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2021年11月16日 (火)

観光拠点再生計画 宇野港発 瀬戸内海遊覧クルーズ船 実証運航

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宇野港 旧国鉄岸壁傍ポンツーンが実証クルーズ船”マリンストーク”号乗り場


この週末は、妻と岡山県に旅行に行った。目的は「玉野市宇野港から瀬戸内海を遊覧するクルーズ船無料実証運航」を体験し、その後に岡山市の天満屋デパートで11月3日から14日まで開催されているスぺシャルイベント”飛鳥Ⅱダイニング”のコース料理を味わうことである。天気も良さそうだったので、ついでに日曜日は倉敷の美観地区を散策し、秋の山陽路をゆっくりと楽しむことにした。例によって金曜日は夕方までに仕事の目途をつけ、「大人の休日倶楽部・ジパング倶楽部」の3割引切符を利用して新幹線「ひかり」号の飛び乗り岡山に。岡山駅直結のビジネスホテルに宿泊し、土曜日は朝から宇野線で終点・宇野まで行き、港から2時間弱のプチ瀬戸内海クルーズを経験した。


この催しは、国土交通省が全国的に展開する『観光拠点再生計画』に基づき催行される実証実験のクルーズという位置付けだ。「観光拠点再生計画」とは全国の観光拠点を再生し地域全体の魅力と収益力を高める事業とのことで、要は国交省の予算によって全国各地域で観光の目玉を掘り起こそうという計画である。宇野港のある岡山県玉野市では、既存の渋川海岸と王子が岳という名勝地に加え、海上からの遊覧を追加して観光事業の活性化を目指すことを国交省に登録し、その実現のために今秋は実験クルーズを毎週数航海づつ運航することにしたらしい。当該「渋川海岸・王子が岳 魅力拡大プロジェクト」のホームぺージには、「玉野市宇野港から瀬戸内海を遊覧するクルーズ船無料実証計画を実施」し「乗降者数のデータを蓄積し今後のクルーズ船利用促進に活かす」と記載されている。


乗船したクルーズは、ふだん海上タクシーに使われる小型の旅客船を利用し、宇野港から瀬戸大橋方面まで往復2時間の瀬戸内海を航行するもので、国の予算がついているために乗船料はかからない。その代わりにこの船旅が将来の観光事業に寄与するのかを調べるために、乗客は簡単なアンケート調査に応じる必要があった。クルーズの予約はネットでの応募のみで、広く全国には知られていないようだったが、我々が乗船した土曜日の朝の航海は船の定員30人が一杯となる満船状態となっていた。乗客は自家用車で港へ来たカップルやファミリーなど地元の参加者がほとんどで、遠隔地から鉄道を利用し宇野駅から徒歩で乗船した我々のような物好きは他にはいなかったようである。


宇野港と云えば瀬戸大橋開通に伴い廃止になった国鉄の宇高連絡船に乗船して以来50年ぶりである。連絡船と鉄道を結んだ可動橋はどこだったかなどとノスタルジーに浸る間もなく、17ノットの快速で小さな旅客船は瀬戸内海へ滑り出した。進行方向左手に直島の旧三菱金属直島精錬所、右手には旧三井造船玉野工場や三井金属日比精錬所などふだん通る瀬戸内海本航路からは遠い工場群がこのクルーズでは身近に見えて興味深い。船は地元の渋川海岸や王子が岳沖を通り、県境が島の真中にあると云う大槌島や貸し切り無人島になっている竪場島(たてばじま=通称くじら島)などを次々と交わしていく。やがて鷲羽山が迫って来たかと思う間もなく、このクルーズのハイライトである瀬戸大橋のうち、斜張橋の岩黒島橋と吊り橋の下津井大橋をくぐることが出来た。飛鳥Ⅱや大型フェリーで幾度か通った瀬戸大橋も、海面近い小型船の視点で眺めると違った迫力を感じるものだ。


この間に適宜船長の案内放送があるものの、彼はふだんは海上タクシーの業務専任とあってバスガイドのように次々と流ちょうな解説があるわけではない。また肝心の近辺の地図が配布されないのも残念だった。しかし瀬戸内海といえば上代から大陸と畿内、あるいは九州と畿内を結ぶ重要な回廊であった。瀬戸内の各地には水軍と呼ばれる勢力が存在したし、下って江戸時代になると北前船の風待ちや潮待ちのための津が賑わい、明治以降は今でも見える高い工場の煙突から近代日本を作る煙がたなびいていた。日本で最も早く国立公園に指定されたように世界に誇れる多島美と歴史、産業の槌音が共生してきた地が瀬戸内海である。最近は超高級クルーズ船”ガンツウ”だけでなく、瀬戸内しまたびラインの”SEA SPICA"など、移動の手段としてではなくこの海を楽しむ新たなサービスも始まった。玉野市の前には最近芸術面でも有名になった直島もある。歴史の旅、産業の遷移を見る旅、地質学的な旅、芸術の旅、無人島の旅など様々な切り口で小回りの効く小型船によるサービスを提供し、適切なガイドを配置すれば、新たな「観光拠点再生の拠点」になるはずだと玉野への帰路、波に揺れる船内で考えた。

