カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2021年10月 8日 (金)

太平洋戦争の大誤解

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先日、新幹線に乗る間際に車中で読める本を駅構内の小さな売店で探したことがあった。ビールやみやげ物に混じった売り場で、その時に見つけたのが2021年9月の新刊、武田知宏著「教科書にはのっていない 太平洋戦争の大誤解」(採図社)であった。著者は高名な歴史学者ではなくフリーライターなのだそうだが、車中の退屈を紛らわすには余り難解な本ではなくこの位の軽い読み物が良いと思って買うことにした。そんな気軽な気持ちで読み始めた文庫本だが、ページを繰ってみると文章・文脈が大変こなれていて読みやすく、明治維新から大東亜戦争に至る歴史上の要点をコンパクトに纏めたなかなか素晴らしい文庫本であることが分かった。私はふつう読んだ本は直ぐにごみに出してしまうのだが、僅か750円でふと手にしたこの「太平洋戦争の大誤解」を旅行後も大事にとっておくことにした。


本書では明治維新が世界に例をみない優れた改革であったことや、戦前の日本は高度成長社会であったこと、それにもかかわらず貧しい農民が多く今では想像できない格差社会であったことなど我が国の近代史の特徴が語られる。そのうえで、日本が満州や中国に進出した動機、米英の対日戦略、ナチスドイツやソ連(ロシア)の存在、コミンテルンの謀略、ゾルゲや尾崎秀美などの共産主義スパイの暗躍など、日本がなぜ戦争への道を突き進んだのかが多様な切り口から解説されている。学問的にみればこの本の内容はかなり大胆なのかもしれないが、分かり易い説明のうえに写真や図表も適宜載せられており、私のような普通の人間には難しい専門書より、なぜ日本が戦争へ向かったかの歴史がすとんと腑に落ちる展開である。読み進めるうち、もし自分が昭和初期に生きていれば戦争を歓迎していたかも、との気持ちにさえになってくる。


たしかマルクス史観では、明治維新から大東亜戦争までの日本の近代は、明治天皇の新体制下ではあるものの封建主義をベースにした近代化に過ぎぬとし、日本が第二次大戦に向かうのは必然的な道だとしていたはずだ。一方でいま保守派からは、大東亜戦争はアジア解放の正義の戦いだったとの声が澎湃として湧き起こっている。日本近代史の評価というものは甚だ難しいものである。本書は明治日本の近代化を称える一方で、戦争に至る社会の貧しさや、国家統治システムの不備など、明治憲法下の多くの問題点も指摘しており、特定の史観によらない広い視点から歴史を俯瞰しているのが特長である。こうした簡潔かつワイドな展開が本書を読みやすくしていると云えるであろう。著者の武田氏のことはまったく知らないので、読後に彼の評判をネットで調べてみると、2012.2.22の「ビジネス+IT」というコラムに武田氏がこんなコメントをしていた。


「大日本帝国の実情を知ろうとするとき、壁になるのがイデオロギーの問題です。大日本帝国を論じた書物の多くは、天皇制や全体主義を批判するものであったり、逆に擁護するものであったり、とかくイデオロギー論に傾きがちです。そして、イデオロギーが主体の本では、実際の国民の生活や社会の様子が、具体的、客観的に語られることがあまりありません。私は大日本帝国の実情を知るためには、イデオロギーよりも、実際に国民はどういう生活をし、社会はどういうふうに動いていたのか、ということの方が重要な情報だと思います。 が、残念ながら、大日本帝国の実情を客観的、具体的に書いた書物は、専門書以外では非常に少ないのです」。ネット記事から9年後、新刊で出された「太平洋戦争の大誤解」は彼のこういう考えを具現化したものだといえよう。駅の売店といえども、心に残るなかなか良い本との出会いがあるものである。

 

2021年7月28日 (水)

