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2023年6月 4日 (日)

立山黒部アルペンルート(2)と上高地

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ダムの堰堤から下をのぞくと何とも足元がざわざわする黒部ダム

乗り物を乗り継いでやってきた黒部ダム。かつては黒四ダムと呼ばれており、黒部川に造られた4番目のダムだと思っていたが、そうではなく黒部川第4発電所に送る水を貯めるダムで「黒部ダム」というのが正式な名称だそうだ。黒部ダムは1963年に完成し、今でも日本で最も高い堤高(186米)を誇る発電用アーチ型ダムである。ダムの堰堤から下流を覗けば、コンクリートアーチのへこみの為に眼下は完全な空洞、はるか下に黒部川の流れが見えるだけで、足下がゾクゾクするような眺めである。黒四と云えば、1960年代には三船敏郎、石原裕次郎の映画「黒部の太陽」の舞台となるなど、様々なメディアで建設の労苦が報じられたことを思いだす。当時読んだ本では、ダム建設資材運搬用の「日電歩道」の危険なことや、トンネル掘削時に「破砕帯」から大量に出水した模様などが詳しく描かれていたが、その苦闘も今はむかし、こうして簡単に観光ルートの一部として来られることに隔世の感がある。


そういえばあの頃は黒四ダムの他に、戦後初の国産旅客機YS11が1962年に初飛行、同じ年に出光興産の当時世界最大の13万トンタンカー日章丸が竣工するなど、戦後の科学技術の復興を遂げる出来事が相次いだ。極めつけは1964年の「夢の超特急」東海道新幹線の開通で、日本はこれから益々発展するのだという高揚感が子供心にも伝わってきた時代であった。こうした高度成長を背景に、旺盛になる一方の電力需要を満たすため、戦前からの念願だった黒部川にこの大規模なダムが建設されたのだが、かつては「水主火従」と云われた水力発電も、現在の我が国の電力事情では供給の8%を占めるのみだという。発電と云えば、地球温暖化の原因は本当は何も分かっていないのにも関わらず、CO2削減が急務だとする利権ビジネスが世界を席捲して、日本全国の海岸べりや丘陵に何とも異様な風力発電の風車が立ち並ぶようになった。さらにシナ利権にどっぷりつかった太陽光パネルが日本の野山を覆っているのだが、これら環境破壊の設備を見るたびに不愉快な気持ちにさせられるのが常である。豊富で安価な電力は産業の基盤。怪しげな利権に乗じた世界の動向に惑わされず、原子力発電やわが国が誇る省エネの石炭火力発電、水力発電など従来型の発電施設のさらなる開発や活用がならないものか、総貯水量2億トンの雪解け水を貯えたダム湖面を見ながら、電源開発に思いを巡らす。


こうして50年ぶりの立山黒部アルペンルートを過ぎ、扇沢からは再び「びゅう」の観光バスに乗車。JR信濃大町駅で立山駅で預けた手荷物をピックアップして、一行は一路安曇野をその夜の宿舎の穂高ビューホテルへやってきた。名前の通りここからは穂高岳連峰の景色が楽しめるのかと思いきや、フロントで尋ねると「ここからは穂高は見えないんです。近くの明神岳の上の方がちょっと・・・・」と残念な答えが返って来る。しかし今の天皇陛下が皇太子時代にも宿泊されたホテルは、芝生の庭も美しい高原リゾートで、洋食フルコースの後は河鹿の声に包まれた露天風呂の温泉に浸かり、2晩目もゆっくり休息をとることが出来た。翌日は貸し切りバスで、釜トンネルを抜けて40年ぶりの上高地へ。上高地は自家用車の乗り入れは禁止である。若い頃、連休中に東京から自家用車で来て、上高地から登山したことがあった。乗り入れ禁止のため釜トンネル手前の駐車場を利用しようと思ったが、どこも満杯で止む無く多くのクルマが縦列駐車している国道に自分の車を停めて穂高に登ったのであった。3日後に下山して来ると観光地散策だけの他の車はみなとっくに出発しており、トンネル前の山道にポツンと我がクルマ一台だけが故障車のように駐まっていた。よく狭い国道に3日間も違法駐車して違反のステッカーを貼られなかったものだと冷や汗をかいたことがあったが、ここには貸し切りバスで来るのが一番ラクだ。


この日は午後から雨予報の天気も何とか曇り空で、久しぶりの上高地では大正池から明神まで徒歩10キロ、約2万歩の散策を楽しむことができた。上高地の中心地、河童橋からは岳沢を前面にして標高3190米の奥穂高岳が聳え立ち、右に目を転じれば吊り尾根から前穂高岳(3090米)、左にジャンダルムから西穂高岳(2909米)と、かつて憧れて登った懐かしい峰々が連なるのを見る事ができる。穂高山行は小屋泊まりだったが、そういえばあの当時使ったコンロやコッヘルはもう捨ててしまったのか、どこかの押し入れにまだ眠っているのかなどと急に気になってくる。時々参加した会社のハイキング部には大学時代に山岳部に属しヒマラヤ遠征に参加した猛者もいたが、彼らはいったい今どうしているのだろうか、懐かしい場所に来ると懐かしい山の友人の顔を思いだすものだ。戸田豊鉄作詞・作曲「山の友よ」の「友をしのんで仰ぐ雲」と歌詞を口ずさみながら、こうしてステップも軽く妻と二人で久々の梓川沿いの遊歩道を歩くことができた。本格的な登山はもうやりたくないが、次は若い頃に何度か訪れた尾瀬に行ってみようと思いつつ、上高地バスターミナルで待つ観光バスに戻った。