 

日比精錬所 普段みることのない視点で工場を眺めることができる
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2021年11月 9日 (火)

カーナビとドライバーの感覚差

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カーナビに素直に従ったら林道のような狭い道を走ることに(函南付近)

先週末は湯河原温泉に一泊で遊びに行った。宿はまだそれほど混んではいなかったが、往復の東名高速道路はけっこう交通量が多く、やっと皆が外に出掛け始めたことを示していた。せっかくここまで来たのだからと、帰りに御殿場近くにある妻の父が眠る富士霊園に寄ることにした。湯河原から富士霊園までは北西に向かい箱根連山をこえて直線距離では30キロほどで、このあたりは良くドライブに来たことがあり何ということもない快適な山道である。しかし会計を済ませフロントで「この前の道を上っていけば箱根峠に出ますよね」と念のため尋ねると「湯河原パークウェイがこの夏の崩落で通行できないので、御殿場へ行くなら熱海から回ることをお薦めします」と云う。ということで仕方なく遠回りになるが熱海経由で箱根を目指すこととした。


熱海の市街地は狭い海岸沿いと急傾斜に曲がりくねった細い道が多く、助手席の妻はこの辺りでスマホの最新ナビゲーションガイド(google)をオンにし富士霊園へのルート検索を開始した。我が愛車BMWのナビは画面が小さくて見づらいうえ、何と言っても2008年製の古いソフトのまま更新もしていないので、どうせ見るならと妻はスマホの最新版を頼りにしたいらしい。とはいうものの私はナビが嫌いでほとんど使ったことがない。これが発する「この先、右方向です」などと云う音声ガイドを聴いても、道なりにじんわり右方向へ進むのか、ごく小さい横丁を意識的にシャープに右に入っていくのか判然としないことがあり却って混乱することが多い。以前あるゴルフ場へナビのルート案内に従って運転していたらいつまでも田舎道が続き、「目的地付近に着きました」の声で周囲を見るとゴルフコースから遠いゴルフ場の従業員宿舎の前で、集合時間に遅れてしまったこともあった。


運転にはアナログの地図帳を見るのが一番だと思っているものの、この日は久しぶりに熱海のごみごみした街を抜け箱根ルートを辿るので、スマホの画面と音声に素直に従うことにした。熱海の街を抜けて箱根外輪山にとりつき3キロ弱、道路はぐんぐん高度を上げて笹尻という三叉路に差し掛かった。分岐箇所の道案内には右方向は箱根峠、左は熱函道路、三島方面とあるので当然の如く右へ進もうとすると、ここでナビは左へ行けと指示してきた。「ムッ!こっちのはずなのに」と一人唸るも、相手は最新のナビである。右へ行けば新しい崩落個所でもあるのかとまずは素直に左に行くことにする。ところが曲がってみると長いトンネルを抜け、道は箱根外輪山から函南、三島方面に向かって下るだけで、このあたりで「ン!?これは一部不通箇所の迂回などではなく、ナビの意図と私の想定が完全に噛み合っていないのでは?」と思い始める。助手席の妻はと見ると「いずれ富士霊園に着くわよ。箱根の峠道は気持ち悪くなるからこっちの方がいいわ」と涼しい顔である。


下り続けて山麓の集落まで来たら、今度は「函南駅方面へ右折してください」とかなりローカルな道を示してきた。ナビは箱根を突き切るのでなく、最寄の第2東名高速道路のICに誘導し、今春開通したばかりの新御殿場ICを目指しているのがはっきりしてきた。「オイオイ、俺はただ箱根へ北上したいだけだよ」とハンドルを握りながら焦り出すも、分岐点をとっくに過ぎて引き返すには時すでに遅しである。箱根を通ることを信じて疑わなかったから、経由地設定もしなかったのが痛い。地元のクルマがたまに通るだけのローカルの道を辿り、次にナビが「ここを左方向です」と指定したのは農家の庭先をかすめて、すれ違いも難しいような山林の中の道路であった。このナビは何としても最短距離で我々を強引に第2東名に導きたいらしいが、もしここで何かあったら他のクルマは来ないし、助けを呼ぼうにも電波が届くのか?とさえ思える寂しい急坂の山道である。