ラストエンペラー 習近平

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日本ではお馴染み、米戦略国際問題研究所の上級顧問エドワード・ルトワック氏の文春新書「ラストエンペラー 習近平」(奥山真司・訳 7月20日新刊)である。2016年に出版された同新書「中国4.0 暴発する中華帝国」の続編ともいえる新著で、「中国がはまった戦略のパラドックス」とある本の帯を書店で発見して読んでみた。「中国4.0」では同国の近年の行動について2009年ごろまでの平和的な台頭時期を中国1.0、その後リーマンショックや北京オリンピックを経て対外的に強硬になる2014年までを2.0、アメリカに拒否され選択的な強硬姿勢に転じた時代を3.0と区分けしてその攻撃性を分類していた。習近平体制となったのち採られている「戦狼外交」、すなわち2.0をより深刻にした最近の全方位的強硬路線が4.0体制である。今回の「ラストエンペラー」ではいかにして習近平の4.0体制を砕き、よりマイルドで協調的な5.0を国際社会が一致して中国から引き出すかの処方箋が提示される。


ルトワック氏の著書でいつも感心するのが、我々一般人がなかなか思いつかないパラドキシカルな「戦略家」としての見立てだといえよう。例えば中国が体現する「弱者は必ず強者に従う」という考えに対して、彼は多くの歴史的な例を紹介しつつ結局のところ「大国は小国に勝てない」と断言する。また中国の覇権主義のバックグラウンド「経済力が国力である」というテーゼに対しては、「安全保障は常に経済より優先される」として凡庸な平和主義とは異なる考えを披露してくれる。軍拡に邁進する中国だが、軍事力を左右するのは兵器や艦船、航空機の数ではなく戦い方の「シナリオ」に即したハード・ソフトの整備で、「いま目の前にある技術を、戦略的に使うこと」が重要だとの説明がなされる。戦いをすれば相手は必ず何らかのリアクションを起こすもので、斬新かつパワフルな新兵器はその効果を発揮するのは難しいというのも戦略専門家ならでは分析。実際に台湾海峡有事の際に中国海軍の力を削ぐにはアメリカの攻撃型潜水艦が3隻あれば十分で、今後もこの点では米国の圧倒的な優位はゆるがないと頼もしい指摘である。


異形の指導者、いまやシナの終身皇帝になろうとする習近平の生い立ちやパーソナリティに言及しつつ、ルトワック氏はチャイナ4.0は最悪の選択であり、習近平はアメリカだけでなく世界を敵に回しているとしている。共産主義の後ろ盾がなくなる一方で、指導者が選挙で選ばれず常にその正当性について不安な立場に置かれるため、内外でおこる様々な問題に過剰に反応するのが中国の現状である。また歴史的に地域唯一の大国であったために、強者と弱者という視点しか持ちえず、戦略のロジックやパラドックスの視点がないのが中国の夜郎自大的な行動の源とのこと。では中国を4.0から5.0に導くには国際社会は何をすべきか。協調的な戦略が理解できない中国に対して、チーム力や同盟の力をもってNOを突きつけ、独裁体制の脆弱さを衝くことが必要なのだという。強者は何でも出来るという考えを覆すには、習近平に恥をかかせ彼の判断力や実行力に疑念を生じさせ、権威や政権担当能力を否定することが中国5.0への道だとルトワック氏は主張する。平和への大変な脅威でありながら、東西冷戦時代と異なり世界経済に断固とした地位と占めてしまった中国に対して世界はどう立ち向かうのか、ユニークな視点を展開する「ラストエンペラー 習近平」であった。

 

2021年6月20日 (日)

なんとかせい!明大島岡御大の置き手紙 (丸山 清光著)

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明治大學を卒業した知人に薦められて丸山清光著「なんとかせい!」(副題「島岡御大の置き手紙」)(文藝春秋社刊)を購読した。応援団出身で野球部の経験がない明治大学野球部の名物監督、島岡吉郎氏(1989年77歳で死去)が、ピンチやチャンスの際に選手に飛ばした檄、「なんとかせい」をテーマに、御大と呼ばれた島岡氏の人となりを描いたB6版350ページの大著である。著者の丸山清光氏は長野県上田高校出身の明治大学の主戦投手で、昭和50年度の野球部主将であり、そのアンダースローのピッチングに当時戦力が低迷していた母校・慶應義塾が東京六大学野球リーグ戦できりきり舞いさせられた記憶が私には残っている。マウンド上の丸山氏は当時の野球部には珍しいインテリ風の眼鏡顔だったが、案の定卒業後は朝日新聞に入社し、販売などに力を尽くしたことも本書に記されている。


