カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2019年6月10日 (月)

「歴史戦と思想戦」-歴史問題の読み解き方ー集英社文庫・山崎雅弘著

20190610
私は「団塊」のわずか後の世代なのだが、小さい頃からかなり「右」だったことは何度か書いた通りだ。今でも保守本流の安倍首相の立ち位置を支持しているが、一方でいわゆる「リベラル」の立場の人々からの反論にも興味はある。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」である。ということで内田樹などという「リベラル」派が推薦しており、なかなか売れ筋らしい集英社新書「歴史戦と思想戦」(山崎雅弘著)を読んでみた。保守派の論壇が賑やかなことへの反論の書のようだ。

著者はまず産経新聞の論調や江藤淳、曽野綾子から中西輝政、さらにケント・ギルバートらいわゆる最近の「保守の論客」の主張を引用し、「これらの説明を読んで、あれ、おかしいな、と気づかれました?」と反論を展開する。一読するといちおう理路整然と最近の保守派の論点がいかに詭弁に満ち、彼らが世間を誤った認識に導いているかとひっかかりそうになるのだが、やはり「こちら側」から見ると突っ込みどころ満載だ。

保守派は平和で経済が発展した自由な戦後の日本を愛すのではなく、「戦前の大日本帝国」への回帰願望が原点だと著者は云う。しかしここでちょっと考えてみれば、本当は戦争から75年も経っているのに、平和にふるまう日本を認めず過去を蒸し返す中・韓が先ではないか。事あるごとにいまだに過去の行為に謝罪や賠償を求め「もっと反省を、もっとカネを」とゴロツキのような態度をとるから、日本国内が彼らの言うところの「右傾化」し「戦前の見直し」を模索するという事実に著者は目をつぶる。本書は前提と結論が逆なのである。

南京事件でも「虐殺の光景をみたことがない」という証言から、「そんな事件はなかった」とするのは歴史修正主義者だと著者は「右」を攻撃する。しかし「一部を見てそんな事件はなかった」とするのがおかしいと著者が主張するならば、同じく「一部を見て30万人の虐殺があった」と荒唐無稽に誇張する左側も同じことである。そこへも本書は触れない。概してこの本で「右」を叩くそのロジックは、立場を変えれば「リベラル」や「左」が受けても良い批判ともなる。かつて民主党など野党が自民党を攻撃した際に、後でかなりの部分でブーメランとなって自分達の党が窮地に陥った事があったが、そんな場面を彷彿とさせるロジックの書である。「WILL」や「HANADA」でこの本がどう叩かれるか見ものである。

2019年5月 9日 (木)

志水辰夫「裂けて海峡」

20190509

狭いマンション住まいなので、どんなに立派な本でも読んだらすぐ捨てる事にしている。大事なこと、記憶しておくべきことがあれば、ノートにメモでもとっておけば十分だ。ただそうは云っても印象に残り、必ず将来もう一度読みたくなるだろうと思った本だけは書棚に残してある。この10連休は時間もゆっくり取れたので、そんな本の幾冊かを手にとってみた。まずは志水辰夫の「裂けて海峡」(1983年・講談社ノベルス)である。発売当時の活字が小さいのは参ったが、3月に亡くなった母の遺品、ハズキルーペをつけて読書三昧の連休である。

「裂けて海峡」は、息をも継がせぬ展開が読者を魅了する冒険小説だ。主人公がひょんなことからヤクザを殺し服役中に、彼の小さな会社が所有する内航船が九州沖で行方不明になることから話が始まる。出所した彼はヤクザの組員に追われながらも船の遭難原因を調べるうちに、つぎつぎと驚愕の事実が分かってくるのだが・・・。「え、そうくるの?」というダイナミックな筋立てと、主人公が某巨大組織から追われるスリル満点の逃亡シーンの描写が本書の醍醐味といえよう。その中に謎の老人やら美女が絡んで、話は映画のO07をもっと切迫させたような場面の連続である。