右左折を繰り返してやっとのった国道では左に海が見え、大阪方面に向かっているではないかと一瞬不安になりつつ辿り着いたのは第2東名の長泉沼津ICであった。終点の第2東名・御殿場ICから富士霊園へも、これまでの経験や勘とはまったく違うルートを示され、運転していても面食らうことばかりで、目的地に着いたらドッと疲れを感じた。もっとも到着した時間はナビの示す予定時刻通りだったし、帰宅して計測すると私の当初の予定とナビ通りに走った実際の走行距離差は、10余キロほど遠回りした程度である。予期せぬ高速料金はあったものの人出が増え出した箱根山中の渋滞を考えると、最新のスマホナビのルートはむしろ合理的な選択だったのかと改めて見直している。それにしても走り出す前に「これからルートを案内します。その中には高速やトンデモない里道もありますので驚かないで下さいね」くらいの親切な事前案内があったら良かったのにとアナログ派の私は苦笑している。

熱海~富士霊園間 カーナビが示し実際に走った経路(左)/私がイメージしていた経路(右)
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2021年10月 4日 (月)

高峰高原・黒斑山

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都内に住んでいると、時々自然の中へ行ってみたい気持ちになる。山道を歩きながら”ブ~ん”とブヨの羽音がまとわりつくような場面が恋しいのだ。ということで台風一過の秋晴れの下、この週末は長野県と群馬県の県境、高峰高原から黒斑山(標高2404米)に登山に行ってきた。高峰高原の車坂峠にはかつて高峰高原ロッジ(との名前だったと記憶)というユースホステルがあり、中学時代に毎夏林間学校に訪れていた。数日間の林間学校のうち一日はロッジから黒斑山までを往復する4~5時間の定例山行で、その時に心に刻んだのが雄大な浅間山の山容やそれに連なる外輪山のすばらしい眺望だった。中学校を卒業以来55年間、高峰高原を訪れたことはなかったが、足腰が丈夫なうちに思い出の登山道をもう一度踏み、あの景色をまた見たいと思ってのノスタルジックツアーである。

 

車坂峠でクルマを下り、登山道の取り付き口に立つと、コースの案内図の脇には入山の注意書きや登山届の投入箱があってまずはびっくりである。半世紀以上前に林間学校の生徒たち数百人で登ったような道だから、まあハイキングにちょっと毛の生えた程度のコースとの認識で来てみたが、登山届が必要な「山」だったろうかとまずは我が記憶を疑う。見ると周囲の登山客はほとんどが登山靴、山用のザックに最近流行のステッキ(杖)を携えているが、こちらはジーンズにジョギングシューズ、手にはペットボトルの水を抱えてという超軽装だ。富士山で見かける観光気分の外国人ツアー客かのごとく、これは場違いかと一瞬うろたえてしまうほどだ。「山を軽く見るな」とか「年寄りの冷や水」などという文句が頭に浮かんだのだが、足にはまだ自信はあり、台風が去ったあとの晴天で天気の急変もなかろうと山に分け入った。(本当はこういうシニアが一番危ないのかもしれないが・・・)

 

歩き出すとコースはやはりそれなりの登山道で、あちこちにガレ場や急坂もある。手を使って体を引っ張り上げたりバランスをとらねばならぬ場所もあるが、軍手さえ携行してないから困ったものだ。黒斑山頂まで登りは2時間、踏み外せば滑落のおそれがある危険な箇所も幾つかあって「気楽なハイキング」よりはちょっと難儀な山道であった。かつて林間学校では山好きの先生が引率してくれたのだろうが、男女混ざっての都会の子供たち、それも大勢で毎年事故もなくよくこの道を行き来できたものだ。思い出をたどりつつ一歩づつ歩を進めるうち、落伍者も出さずに引率してくれた当時の教員たちの指導にあらためて感謝の念が湧いてきた。こうしてたどり着いた黒斑山山頂から目前に望む浅間山や深く切れ込んだ雄大なカルデラは、記憶のとおりわが国でも有数の息をのむ絶景であった。この景色は2時間の登り路に耐えた者だけが味わえるものかと思うと、頬をなでる山の秋風も一層心地よい。麓のコンビニで買ったおにぎりで昼食をとり、あの頃に一緒に登った同級生たちは今頃どうしているか、などと回想に耽りながら帰路についた

2021年6月13日 (日)

鬼怒川温泉と東武ワールドスクエア 

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バチカン サンピエトロ寺院 (後ろにエッフェル塔があるのがご愛嬌)

飲食店でアルコールが出ない都内にいてもしょうがない。新緑の候とあってどこか郊外に行こうかと妻と話すと、鬼怒川にある「東武ワールドスクエア」に行きたいと云う。世界各国の遺跡や有名な建築物を25分の1のモデルで再現したミニチュアワールドである。1993年に開園した当初は人気で大混雑したらしいが、さすが30年近く経て今では園内でゆったりと過ごすことができるだろうという目論見だ。都心から150キロちょっと離れた「ワールドスクエア」にクルマで行くなら温泉に浸かってゆっくりしようと、前夜は鬼怒川温泉に宿をとることにした。ネットで予約した旅館は週末というのにガラガラで、こんな値段で申し訳ないとこちらが思う程の至れりつくせりのサービスである。外出自粛の同調圧力など気にせず一歩足を延ばせば、鉄道も道路も旅館も安く快適に過ごせるというものである。


