カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2024年6月14日 (金)

河村瑞賢(伊藤潤著:江戸を造った男)

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酒田の町を2度訪問して、この町がかつて北前船の発航の地であったことを知り、好奇心を大いに刺激されたのは先ごろ記したばかりだ。北前船といえば、2022年5月”にっぽん丸”で佐渡の小木港に寄港した際、「北前船で栄えた町 宿根木散策ツアー」に参加し、北前船の船大工の町や、実物大に復元された千石船”白山丸”を見学したことが記憶に新しい。また今でも瀬戸内海の各地を折々訪れると、北前船が潮待ち、風待ちした港がそこかしこに残っており、往時を偲ばせる常夜燈などの施設や街並みを見ることができる。江戸時代から鉄道が整備される明治時代の半ばまで、北前船が日本の物流を支えていたことを、クルーズ船などで日本の古い港町を訪れれば訪れるほど肌身に感じることが出来る。この北前船の航路を開いたのが河村瑞賢である。彼の胸像を酒田市の日和山公園で見た際に、船乗りでもない江戸の商人だったこの人物が、徳川幕府の命により54才の時に航路を開設したと知り、いったい彼はいかなる者だったのか、にわかに興味を覚えた。(下のリンク参照)


その取り掛かりとして、河村瑞賢の一生を描いた小説「江戸を造った男」(伊藤潤 著)が朝日新聞出版から出ているので取り寄せてみた。文庫本にして、河村瑞賢の幼少の頃から、死に至るまでの足跡を丹念に描いた540頁に亘る大書である。小説なので所々に筋を盛り上げるための創作や誇張があるではあろうものの、一介の商人だった河村瑞賢がなぜ徳川幕府にこれほどに重用され、幕藩体制の下で歴史に残るインフラ整備に力を尽くせたのかがまとめられていた。読み進めると江戸時代初期の流通や経済の仕組みが小説の中に分かり易く描かれ、「なぜ酒田が北前船の発航の地になったのか」など、以前から疑問に思っていた点に得心がいく内容であった。平均寿命がせいぜい40才ほどだった時代に、彼は50歳台で航路開設事業を成功させたほか、80歳過ぎで亡くなるまでに鉱山開発や大規模な治水事業などを成し遂げ、最後は徳川幕府から武士身分を下賜されている。隠居する間もなく清廉を胸に、世の為人の為にと働き、逆境に屈せず数々の難事業を成功させた彼の生き様を描いた「江戸を造った男」は、「ビジネスパーソン必読の長編時代小説」と本の帯にある通り人生訓の本でもあった。


河村瑞賢の晩年の大事業は大阪・河内平野の治水対策で、本書にはこの工事の模様も詳しい。私は大阪に行く度に淀川の右岸(北岸)を走る東海道在来線が、淀川を渡って大阪駅だけ川の左岸(南岸)に行き、駅を出たら再び淀川を渡って右岸(北岸)に戻る、すなわち駅の前後でなぜ都合2回、大きな淀川を渡っているのか昔から不思議だった。これについては、最近読んだ「鉄道ジャーナル」6月号の「大阪神戸間鉄道の戦前史」に、度重なる大阪地区の大水害を防ぐために明治時代に淀川の大改良工事が行われ、大阪市内の水の流れを新しい箇所に造った放水路に付け替えたことによって生まれた光景であると説明されていた。治水事業が大阪駅の前後で同じ川を渡る2つの鉄橋を作ったとは目から鱗だが、これは東京で暴れ川の荒川を付け替えたためにできた、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵大カーブと同じようなことだったのだ。村田英雄が「王将」で「生まれなにわの八百八橋」と歌ったとおり、大阪の歴史は常に治水の歴史でもあった。瑞賢の死後、懸案の大和川の付け替え工事が行われたが、この町の治水の基礎は彼の工事に負うところが大きいことを知ると、次に大阪に行って見る淀川や道頓堀の景色もまた違ったものに感じることだろう。

リンク:
酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)2024年5月20日
続・陸と海と空 にっぽん丸の「門司発着 海の京都 舞鶴と佐渡島プレミアムクルーズ」その5(寄港地編 佐渡)2022年6月10日

2024年4月22日 (月)

