家路に着いた。

 

追記:多摩川線には蒲田より延伸して京急空港線に乗り入れ羽田空港に至る蒲蒲線構想がある。そうなれば旧目蒲線の蒲田口も再び脚光を浴びるだろうが、標準軌(1435ミリ)の京急線に狭軌(1067ミリ)の東急線がどう乗り入れるのか乗り越えるべき課題は大きい。

2020年11月11日 (水)

半日鉄道プチ旅行・東急世田谷線

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仕事がテレワーク体制となって時間の余裕ができ、首都圏近郊の半日鉄道の旅への興味がますます湧いてくる。先々週の西武新宿線・東武東上線の川越往復に続き、今回は東急世田谷線に乗ることにした。東急世田谷線は路面電車だった旧東急玉川線(玉電)の支線で、都電荒川線とともに東京で生き残った珍しい軌道線(路面電車)である。軌間は1372ミリで運転手の目視に頼る無閉塞運転を行う鉄道だが、世田谷線は荒川線と異なり三軒茶屋・下高井戸の全区間を専用軌道で走る。私は子供の頃玉電沿線の世田谷区駒沢に住んでいたので、三軒茶屋で下高井戸行きに乗り換えて、塾に通ったり京王線方面によく出かけたものだった。思い出のノスタルジック・ツアーである。


玉電といえば、東京オリンピックの頃から大山街道(現国道246)の交通渋滞が著しく、路面を走る電車も走ったり止まったりのなか、三軒茶屋から下高井戸方面だけはスイスイと走り快適だった。専用軌道を走っていたという事から、1969年に国道246号線拡幅と首都高3号線建設のため玉電が廃止された際に、この区間だけが世田谷線として単独で生き残ったのである。世田谷線は全線わずか5キロだが、始点と終点で京王本線と田園都市線、途中の山下駅で小田急線豪徳寺駅に乗り換えることができ、沿線には国士館大学や世田谷区役所などもあって一日5万人以上が利用している。


下高井戸からほぼ50年ぶりに乗る世田谷線の車両はすっかり新しくなり見違えてしまったが、小さな電車がトコトコと住宅地を走る風景は昔と変わらない。平日の昼過ぎとあって車内も近所の高齢者や高校生たちが目立ち、近隣の庶民の足と云う感じである。松陰神社で下車して世田谷区役所近くの商店街を散策すると、まだ「昭和」の雰囲気が色濃く残り、その昔自転車であたり一帯を駆け巡っていたころの景色とさして変わっていないようだ。勝手知ったる世田谷とあって、住宅街を足の向くまま田園都市線の駒沢大学駅方面に歩いていくと、犬を連れた高齢男性の散歩姿や庭の水やり姿が目立つ。地元に残った同級生の多くがああなったのだろうか等と思いつつ、帰路、玉電の代替として敷設された地下鉄の田園都市線(新玉川線)に乗ると、セピア色のノスタルジーの世界から一気に現実に戻って来た。

2020年10月27日 (火)

半日鉄道プチ旅行

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買ってきた「鉄道ジャーナル」の最新号を読んだいたら無性に電車に乗りたくなった。考えてみれば最近乗るのはもっぱら暗闇の地下鉄ばかりだ。テレワークの日々だが窓から外を見れば絶好の外出日和、さして急な仕事もない日に、一日中家のパソコンの前に座ってなぞいられない。思いたったが吉日で、午前中にお隣埼玉県の川越まで行きは西武鉄道で、帰りは東武鉄道で往復し、電車に乗るのを楽しむことにした。仕事は午後ゆっくりやればよいと割り切り、まずは高田馬場まで東京メトロの地下鉄で行き、西武新宿線にそこから乗るのだ。西武新宿線は大手私鉄の幹線としては、いまどき珍しく地下鉄との相互乗り入れがなく、沿線の景色が「昭和」を思いおこさえてくれるのが旅心を刺激する。


朝のラッシュも過ぎたころ、高田馬場から乗った下り川越行き急行電車は予想通りガラガラの車内で、例によって運転席直後の「かぶりつき」に陣取った。乗車した2000系2084は、マスコンとブレーキハンドルが別々の運転台で、いまふうなVVVF制御でない「在来」車。武蔵野を走る無骨な鉄道らしい普通鋼に黄色の車体で、いかにも「西武鉄道」の電車という外観が良い。高田馬場駅を出て10分少々、都内23区を出るあたりから、周囲に緑や畑も見え早くも郊外に来たことが実感できる。前を見ていると、あちこちで路盤や線路脇の改良工事をしており作業員が振る安全確認の小旗が目立つが、「ローカル感が漂う」などと揶揄される新宿線も、見えぬところでさまざま改良工事を行っているようだ。こうして運転士の後ろで信号確認やら速度制限、力行・惰行票などの喚呼を心の中でしていると、なにやら自分が運転士になった気になってくる。