このブログでも何度か取り上げたように、昭和27年から37年間の長きにわたり明治大学野球部の監督や総監督を務めた島岡吉郎氏は、他校ながら私にもさまざま強烈な思い出を残してくれた。豆タンクのような体で晩年はなぜか大きな白いマスクをつけて神宮球場に現れ、試合中の判定で一旦もめごとが起きるとベンチから飛び出し血相を変えて審判に抗議する島岡監督の姿はまことに印象的だった。本書でもグランドには神様が宿ると選手に説き、時として鉄拳制裁ありの熱血漢だったことが綴られているが、中でもびっくりしたのは日米大学野球の際の逸話であった。日本チームの総監督だった島岡氏が、法政のエース江川が米国で練習に遅刻したことに対しビンタを見舞ったもので、異国の地で他校の選手にビンタをふるうとは「4年間で最も驚いたことだった。なき御大にかわり江川に詫びたい」と丸山氏は述べている。


とは云うものの私の知る数人の明治大学野球部の出身者で、島岡監督の悪口を云うものはいない。先日も東京六大学野球のネット中継で明治出身でプロでも活躍した解説の広澤克実氏が、御大にまつわるさざまなエピソードを面白おかしく語っていたが、その言葉には御大を慕う気持ちが滲み出て、明大野球部を出たものはみな同じなのだと認識をあらたにした。なぜ彼らが同じように御大を慕うのかは、島岡監督が人と人との縁を大事にし、なにより情熱を持って全身全霊で若い選手に接する「人として底知れない器量」があった事だと丸山氏は力説する。この本でも紹介されたように、控えの部員の就職にも奔走する島岡氏の姿が卒業後も人を寄せ付けた所以であろう。昭和は遠くなりにけりで島岡スタイルの指導をいま実行するのは難しいが、御大の様々な面を知るにつけ、部外者の私にも卒業生の御大に対する気持の一旦が理解できる。本書は御大にまつわる思い出の他に六大学野球やアマチュア野球への言及も多く、当時の各校選手の懐かしい名前や写真を見るうちに、毎季変わらず神宮球場に学生野球を見に行った若き日々を思い出してしまった。

2021年5月28日 (金)

和田秀樹 著「60代から心と体がラクになる生き方」

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本屋の店頭で物色していたら「60代から心と体がラクになる生き方 老いの不安を消し去るヒント」と題する新書を見つけた。精神科医で特に高齢者医療に詳しい和田秀樹氏が書いた朝日新書の新刊で、本の帯には「認知症・健康・おカネ・孤独-あなたの心配はどれも『幻想』です」とある。この種の本を買って帰ると妻に「また、それ系?読んで参考になるの?、軸がない人は大変ねぇ」と笑われそうだ。しかし70歳近くなりごく近い友人が認知症になったり自分がガンの手術を受けたりすると、これまで当たり前に経験してきたものと違う問題が人生の後半にあることに気がついて、なにか考えるヒントがないか、誰かの考えを聞きたくなる時がある。


妻の反応を想像しながらもこの本を買ってみようかと決めたのは、これまで和田氏が書いた幾つかのネットニュース記事が心に残っていたからである。たしか「コロナより怖い日本人の正義中毒」として、武漢ウイルスに対する感染症専門医の暴走と、恐怖を煽るワイドショーなどに易々と乗せられる日本人のメディアリテラシーの低さに彼は警告を出していたと記憶する。玉石混交のネットの世界にも「まとも」な意見があるものだと感じ、それ以来、灘高から東大医学部に進んだその経歴がダテではないことに好感を抱いていたので、彼の本なら読んでみようと買う事にした。