焼岳と大正池
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2023年6月 1日 (木)

立山黒部アルペンルート(1)

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雪の大谷

今回の”びゅう”団体ツアーは総勢25名。シニア男性1人参加が2組、3人の家族連れが1組、残り20名は夫婦らしきシニアカップルが10組である。乗り物に頼るとはいえ、一応立山連峰の中腹まで行って雪面を歩き、上高地は主に徒歩での移動のため、さすがに足許が覚束ないような参加者はいない。装備もほとんどの人が軽登山靴やトレッキングシューズを履き、山用のストック持参者もいて皆一応それらしい恰好であった。私たちは街中で履くウオーキングシューズで参加しており、一同の中では最も軽装の部類だったが、雪上歩行ならきわめて容易に着脱が可能な簡易アイゼンは持参している。また若い頃、上高地から奥穂高岳などに登ったこともあったので、天気さえ良ければ上高地も明神池くらいまでなら町歩きのカジュアルシューズで十分だろうと考えて、重い靴は履かなかった。ただ私のような楽観主義者にもし何か事があれば「そら見たことか、中高年のくせに体力を過信している」とか「山を軽く見た」と云われるから、そこは天気予報などを見て判断する必要がある。幸い今回の旅も天候に恵まれて、結果はこれで十分、改めて簡易アイゼンの効果も確認できた。


団体旅行と云えば、部屋割りの都合や新幹線の席での、運・不運もある。新幹線ではブロックで団体分の指定を受けるので、カップルで参加しても2人掛け席でなく、3人掛けシートの窓側と窮屈な真中に座ることとなり、通路側に1人別の参加者が来る時もある。往路から車中飲むビールによる利尿効果で夫婦2人してトイレが近い時には、この席の配置はちょっと困る。ホテルや旅館の部屋もブロックで割り当てられるため、たまたまエレベーターから遠かったり、同じフロアーでもグレードが低かったり、景色の良くない部屋に案内されたりする不運もままある。しかし今回は最初の宿である立山国際ホテルでは、逆に他の同行者より1段グレードの高い広い部屋に案内されるという幸運に恵まれた。つるつると滑る立山山麓温泉に浸かり、リビングとベッドルームがセパレートされる広い部屋で却って身の置き所に困りつつもぐっすり眠って、翌日の立山黒部アルペンルート旅行に備えることができたのは良かった。その上、この旅行ではアルペンルートに持参する携行品以外の荷物は、ホテルのロビーからルート終点の信濃大町駅前まで運んでくれるサービスがついており、何回もの乗り換えや散策の際に手荷物に患わされることも一切ない。とにかく団体旅行は、集合時間さえ守っていれば自動的に目的地に連れて行ってくれるから、楽な事この上ない。


よく知られているように立山黒部アルペンルートは、富山地鉄の立山駅から(標高475米)まず立山ケーブルカーで美女平(標高977米)に、美女平から立山高原バスで最高地点の室堂(標高2450米)に上る。下りは立山トンネルバス(トロリーバス)で立山の下を縦貫し大観峰(標高2316米)に出て、次はロープウエイで標高1828米の黒部平に、そこから再びケーブルカーに乗って1455米の黒部湖に到着、黒部ダム( かつてはクロヨンダムだったが今は黒部ダムというらしい )を徒歩で亘り、最後はトンネルバス(電気バス)で標高1433米の扇沢に至る37キロあまり、高低差1975米の山岳観光ルート(反対方向のルートも可)である。これに両端の富山駅から立山駅間の富山地方鉄道(34キロ)、扇沢からJR信濃大町駅間の路線バス(18キロ)を加えると全長は89キロとなり、乗車時間だけで正味3時間以上、途中の乗り換え時間や休憩時間を含めると、まる1日近くかかる大規模なシステムである。立山駅から扇沢までは直線にして25キロ足らずなので、観光目的でここに自動車道路を造る計画も当初はあったそうだが、環境保護の為、現在の多くの交通機関を使う方式になったという。もしマイカーでさっさと通り抜けられる形にしたならば、こうまで多くの観光客を集めなかったであろうし、ここで働く人々の雇用も産まなかったであろうから、管理修繕費用はかかるがこの方式は成功に違いない。尚、個人旅行であれば立山黒部アルペンルートの富山~信濃大町間で総運賃1万3820円、中心部分の立山~扇沢間で1万940円である。