フォーキャスト2024 藤井厳喜 著

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Youtubeなどでも好評の保守界の論客、藤井厳喜氏の新刊本、『フォーキャスト2024』(WAC)が本屋の店頭にあったので購読した。私と同年代の国際政治学者で、今回初めて彼の著書を読むことになる。今年は米国大統領選挙が11月に行われ、その結果によっては我が国の防衛・外交だけでなく、国内政治にも大きな影響が出ることは幾度かこのブログで発信した通り。ほとんどの日本の大手メディアはトランプ氏が大統領になることを望んでいない論調だが、私はかねてからトランプの再登板を期待している一人である。藤井氏によれば、世界はいま「無国籍企業的グローバリズム」と「民主的ナショナリズム」、「強権独裁的ナショナリズム」の三つ巴の争いに揺らいでいるとされる。ここでもしグローバリズムに親和的な民主党のバイデンが次も大統領を担えば、ますます世界の混乱に拍車がかかることが予想される。いま世界を危機からを救うのは反グローバリストでナショナリストのトランプだと考える私は、彼に好意的な藤井氏のこの本に共感するところが多い。


「無国籍グローバリズム」とは国家を基本的に否定する市場原理主義者や無国籍巨大企業(グーグル、アマゾン、アップルなど)及びそれらの資金を管理する英国の金融資本がバックとなる世界的な活動であり、国境や政府、伝統的な社会などは不要だとする動きにほかならない。極端な株主資本主義もその系譜に連らなろう。彼らは自由な活動には伝統的な家族の存在や地域的な紐帯、国家やナショナリズムの存在などが邪魔になると考え、目的を同じくする(冷戦後行き場を失った)マルクス共産主義者に巨大な資金的提供を行っている。本書にはこれら無国籍巨大企業群が、米国の極左集団であるBLM (BLACK LIVES MATTER)に12兆円以上の献金をしている内訳が掲載されており、その繋がりには驚くばかりである。グローバリストは家族の在り方を変えるためにLGBTQや同性婚をやたらと奨励し、移民や外国人との「共生」を通じて、伝統的な文化や社会の絆を分断させようと目論むが、それは形を変えた新たな共産主義インターナショナルでもある。本書では無国籍的なグローバル国際巨大資本と隠れ共産主義者が結び付いていることを私たちに示してくれる。


いま世界は反国家的グローバリストである米バイデン、仏マクロン、英ジョンソンらが画策したウクライナや中東での戦乱に加え、強権独裁的ナショナリストであるプーチンや習近平が企てる覇権主義によって混乱が絶えないことを藤井氏は指摘し、安倍氏亡き後、唯一の民主主義によるナショナリストであるトランプ氏に期待するところが大きいとしている。私はディープステート的陰謀論にすべて汲みするわけではないが、ウクライナや中東で永年継続する戦乱を見るにつけ、我々がまったく預かり知らぬところで蠢く英米のグロバーリストたちによる動きが、地域の安寧を阻害していることは疑いないと信じている。彼らグローバリストたちの暗躍によって、元々あった地域の宗教的、民族店な分断が助長されより深刻になっているのが紛争の実際であり、ナショナリストでモンロー主義的なトランプの大統領復帰でグローバリストたちの動きにも一定の楔が打たれることが期待できよう。


地球温暖化問題も、グローバリストたちによる新たな利権構造だと私は考えている。藤井氏は「カーボンニュートラル(脱炭素)神話はいずれ崩壊する」として、「トランプが勝てば、世界経済の安定と繁栄が戻って来る、しかし民主党政権の継続となると、相変わらずの地球温暖化問題で『CO2を削減しろ、ガソリンエンジンもディーゼルエンジンもだめだ・・・』というトレンドがしばらくは続くことになる。世界経済は当然、低迷と混乱を続けることになる。」と、温暖化対策のパリ協定からの離脱を仄めかすトランプの復権を歓迎している。さてバイデンのポチと云われる岸田首相は、必要もないLGBTQ法案を急ぎ制定し、異民族との「共生」を唱えつつ、巨額のウクライナ支援始め各国に金をばらまいて、すっかりグローバリストの輪に取り込まれてしまったようだ。トランプ氏が当選した暁には、我が国の安全保障体制の見直しは必至になると考えられるが、その他、グローバリズムにすっかり感化されてしまい、保守の精神や伝統をすっかり捨て去った自民党がどうトランプ政権と平仄を合わるのか実に見ものだ。願わくは自民党に代わる新たな保守陣営が日本に生まれ育って欲しいものである。

2024年4月12日 (金)