鬼怒川渓谷を望む露天風呂で朝湯を浴びた後、到着した「ワールドスクエア」は、予想通り土曜日と云うのに駐車場もガラガラだった。山裾にいだかれた敷地は周囲が約800米ほどで、ここに47の世界遺産を含む102のミニチュアモデルが展示されており、園内は植栽の整備も掃除も行き届いて快適にすごせるようになっている。順路に従って歩を進めると、まずは東京駅や国会議事堂、成田空港など現代日本ゾーンとなる。ひときわ目立つスカイツリーや東武鉄道の特急スペーシアの走行に目を奪われているうちに、アメリカゾーンに足を踏み入れるが、ここでは9.11で倒壊した在りし日のワールドトレードセンターの巨大な2棟のモデルが心を痛める。過去と現在が一体になり、時空を超えた疑似体験ができるのもミニチュアならではである。


大きなピラミッドのエジプトゾーンを通りヨーロッパゾーンに入ると、さすがに多くの建築物、城や教会、宮殿などのモデルが展示されている。ミニチュアと云っても25分の1の大きさとなるとそれなりに迫力があり、ベンチに座り薄目でぼんやり眺めていると、ヨーロッパに来て本物の建物の前にいるような錯覚に陥る。ガウディのサグラダ・ファミリアでは、写真やガイドブックで見るより建築中の内部の詳細が一目でわかりミニチュアの特性に興味を引かれることしばし。人物のフィギア一体一体にも工夫がありすべてが手の込んでいる展示なのだが、やはりヨーロッパゾーンを見ている時間が一番長くなる。万里の長城などが展示されたアジアゾーンを抜け、最後の日本ゾーンには馴染みの国内の多くの社寺仏閣のモデルがこじんまりと並び、これで世界一周が完了したことになる。


この間にかかった時間は2時間強で、歩いた距離を後から計測すると1300メートル、それぞれのゾ―ンで何度も同じように見かけるグループがいたので、我々の見学スピードは標準的だろうがけっこう歩きでがある。展示されているモデルは今年4月に完成した沖縄・首里城など新しく整備されたものもある一方、今はなきクルーズ船「ふじ丸」の展示は開園当初から在ったのか船体はかなり疲れている。採算的には厳しいのだろうが、現代日本を現すならば、最新の船舶に入れ替えることが必要だろう。現実にはなかったJR東日本塗色の新幹線100系や、旧JAS塗装のボーイング747(ジャンボジェット)がここでは堂々と活躍しているのもミニチュアならではのご愛嬌か。来る前はさして興味もなく妻の希望で来てみたものの、ぐるっと回ると童心に戻り旅心が大いに刺激された「東武ワールドスクエア」であった。来年、飛鳥Ⅱのワールド・クルーズが実施されたら、寄港予定地のバルセロナでサクラダ・ファミリアの実物を見学したいものだとあらためて心に刻んだひと時だった。

今はなきNY ワールドトレードセンター
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ふじ丸は船体がかなり疲れている展示
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2021年5月17日 (月)

アドベンチャーワールド、赤ちゃんパンダ・颯浜

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生後半年の赤ちゃんパンダ「颯浜」

週末は南紀、和歌山県白浜町にあるアドベンチャーワールドにパンダを見に行って来た。アドベンチャーワールドは動物園や水族館と遊園地を兼ねたテーマパークで、白浜町の町おこしやJR紀勢本線の宣伝にも使われるほど知る人ぞ知る有名観光地なのだそうだ。現在ここでは国内最多7頭のジャイアントパンダが飼育されており、特に昨年11月に生れた赤ちゃんパンダが大人気になっている。颯浜(ふうひん)と名付けられたこの赤ちゃんパンダを見るのに長蛇の列を作らねばならないと云われていたが、武漢ウイルス騒動以来、三密を避けるために抽選で入場者を絞りこみ、指定された時間しか見学できないシステムとなっている。


何回も抽選に落ちる人がいるなか、以前からパンダ好きな妻はこの週末の抽選に当たったと大騒ぎをしており、一人ででも行って来るという。中国共産党のプロパガンダに使われるパンダなどを見るのは真っ平だと思いつつも、週末に一人で家にいるのも面白くないし、飲食店では一切酒が出ない都内にいてもしょうがないので、妻にくっついて行くことにした(パンダに罪があるわけではないし)。どこに行くにも「わしも、わしも…」と妻のお尻にくっついて歩く定年退職ワシ族の老人になったような気も近頃するが、白浜町の隣にある田辺市スポーツセンターで大学時代に合宿した思い出もあり、半世紀ぶりにこの地を訪れるのも悪くない。