多くの観光客でにぎわう室堂に来るとパンフレットで有名な雪の壁、雪の大谷が道路の両側に聳え立っていた。春先は壁は最高20米にもなるが、現在は11米ほどで、これも夏になるに従いもっと融けて低くなるそうだ。ここでは中国語や朝鮮語も聞こえて海外の人たちも多いことがわかる。雪の斜面では、山スキーを楽しむ人たちがスキーを担いで登っていく姿が見える。室堂のバスターミナルを降りた後は、雪道を簡易アイゼンをつけてみくりが池まで散策し、その後は雪上のオープンカフェ「立山ユキテラス」で缶コーヒーで一休み。高度2400米余り、眼前に広がる山の景色をゆったり眺めコーヒーを飲みながら春風に吹かれていると、ここはツエルマットか、という気分になってくる。仰ぎみれば立山の標高2700米にある一の越山荘や、雄山(3003米)山頂の立山神社社務所が稜線にくっきりと姿を現し、にわかに山心が刺激されて、斜面を登りたくなってきた。そういえば若い頃は当時の若者の常で山に憧れたもので、休暇を取って幾つかの名山に挑んだことを思い出した。だがやはりアルピニストへの憧憬だけで山行も終わり、いつしか都会生活に埋もれてしまったのが我が来し方である。そんなことを考えていたら、突如 「♯♫ 朝日にきらめく新雪踏んで、今日も行こうよあの嶺こえて♭♯」 の「 雪山賛歌 」の歌詞が頭に浮かんで来た。海も良いが山も良い!

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立山ユキテラスにて缶コーヒーを飲んで一休み

2023年5月29日 (月)

黒部峡谷鉄道 トロッコ電車

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スリル満点の車窓

飛鳥Ⅱクルーズの翌週は「人気観光地が目白押し!黒部峡谷トロッコ電車・立山黒部アルペンルート・上高地を1日1か所ずつめぐる充実3日間」の旅に行って来た。このところ毎週毎週遊びで忙しい。今回の旅はJR東日本系の”びゅう”が主催する添乗員付き団体旅行(2泊)である。かねてより一度乗りたいと思っていた黒部のトロッコ電車に乗車し、私にとっては50年ぶりとなるアルペンルートと、40年ぶりの上高地を一挙に効率よく回ってくれる旅という事で参加したものである。旅の初日は、一同25名+添乗員の計26名で東京地区から北陸新幹線に乗り黒部宇奈月温泉駅で下車、観光バスで黒部峡谷鉄道の始発駅・宇奈月駅に行き、黒部峡谷トロッコ電車に乗車する日程である。やって来た宇奈月は富山から伸びる富山地方鉄道の終着駅で、地鉄の宇奈月温泉駅ターミナルに隣接してトロッコ列車の基地が拡がり、その山側に黒部峡谷鉄道の宇奈月駅があった。宇奈月から黒部川の渓谷に沿って上流の欅平までの20.1キロ、大正時代末期から昭和初期~戦前にかけて、電源開発のダム資材輸送のために762ミリのナローゲージで敷設されたのが黒部峡谷鉄道である。同鉄道は1953年に地方鉄道の免許を得て観光輸送にも乗り出し、冬季以外に運転されるトロッコ列車が有名になったが、鉄路はまだ資材の輸送にも使われており、会社は関西電力の完全子会社になっている。


1時間に1本ほどの間隔で運転されるトロッコ電車(本当は電気機関車牽引なのでトロッコ列車というべきだが、同鉄道のホームページには「トロッコ電車」とあるためここでも電車とする)は、直流600ボルトの動力源によって運転される。ここでは主に日立製作所製のEDR型と呼ばれる全長7米弱の直流電気機関車により、10両余り(乗客の波動で客車の編成両数は変化するようだ)の客車が牽引されて渓谷に沿った鉄路を登り下りしている。重連総括制御の電気機関車は抑速にエアの他に発電ブレーキを使用、常に列車の先頭に立つプル牽引運転で、標高223米の宇奈月駅から599米の欅平まで、アプト式などではなく粘着方式の運転である。主力のEDR型の他に、粘着性能に優れたインバータ制御・交流モーターのEDV型という新鋭機関車(川重製)もあり、こちらは回生ブレーキを装備しているとのこと。いずれの機関車も台車には空転防止対策のとても大きな砂まき装置が目立つ。客車はオープンタイプのトロッコ車両と、客席がエンクローズされるリラックス客車(こちらは追加料金が必要)の2種類があり、定員は1両20名~30名、いずれも全長は7米強のボギー車両でアルナ工機製であった。編成後尾はボハフ呼ばれる客車で、多分ボはボギー車、ハは普通車、フは手ブレーキ装着を指していると思われ、最後尾には車掌が乗務している。アルナ工機と云えば路面電車の製造が得意であり、かつ関西私鉄の雄である阪急電鉄の子会社であることを考えると、こちら関西電力の完全子会社でナローゲージ鉄道の車両にはアルナ工機製が打ってつけという感じもする。全線単線の運転だが、安全を担保する信号系統は、ATSのようなシステムが構築されているようで、軌道内には地上子が置かれていた。