「死は存在しない」 田坂広志著

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人生100年時代と言われるが、私のような70才過ぎの男性高齢者が100まで生きるのは48人に1人の割合、女性では12人に1人(国際長寿センター)だそうで、そう誰もが100才に到達するわけではない。両親のことを考えると、二人とも90歳前後でなくなったから、自分の寿命も長くてもせいぜいあと20年くらいかと思っている。平均余命の尺度で考えれば、我々はあと14才ほど生きるのが「平均」なのだそうだが、振り返って14年前のことを思い出せばついこの間のようで愕然とする。飛鳥Ⅱで人生初の世界一周クルーズに行ったのが2011年の4月で、あれからちょうど13年が経過し、それと同じくらいの時間が経過すれば、私という存在は統計的にはこの世にいない可能性が高くなるわけだ。それでは死んだあとの自分は一体どうなるのか、多くの人が考えるように、ふとその疑問が脳裏をかすめる。


特に信じる宗教もないので、人間は亡くなれば家族や知人の記憶に残るだけで無へ帰って行く存在だと思っている私だが、「死は存在しない」(光文社新書)(「死後我々はどうなるのか」)と云う本が本屋の店頭にあったので購入して読んでみた。著者である田坂広志氏は東大工学部を出た原子力工学の博士で、世界賢人会議の日本代表や大学教授などを歴任し、内閣官房参与にも就いたと云うから、履歴からすると純粋に最新の科学に立脚して本書を上辞したように見える。もっとも著者自身の最近の著作は「運気を引き寄せる」とか「人生で起こること、すべて良きこと」などのスピリチュアル系が多いようだが、この本の帯には「最先端量子科学が示す新たな仮説」とあり、科学者の眼から死についてどういう考察がなされるのか期待しつつ読み進めた。


「最先端量子化学が示す新たな仮説」とはどういうものだろうか。本書によれば、我々の住む宇宙は、138億年前に量子真空と呼ばれる真空が「ゆらぎ」を起こして大爆発(ビッグバン)して誕生したそうだ。この世に存在する物質の究極は波動であり、我々が知覚する「もの」は実際にはないし、時間もない、と云うのが最新の物理学の考えだと著者は説明する。またビッグバンを起こした量子真空は、無限のエネルギーを持っており、そこには、この宇宙が存在を開始した138億年前からのあらゆる情報が記録される「ゼロポイントフィールド」なる空間が存在するというのがこの本の主張するところである。「ゼロ・ポイント・フィールド」には私たち人類一人一人を含む全宇宙のあらゆる歴史や行動、変化が「宇宙的意識」として集積されており、我々が死ねば肉体が滅びても魂は「宇宙的意識」に止揚されるので、「死は存在しない」という理屈になるらしい。


この筋立ては、かつて若い頃、ブルーバックス本などでかいつまんだ「特殊相対性理論」などの世界に似ているようでもあり、最新物理の知見を踏まえればこのような展開に導かれることもありうべしと、引き込まれるそうになる点がミソである。また宇宙の彼方には人類の英知や進化を越えた何か超越する存在があるという話は、1968年のスタンリーキューブリックの映画作品「2001年宇宙の旅」も想起させ、見果てぬ世界を知りたいとの人々の欲をくすぐる考え方でもある。もっとも、この「ゼロ・ポイント・フィールド」が実存する証として、著者は仏教の涅槃はじめ多くの宗教の教義にその世界が描かれていることや、人々がしばしば六感、予知能力、占い、デジャブなどの非日常現象を経験するのは、「ゼロ・ポイント・フィールド」がすべての事項に繋がっているからだとの理論を展開している。しかしその論考は、神秘論的かつ余りにも性急、短絡的なこじつけに思え、「ゼロ・ポイント・フィールド」なるものが存在することを学問として示すには、より普遍的で精緻な事例をあげて検証を行う必要があると考える。「死は存在しない」は興味深い発想だが、著者の思い入れが強すぎ、それを物理学的な装飾でカバーしたのではないか、とも思えるのである。仮説と現実を繋ぐより実証的な具体例があれば、理解の度も深まる気がしている。

2021年10月 8日 (金)

太平洋戦争の大誤解

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先日、新幹線に乗る間際に車中で読める本を駅構内の小さな売店で探したことがあった。ビールやみやげ物に混じった売り場で、その時に見つけたのが2021年9月の新刊、武田知宏著「教科書にはのっていない 太平洋戦争の大誤解」(採図社)であった。著者は高名な歴史学者ではなくフリーライターなのだそうだが、車中の退屈を紛らわすには余り難解な本ではなくこの位の軽い読み物が良いと思って買うことにした。そんな気軽な気持ちで読み始めた文庫本だが、ページを繰ってみると文章・文脈が大変こなれていて読みやすく、明治維新から大東亜戦争に至る歴史上の要点をコンパクトに纏めたなかなか素晴らしい文庫本であることが分かった。私はふつう読んだ本は直ぐにごみに出してしまうのだが、僅か750円でふと手にしたこの「太平洋戦争の大誤解」を旅行後も大事にとっておくことにした。