作者、清水辰夫は内航海運に関係したことでもあるのだろうか、貨物船に関する記述もホンモノっぽくてよい。そう云えばこの本を読んだ時分、私も30歳代の忙しい盛りであったことを思い出す。当時は余りの面白さに時間が経つのも忘れ、深夜になっても目が離せず、翌日の勤務に響かないか心配したものだった。読後、すっかりシミタツ節に魅了され、彼の「飢えて狼」「あっちが上海」などにハマったことも懐かしい。今回も2日ほどで読み切って、妻に「この本おもしろいよ」と薦めてみた。今朝は目覚ましが鳴っても彼女がなかなか起きて来ないので、どうしたのか聞いたら「夕べ読み始めたらやめられなくて三時になっちゃた」と言っている。「裂けて海峡」はその後、新潮文庫からも出されたから今でもアマゾンか大きな本屋に行けばあるだろう。おすすめである。

2019年4月 6日 (土)

日本共産党の正体

20190406

元号が「令和」と発表され、メディアでは平成の30年間の回顧が盛んに特集されている。なかなか良い響きの新元号だと私は思うが、天皇を党の綱領で認めない共産党がこの事についてどうコメントするのかに興味があった。ということで新聞に載った共産党のコメントを読んでみると「元号はもともと中国由来のものだ。中国では皇帝が空間のみならず時間を支配した。君主が時間を支配する元号は、今の憲法にはなじまない。政府が元号を強制するのはよくない」という趣旨である。世の中、70%以上の人たちが元号が変わることを前向きにとらえているそうだが、そんな中、このトンチンカンなコメントを読んで「やはり共産党!」と妙に納得してしまった。

マルクス・レーニン主義が消滅し、世界の国々で「共産党」という党名がなくなっているが、「日本共産党」だけはそのプレゼンスがまだ国内に残っているというのが面白い。「天皇や自衛隊を認めない」日本共産党とは一体いかなる組織なのか、最近読んだ新潮新書の新刊「日本共産党の正体」(福富健一著)がとても良かった。この本では占いの類に過ぎないようなマルクス主義を科学として信望する人々(党員)がまだ国内に30万人もおり、機関紙「しんぶん赤旗」が100万部も発行されているという党勢が詳しく書かれている。その他そもそも共産主義とはなにか、日本共産党の歴史はどうだったか、党の歴代大物の略歴や現在の綱領がどうなのかが判りやすく纏められている。(もっとも赤旗は最近西暦・元号を併記している)

共産主義社会は必ず到来するという唯物史観、歴史の必然ゆえにそれを実現させるためには「暴力革命」も辞さないというその手段、個人の意思は全体の意思と一致していなければならないのと云う「民主集中制」など、現実をみないアタマでっかちの思想が共産主義の「本質」である。この本を読み、なぜ日本共産党がこれほどまでに教条的なのか、今では国民から「もっとも保守的な政党」と揶揄されるほど硬直しているのか、その不可解な行動原理の理解に役立った。それにしても世界から消えていく絶滅危惧種である「共産主義者」が、日本では教育界やメディアの世界で生き残り、いま「リベラル」と名を変えて活動しているのがおぞましい。リベラル信望者である団塊以上の老人が退くと共に、天皇や自衛隊を認めない日本共産党も消えていって欲しいものだ。

2018年10月22日 (月)

「米韓同盟消滅」を読んで

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距離は近いがひどく遠い隣国、韓国は最近あらゆる面で、奇妙なふるまいをする。そこでソウルや香港などに駐在した日経新聞のベテラン記者である鈴置高史氏著の「米韓同盟消滅」を読んでみた。この10月に発売されたばかりの新潮新書の新刊で、一読してまさに我が意をえたりと膝を打ちたくなる内容である。以前にも書いたが、旧帝国陸軍の軍医だった私の祖父は、新宿の大久保に住み、今の戸山公園あたりにあった陸軍の病院に勤務していた。東京の空襲が激しくなったため庭先に家具を埋めて郊外に避難したが、戦争が終わって元の家に帰ると、朝鮮人たちがあたりを不法占拠して立ち退かず、やむをえずに西荻窪に居を構えたのだと幼い頃に幾度か聞かされた。そんなわけで今でもハングルだらけ、新大久保界隈の異様な世界をみると、あまり良い気持ちはしない。