この鉄道は、旧国鉄の東京起点による列車分類方法を踏襲しているらしく、終点の欅平に登るのが下り列車、起点の宇奈月に下るのが上り列車となっているのが面白い。トロッコ車両に乗車して宇奈月駅を出発すると、車内は地元富山県出身の女優室井滋さんの解説放送が流れ、沿線の様子や鉄道の沿革が分かるようになっていた。黒部峡谷のV字谷に沿って山あり谷ありダムありで、トンネルや橋梁の連続する線路の周囲は、インディジョーンズの映画に出てくるかのスリル溢れる光景が展開する。急カーブの度に車輪とレールの擦れる”キーキー”という摩擦音を派手に響かせつつ、「電車」は最高でも時速25キロ程度で急峻な崖沿いにゆったりと走った。乗車して約1時間、我々”びゅう”団体客は、なぜか終点の欅平まで行かず、2.6キロ手前の鐘釣駅で下車して、黒部川対岸の万年雪の雪渓を眺め、河原の露天風呂付近を散策したが、見るとクラツーなど他の団体も皆ここで降りている。多分終点の欅平まで行くと時間がかかるので、日程管理のために団体客は皆がここで折り返すことになっているようだ。どうせなら終点まで行ってみたいところだが、このあたりが自由の効かない団体旅行の辛いところである。鉄オタの為に、本鉄道に関するより詳しい技術的な資料や展示、説明パンフレットが欲しかったが、そんな客はごく少数だろうからこれまた仕方がない。釣鐘駅より「下りの上り列車」で宇奈月まで戻ってくると総時間は4時間余り、冒険心が刺激される峡谷鉄道の旅であった。天気も順調でこうして旅が始まった。

最新の電機EDV型と途中駅で列車交換
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2023年4月12日 (水)

東北鉄道旅 (補遺編)

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ラッセル車用の雪かき警表 

「海里」や「ツガルツナガル」など座席指定制の列車は別として、鉄道の旅ではなるべく運転台の後ろ「かぶりつき」に立って、列車の前面展望を楽しむことにしている。ローカル線のワンマン運転の列車で、都会ではあまりない運転士の運賃収受業務などを見るのは旅の楽しみの一つだ。また地方によっては線路際に立つ鉄道標識が独特で、この地区ではどういうことが列車運行上に注意すべき点なのか分かるのも面白い。今回は奥羽本線で、黄色の正方形が上下に並んだ写真のような標識が線路際に立っているのをしばしば目にしたが、これは今までの鉄道の旅で見なかったもので一体なんであろうか? 「ツガルツナガル」の折り返し駅である弘前駅でホームに立っていた駅長さんにこの標識が示す意味を尋ねると、「私も良く分からないので運転士に聞いてみましょう」と「弘前へようこそ」の歓迎横断幕を持ってホームに出ていた女性運転士のところへ連れて行ってくれた。


彼女曰く「自分は電車の運転士などで直接関係ないが、あれはラッセル車のための標識です」とのことである。ポールの上に掲げられた黄色の◇の標識は、線路際の雪をどけるためにラッセル車から左右に広げたウイングをここで畳め、下の□は軌道内の雪をかくためのフランジャーをここで上げろという意味で、トンネルの入り口や踏切、線路の分岐器などの手前に設置されているそうだ。雪かき中にウイングやフランジャーをそのままにして走ると、ウイングがトンネルの壁に当たったり、フランジャーが施設を破損させたりするので、それを防ぐために掲示されているとの事である。なるほどこれは雪国ならでは標識で、鉄道防雪林などと同様に首都圏ではまず見ることがない。70歳を越えても、旅に出ると初めて見聞きするものが沢山あるものだ。


弘前駅で「ツガルツナガル」の折り返し時間を利用して訪問した黒石市のB級グルメ、「黒石やきそば」も今回の旅の思い出である。もともとここ黒石ではうどん用の乾麺をゆでて醤油で炒めて食べていたが、戦後、中国人から支那そばが伝わり、乾麺用のカッターを使った太いそばにソースを絡めたところ、これがなかなかいけると評判になったそうだ。これに和風のそばつゆをかけたのが、黒石名物の「つゆやきそば」で、ソース焼きそばに日本そばのたれをかけて食べるのがなんともユニークである。「つゆやきそば」の起源としては昭和30年代、町の食堂で冷えた焼きそばにつゆをかけて温かくしたメニューが評判になったという説や、同じ食堂で麵だけでは腹持ちが悪いためにつゆをかけたら良かったなどの諸説あるそうだ。我々夫婦は、つゆ有りとつゆ無しを一つづつ注文したが、無い方はきわめてシンプルなふつうの焼きそば、つゆ有りの焼きそばは、まさにふつうのそばつゆ(関東風の醤油味)にソース麺を入れた味で、共にあっさりした味であった。


「海里」の終着駅である酒田は、これまで人口10万人のごく普通の東北の一都市、あるいは火力発電の基地くらいの認識しかなかった。今回、列車待ちの約2時間に駅前の観光案内所が無料で貸し出していた自転車で街をぐるっと回ってみると、江戸時代はここは「西の堺、東の酒田」と呼ばれた大変な商都、港町であったことを知り驚いた。酒田は地域の水運の要であった最上川と海上輸送の結節点にあり、東回りと西回り両方の北前船発航の港として発展したとのこと。「五月雨を集めて早し最上川」と詠まれたことから、最上川は急流のイメージがあったのだが、実際に見る川は庄内平野を悠々と流れる大河である。内陸から川舟で運ばれてきた米や紅花を北前船に積み換え、各地の着物や工芸品、美術品を荷揚げしたのが酒田で、自転車で訪れた山居倉庫や、日和山公園にある北前船のレプリカなどから当時の繁栄ぶりがうかがえる。日本の港町をクルーズ船や列車で巡ると北前船の津(港)から発展した場所が多いことが分かり、北前船のことをもっと知りたいという気持ちも湧いてくる。「だったら次は酒田発新潟行きの上り『海里』をからめて旅を企画しちゃおうかな?イタリアン弁当も食べてみたいから」と妻が横で笑っている。