本書では明治維新が世界に例をみない優れた改革であったことや、戦前の日本は高度成長社会であったこと、それにもかかわらず貧しい農民が多く今では想像できない格差社会であったことなど我が国の近代史の特徴が語られる。そのうえで、日本が満州や中国に進出した動機、米英の対日戦略、ナチスドイツやソ連(ロシア)の存在、コミンテルンの謀略、ゾルゲや尾崎秀美などの共産主義スパイの暗躍など、日本がなぜ戦争への道を突き進んだのかが多様な切り口から解説されている。学問的にみればこの本の内容はかなり大胆なのかもしれないが、分かり易い説明のうえに写真や図表も適宜載せられており、私のような普通の人間には難しい専門書より、なぜ日本が戦争へ向かったかの歴史がすとんと腑に落ちる展開である。読み進めるうち、もし自分が昭和初期に生きていれば戦争を歓迎していたかも、との気持ちにさえになってくる。


たしかマルクス史観では、明治維新から大東亜戦争までの日本の近代は、明治天皇の新体制下ではあるものの封建主義をベースにした近代化に過ぎぬとし、日本が第二次大戦に向かうのは必然的な道だとしていたはずだ。一方でいま保守派からは、大東亜戦争はアジア解放の正義の戦いだったとの声が澎湃として湧き起こっている。日本近代史の評価というものは甚だ難しいものである。本書は明治日本の近代化を称える一方で、戦争に至る社会の貧しさや、国家統治システムの不備など、明治憲法下の多くの問題点も指摘しており、特定の史観によらない広い視点から歴史を俯瞰しているのが特長である。こうした簡潔かつワイドな展開が本書を読みやすくしていると云えるであろう。著者の武田氏のことはまったく知らないので、読後に彼の評判をネットで調べてみると、2012.2.22の「ビジネス+IT」というコラムに武田氏がこんなコメントをしていた。


「大日本帝国の実情を知ろうとするとき、壁になるのがイデオロギーの問題です。大日本帝国を論じた書物の多くは、天皇制や全体主義を批判するものであったり、逆に擁護するものであったり、とかくイデオロギー論に傾きがちです。そして、イデオロギーが主体の本では、実際の国民の生活や社会の様子が、具体的、客観的に語られることがあまりありません。私は大日本帝国の実情を知るためには、イデオロギーよりも、実際に国民はどういう生活をし、社会はどういうふうに動いていたのか、ということの方が重要な情報だと思います。 が、残念ながら、大日本帝国の実情を客観的、具体的に書いた書物は、専門書以外では非常に少ないのです」。ネット記事から9年後、新刊で出された「太平洋戦争の大誤解」は彼のこういう考えを具現化したものだといえよう。駅の売店といえども、心に残るなかなか良い本との出会いがあるものである。

 

2021年7月28日 (水)

ラストエンペラー 習近平

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日本ではお馴染み、米戦略国際問題研究所の上級顧問エドワード・ルトワック氏の文春新書「ラストエンペラー 習近平」(奥山真司・訳 7月20日新刊)である。2016年に出版された同新書「中国4.0 暴発する中華帝国」の続編ともいえる新著で、「中国がはまった戦略のパラドックス」とある本の帯を書店で発見して読んでみた。「中国4.0」では同国の近年の行動について2009年ごろまでの平和的な台頭時期を中国1.0、その後リーマンショックや北京オリンピックを経て対外的に強硬になる2014年までを2.0、アメリカに拒否され選択的な強硬姿勢に転じた時代を3.0と区分けしてその攻撃性を分類していた。習近平体制となったのち採られている「戦狼外交」、すなわち2.0をより深刻にした最近の全方位的強硬路線が4.0体制である。今回の「ラストエンペラー」ではいかにして習近平の4.0体制を砕き、よりマイルドで協調的な5.0を国際社会が一致して中国から引き出すかの処方箋が提示される。


ルトワック氏の著書でいつも感心するのが、我々一般人がなかなか思いつかないパラドキシカルな「戦略家」としての見立てだといえよう。例えば中国が体現する「弱者は必ず強者に従う」という考えに対して、彼は多くの歴史的な例を紹介しつつ結局のところ「大国は小国に勝てない」と断言する。また中国の覇権主義のバックグラウンド「経済力が国力である」というテーゼに対しては、「安全保障は常に経済より優先される」として凡庸な平和主義とは異なる考えを披露してくれる。軍拡に邁進する中国だが、軍事力を左右するのは兵器や艦船、航空機の数ではなく戦い方の「シナリオ」に即したハード・ソフトの整備で、「いま目の前にある技術を、戦略的に使うこと」が重要だとの説明がなされる。戦いをすれば相手は必ず何らかのリアクションを起こすもので、斬新かつパワフルな新兵器はその効果を発揮するのは難しいというのも戦略専門家ならでは分析。実際に台湾海峡有事の際に中国海軍の力を削ぐにはアメリカの攻撃型潜水艦が3隻あれば十分で、今後もこの点では米国の圧倒的な優位はゆるがないと頼もしい指摘である。