往時、大阪・天王寺から4時間ほどディーゼル列車に揺られて行った南紀も、いまは羽田からジェット機で一時間と隔世の感がする。ただJALのラウンジは緊急事態宣言(蔓延防止等重点措置)以来アルコールを提供していないため、いつもここで楽しみにしていた生ビールサーバーが使えなくなっており愕然とした。まったく意味のない酒類提供禁止のアホさ加減にあきれかえるばかりだが、これはまた別項で取り上げることとしよう。さて白浜と云う地名の由来となった白砂の白良浜(しららはま)に建つ温泉ホテルに宿をとり、早速風呂に浸かれば湧き出る湯は塩泉で、このあたり一帯はどこも出で湯の里のようだ。湯上りに、やっと手にした冷たいビールを飲みつつ白砂青松の海岸を眺めているうち、「松原遠く、消ゆる処」と自然に唱歌が口をついて出てくる。やはりついてきてよかったと思う一瞬である。


翌日は午後2時からお目当てのパンダの赤ちゃん見学の前に、アドベンチャーワールドで動物を見たりサファリツアーに参加したりと童心に返って楽しんだ。やはり例年よりかなり入場者も少ないようで、列に並ぶのが大嫌いな私には園内どこも混雑していないのがすこぶる気持ち良い。屋外に出ている数頭のパンダが食事をする様子を見ていると、実はこれは着ぐるみでないかと思うほどその姿や所作があどけなく感じる。最近聞いた上方落語「動物園」の影響か、着ぐるみの中には中国共産党党員が日本人の気を引くために必死で演技をしているのではとの妄想が浮かんでやまない。また水族館のペンギンたちの本格的な展示にはびっくりし、世の中には私の知らない場所に知らない大がかりな施設があるものだと感心することしきり。やっと巡って来た指定の時間に見た赤ちゃんパンダは残念ながらお昼寝中だったが、それでも寝ぼけながら時折見せるゼンマイ仕掛けのような仕草が何とも愛くるしく、妻は自粛なぞ無視して遥々来た甲斐があったと喜んでいた。

中共の廻しもの?2018年生まれの「彩浜」
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♪ 松原遠く♯ 白良浜
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紀勢本線の特急も”パンダくろしお” JR西日本 287系特急車両
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2021年3月21日 (日)

「民都」大阪 対「帝都」東京 アゲイン

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久しぶりに本棚から取り出した本書

今朝の読売新聞”HON”の紙面では、原 武史氏が若き日の彼の著作「『民都』大阪対『帝都』東京」(1998年出版)を書いた経緯を綴っている。そういえば、かつてサントリー学芸賞を受賞したこの名著が本棚にあったことを思い出し、久しぶりに取り出してパラパラと読んでみた。原 武史氏と云えば、日本の政治思想史学者として最近あちこちで名前を見るが、専門分野の他に鉄道に対する造詣も深く、この方面に関する著作もいくつか出している。読売の紙面では、東大の助手として本業に専念せねばならない時期に、背水の陣の覚悟で鉄道に関する執筆活動にいそしんだ出版時の思い出が記されていた。そこには彼がこの本を書くことになった動機の一つが、阪急の梅田駅に足を踏み入れたことだとあって、改めてさもありなんと共感した。


読売新聞で原氏は「阪急がJR大阪駅に隣接してターミナルを構えながら駅名は『梅田』であること、大阪駅と梅田駅の間には屋根のない歩道橋しかかかっていないことに、心底驚いた。エスカレーターを上がった瞬間に視界が開け、宝塚線、神戸線、京都線が乗り入れる10のホームが現れる梅田駅に匹敵するターミナルは、関東私鉄にはなかった。」と記しているが、これを読んで東京で生まれ育った私も昭和38年に初めて阪急の梅田駅に降り立った際に、私鉄の駅とは思えないそのスケールに度肝を抜かれたことを思い出した。昭和40年代に高架式のターミナルになる前の阪急梅田駅である。


私が初めて阪急梅田駅を経験した当時、鉄傘と鉄骨の下に広がる梅田駅には「9号線にただいま入りますのは神戸線特急、神戸線特急です」という独特な声の女性アナウンスが響いていた。その放送を聞きつつ、関東では○○号線とは云わず○○番線と云うし、ただいまXXしますという表現も、東京ではまもなくXXします、だよな」とその違いを感じたものだった。今も関西に行くたびに気が付く東西私鉄の相違点をこのブログにも幾度かアップしているが、原氏ならずとも阪急梅田駅に足を踏み入れると関東とは異なる関西私鉄の存在感を肌で感じることができる。彼が本書執筆の為の取材を通じて「無意識のうちに東京を基準として日本を論じてきた思考の偏りに気づく」と読売新聞に述べているように、関西の電車に乗っただけで東西文化の差異についてさまざま考察できそうだ。