さて最近は「最終かつ不可逆的に合意した」慰安婦問題をいとも簡単にひっくり返す、済州島の観艦式に招待した我が自衛艦に旭日旗を上げるなと注文する、朴大統領に対するごく普通の批判記事を書いた産経新聞の記者を長期拘束するなど、枚挙にいとまがないほどこの国は日本に対して非礼な事を繰り返している。そんなに日本人が嫌いなら、我が国を訪問などしなければよいものを、都内でも無遠慮に大声で朝鮮語を話しながら闊歩する韓国人観光客が多いのは実に不思議だ。さらに国際社会が一致して北朝鮮に制裁を加える中、文在寅政権は南北融和の掛け声とともに包囲網をゆるめようと欧州行脚もした。彼らのすることは理解不能で、私はこの国に一切かかわりたくないから、たまたま乗船したクルーズ船が釜山や済州島に入港しても、最近は一歩も上陸せずに船内で過ごすことにしている。


この本では中国の柵封国家だった朝鮮半島の歴史、反日を超え”卑日”になった最近の経緯、自意識過剰で「中学2年生」程度の成熟度である国内の実態などが詳しく語られる。法の支配ではなく、儒教思想によって国が動くことが多くの実例で示されており、なぜ韓国が奇異な行動をとるのかがよくわかる。私は朝鮮半島に関わらないことが日本人のためだと常々思っているが、そうは云っても気になるのが北朝鮮の傀儡・文在寅政権の動きである。このままだと北の核と南の経済力が一体になって半島統一がなされるとみられるが、そうなった場合には、米韓同盟は必要なくなり、米軍は半島から撤退する可能性が高いと本書は指摘する。その際に中国は覇権を半島全体に伸ばすことが必至だから、朝鮮半島全体が中国の強い影響下に置かれるに違いない。中国勢力圏下の朝鮮半島と、我が国や米国の勢力は対馬海峡で対峙することになって、東西冷戦なきあと、米・中両大国の覇権争いの最前線は海峡にひかれよう。対馬海峡はあらたなベルリンの壁になる、との私の危惧は本書を読んでますます強くなるのであった。

2018年7月19日 (木)

「保守の行方」と「保守と大東亜戦争」

20180719

物心ついてから私は一環して保守を自認している。かつて学生運動が盛んなりし頃は、機動隊に石や火炎瓶を投げる全共闘のヘルメット姿を見て、こちらから全共闘に石を投げていたものだ。今でも霞ヶ関などを歩くと、あまり身なりがきれいでない初老の人たちから「安保法制反対」だの「原発反対」だののビラを手渡されそうになるが、「俺は法案も原発も賛成だよ」とそんな紙は突き返してしまう。かつての革新、今で云うリベラル派の時流に乗ったような主張が嫌なのである。


といっても自分が誇りに思ってきた「保守」とは一体何なのか、本来の保守、保守の本質は何かという疑問にいつも突き当たる。ソビエト連邦が崩壊するまではアメリカに代表される自由主義経済と民主主義体制を信奉するのが保守で、平等に価値を置き計画経済のソ連や中共を模範とするのが革新だというはっきりした分類があった。日本でも「保守」は総じて「親米」だったし経済開放の勢力で、「革新」は社会主義・共産主義的社会をめざし全体主義志向の人たちだった。


しかし今や状況はかなり違う。東西冷戦が終焉しマルクス・レーニン主義は消滅、その後に出現した新自由主義や経済のグローバル化などによって「保守」とは一体何をさすのか定義する事が難しくなった。殊に自国第一主義を掲げるトランプ大統領の保護貿易を批難し「自由貿易を守るのは中国」などと云う最近の中国の発言を聞くと、プロパガンダに過ぎないのは判るが「自由を規制するのがアメリカで自由を守るのが中国か??」と苦笑する。


「保守」という概念を本当はどう捉えたら良いのかとの思いに、最近読んだ新書2冊がとても参考になった。「『保守』のゆくえ」(中公新書クラレ)の佐伯啓思氏は、今日の進歩主義やグローバリズムは従前の確かな価値や秩序原理をこわし、世の中を混沌状態に陥いらせているから、進歩主義を牽制すべきなのが保守者の基本だと言う。保守はそれぞれの国や地域で、歴史的に生成してきた慣習や社会構造、文化や価値観を急激に変更してはならない、改革は漸進的であるべきだと佐伯氏は述べる。


「保守と大東亜戦争」(集英社新書)の中島岳志氏も人間は不完全で間違いを犯すものだから、理性に万全の信頼を置く事は間違いであるとしている。信ずるべきは伝統や慣習、良識などであり歴史の風雪に耐えた社会的経験値で、やはり改革は漸進的に行うのが保守の態度であると云う。急進的変化、ラジカルで極端なものの中には必ず理性への過信が含まれており、それに依拠してはいけない事を、戦争反対を貫いた「保守派」の言葉から中島氏は導きだしている。