異形の指導者、いまやシナの終身皇帝になろうとする習近平の生い立ちやパーソナリティに言及しつつ、ルトワック氏はチャイナ4.0は最悪の選択であり、習近平はアメリカだけでなく世界を敵に回しているとしている。共産主義の後ろ盾がなくなる一方で、指導者が選挙で選ばれず常にその正当性について不安な立場に置かれるため、内外でおこる様々な問題に過剰に反応するのが中国の現状である。また歴史的に地域唯一の大国であったために、強者と弱者という視点しか持ちえず、戦略のロジックやパラドックスの視点がないのが中国の夜郎自大的な行動の源とのこと。では中国を4.0から5.0に導くには国際社会は何をすべきか。協調的な戦略が理解できない中国に対して、チーム力や同盟の力をもってNOを突きつけ、独裁体制の脆弱さを衝くことが必要なのだという。強者は何でも出来るという考えを覆すには、習近平に恥をかかせ彼の判断力や実行力に疑念を生じさせ、権威や政権担当能力を否定することが中国5.0への道だとルトワック氏は主張する。平和への大変な脅威でありながら、東西冷戦時代と異なり世界経済に断固とした地位と占めてしまった中国に対して世界はどう立ち向かうのか、ユニークな視点を展開する「ラストエンペラー 習近平」であった。

 

2021年6月20日 (日)

なんとかせい!明大島岡御大の置き手紙 (丸山 清光著)

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明治大學を卒業した知人に薦められて丸山清光著「なんとかせい!」(副題「島岡御大の置き手紙」)(文藝春秋社刊)を購読した。応援団出身で野球部の経験がない明治大学野球部の名物監督、島岡吉郎氏(1989年77歳で死去)が、ピンチやチャンスの際に選手に飛ばした檄、「なんとかせい」をテーマに、御大と呼ばれた島岡氏の人となりを描いたB6版350ページの大著である。著者の丸山清光氏は長野県上田高校出身の明治大学の主戦投手で、昭和50年度の野球部主将であり、そのアンダースローのピッチングに当時戦力が低迷していた母校・慶應義塾が東京六大学野球リーグ戦できりきり舞いさせられた記憶が私には残っている。マウンド上の丸山氏は当時の野球部には珍しいインテリ風の眼鏡顔だったが、案の定卒業後は朝日新聞に入社し、販売などに力を尽くしたことも本書に記されている。


このブログでも何度か取り上げたように、昭和27年から37年間の長きにわたり明治大学野球部の監督や総監督を務めた島岡吉郎氏は、他校ながら私にもさまざま強烈な思い出を残してくれた。豆タンクのような体で晩年はなぜか大きな白いマスクをつけて神宮球場に現れ、試合中の判定で一旦もめごとが起きるとベンチから飛び出し血相を変えて審判に抗議する島岡監督の姿はまことに印象的だった。本書でもグランドには神様が宿ると選手に説き、時として鉄拳制裁ありの熱血漢だったことが綴られているが、中でもびっくりしたのは日米大学野球の際の逸話であった。日本チームの総監督だった島岡氏が、法政のエース江川が米国で練習に遅刻したことに対しビンタを見舞ったもので、異国の地で他校の選手にビンタをふるうとは「4年間で最も驚いたことだった。なき御大にかわり江川に詫びたい」と丸山氏は述べている。


とは云うものの私の知る数人の明治大学野球部の出身者で、島岡監督の悪口を云うものはいない。先日も東京六大学野球のネット中継で明治出身でプロでも活躍した解説の広澤克実氏が、御大にまつわるさざまなエピソードを面白おかしく語っていたが、その言葉には御大を慕う気持ちが滲み出て、明大野球部を出たものはみな同じなのだと認識をあらたにした。なぜ彼らが同じように御大を慕うのかは、島岡監督が人と人との縁を大事にし、なにより情熱を持って全身全霊で若い選手に接する「人として底知れない器量」があった事だと丸山氏は力説する。この本でも紹介されたように、控えの部員の就職にも奔走する島岡氏の姿が卒業後も人を寄せ付けた所以であろう。昭和は遠くなりにけりで島岡スタイルの指導をいま実行するのは難しいが、御大の様々な面を知るにつけ、部外者の私にも卒業生の御大に対する気持の一旦が理解できる。本書は御大にまつわる思い出の他に六大学野球やアマチュア野球への言及も多く、当時の各校選手の懐かしい名前や写真を見るうちに、毎季変わらず神宮球場に学生野球を見に行った若き日々を思い出してしまった。

