「リベラルの敵はリベラルにあり」 ちくま新書
いま話題になっている日本学術会議の会員推薦問題でも水田議員の「女性はいくらでも嘘をつく」発言にしても、ネットニュースの意見欄を読むと、そこには政府や水田氏を擁護する反リベラル派の声で満ちあふれている。20年ほど前であったら菅首相はけしからん、水田発言は問題だと彼らは大いに叩かれたのであろうが、世の中の風潮がたしかに最近は右寄り(私にすればこれがごく常識的な考え方なのだが)になっていることが実感できる。それにしてもなぜリベラルはこれほど退潮してしまったのだろうか。今までもなぜリベラルはアホなのかという類の本を幾冊も読み都度ブログにアップしてきたが、本屋の店頭で新刊「リベラルの敵はリベラルにあり」をパラパラとめくると気鋭の学者が自分の言葉で真摯に筆を執った本であることがわかり、これならと購読してみた。
著者・倉持麟太郎氏は1983年生まれと云うからまだ37歳で、慶應の法学部を出た憲法学者らしい。憲法学者などと聞くと大体がサヨクかと思うとおり、彼は2015年の安保法制の際には日弁連から論点整理の指名を受け、衆議院公聴会で意見陳述もしたというから、やはり政府に反対の立場だったのだろう。本書でも著者はリベラルだと自認しており、今のリベラル低迷気運が彼らの側から見ればどう解釈されるのかは興味深い。この本では、まずリベラルとは自立した合理的で強い個人であるという前提で議論が始まるが、本当は人間はそんなに強いものでない、という事で著者の論義は発展する。こうして本書では社会的に「弱い」と自覚する層(例えばLGBTたち)の承認欲求が、政局のなかでリベラル派の基盤になりすぎたために、ごくふつうの日本人の支持基盤を失ったことが彼らの退潮の要因であると倉持氏は指摘する。なかんずくネットの発展が社会を分断したという通説は間違いだとする説明がなかなか説得力を持っている。
憲法改正については「左派リベラルの市民運動は・・・どんどん蛸壺禍し」「ごく一部の『過剰代表』が過度に言論空間をシェア」した結果「憲法自体が政局の道具として利用され、その中身の議論がされないことだけでなく、そのことによって憲法論議が政治的分断を助長」し「この国の政治への無関心やニヒリズムを助長」したと憲法学者である著者は指摘する。この点は私も常々リベラル派が低調である大きな原因だと考えていたので「なんだ本当は彼らの側にもわかっている人間もいるのだ、皆がバカではないのだ」と読中に少し安堵感を覚えたものだ。リベラル派にとって要点は分かっているのに政治の現実がそうならないのは、護憲やLGBT、反原発など彼らのお得意様である特定層の票があまりにほしいばかりに、これらの過剰代表の声に負けて議論を封殺したのだと本書は説く。
リベラルが想定する人間とは、もともとは合理的で強い個人であるはずだったが、そうでない層や一部の先鋭的な意見を取り込み、そこに拘泥して彼らにもっぱらサービスするあまり、一般の人々からそっぽを向かれたのが今のリベラルの停滞に繋がったというのが倉持氏の論旨のようだ。まさに「リベラルの敵はリベラルにあり」である。ただ本書は全体を通じて文章が生硬でこなれていないし、一つのセンテンスに多くを盛り込みすぎてるのは、筆者初の単著であるという気合の表れであろうか。やけに難しい表現が続くかと思うと、いきなり若者言葉が出現、はたまたクラシック音楽やオペラの例が出てきたりして論点が希薄になっている感じがした。また引用文献が憲法学者のものが多いのも物足らないところだ。それでも内容は濃く筆者自身の言葉で本を紡ぎ、意気込みを感じさせる力作であった。リベラル派といえども今後を期待したい学者だと思った。
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