年齢を重ねるとボケるのは誰にでも訪れることで、ことさらその事を不安視する必要はないと本書は述べる。認知症になると大半は過去の嫌な記憶を失い、幸せかつ穏やかな気分で多幸的になるのだと云う。これを「自己有利の法則」と呼び「認知症は私たちの人生の最後に用意されているご褒美」としてここではむしろ肯定的にとらえられている。また70歳になったらタバコ、運動、食事などに気をつけるより、好きなことをして自分の楽しいように生きたほうが得だと和田氏は説くが、これは高齢者の医療に永年携わってきた医師だけに説得力がある。なにより健康であるかないかは「ある程度、運」であり、血圧やら血糖値、医師の言葉に一喜一憂せず快適に暮らすことが高齢者に必要との筆致が心地良い。


もっとも和田氏は高齢者の消費を促すために相続税を100%にせよとか、もっと気軽に生活保護を受けて良いなどと現実にはなかなか受け入れがたい主張も本書で展開している。しかしこれらの提言の裏には「老後には金が必要である」という思い込みや「人に迷惑はかけない」とする風潮に対して、「不安に思うことは実際にはほとんど起きない」から高齢者は気軽に日々を過ごそうという彼の本音が込められているのが分かる。ボケは怖くないし、世間など気にせず好きな事をすべしと説く本書はまさに高齢者の心を軽くする一冊であった。読後、さっそく小さなことを気にすることはない、と控えめにしている晩酌のウイスキーをいつもの倍飲んで気持良くよく酔っぱらった。「単純ね」と妻が笑っている。

2020年10月16日 (金)

「リベラルの敵はリベラルにあり」 ちくま新書

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いま話題になっている日本学術会議の会員推薦問題でも水田議員の「女性はいくらでも嘘をつく」発言にしても、ネットニュースの意見欄を読むと、そこには政府や水田氏を擁護する反リベラル派の声で満ちあふれている。20年ほど前であったら菅首相はけしからん、水田発言は問題だと彼らは大いに叩かれたのであろうが、世の中の風潮がたしかに最近は右寄り(私にすればこれがごく常識的な考え方なのだが)になっていることが実感できる。それにしてもなぜリベラルはこれほど退潮してしまったのだろうか。今までもなぜリベラルはアホなのかという類の本を幾冊も読み都度ブログにアップしてきたが、本屋の店頭で新刊「リベラルの敵はリベラルにあり」をパラパラとめくると気鋭の学者が自分の言葉で真摯に筆を執った本であることがわかり、これならと購読してみた。


著者・倉持麟太郎氏は1983年生まれと云うからまだ37歳で、慶應の法学部を出た憲法学者らしい。憲法学者などと聞くと大体がサヨクかと思うとおり、彼は2015年の安保法制の際には日弁連から論点整理の指名を受け、衆議院公聴会で意見陳述もしたというから、やはり政府に反対の立場だったのだろう。本書でも著者はリベラルだと自認しており、今のリベラル低迷気運が彼らの側から見ればどう解釈されるのかは興味深い。この本では、まずリベラルとは自立した合理的で強い個人であるという前提で議論が始まるが、本当は人間はそんなに強いものでない、という事で著者の論義は発展する。こうして本書では社会的に「弱い」と自覚する層(例えばLGBTたち)の承認欲求が、政局のなかでリベラル派の基盤になりすぎたために、ごくふつうの日本人の支持基盤を失ったことが彼らの退潮の要因であると倉持氏は指摘する。なかんずくネットの発展が社会を分断したという通説は間違いだとする説明がなかなか説得力を持っている。


憲法改正については「左派リベラルの市民運動は・・・どんどん蛸壺禍し」「ごく一部の『過剰代表』が過度に言論空間をシェア」した結果「憲法自体が政局の道具として利用され、その中身の議論がされないことだけでなく、そのことによって憲法論議が政治的分断を助長」し「この国の政治への無関心やニヒリズムを助長」したと憲法学者である著者は指摘する。この点は私も常々リベラル派が低調である大きな原因だと考えていたので「なんだ本当は彼らの側にもわかっている人間もいるのだ、皆がバカではないのだ」と読中に少し安堵感を覚えたものだ。リベラル派にとって要点は分かっているのに政治の現実がそうならないのは、護憲やLGBT、反原発など彼らのお得意様である特定層の票があまりにほしいばかりに、これらの過剰代表の声に負けて議論を封殺したのだと本書は説く。