さて「『民都』大阪対『帝都』東京」は2008年11月11日にこのブログでアップしたが、その中で私は原氏の説に沿って「東武も東上線然り、伊勢崎線は北千住、西武新宿線は高田馬場で、京成も日暮里でJRに平行に連絡しており、国鉄を起点としてすべての鉄道網が形勢された事が明白である」として、官なにするものぞでターミナルを国鉄駅と違う場所に設けた関西私鉄と比較している。ところが昨年出版された竹内正浩著「妙な線路大研究・東京編」(じっぴコンパクト新書)には西武新宿線は早稲田、東武東上線も大塚まで、いずれも官とクロスして延伸する計画がかつてあったことが書かれていた。こうなるとなぜ東京では、山手線内に進出する案が計画倒れになったのか、その詳細を知りたくなってくる。鉄道の歴史でも研究が進むにつれて新しい発見があり、発達史や文化論が深められていくようで、この分野の進展が楽しみだと今朝の読売新聞を読みながら思っていた。

過去のブログ「民都大阪 対 帝都東京(2008年11月11日)」

2020年12月20日 (日)

鳴子温泉へ師走の旅行

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雪の露天風呂

この週末は宮城県北にある鳴子温泉に行って来た。温泉番付けなどで西の別府温泉などに対し東日本で常に上位に入る名湯で、雪景色を眺めつつ入浴を楽しみたいと思っての初訪問である。鳴子は源義経も利用したと伝えられる古くからの温泉で、日本に11ある泉質のうち9種類も湧き出ているそうだ。鉄道では東京から東北新幹線の古川駅または山形新幹線の新庄駅から陸羽東線で訪れるしかなく、奥羽山脈の山ふところに僅かに分け入った所にあるというのが名湯らしくて良い。武漢ウイルス騒動で列車も宿も空いている今こそ、我々のようなシニアにとっては旅の好機といえよう。ただ東北新幹線に乗車すると、中高年者の団体旅行や我々と同じく「大人の休日俱楽部」割引を利用したようなカップルが多数目につき、想像したよりも高い乗車率に少々驚いた。世の中すべからく自粛といいながら面従腹背、一筋縄で行かない元気な年寄りが多いというところだろう。


古川駅で東北新幹線を降り一時間に一本もない陸羽東線のディーゼルカーに揺られること40分余、鳴子温泉駅に到着すると駅のホームにはほのかに硫黄の臭いが漂っていた。雪の積もる駅前は少し前ならストリップ劇場やら射的場があっただろうと思われるいかにも温泉の街という風情で、今でも土産物屋やこけし販売店に並んでフィリピンパブが営業している。妻が検索で厳選した宿は「源泉かけ流し」「部屋食」「部屋トイレ」を満たした駅から徒歩圏内の「旅館 すがわら」で、比較的こじんまりした昭和の風情漂う木造の和風旅館である。館内は温泉熱による暖房が効いているものの、部屋の端にあるトイレ等は暖房が届かずマンション住まいに慣れた我が身にはちと寒い。もっとも妻は父親の実家のあった舞鶴の寒いトイレを思い出すと懐かしがっており、こんな体験も思い出の一部になるのだろう。


足湯も入れて9箇所ある館内の湯のうち、まずは夕食前にこの時間帯は男湯になっている「美肌の湯」に入る。冷えた身体を最初はヒリヒリする位に熱いアルカリ泉に浸し、露天風呂でチラチラと舞う雪の景色を眺めていると、武漢ウイルスや我が手術の事などこの一年の出来事が脳裏に浮かぶ。妻は女湯になっていた「摩天の湯」に「青色(すがわらブルーと呼ばれるらしい)になっているかもしれないから、明るいうちに」と急いで出かけていったが、戻るなり上気した顔で「青くなかったけど、露天の熱いお湯に浸かった瞬間一年の邪気が音を立てて体から出て行った」と絶賛している。さっぱりした後の念願の部屋食は、食べ切れないほどの皿に仙台牛のメイン料理で、妻はすき焼き、私はステーキだった。サービスで熱燗のお銚子が1本づつ付いたのをゆっくり呑みつつ地元のテレビ番組をつけっ放しにして、見るとはなしに見られるのも部屋食の醍醐味である(家では基本的に食事中のテレビは禁止されている)。ひさしから垂れ下がっていた雪庇が、突如ドドズズンと音をたてて落ちるのを聞きつつ、旅館の湯をいくつか巡ってほっこりと楽しんだ雪国の宵であった。「大人の休日倶楽部」で運賃は30%、GOTO トラベルで宿代は35%引き、その上に地域共通クーポン券でお土産代まで貰って、いまは旅をしなければ損々という感じだ。

仙台牛の部屋食
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2020年10月12日 (月)