二つの書を読んでわが身を顧みたが、私は常々ラジカルな言動にはついて行けず社会変化はゆっくりが良いと思っているし、年齢が進むに連れて伝統や慣習にこだわる様になってきた。かつての革新派、今のリベラルの主義主張にはもとより賛同できないし、やはり自分は保守主義派だったかと再認識したのだった。

2018年2月28日 (水)

「リベラル」という病 (岩田 温 著)

20180228

先の総選挙を前に空中分解した民進党が、小池百合子氏が率いる希望の党に吸収される際におきた茶番劇には笑ってしまった。小池氏が集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ安保法制や憲法改正に賛成する事を受け入れ条件とすると、あれほど安部総理の暴走を許さないと反対していた民進党の「日本のリベラル」たちがころっと方針を変え、踏み絵を踏んで希望の党になびいてしまったのだ。しょせんリベラル政党とは国民の事よりおのれの選挙目当ての互助会に過ぎず、日頃声高に叫ぶ主義・主張などは便宜的な付け足しに過ぎなかったという事が暴露されたようである。


リベラルの正体見たりという思いでそのドタバタ劇の報道を見ていたのだが、なぜ、そして、いかに彼らがそんなにおバカなのか、にわかに知りたくなり岩田温著の新刊「『リベラル』という病」(彩図社)を買ってしまった。岩田氏は新進気鋭の政治学者だそうで、東西古今の文献に通じた氏はリベラルの定義にも触れつつ不思議な「日本のリベラル」(いわゆるサヨク)を縦横に批判する。それによると「日本のリベラル」は周囲の情勢を一切無視し、ただ平和憲法を護れば平和が保てると主張するような「現実を無視した反知性主義者」であると云う。さらに彼らリベラルはむやみに共産主義に親和的で、その実態や共産党の本音に目をつむりがちだと指摘し、旧ソ連の悲惨な歴史が本書で語られる。


考えてみると1960年に「日米安保反対」を叫んだ日本のリベラル(サヨク)勢力の主張がまかり通り、もし我が国が日米安保なしであったら今の日本は一体どうなっていたかと想像すると恐ろしい。また天皇を認めない日本共産党は「当面」は認めると云っているが、では彼らがいつ天皇陛下を認めないと変身するのか。そのほか世界中でフツーに認められている集団的自衛権行使を認めたら、なぜ日本だけが徴兵制が復活して近隣諸国を「侵略」するのか、などなど日頃から日本のリベラル=サヨクの発する主張は反知性的かつ疑問だらけで突っ込みどころ満載である。


著者は朝日新聞などのサヨクメディアが、多くの憲法学者が自衛隊を違憲と主張する事は今回報じず、集団的自衛権の行使容認だけが違憲と騒ぎ立てる矛盾もついている。真に立憲主義を貫くなら、自衛隊は違憲だから廃止するか憲法を改正せよと主張すべきところ、それはできないから結局のところ日本のリベラル=サヨクは、「知的に余りにも不誠実な態度に終始」する「反知性主義」に陥るのだと容赦ない。さて今回の希望の党入党騒ぎで判ったのは「日本のリベラル=サヨク」は、本気で主義・主張を掲げている訳ではなく、ただ現実をまったく無視した脳内のお花畑的妄想に基づきガラパゴス的発言を繰り返していたと云う事である。これら奇怪な「日本型反知性主義者」に対して、本書の最後には著者の提言も記されており、これがなかなか読み応えがあるもので興味深かった。

2018年2月11日 (日)

保守の真髄 西部邁

20180210

西部邁氏が先月亡くなった。1980年代の終わりごろから「朝まで生テレビ」などで大島渚や姜尚中らを相手にディベートを繰り広げたおなじみの保守の論客である。アメリカのくびきを離れ真の独立の為には、日本も核を持つ事やむ無しとする西部氏の考えには耳を傾ける点が多い。西部氏が関わった雑誌「表現者」などを通じてその主張のいささかでも聞きかじった私としては、最後に氏が自裁死と称して自ら人生を終えた事がかなり衝撃的であった。