リベラルが想定する人間とは、もともとは合理的で強い個人であるはずだったが、そうでない層や一部の先鋭的な意見を取り込み、そこに拘泥して彼らにもっぱらサービスするあまり、一般の人々からそっぽを向かれたのが今のリベラルの停滞に繋がったというのが倉持氏の論旨のようだ。まさに「リベラルの敵はリベラルにあり」である。ただ本書は全体を通じて文章が生硬でこなれていないし、一つのセンテンスに多くを盛り込みすぎてるのは、筆者初の単著であるという気合の表れであろうか。やけに難しい表現が続くかと思うと、いきなり若者言葉が出現、はたまたクラシック音楽やオペラの例が出てきたりして論点が希薄になっている感じがした。また引用文献が憲法学者のものが多いのも物足らないところだ。それでも内容は濃く筆者自身の言葉で本を紡ぎ、意気込みを感じさせる力作であった。リベラル派といえども今後を期待したい学者だと思った。

2020年7月 6日 (月)

還暦からの底力

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出口治明と云うなぜか今評判の人物による講談社現代新書である。新聞の広告によると多くの大型書店のベストセラーランキング第1位で「大反響!たちまち20万部」なのだそうだ。還暦はとっくに過ぎたし、普段この手の本、たとえば「定年後の生き方」などのジャンルにはあまり興味が湧かないのだが、新聞広告の大きさや本屋の店頭にプロモーションで高く積まれた本書をみて、にわかにどんな著者なのか興味を覚えて読んでみることにした。出口氏は大手生保の役員のあとネット生命保険会社を立ち上げ、今は九州で新しい試みをする大学の学長であると本のカバーに記されている。なんでも稀代の読書家である、という事をどこかで読んだ気がするし、世界や日本の歴史に関する本も書かれているようだ。ただ以前は経済人、今や教育者の身で極めて忙しそうなのに「古今東西の歴史・文化なんでもござい」で「知の巨人」などと聞くと、池上彰のような百科事典やウイキペディアのコピペの達人ごとき、どこかうさん臭い人のような気がしないでもない。


本書の中身としては、高齢者が保護されるべきという考え方は誤りで、次代を担う若者のために高齢者は体力・気力・境遇などに応じて能力を発揮すべし、「変態オタク」系を養成したり、多文化共生を目指す教育なども取り入れるべし、女性の活用やプロモーションは法的強制を伴っても断行すべしなどと、よく聞くメディア受けする主張が述べられている。また老若問わず生きていくのは読書が必要で、なかんずく古典を読むことは知識 x 考える力 = 教養であり、それが国の力になるとの自論も展開される。まさに読書家たる氏らしい提案である。「人生の楽しみは喜怒哀楽の総量で決まる!」と書かれている通り、高齢者は自らを老人などと規定せずに積極的な生き方をすることを薦めており、総じて本屋の店頭で手に取って購読を決めた時に予想した通りの内容であった。本書は大筋において趣旨は理解できるものの、一方で「還暦本」と言っても年齢が紡ぎだす人生の味わいなどにはほとんど無縁で、出口氏のエネルギッシュな生き方や考え方だけが伝わってきた。


出口氏は本書で自分は保守主義だと規定したうえで、保守とは「人間はそれほど賢くない」という前提に立って、理性や理想を重視するよりは伝統や慣習を重視する考え方だとしている。私も保守の定義についてはその通りだと同意する。しかし氏は現在の憲法は「いまの憲法でそれほど困っている人がいる」とは聞いたことがないから「手をつける必要」はなく「わざわざ寝た子を起こさなくてもよいというのが本来の保守主義の考え方であります」(P.188)と書中で論理が一気に飛躍したのには驚いた。これで本当に保守主義者なのか?現憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などとする前提は、ただの「理想」で決して保守思想とは相いれず、ましてわが国には中国や朝鮮の「公正と信義」を信頼してきた伝統などは一切ない。いま眼前では中国の覇権主義、北朝鮮の拉致や核問題、武漢ウイルスでの市民生活の行動制限など、憲法に関わる「困ったことが沢山がおきている」のに「それほど困っていない」とはどういう認識なのだろうか。斯様にこの種の本によくある牽強付会の主張も散見され、また謙遜しているようで実は自慢につながる挿話もちらほらあったのがやや興ざめであった。どうも「知の巨人」などと言われる人の本は苦手である。