GoToトラベルキャンペーン・みなと荘

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台風の接近が危ぶまれた中、週末は箱根・大平台にある東京都港区の保養所、みなと荘に行ってきた。港区在住の親族がおり彼らと共に旅行したのだが、箱根はすっかり人出も戻り、渋滞の名所、湯本駅前も以前のような混み具合になっていた。港区の保養所はバブルの時代に計画されたのか、区営の施設とは思えぬ優雅な施設で人気があり週末はなかなか予約が取れない。かつては箱根の名門ホテルである富士屋ホテルのオペレーションだったと云うが、今は富士急系の会社が管理・運営をしているとのこと。一泊一人当たり12,000円の宿泊費が、GoToトラベルキャンペーンのおかげで8,000円ほどとお得感があり、台風余波の小雨を顔に感じつつ緑の中の露天風呂にどっぷりと浸かり箱根の初秋を楽しむことができた。


もっともダイニングルームは同室者で囲むテーブルの真ん中に、透明なアクリル版の仕切りが立ちふさがり、目の前の人の飛沫が飛んでこないようになっておりびっくりである。いくら食事の時に囲っても部屋に返ればおしゃべりをして、隣で寝るのだからこんな遮蔽版はまったく意味不明といえる。こうして日本中が「感染防止ごっこ」をして「我々はコロナ・コンシャス」ですとアピールしているのかと、改めて過剰なコロナ脳の蔓延を感じてしまう。もしこれが武漢ウイルスではなく外国からの軍事的脅威が迫ってきたとしたら、その時も無責任なメディアに煽られ、直ちに「一億総玉砕」「撃ちてし止まん」などと皆が同じ方向に向かって過剰反応をするのか。日本人のまじめな体質、言われずとも皆が同じ行動をとる姿勢は大東亜戦争時とさして変わっていないのだろうか。


さて、みなと荘の宿泊費は普段の70%で済んだうえに、一人2000円のGoTo地域共通クーポンを貰って精算。この値段なら毎週行きたいと思うほどで、国の財政赤字をどうするのかという点を除けば、経営が苦しい観光業者のためのこの政府の施策を大いに活用したい。ただしクーポンでは問題点が一つ。宿でのアルコール代精算には使えたのは良かったものの、帰りの東名高速道路の海老名SAでは使える店が限られており、我々が買った土産物にはこれが使えなかった。旅の中で費消させるためだろうが、クーポンの有効期限はその日限りという設定なので、少なくとも高速道路や駅、空港の売店・レストランではくまなくクーポンが使えるようにして欲しいところだ。

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2020年8月 3日 (月)

箱根へ久しぶりの旅

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区民保養所・箱根つつじ荘

この週末は新宿区の区民保養所である箱根つつじ荘(中強羅)を訪れた。武漢ウイルス禍で3月に奈良を訪問して以来の旅行である。「ステイホーム」「外出自粛」などと強制されると反発したくなるのがへそ曲がりの私の性分だ。他県とは云え箱根くらいなら構わないだろうと、4月、5月と連続してつつじ荘を予約したものの、緊急事態宣言による施設閉鎖で予約確認後に向こうから断られること二度。この間クルーズ船はまったく運航されないし、海外旅行はおろか国内の旅も憚られる雰囲気で退屈極まりなかったのだが、やっと先月中旬に「8月1日からつつじ荘再開」の報せが来た。まあ区営の保養所なら、大手を振って多摩川を超え都内から脱出できると云うもので、東名高速を下るハンドルを持つ手も軽くなる。


他の区では7月中に各地の保養所を再開しているところもあったようだが、ウイルス感染者が第2位の世田谷区をダントツに引き離しているのが我が新宿区である。ようやく再開したばかりのつつじ荘を訪れると、悪名高き新宿区の汚名挽回とばかり厳重な警戒態勢で館内が運営されていることがわかった。もっとも新宿区と云っても毎日ニュースで話題になる「接待を伴う飲食店」などは歌舞伎町や新大久保など区内のごく一画に集中しており、それ以外は当たり前の商店街、オフィス街、住宅街が広がる町である。これらの場所はフツ~の区民にはまず縁のない盛り場であり、新宿区が「悪の巣窟」のように報道されるのはなんとも腹立たしいかぎりだ。


今回つつじ荘は宿泊者を半分くらいに抑え、部屋も一つおきに利用させている。宿泊客が帰ると使った部屋は消毒し、利用していなかった部屋を次に提供する体制だと思われる。もちろん入館する際には手の消毒に体温測定、窓は換気で開いており、館内どこもマスク着用で健康調査書も配られる。食堂のテープルは一つ置きで充分に距離を開けており、これまでセルフサービスだったコーヒーサーバーの扱いやお茶の給湯も、係の人が一々行って宿泊者同士が近づかないようにしていた。このように全館で万全のウイルス対策が施されており、通常にまして安全対策を実行する従業員の苦労が偲ばれた。また普段なら空きがあれば区民以外の他の利用者も受け入れており、駐車場には他県ナンバー車も見られるのだが、今回はさすがに新宿区民地元の「練馬ナンバー」だけの駐車である。それでも久方ぶりに源泉かけ流し硫黄の匂う湯にどっぷりとつかると、旅心が蘇ってきて、早く移動の制限が解除させることを願わずにはいられなかった。