2021年5月28日 (金)

和田秀樹 著「60代から心と体がラクになる生き方」

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本屋の店頭で物色していたら「60代から心と体がラクになる生き方 老いの不安を消し去るヒント」と題する新書を見つけた。精神科医で特に高齢者医療に詳しい和田秀樹氏が書いた朝日新書の新刊で、本の帯には「認知症・健康・おカネ・孤独-あなたの心配はどれも『幻想』です」とある。この種の本を買って帰ると妻に「また、それ系?読んで参考になるの?、軸がない人は大変ねぇ」と笑われそうだ。しかし70歳近くなりごく近い友人が認知症になったり自分がガンの手術を受けたりすると、これまで当たり前に経験してきたものと違う問題が人生の後半にあることに気がついて、なにか考えるヒントがないか、誰かの考えを聞きたくなる時がある。


妻の反応を想像しながらもこの本を買ってみようかと決めたのは、これまで和田氏が書いた幾つかのネットニュース記事が心に残っていたからである。たしか「コロナより怖い日本人の正義中毒」として、武漢ウイルスに対する感染症専門医の暴走と、恐怖を煽るワイドショーなどに易々と乗せられる日本人のメディアリテラシーの低さに彼は警告を出していたと記憶する。玉石混交のネットの世界にも「まとも」な意見があるものだと感じ、それ以来、灘高から東大医学部に進んだその経歴がダテではないことに好感を抱いていたので、彼の本なら読んでみようと買う事にした。


年齢を重ねるとボケるのは誰にでも訪れることで、ことさらその事を不安視する必要はないと本書は述べる。認知症になると大半は過去の嫌な記憶を失い、幸せかつ穏やかな気分で多幸的になるのだと云う。これを「自己有利の法則」と呼び「認知症は私たちの人生の最後に用意されているご褒美」としてここではむしろ肯定的にとらえられている。また70歳になったらタバコ、運動、食事などに気をつけるより、好きなことをして自分の楽しいように生きたほうが得だと和田氏は説くが、これは高齢者の医療に永年携わってきた医師だけに説得力がある。なにより健康であるかないかは「ある程度、運」であり、血圧やら血糖値、医師の言葉に一喜一憂せず快適に暮らすことが高齢者に必要との筆致が心地良い。


もっとも和田氏は高齢者の消費を促すために相続税を100%にせよとか、もっと気軽に生活保護を受けて良いなどと現実にはなかなか受け入れがたい主張も本書で展開している。しかしこれらの提言の裏には「老後には金が必要である」という思い込みや「人に迷惑はかけない」とする風潮に対して、「不安に思うことは実際にはほとんど起きない」から高齢者は気軽に日々を過ごそうという彼の本音が込められているのが分かる。ボケは怖くないし、世間など気にせず好きな事をすべしと説く本書はまさに高齢者の心を軽くする一冊であった。読後、さっそく小さなことを気にすることはない、と控えめにしている晩酌のウイスキーをいつもの倍飲んで気持良くよく酔っぱらった。「単純ね」と妻が笑っている。

2020年10月16日 (金)

「リベラルの敵はリベラルにあり」 ちくま新書

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いま話題になっている日本学術会議の会員推薦問題でも水田議員の「女性はいくらでも嘘をつく」発言にしても、ネットニュースの意見欄を読むと、そこには政府や水田氏を擁護する反リベラル派の声で満ちあふれている。20年ほど前であったら菅首相はけしからん、水田発言は問題だと彼らは大いに叩かれたのであろうが、世の中の風潮がたしかに最近は右寄り(私にすればこれがごく常識的な考え方なのだが)になっていることが実感できる。それにしてもなぜリベラルはこれほど退潮してしまったのだろうか。今までもなぜリベラルはアホなのかという類の本を幾冊も読み都度ブログにアップしてきたが、本屋の店頭で新刊「リベラルの敵はリベラルにあり」をパラパラとめくると気鋭の学者が自分の言葉で真摯に筆を執った本であることがわかり、これならと購読してみた。