現存する洋式の木造六角灯台として日本最古の貴重な日和山公園灯台(旧酒田宮之浦灯台)
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酒田の山居倉庫 米を約1万トン収納できた。収納された米に対しては倉荷証券が出され、これは有価証券として流通可能であった。
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2023年2月20日 (月)

氷見ブリと「べるもんた」(2)

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新高岡駅の「べるもんた」

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世界広しと云えども隋一の景色との富山湾 海越しに3千米級の急峻(立山連峰)が立ち上げるのかここだけとか

旅の2日目のハイライトは、JR西日本の”ベル・モンターニュ・エ・メール”乗車だ。”ベル・モンタ―ニュ・エ・メール”は原語フランス語では"Belles montagnes et mer"で、Bellesは美しい、montagnesは山々、etは英語のand、merは海の意味である。富山県の美しい山々や海を楽しむ観光列車ということで名前がつけられたが、列車の愛称にしては少々凝りすぎと思われ、通称「べるもんた」号と呼ばれている。2015年4月に東京から金沢まで北陸新幹線が延伸したことをうけ、同年10月から高岡駅または新幹線の新高岡駅を起点に、砺波平野を南下する城端線(じょうはな線)と、富山湾に向かい北上する氷見線で「べるもんた」の週末限定の運転が開始され、以来人気の観光列車になっている。


新幹線開業により、富山県内の在来の北陸本線は第三セクターの「あいの風とやま鉄道」となったため、北陸本線高岡駅を起点としていたJRの氷見線と城端線は、在来のJR線との接続点がない離れ小島の孤立路線となり、従来より一層厳しい経営状態に直面することになった。もっとも沿線は砺波平野のチューリップ、瑞泉寺や五箇山、雄大な立山連峰遠望や富山湾の絶景などの観光資源が盛りだくさん。そこで新幹線の延伸と相まってこれを増収に活かさない手はないと、「 べるもんた」の運転が始められたそうだ。キハ40を改造しダークグリーンに塗られた観光列車(単行一両編成)は土曜日が高岡駅から新高岡駅経由で城端線(高岡駅~城端駅29.9キロ)を、日曜日は氷見線(高岡駅~氷見駅16.5キロ)+高岡駅/新高岡駅(城端線1.8キロ)(合計18.3キロ)間で各々1日に2往復運転されている。尚、この列車に乗るには、通常の乗車券以外に城端線運行でも氷見線運行でも指定料金530円が必要である。

我々は昨年7月に同列車の城端線部分に乗ったが(瑞泉寺・五箇山合掌造り・”ベル・モンタ―ニュ・エ・メール”)、今回は寒ブリ喰いたさに富山に来たところ、幸運にも日曜日の午前中に氷見駅から新高岡駅間を運転する「べるもんた2号」のチケットをとることができた。昨年城端駅から乗車した際は、暑さのため車内で出されるご当地クラフトビールがまさかの売り切れという、我々によっては大きな災難に見舞われたので、今回はリベンジの意味もあり、乗車前は氷見市内をゆっくりとジョギングで観光し、十分汗も出してビールを楽しみに乗車に備えることにした。


再度乗車することになった「べるもんた」号だが、車両はこの地方の景色を楽しむために、大きな窓は額縁調にデザインされており、吊り革は高岡の銅器をイメージ、座席の仕切り版は井波彫刻の作品と、沿線の伝統工芸品が前面に押し出された意匠である。列車は一両編成なので車内に厨房スペースこそないが、氷見寄りの車端には寿司やつまみを準備する寿司カウンターが設けられており、「白エビと紅ズワイ蟹のお造り」を肴に、前に飲みそこなった「はかまビール」「麦やビール」と銘打たれた城端の特産ペールエールを楽しむ。「海越しに3000米級の山々を見られるのは世界でもここだけ」とガイドの説明を聞き立山連峰の車窓風景を楽しむうち、列車はあっという間に高岡へ到着。高岡駅では、氷見線の7番ホームから新高岡駅に向かう城端線の2番ホームまで14か所のポイントを通過して進行方向を変える小さなアトラクションも楽しめるが、それにしても乗車時間が短いのがちょっと残念である(氷見駅~高岡駅なら31分、氷見駅~新高岡駅は1時間5分)。せっかくの観光列車なのだから、氷見から城端線の城端駅までを乗り通す便があっても良さそうなものだというのが2回乗車した感想である。

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富山湾をバックに地元ビールに白エビと紅ズワイ蟹のお造り

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高岡駅では合計14のポイントを通過し氷見線から城端線へ移動

2023年2月16日 (木)

氷見ブリと「べるもんた」(1)