 

2019年12月 5日 (木)

リベラリズムの終わり

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私はいわゆる「リベラル」が嫌いである。リベラルを自称する「人権派」の活動をメディアで見聞きすると何となくうさん臭さを感じるし、リベラルが行き場を失ったサヨクの隠れ蓑になっていることも怪しからんと思う。殊に近年リベラル派がLGBTとやらを取り上げてから、彼らのことが一層いやになった。性的な問題は法に触れない限りどういう趣味であろうと個人の自由ではあるものの、それはきわめて個人的かつ慎ましやかなものであって「世間や法律で認めろ」と自己主張する類のものではない、と考えるからだ。

ということで、哲学者の萱野稔人氏がリベラリズムの限界を哲学的見地から解き明かそうとする幻冬舎新書の新刊「リベラリズムの終わり」を本屋の店頭でみつけて早速読んでみた。この本で取り上げるリベラリストとは個人の自由を最大限尊重する立場で「他人に迷惑や危害をあたえない限り、個人の自由は制限されてはならない」と考える人たちのことである。その考えはしばしば社会の慣習や通念、伝統に反した頭でっかちの理想主義になるから、かつての理想主義であるマルクス主義がそうだったように独善的傾向をもつことになる。

萱野氏はまず近年話題になっている同性による結婚の問題をとり上げる。ここで本当にリベラルが「個人の立場を尊重」するなら同性同士の結婚だけでなく、一夫多妻や一妻多夫なども認めるべきだが、現実はそれは争点になっていないことを氏は指摘する。このようにリベラリズムも根っこの部分では社会の規範意識に縛られており、それゆえに社会を成り立たせる最高原理にはなりえず自ずから限界があるのに、自らの理想に基く独善的主張を顧みないのが彼らが嫌われる第一の要因だと本書は云う。

次にパイの分配を弱者や移民に手厚くすべきというリベラリズムは、国家の歳入などパイが増えるという前提の下でしか成り立たないと論を展開する。この20年間、我が国は高齢化に伴う社会保障費増でパイは増えていないから、世の中がリベラル寄りからより功利主義的になるのだと氏は云う。功利主義とは社会全体の利益が最適になることを目指すもので、少数の弱者が犠牲になることもあるが、限りある資源を有効に使うために有用な考え方である。わが国のほか欧米諸国が右傾化したと云われるのは間違いで、限られたパイを全体の為に効率よく使うべく功利主義が台頭したものだと云う指摘には肯ける。

本書の後半は、現代リベラリズムの理論的バックボーンになるアメリカの哲学者ジョン・ロールズの「正義論」をベースとした哲学的考察がつづく。個人の自由を真に尊重することと、パイの弱者への意図的な分配を掲げるリベラルは本来は相入れないのでは?など哲学者らしいやや難しい記述が続くが浅学の小生でも何とかついていける内容であった。パイの分配と功利主義に関する考察を通じてリベラリズムには限界があることを示し、「条件依存的にしか実現できない理念を普遍的な正義として主張する」リベラリストの欠点を解き明かした納得の書であった。


 

2019年9月26日 (木)