著者・倉持麟太郎氏は1983年生まれと云うからまだ37歳で、慶應の法学部を出た憲法学者らしい。憲法学者などと聞くと大体がサヨクかと思うとおり、彼は2015年の安保法制の際には日弁連から論点整理の指名を受け、衆議院公聴会で意見陳述もしたというから、やはり政府に反対の立場だったのだろう。本書でも著者はリベラルだと自認しており、今のリベラル低迷気運が彼らの側から見ればどう解釈されるのかは興味深い。この本では、まずリベラルとは自立した合理的で強い個人であるという前提で議論が始まるが、本当は人間はそんなに強いものでない、という事で著者の論義は発展する。こうして本書では社会的に「弱い」と自覚する層(例えばLGBTたち)の承認欲求が、政局のなかでリベラル派の基盤になりすぎたために、ごくふつうの日本人の支持基盤を失ったことが彼らの退潮の要因であると倉持氏は指摘する。なかんずくネットの発展が社会を分断したという通説は間違いだとする説明がなかなか説得力を持っている。


憲法改正については「左派リベラルの市民運動は・・・どんどん蛸壺禍し」「ごく一部の『過剰代表』が過度に言論空間をシェア」した結果「憲法自体が政局の道具として利用され、その中身の議論がされないことだけでなく、そのことによって憲法論議が政治的分断を助長」し「この国の政治への無関心やニヒリズムを助長」したと憲法学者である著者は指摘する。この点は私も常々リベラル派が低調である大きな原因だと考えていたので「なんだ本当は彼らの側にもわかっている人間もいるのだ、皆がバカではないのだ」と読中に少し安堵感を覚えたものだ。リベラル派にとって要点は分かっているのに政治の現実がそうならないのは、護憲やLGBT、反原発など彼らのお得意様である特定層の票があまりにほしいばかりに、これらの過剰代表の声に負けて議論を封殺したのだと本書は説く。


リベラルが想定する人間とは、もともとは合理的で強い個人であるはずだったが、そうでない層や一部の先鋭的な意見を取り込み、そこに拘泥して彼らにもっぱらサービスするあまり、一般の人々からそっぽを向かれたのが今のリベラルの停滞に繋がったというのが倉持氏の論旨のようだ。まさに「リベラルの敵はリベラルにあり」である。ただ本書は全体を通じて文章が生硬でこなれていないし、一つのセンテンスに多くを盛り込みすぎてるのは、筆者初の単著であるという気合の表れであろうか。やけに難しい表現が続くかと思うと、いきなり若者言葉が出現、はたまたクラシック音楽やオペラの例が出てきたりして論点が希薄になっている感じがした。また引用文献が憲法学者のものが多いのも物足らないところだ。それでも内容は濃く筆者自身の言葉で本を紡ぎ、意気込みを感じさせる力作であった。リベラル派といえども今後を期待したい学者だと思った。

2020年7月 6日 (月)

還暦からの底力

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出口治明と云うなぜか今評判の人物による講談社現代新書である。新聞の広告によると多くの大型書店のベストセラーランキング第1位で「大反響!たちまち20万部」なのだそうだ。還暦はとっくに過ぎたし、普段この手の本、たとえば「定年後の生き方」などのジャンルにはあまり興味が湧かないのだが、新聞広告の大きさや本屋の店頭にプロモーションで高く積まれた本書をみて、にわかにどんな著者なのか興味を覚えて読んでみることにした。出口氏は大手生保の役員のあとネット生命保険会社を立ち上げ、今は九州で新しい試みをする大学の学長であると本のカバーに記されている。なんでも稀代の読書家である、という事をどこかで読んだ気がするし、世界や日本の歴史に関する本も書かれているようだ。ただ以前は経済人、今や教育者の身で極めて忙しそうなのに「古今東西の歴史・文化なんでもござい」で「知の巨人」などと聞くと、池上彰のような百科事典やウイキペディアのコピペの達人ごとき、どこかうさん臭い人のような気がしないでもない。


本書の中身としては、高齢者が保護されるべきという考え方は誤りで、次代を担う若者のために高齢者は体力・気力・境遇などに応じて能力を発揮すべし、「変態オタク」系を養成したり、多文化共生を目指す教育なども取り入れるべし、女性の活用やプロモーションは法的強制を伴っても断行すべしなどと、よく聞くメディア受けする主張が述べられている。また老若問わず生きていくのは読書が必要で、なかんずく古典を読むことは知識 x 考える力 = 教養であり、それが国の力になるとの自論も展開される。まさに読書家たる氏らしい提案である。「人生の楽しみは喜怒哀楽の総量で決まる!」と書かれている通り、高齢者は自らを老人などと規定せずに積極的な生き方をすることを薦めており、総じて本屋の店頭で手に取って購読を決めた時に予想した通りの内容であった。本書は大筋において趣旨は理解できるものの、一方で「還暦本」と言っても年齢が紡ぎだす人生の味わいなどにはほとんど無縁で、出口氏のエネルギッシュな生き方や考え方だけが伝わってきた。