 

2020年6月22日 (月)

高田馬場の決闘

20200622
水稲荷にある堀部武庸 加功遺跡の碑

ジョギングの目的地は先週日曜日は古河庭園だったが、今週は時代を少し遡って高田馬場の跡地に行ってみる事にした。

そもそも山手線の駅の名前がなぜ「高田馬場」というのか子供の頃から不思議だった。たしかに現在の高田馬場駅周辺から東には新宿区や豊島区に「高田」という地名が残っており、これは越後高田氏に関係する土地がかつてこのあたりにあったからとか、神田川を見晴らす高い土地だったらそう名づけられたなどと云われている。この高田の地には江戸時代の初めに徳川将軍家によって馬場が造られ、旗本たちの流鏑馬や馬術の訓練に使用されていたため、山手線開業時(明治43年)に駅名を「高田馬場」にしたとされている。それにしても駅が開業したのは明治も終わりの時代で、馬場はすでに農地や住宅地になって久しかった上、駅の場所は馬場の跡地から1キロ以上も西に位置している。当時、新駅名の候補だった「戸塚」や「諏訪」は他県にあるので見送られたというが、他にも幾らも候補名はあったはずで、最近物議を醸した「高輪ゲートウェイ」のように、JRは旧国鉄時代から奇抜な新駅名を好むのが伝統らしい。
  

スマホのアプリ「大江戸今昔物語」を頼りにジョギングでたどり着いた旧高田馬場跡は、今の早稲田通りの「西早稲田交差点」のあたりにあった。この交差点から早稲田通りに沿ってJR「高田馬場」駅の方向へ約300米、通りの北側幅50米ほどに亘ってかつては馬場が開けていた事がアプリに表示されている。江戸時代はここで行われる馬術や流鏑馬を見に江戸市中から多くの人が集まったので、馬場の北側には八軒のお茶屋が並んでいたと付近の道路票の説明にある。距離的にも市中から程よい行楽の地であったのだろう。しかし今や周囲は鉄筋コンクリートのマンションや住宅、商店などが立ち並び馬場があった往時の面影はまったく見いだせない。かすかに「茶屋町通り」とある道路票と、そこから真っ直ぐに伸びる横丁がここが馬場の北の端であったことを示すのみである。


さて馬場跡より神田川に向かって歩くとすぐにある水稲荷神社の境内には、堀部武庸(堀部安兵衛)加功遺跡碑が立っており、この地での堀部安兵衛の決闘を思い出させてくれる。「高田馬場の決闘」は、1694年(元禄7年)共に四国の伊予西条藩の家臣であった菅野六左衛門と村上庄衛門との間でおこった仲間うちの果し合いである。両名はそれぞれ数名の助っ人を頼んだが、菅野方の中には中山安兵衛(のち堀部安兵衛)が混じっていた。決闘は昼の4ッ半(午前11時)に多くの目が集まる馬場内で行われたとあって、平和な元禄の世では大変なニュースであったはずだ。ちょうどわが家にあった南春夫の歌謡浪曲CD「決闘高田の馬場」にも「これを眺めた大工に左官屋も八百屋も、米屋のおやじも魚屋もそれ行け、やれ行け 安さんが大きな喧嘩をみつけたぞ、今夜はたらふく呑めそうだ、あとからあとからついて行く」と市井の人々の興奮が歌われている。


中山安兵衛は、もともと浪人だったが、その頃は小石川にあった堀内道場の四天王と云われ、各大名屋敷に出張稽古をつけていた云わばプロの剣士であった。高齢のため劣勢とみられた菅野が安兵衛の剣で勝ったと云う結末が江戸市中の評判となり、安兵衛は後に播州赤穂藩の堀部金丸(弥兵衛)に是非にと迎えられて養子に入り赤穂藩士になっている。赤穂藩主・浅野内匠頭による刃傷事件で赤穂浪士の討ち入りが行われるのは、決闘から7年後の元禄14年(1701年)なのだが、吉良上野介を討つことにあまり積極的でなかった総大将の大石内蔵助を最も動かしたのは急進派の堀部安兵衛だったと云われる。もし菅野・村上の決闘が行われなかったら、あるいは高田馬場のような多くの前でなく決闘が他所でなされたら、安兵衛の名声もこれほど広まらず彼も赤穂藩とは無縁だったはずだ。そして彼が赤穂浪士にいなければ討ち入りも行われなかったもしれないとあって、いま「忠臣蔵」と云う劇が存在するのは高田馬場の決闘があった事が大きく影響しているように思う。歴史の織り成すあやをさまざま感じながら、ジョギングして家路についた。

高田馬場跡の案内板、左の道路が茶屋町通り、その左手が馬場跡
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