「夏の騎士」百田尚樹著

20190926

百田尚樹の書き下ろし、3年ぶりの長編小説である。「永遠の0」以来すっかり有名になった百田氏だが、彼の日頃のポリティカルな立ち位置はとても好感がもてるし、「海賊と呼ばれた男」や「カエルの楽園」なども楽しませてもらった。「希代のストーリーテラー」である作者が出した「夏の騎士」はさてどんな話になるのか、ページを繰る前から楽しみである。「あの夏、僕は『勇気』を手に入れた。」と帯にある「夏の騎士」は、43歳になる主人公が31年前、小学6年生の12才の夏の出来事を振り返る小説である。壮年となって充実する人生を歩みながら、思春期に差し掛かる微妙な時代を自ら語ると云う設定なのだが、序盤からゆっくりと盛り上がり、後半の山場そして最後のオチまで時系列にしたがって一直線に話が展開していく。

主人公が経験する12才の夏の日々、秘密の基地造りや自転車の遠出などは、大体その年齢のほとんどのガキがやったことであろう。簡潔な話の推移や平易な文章構成なるも、ところどころで爆笑させられ「あ、これこれ、これやったよね」と思わず身につまされる事の連続で読んでいて心地よい。性的なことに興味を持ち始めたり、それまで邪魔くさいと思っていた同級生の女子を意識し始めたりするあたりは、思わずわが身を振り返って共感してしまうのが作者の筆の旨さである。小説なので結末に至る伏線は作中に散りばめられているのだが、後半のクライマックスがなくとも、このままで青春小説としてありだな、と思えるほど軽妙に話が進んで行く。

かつてのアメリカ映画「スタンド・バイ・ミー」を彷彿とさせるストーリーなのだが、日常のさまざまな経験から徐々に大人になっていく主人公とその仲間を通じて、小さな一歩でも「踏み出すこと」「勇気を持つこと」に対する作者の肯定的な人生感が示される。物語の最後に、ここまで読んできた読者が密かに期待していたオチがくるあたりが、さすが作者が「希代のストーリーテラー」と云われる所以であろう。この「夏の騎士」、あまりにもあっけなく読んでしまったので、あえて挙げれば読後に「うーん?」と考えこんでしまうようなシニカルな、あるいは黙示的な要素がなかったことだろうか。けれんみのない文章は読後さわやか、期待通りの百田調で安心して楽しめる小説であった。

2019年8月18日 (日)

知ってはいけない現代史の正体

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歴史はいったい何を原動力に動いているのだろうか、それとも単に偶然の積み重ねなのか。そんな疑問を常々抱くなか、本屋の店頭で外務省出身、元駐ウクライナ大使であった馬渕睦夫氏のSB新書新刊「知ってはいけない、現代史の正体」を見つけたので読んでみた。同じ高級官僚出身でも前川喜平とか古賀茂明のようなちょっとどうかと思われる評論家も多い中、これまでネットで見る馬渕氏のニュース解説がなかなか印象的だったのが購読のきっかけである。本書「現代史の正体」によると世界の動きに関わる「絶対に書けない世界史上のタブー」とは、ユダヤ系の人々による「ディープステート」の存在のことだと云う。国家を持たない流浪の民だったユダヤ人が、20世紀初頭からアメリカの金融の中枢を握り、米司法界やメディアを抑え、国民国家の枠を超え国際主義を推進したのがこの100年の世界の歴史であると馬渕氏は説く。彼らがまず実行したことは、国際連合や国際連盟など国民国家の上に置かれた機関の設立であり、国家や民族、宗教・伝統を超えた存在である共産主義の普及だったとされる。

世界的な共産主義革命で敗北した彼らが次に打ち出したのがリベラルの概念や社会主義思想の流布、さらに新自由主義と称される資本移動の自由化・民営化なのだそうだ。これらは一見つながりがないようだが、たしかに本書が指摘するように、いずれもが国民国家を超越する動きであり、伝統的な社会を破壊し、世界を統一基準の価値の下に支配しようとするものである。また国家同士は問題がおきてもなかなか戦争に踏み込めないのだが、ユダヤ人の系譜につながるグローバリスト(国際主義者)は、自らの普遍的価値の敷衍を国家の上に置くから、戦争に対する敷居が低いのだという。このことが戦乱が多発する原因だという本書の指摘は面白い。彼らグローバリストは「自由と民主主義」「民営化」「人権尊重」「男女平等」「少数派の権利擁護」などポリティカルコレクトネスと云う一見だれも反対できない概念をうちだし、これらを国民国家や伝統の上に置きつつ隠れ蓑にして富を収奪し、自らに都合の良い体制を作っているという指摘は肯ける点が多い。