その西部氏の「最期の書」とされた「保守の真髄」が講談社現代新書から出されたので早速購読してみた。神経痛のために書くことができなくなった西部氏が、娘を相手の口述筆記で出した本で、「死の覚悟」を以って「本気度をできるだけ強く表面に出して語ろう」と冒頭にある。「文明の紊乱(ぶんらん=みだれること【広辞苑】)を語る」とサブタイトルにある本書は、なるほどとうなずく箇所が多いものの、正直言って私の凡庸な理解力ではついていけない文章も多かった。


例えば「人間の意味行為といい社会における価値活動といい、水平軸にあっては意味価値の『同一化と差異化』の対比によって、垂直軸ではその『顕在化と潜在化』の対比によって行われる。」(75頁)などとある。そのような難解な部分は悲しいかな読み飛ばすしかないのだが、ただ古今東西の思想に通暁した西部氏が考え抜いた現代文明に対する思いが「本気」で述されている本である事は間違いない。


本書の最後は西部氏の惜別の辞である。紊乱の世の中を正視するに堪えない氏は、先に奥さんを亡くしているそうで、手が不自由になった自身の事もあって今回の決断をした事がうかがえる。保守の評論家・江藤淳氏が亡くなった時にも思ったが、どんなに立派な思想をもった人物でも、妻に先立たれると男は弱くなるのだろうか。それにしても舌鋒鋭いコメントの後に、ちょっと照れたようにニヤっと笑う碩学・西部氏の表情が、テレビ画面から見られないのは寂しいものである。

2018年2月 2日 (金)

「田園発 港行き自転車」宮本輝

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若い頃には、読んでも冗長な感がしてあまり印象に残らなかった宮本輝だが、数年前から彼の作品がけっこう気になっていたのは以前アップした通りである。その後飛鳥Ⅱのライブラリーに全十数巻の宮本輝全集があるのをみて読んだところ、これが旅の無聊を慰めるによくすっかりハマってしまった。すでにライブラリーにある全集の半分以上は読んだであろうか、あまりひと気のない飛鳥Ⅱの船尾デッキでデッキチェアーにもたれ、船の引き波が奏でる音を身近に感じつつ、宮本輝全集の長編小説を読むのはいまや飛鳥Ⅱに乗船する際の楽しみの一つである。


そんな宮本輝の新刊「田園発 港行き自転車」(集英社文庫)が出たので、さっそく上下2巻を買って読んでみた。北日本新聞に連載されていたこの小説は、富山で起きた一人の男性の死とその死によって生かされた一つの命、そこに係わる多くの人たちが紡ぎだす人間模様を描いたものである。小説では、物語の舞台となる富山の美しい自然と京都の花街の風情が、両地に縁の深い作者によって詳しく描かれており、この情景描写をバックに魅力的な作中の人物たちを読みとくうちに、次第に読者も物語に引き込まれていくという筋書である。


例によってスリル満点とか波乱万丈、最後に大逆転などという劇的な話の展開はない。読んでいるうちにふとうたた寝をして手から本が滑り落ちているが、気がつくとうっちゃておけず、すぐにまた本を手にして読みたくなるような物語である。とはいうものの男性の死に関する謎が解き明かされていく中で、多くの人間関係の綾が解きほぐされていく過程は、思わず先を読み進めたくなる宮本輝ワールドである。「コツコツと生きる」「謹厳」「感謝」「信頼」「時の経過による癒し」などという宮本作品のキーワードが頭に浮かびつつ、読了してみると「読んでよかった」と思わず漏らしてしまう「田園発 港行自転車」であった。

2017年9月27日 (水)

ついに「愛国心」のタブーから解き放たれる日本人

20170927_2

わが家では国の祝祭日に国旗を必ず掲げる。といっても狭いマンションなので金属製ドアにマグネットの旗差しをつけ、日の丸の小旗を斜めに揚げるだけなのだが、どうやらマンションの同じフロアーで日の丸を掲揚しているのは我が家だけのようである。国の成り立ちが違うとは云え、かつてアメリカに駐在していた時に見た、人々が祝祭日のみならずさまざまな機会に星条旗に忠誠を誓う光景とはエラい違いだ。そのアメリカ人のケント・ギルバート氏が書いた「ついに『愛国心』のタブーから解き放たれる日本人」(PHP新書)を知人からもらって読んだところ、なるほどと眼からうろこ、いたる箇所にうなずく事が多い本であった。