出口氏は本書で自分は保守主義だと規定したうえで、保守とは「人間はそれほど賢くない」という前提に立って、理性や理想を重視するよりは伝統や慣習を重視する考え方だとしている。私も保守の定義についてはその通りだと同意する。しかし氏は現在の憲法は「いまの憲法でそれほど困っている人がいる」とは聞いたことがないから「手をつける必要」はなく「わざわざ寝た子を起こさなくてもよいというのが本来の保守主義の考え方であります」(P.188)と書中で論理が一気に飛躍したのには驚いた。これで本当に保守主義者なのか?現憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などとする前提は、ただの「理想」で決して保守思想とは相いれず、ましてわが国には中国や朝鮮の「公正と信義」を信頼してきた伝統などは一切ない。いま眼前では中国の覇権主義、北朝鮮の拉致や核問題、武漢ウイルスでの市民生活の行動制限など、憲法に関わる「困ったことが沢山がおきている」のに「それほど困っていない」とはどういう認識なのだろうか。斯様にこの種の本によくある牽強付会の主張も散見され、また謙遜しているようで実は自慢につながる挿話もちらほらあったのがやや興ざめであった。どうも「知の巨人」などと言われる人の本は苦手である。

 

2019年12月 5日 (木)

リベラリズムの終わり

20191205
私はいわゆる「リベラル」が嫌いである。リベラルを自称する「人権派」の活動をメディアで見聞きすると何となくうさん臭さを感じるし、リベラルが行き場を失ったサヨクの隠れ蓑になっていることも怪しからんと思う。殊に近年リベラル派がLGBTとやらを取り上げてから、彼らのことが一層いやになった。性的な問題は法に触れない限りどういう趣味であろうと個人の自由ではあるものの、それはきわめて個人的かつ慎ましやかなものであって「世間や法律で認めろ」と自己主張する類のものではない、と考えるからだ。

ということで、哲学者の萱野稔人氏がリベラリズムの限界を哲学的見地から解き明かそうとする幻冬舎新書の新刊「リベラリズムの終わり」を本屋の店頭でみつけて早速読んでみた。この本で取り上げるリベラリストとは個人の自由を最大限尊重する立場で「他人に迷惑や危害をあたえない限り、個人の自由は制限されてはならない」と考える人たちのことである。その考えはしばしば社会の慣習や通念、伝統に反した頭でっかちの理想主義になるから、かつての理想主義であるマルクス主義がそうだったように独善的傾向をもつことになる。

萱野氏はまず近年話題になっている同性による結婚の問題をとり上げる。ここで本当にリベラルが「個人の立場を尊重」するなら同性同士の結婚だけでなく、一夫多妻や一妻多夫なども認めるべきだが、現実はそれは争点になっていないことを氏は指摘する。このようにリベラリズムも根っこの部分では社会の規範意識に縛られており、それゆえに社会を成り立たせる最高原理にはなりえず自ずから限界があるのに、自らの理想に基く独善的主張を顧みないのが彼らが嫌われる第一の要因だと本書は云う。

次にパイの分配を弱者や移民に手厚くすべきというリベラリズムは、国家の歳入などパイが増えるという前提の下でしか成り立たないと論を展開する。この20年間、我が国は高齢化に伴う社会保障費増でパイは増えていないから、世の中がリベラル寄りからより功利主義的になるのだと氏は云う。功利主義とは社会全体の利益が最適になることを目指すもので、少数の弱者が犠牲になることもあるが、限りある資源を有効に使うために有用な考え方である。わが国のほか欧米諸国が右傾化したと云われるのは間違いで、限られたパイを全体の為に効率よく使うべく功利主義が台頭したものだと云う指摘には肯ける。

本書の後半は、現代リベラリズムの理論的バックボーンになるアメリカの哲学者ジョン・ロールズの「正義論」をベースとした哲学的考察がつづく。個人の自由を真に尊重することと、パイの弱者への意図的な分配を掲げるリベラルは本来は相入れないのでは?など哲学者らしいやや難しい記述が続くが浅学の小生でも何とかついていける内容であった。パイの分配と功利主義に関する考察を通じてリベラリズムには限界があることを示し、「条件依存的にしか実現できない理念を普遍的な正義として主張する」リベラリストの欠点を解き明かした納得の書であった。


 

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