川越まで一時間弱の西武の旅を終え、次は折り返し東武東上線で池袋に戻る旅である。乗り換えのため西武新宿線の終点・本川越駅から東武東上線の川越市駅までは歩くが、そこは徒歩10分もかからない距離で、何ということもないごく普通の地方都市の道だ。用もないのにわざわざ川越まで来たのだから、土産の一つも探そうかと思っているうちに、何の収穫もないままに東上線の駅前に着いてしまった。帰路久しぶりに乗った東武東上線は、私の知っていたかつての東上線とは別の鉄道かと思える変貌ぶりだ。昔は東上線と云えば、主要駅に東武労組の旗がはためき、昼間から運転席後ろのブラインドは閉められ、運転士は発車待ちまで漫画を読んでいたものだった。時代は変わり今や赤旗など見られず、職員も制服をきちんと着こなして規律ある仕事ぶりに見える。


乗り込んだ「かぶりつき」は30000系31606でこちらの運転台はワンハンドル、ATC制御で車両情報がすべて運転席前のモニターに表示される形式である。そのために前方の信号表示を確認すると云う「かぶりつき」のお楽しみは半減するが、デジタル表示の速度計やブレーキ制御針の動きは見ていると面白い。この東上線は昔は都内を出ると田や畑ばかりの田園風景だったが、線路の周辺一帯はすっかり住宅地に変わり、今や志木から和光市までは地下鉄有楽町との複々線となっている。和光市駅で東京メトロ有楽町線に乗り入れる東急5000系を見ると、一瞬「ここはどこだっけ?」と混乱する。かつては和光市は大和町と云って、工場に一面畑だったのが変われば変わるものである。こうしていろいろ驚いているうちに終点・池袋に到着して、あっという間に半日のプチ鉄道の旅は終わってしまったが、思い立った日に用もなく電車に飛び乗り数時間、沿線の景色や変貌を楽しむのもよき気分転換だと思った。次は都電荒川線か東急世田谷線に乗ってみようかと計画しながら午後の仕事でパソコンに向かっている。

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2020年7月11日 (土)

飯田橋駅・新ホーム

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水道橋駅(旧飯田町駅)方面に向かい300R急カーブの旧ホーム、飯田橋駅開業時からホームは徐々に旧飯田町駅に向かい延伸したのか?

最寄りのJR総武緩行線・飯田橋駅(東京都千代田区)ホームが7月12日から新しくなる。現在の飯田橋駅ホームは300R(=半径300米)のカーブに、一部33.3パーミル(1000米の間に33.3米上下する)もの勾配に沿って設置されており、ホームと電車との隙間(すきま)が最大33センチあき、線路のカント(左右両線路の高低差)によりホームよりドア入口が20センチ高くなる箇所があると云う結構スリリングな構造である。乗降客には掲示や放送でこのギャップについて注意を促していたが、それでも年間平均10件ほどの転落事故が起きていた。もし"電車でGO"で雨の中飯田橋駅に満員電車を定位置に停車させる設定があれば、毎回緊張の場面連続というような運転士にも難所の駅であろう。実際にホームを監視する駅係員の見張り場所は、曲がったホームの両端を見渡せるように地面から数米高い場所にあって、管理する側も相当な神経を使ってきたことがうかがえる。


7月12日以降はこの300R部分を避け線路の勾配も緩やかにした上で、ホームを南西方向の市ヶ谷方面に200米に延長した様な形で新ホームが稼働する。安全面では大きな進歩だが、しかしこれまで飯田橋駅を利用する度に、なぜこのようなトリッキーな場所にかつて駅を造ったのか、という疑問を常々感じていた。このあたりの経緯を述べた本やサイトが見当たらないので、どうしても個人的想像をたくましくしてしまうのだが、そもそも昭和3年に開業した官鉄・飯田橋駅は、それまで約250米ほど市ヶ谷寄り(西)にあった牛込駅と、反対側500米ほど水道橋駅寄り(東)にあった飯田町駅が統合して出来た駅である。新駅を旧両駅の中間より牛込駅に近い場所にしたのは外堀通り・目白通り・大久保通りが交差して市電の乗り換えなどの便が良かったこと、当時市内有数の遊興の地だった神楽坂への利便性を考えてのことだと思われる。


当時の官鉄線の電車はせいぜい2~4両ほどで運転されていただろうから、飯田橋駅が造られた当初は水道橋寄りにある300R急カーブにかからず、その手前でホーム長が収まっていたはずである。しかし時代の進展で電車の編成が長くなるにつれホームを延伸する必要が生じるが、統合前の旧両駅との間隔を考えると、どうしても遠くなった飯田町(水道橋)寄りの乗降客の利便を考慮する必要がでてきたのではなかろうか。飯田町方面は陸軍関連の施設もまだ多数存在していた時代である。こうして駅は飯田町方面にホームが伸び、最後は東にある急カーブまで延伸した駅になったというのが私の推理である。さて7月12日以降は急カーブにかからない安全な新ホームが使われることになり、これまでの水道橋と飯田橋の駅間距離900米、飯田橋と市ヶ谷間の駅間距離1500米が、それぞれ1100米と1300米に平準化され快適性も増しそうだ。また新ホームの使用とともに飯田橋駅西口駅舎も新装オープンするから楽しみである。それにしても線路の場所やら勾配を見ているだけで、これだけ色々な想像が浮かんでくるのだから鉄道はやっぱり面白い。

電車とギャップが大きいこれまでの飯田橋駅ホーム
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