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寒ブリなら氷見、氷見駅前のモニュメント

かつて鰤(ブリ)にはあまり興味はなかったが、数年前に富山県高岡市に出張に行った際、接待がてら車で訪れた氷見市の寿司屋で食べた冬場の鰤のナント美味しかったことか。ふだん東京で食べる鰤と違って脂の載った切り身は、マグロの中トロより美味いと思う味と食感であった。帰って妻にそのことを話すと、「あなたがあまり鰤は好きじゃないと言うから段々買わなくなったけど鰤はかなり好きな部類」と彼女のブリ愛が復活し、以来どこかに旅行しようかと言うと「寒ブリを食べに行きたい」というのが妻の口癖となっていた。ということで、飛鳥Ⅱのオセアニアクルーズが中止になり、代わりに国内の旅をバンバン行こうと決めた第一弾は、まず「寒ブリを食べに行く」ことに決定である。


寒ブリといえば富山、富山のブリといえばやはり氷見漁港だと、今回の旅の目的地は氷見にすることにした。幸運なことに、泊まった翌日に氷見駅から新高岡駅まで運転される、観光列車”ベル・モンターニュ・エ・メール”(通称べるもんた)のカウンター席の予約もできたので、宿泊は氷見駅にほど近いビジネスホテル風の宿を予約した。かつては町の旅館だった家族経営のこのホテルは、併設の居酒屋で、お造りと幻の氷見牛、腰の強い氷見うどんがついた「氷見の食材が満載の氷見尽くし膳が味わえる」とする料理長お薦めのプランを楽しめる。ただ予約した際に尋ねると、氷見の寒ブリは今年は1月半ばで終了宣言が出てしまったため手に入りづらく、追加を払ってもお造りで出せるかは運次第ということで、その運に賭けることにして出発。


氷見は能登半島の東側、富山湾の付け根に位置する。日本海に大きく突き出た能登半島があることによって、南から来た暖流が廻り込んで湾内に入るとともに、北からの寒流もここで転流したうえ、海底の地形も影響して富山湾は天然の生け簀と云われるほどの好漁場になっている。氷見では一旦網に入った魚が容易に逃げないよう、網に工夫をこらした「越中式ぶり落とし網」と呼ばれる定置網漁が盛んで、一定の重さ以上の脂の乗ったブリが安定して水揚げされるようになると、漁協や生産者などで構成される「氷見魚ブランド対策協議会」が「ひみ寒ぶり宣言」を発令するのだそうだ。「ひみ寒ぶり」に認定されたブリは1本につき1枚「販売証明書」が発行され、市場に出回るのだが、それが今年は1月半ばで終わってしまったというから残念である。


東京から北陸新幹線で2時間半、新高岡駅で氷見線に乗り換えて30分で到着した氷見は、人口4万4千人の静かな町であった。訪れた日は祝日の土曜日ということもあり、表通りのほとんどの店はシャッターが下りて町は閑散としていたが、大きな寺や神社が多く、古くから開けた場所という風情が街に漂っていた。市の中心部を散歩しお腹をすかせて食べた「氷見尽くし膳」は、思ったより大きな氷見牛スライスのしゃぶしゃぶに、氷見うどんを堪能できたのだが、やはり肝心の寒ブリがなかったことは返す返す返すも残念なところ。ただ翌日、”べるもんた”車内で地元ガイドの、「今年は氷見ブリが早く終わったようだが、食べられた方はいますか?」の質問に、乗り合わせた全員が「いいえー」と声を揃えたので、自分たちだけだけでなくこの時期は誰もがダメだったことが分かってちょっと納得できた。妻は「来年は東京に来た氷見の寒ブリを値段にかかわらずどうしてでも食べる、新幹線代や宿泊費もかからないし」と帰ってからも息巻いている。(続く)

氷見づくし膳
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氷見の商店街
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2023年1月 5日 (木)

「津軽鉄道・ストーブ列車」と津軽海峡を望む天然温泉「ホテル竜飛」その2

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鶴の舞橋と上半分が雲に覆われた岩木山

明けて2023年元旦の朝である。竜飛岬は相変わらず風が強いものの、天気予報に反して海峡には薄日も漏れ対岸の北海道も良く見える。当初の予報より天気が崩れるのが遅くなって夜半から吹雪になると云うから、この日に予定する観光は雪に見舞わることもなさそうだ。天気は覚悟して来たものの、これは春から縁起が良いや、皆の日ごろの心がけの賜物だと空を見上げて一同で喜んだ。9時前に宿を出発し、観光バスに2時間ほど揺られて着いたのが、津軽平野に鎮座する高山稲荷神社であった。高山稲荷は鎌倉~室町時代に創建された当地きっての神社で、五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の神様とされるそうだ。それでも東京近辺の寺社仏閣に比べると人出も少なく、まずは落ち着いた元日の初詣となった。次に立ち寄ったのが、大きな溜池である津軽富士見湖にかかる鶴の舞橋という太鼓橋であった。この橋は長さ300米の日本一長い木造三連橋で、地元青森特産のヒバの木でできており、名山である岩木山をバックに湖面には丹頂鶴が見られる景勝の地である。残念ながらこの日は鶴は見られなかったし岩木山も半分雲に隠れ、せっかく来たので向う岸まで渡ったものの、寒さもつのり皆は早々にバスに戻っていった。