ケント氏が冒頭で述べているように、日本人は総じて自分の故郷や育った土地を愛しており、日本の風土や習慣・食事などが好きな事は間違いないだろう。では皆が「愛国心」を持っているかと聞かれると、いちように金縛りにあったかの状態になり、答えに窮する人が多いものだ。同様に私が子供の頃は、立派な大人なのに日の丸に敬意を払わない人もよく見られたのだが、著者はこの現象を次のように批判している。「日本では日教組の教員が率先して、それこそ親や保護者の了解もなしに、日の丸と君が代に対するマイナスのイメージを植え付けるという愚行が、長いあいだ行われてきました。それだけでなく、戦前の国家主義につながるからというデタラメな理屈で、道徳教育までもが否定されてきたのです」。正にその通りであろう。


そして日本人が日本人たる所以は「国民と共にある」天皇という存在があったからだという事を、著者は歴史を踏まえ様々な事例で教えてくれる。私も彼の様なアメリカ人から言われてみて、改めて日本社会のあり方の根っこには天皇陛下の存在があった事に気がつかされたのだが、同時に天皇を基本的に否定するような共産党と野合する日本の野党は、この国を本当に良くしようと思っているのかとの疑問がただちに湧き起こってきた。さて、こういう日本の「国体」を否定する動きは、すべて戦後の進駐軍によるWAR GUILTY INFORMATION PROGRAM(アメリカが日本人を恐れるあまり、二度と強国にならないように精神を改造する計画)によるもので、日本人なかんずくメディアや教育界がこれにすっかり洗脳されてしまった結果が愛国心の拒絶であったと本書は強調する。


最近のネットの発達によって、多くの日本人も朝日・毎日・東京新聞を始めとする左翼的なメディアが流す情報が、相当なバイアスがかかっている事を知るようになった。また右翼の街宣活動も、どうやら多くの第三国の人たちが「右は怖いものだ」とのイメージを皆に植え付けるために行っている面がある事もわかってきた。一方で70数年以上も前の大東亜戦争以前とは世界情勢がすっかり違っているのに、いつまでも懲りる事なく「戦争への道」などと安倍政権を批難し、日本人だけが狂信的に侵略戦争を起こすかのように喧伝する幼稚な勢力が日本にまだ存在しているのも事実である。こうした時代に著者が本書の「おわりに」で「『愛国心』や『天皇』についての誤解とタブーから、ついに日本人が解き放たれるときがきているようです。いや、それはもう多くの日本人にとっては、現実に起きていることかもしれません。」と我々にエールを送ってくれる事は、まことに時宜を得た頼もしいものだと清々しく読了した。

2017年8月19日 (土)

定年後

20170818

7月から知人の小さな会社を手伝い始めた。何十年もやってきた仕事ゆえ、また働かないかとの話があったときは気軽に引き受けたが、同じ仕事でも実務レベルとなると最近はすっかりIT化され、ところどころエクセルなどを駆使せねばならない。取引先の相手もEメール時代に入社した若い人たちなので、仕事の進め方も以前とだいぶ違う。定年退職オヤジの気楽な隠居仕事かと思って始めたのに、どうも勝手が違って戸惑っているところだ。お金を貰うというのは簡単ではない、という事実にあらためて気が付かされる日々である。


一旦は会社を退職して自由になったものの、個人会社とは云えまた雇われ人になって拘束される身に戻ると、なぜだか急に売り出し中の中公新書「定年後」という本が気になってきた。「定年」オヤジとして普通の退職後の自由な生活を営むか、若干の金銭の余裕を得る代わりに一定程度の束縛とストレスを我慢するか。若い頃と違って仕事をする生活もそうでない自由もどちらもありとなると、却って自分の置かれた状況を確認してみたい気持ちになってくる。


著者の楠木 新氏は昭和29年生まれだから私より年下だが、60歳で会社をやめる前から定年後の問題を考察していたという。「何が正解か」などと云う答えがないような定年後の生活にそれぞれがどう向き合ったのか、本書は多くの例を提示してくれる。老人の増加で最近この手の本が本屋の店頭にやたら多いが、著者が長い年月を掛けて様々な切り口から「定年」を考察してきた事は一読するとよくわかる。自分の裁量でやりくりできる時間が増える事を喜ぶか、一定のレールを歩く方が楽と考えるのか、いずれにせよ著者は「定年後は『いい顔』で過ごせるような目標に向かって生きろ」とまとめている。また始めた仕事を続けるか否か、本書は何かのヒントになるかもしれない。

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