さてこのブログでも日ごろ私は「トランプ大統領はなかなか良い!」と書いているとおりだが、この本を読んで彼が主張することがより理解できた気がした。彼のアメリカ・ファースト主義について、本書では「トランプは、歴代の大統領が『グローバリズム』を声高に叫ぶ”影のキングメーカー=国際金融資本”のコントロール下にあったことに対して正面から宣戦布告している」のであるとしている。すなわち国際主義者、リベラル、社会主義や新自由主義に席巻されたアメリカを、伝統的アメリカ人(WASP)的考えに取り戻そうとするのが日ごろの彼の言説なのだろう。あれだけメディアで叩かれてもトランプ人気は高いこと、かたやブレクジットの混乱などを見ていると、世界はいまグローバリズムとナショナルリズムの狭間でいかに進むべきか分岐点に差し掛かっているようである。日本でもこれまでの国際従属主義から離れ、伝統的な保守思想、日本的な考え方への回帰が図られるのではなかろうか。また自国ファーストに米国が入ったいま、同国に頼る安全保障を見直し、わが国独自で相応の抑止力を保持するよう憲法の改正も急がれる。ディープステート論ですべてが説明できるとも思わないが、国際主義者に席巻される世界の正体を描いたなかなか興味深い本であった。

2019年6月10日 (月)

「歴史戦と思想戦」-歴史問題の読み解き方-集英社文庫・山崎雅弘著

20190610

私は「団塊」のわずか後の世代なのだが、小さい頃からかなり「右」だったことは何度か書いた通りだ。今でも保守本流の安倍首相の立ち位置を支持しているが、一方でいわゆる「リベラル」の立場の人々からの反論にも興味はある。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」である。ということで内田樹などという「リベラル」派が推薦しており、なかなか売れ筋らしい集英社新書「歴史戦と思想戦」(山崎雅弘著)を読んでみた。保守派の論壇が賑やかなことへの反論の書のようだ。

著者はまず産経新聞の論調や江藤淳、曽野綾子から中西輝政、さらにケント・ギルバートらいわゆる最近の「保守の論客」の主張を引用し、「これらの説明を読んで、あれ、おかしいな、と気づかれました?」と反論を展開する。一読するといちおう理路整然と最近の保守派の論点がいかに詭弁に満ち、彼らが世間を誤った認識に導いているかとひっかかりそうになるのだが、やはり「こちら側」から見ると突っ込みどころ満載だ。

保守派は平和で経済が発展した自由な戦後の日本を愛すのではなく、「戦前の大日本帝国」への回帰願望が原点だと著者は云う。しかしここでちょっと考えてみれば、本当は戦争から75年も経っているのに、平和にふるまう日本を認めず過去を蒸し返す中・韓が先ではないか。事あるごとにいまだに過去の行為に謝罪や賠償を求め「もっと反省を、もっとカネを」とゴロツキのような態度をとるから、日本国内が彼らの言うところの「右傾化」し「戦前の見直し」を模索するという事実に著者は目をつぶる。本書は前提と結論が逆なのである。

南京事件でも「虐殺の光景をみたことがない」という証言から、「そんな事件はなかった」とするのは歴史修正主義者だと著者は「右」を攻撃する。しかし「一部を見てそんな事件はなかった」とするのがおかしいと著者が主張するならば、同じく「一部を見て30万人の虐殺があった」と荒唐無稽に誇張する左側も同じことである。そこへも本書は触れない。概してこの本で「右」を叩くそのロジックは、立場を変えれば「リベラル」や「左」が受けても良い批判ともなる。かつて民主党など野党が自民党を攻撃した際に、後でかなりの部分でブーメランとなって自分達の党が窮地に陥った事があったが、そんな場面を彷彿とさせるロジックの書である。「WILL」や「HANADA」でこの本がどう叩かれるか見ものである。

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