五所川原駅近くのホテルで郷土料理「ホタテ貝焼き味噌」の昼食をとったあとは、いよいよ津軽鉄道のストーブ列車に乗車となる。津軽鉄道は津軽平野の中央に位置する五所川原から北に向かって中里駅までの20.7キロを結ぶ非電化単線のローカル私鉄で、津軽平野北部の開発と津軽半島環状鉄道の敷設促進のために地元有志が資金を出し合い昭和の初期に開通したとのこと。途中の金木駅で駅員が丸い輪のタブレットキャリアーを駅務室に運んでいるのを見てタイムスリップした気分になったが、ここはいまだに非自動閉塞でタブレットやスタフで鉄路の安全を確保している。ウイルス騒ぎが始まって以来、海外旅行に行けない分、国内ローカル線の旅が増えたが、鉄道の旅を通じて明治の末から大正、昭和にかけて日本中どこでも鉄道誘致、鉄道建設運動が盛んだったことを改めて思い知らされた。その後、国鉄に買いあげられた鉄道、はたまた私鉄のまま残った鉄道が、それぞれそのインフラを現在にどう活用しているのか、安全輸送と経済性にどう折り合いをつけるのか、ローカル列車に乗る度に、もしこの線路を自分で経営(運営)したら何をするだろうかと考えるのが楽しみになった。


JR津軽線も昨年の大雨で線路が決壊し、復旧に多額の費用かかるため廃止する方向に入ったと報じられている。ここ津軽鉄道も赤字に悩んでいるが、車両の更新ができないことを逆手にとって、昔ながらの石炭炊きのダルマストーブを旧型客車に載せたストーブ列車を観光の目玉にしている。ストーブ列車は12月1日から3月31日の間に一日3往復運転され運賃の他に500円の列車券が必要だが、この日は満席で海外からの観光客もちらほら見うけられた。津軽鉄道は夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車を運転して観光収入を得ており、地方私鉄の必死の生き残り策を肌で感じるかの乗車体験である。車内では日本酒(350円)にスルメ(700円)が販売され、観光ガイドのおばちゃんが買ったスルメをダルマストーブで焼いてくれる。おばちゃんは2枚重ねにした軍手でストーブの上に置いた金網に、スルメをぐいぐい押し当てて素早く焼き上げ、みるみる車内はスルメ香が充満してくる。金木駅近辺にある太宰治の生家を遠望しつつ、津軽平野の雪景色を眺めながら日本酒片手に食べるこのスルメのなんと美味いこと。ついお酒も進んでしまったが、ほぼすべての乗客がスルメと日本酒を買い求めているようで、ストーブ列車の企画も大受けのようだ。


この日は地元乗客のための気動車2両が動力源となり、牽引される「オハ46 2」と「オハフ33 1」の2両がストーブ付き客車で、我々団体一同は「オハ46」に座席が指定されていた。Wikipediaによると乗車した「オハ46 2」のタネ車は、1954(昭和29)年製造の旧国鉄「オハ46 2612」だそうで、1983年に津軽鉄道に譲渡されたとのこと。さらにネットでいろいろ調べていくと、この「オハ46 2612」は元々は「スハ43 612」として戦後復興期に急行型客車の体質改善のために作られた車両であり、のちに軽量化改造と電気暖房設備を設置してオハ46の2000番台を名乗るようになったとされる。とすると元来この車両には暖房設備があるはずなのだが、津軽鉄道では牽引する側のディーゼル機関車や気動車に暖房用の電源供給設備がないため、やむなくダルマストーブを積んでストーブ列車にしたようだ。苦肉の策が却って大当たりとなって、今では観光の目玉になっているのだから世の中わからないものだ。その「オハ46 2」の車内はさすがにくたびれており、アルミサッシの窓(アルミサッシ化は国鉄時代なのか津軽鉄道でなされたのか不明)からは隙間風がビュービューと吹き込んで来る上、どこからかわからないが細かい雪まで入り込んで舞っていた。スルメを焼いていたおばちゃんは「吹雪の時はもっと吹き込んで来るよ~」と津軽弁で説明してくれた。


期待して乗車したストーブ列車だったが、旧型客車のノスタルジーを望んで乗車した私のような鉄オタにはやや不満も感じた。旧型客車の座席モケットと云えば濃青色のはずがピンク系の生地に張り替えられ、それもあちこちにツギが当たっている。客車特有の高いアーチ天井は良いが、照明は電球用の台座に丸い蛍光灯が裸で収まっているし、かつて扇風機が据え付けれていた台座も、意味不明の照明が設置されているのが何とも興ざめだ。客車列車というとバネ下重量が軽く軽快な走行音を聞くのが楽しみだが、かつては評判の良かったTR47系の台車も、ローカル鉄道の路盤状況では乗り心地を楽しむ術もなくガタンガタンと揺れが激しい。せっかく現役で走る貴重な旧型客車である。500円の乗車料金を1000円にしても良いし、寄付やらクラウドファンディングで資金を集めても良いから、動態保存の意味でもオリジナル状態への復元やメインテナンスに力を入れて欲しいところだ。団体旅行の悲しさ、もう一両の「オハフ33 1」をゆっくり見る時間がなかったのが残念だが、津軽鉄道は我々のようなオタクの為に車両の来歴を披露する説明や掲示も欲しいと思った。終点の中里駅で津軽鉄道を降りる頃から雪が強くなり、竜飛岬に戻るころは外は吹雪であった。津軽海峡冬景色、地元神社への初詣、岩木山に太鼓橋、ストーブ列車と印象的な2023年の正月休みであった。(了)

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天井の蛍光灯と扇風機跡が無粋なオハ46 2

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 地元案内のおばちゃんは軍手2枚履きで焼き網にスルメを押し付け素早く焼き上げる

2023年1月 4日 (水)

「津軽鉄道・ストーブ列車」と津軽海峡を望む天然温泉「ホテル竜飛」その1

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北海道を対岸にする竜飛岬

元旦を挟んで大晦日から1月2日までの2泊3日で、JR東日本の団体旅行びゅうによる「冬の風物詩『津軽鉄道・ストーブ列車』と津軽海峡を望む天然温泉『ホテル竜飛』」に参加して来た。妻とその母、妻の妹と大学生の娘(姪)の老若女性4人と爺さん1人の5人組である。男兄弟で育ち高校は男子校、大学はクラスも部活も男だけ、就職先も男性主体の産業と若い頃は男性中心の社会で生きてきたが、歳をとればとる程どうやら女性の渦の中に巻き込まれて生きることになりそうだ。人生わからないものだ。さて人に話せばこの寒いのに何を好き好んで正月休みをそんな本州の北端で過ごすのかと笑われそうだが、このツアーは同じ宿に連泊し雪を見ながらゆっくりと温泉に浸かり、元日は初詣も出来る上に変わった鉄道に乗れるという旅程になっている。こんな企画旅行にのらなければ竜飛崎などは2度と行けない場所なので、この際思い切って訪問するのも良かろうと皆で参加することにした。


とは云え強風で名高い竜飛岬である。石川さゆりも「津軽海峡冬景色」で「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと見知らぬ人が指をさす (中略)さよならあなた私は帰ります、風の音が胸をゆする泣けとばかりに」と歌っている。ましてや青森県津軽地方の正月の天気予報は、強い寒気の襲来で吹雪になると告げる。厚手のコートにスキー用の帽子と手袋を着用し、凍った道でも滑らないように靴に装着するスパイク付滑り止めを持ち、妻は2016年に飛鳥Ⅱで行った南極クルーズで支給された防寒パルカを着こんだ完全防備で出発することにした。東京から東北新幹線”はやぶさ”に乗って3時間半、到着した最寄の奥津軽いまべつ駅は、あたり一面真っ白な雪に覆われたローカルな景色の中にポツンと佇んでいた。ここから貸し切りバスに1時間ほど揺られて着いた竜飛岬は、にび色にうねる津軽海峡をはさんで北海道の渡島半島の山々を望む半島の突端に位置していた。因みに正式にはこの地の名前は「竜飛」でも「龍飛」でもどちらでも良いそうで、観光用には画数の多い「龍飛」を使うそうだ。


やや高台に位置する岬には我々が宿泊するホテルの他には灯台と「津軽海峡冬景色」の歌碑があるだけで、この時期は我々のような団体客以外の観光客はまれにしか訪れない寂しい場所であった。歌にあるように竜飛といえば風の名所だと観光バスの地元ガイドさんも言っていたが、この日は立っているのも困難なほどの突風が時々吹き抜け、まさに地の果てという情景がひろがる。ただ歌碑の前にある赤いボタンを押すと「♯ごらんあれが竜飛岬♭」と石川さゆりの歌が大音量で聞こえる仕組みになっていて、夏場にはここが観光名所であることを示していた。その岬近くにただ一軒建っている宿が2晩泊まる「ホテル竜飛」であった。津軽半島の先端部には他に適当な宿泊施設がないのか、大晦日から元旦にかけては我々JR東日本びゅうのほかに、JTBとクラブツーリズムの大手御三家のツアーが揃い踏みになってホテルの中だけは大賑わい。宿は人出が足りない様子で、働いている外国人男性はネパールから来たとのこと。突風をついて歌碑や灯台を散策し冷え切った体には、竜飛温泉の塩泉がとても気持ち良かった。こうして吹き荒れる風の音を窓外に聞き、津軽海峡の荒海を眼下にしながら大晦日は暮れていった。


津軽海峡冬景色の歌碑
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2022年11月16日 (水)

飛鳥Ⅱ のんびり秋旅クルーズ(続2/2)姫路城

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「飛鳥Ⅱ のんびり秋旅クルーズ」を高松で下船し、金毘羅参りをした後は、姫路城を見物し新幹線で帰京する予定で、JR線の乗車券だけは旅の前に購入していた。姫路までは、まず琴平から多度津まで土讃線、多度津から坂出まで予讃線、坂出より岡山まで瀬戸大橋線(宇野線)、岡山から姫路まで山陽本線(途中相生乗り換え)といずれも各駅停車(瀬戸大橋は快速)の列車5本を乗り継いでの旅であった。妻は讃岐うどんでも食べてもっとゆっくり琴平で過ごし、特急と新幹線で姫路に行きたい様子だったが、少々時間がかかってもローカル列車も良いものだ。実は琴平駅には「みどりの窓口」がなく「大人の休日倶楽部ジパング」で割引切符を購入する場合は、窓口にある新型の自販機でセンターの係り員とモニターを通じて会話をして3割引きの特急券を発行して貰うシステムであった。最近は全国で「みどりの窓口」が次々と閉鎖され、こうした駅でジパングの切符を買う際には、駅の自販機を色々と操作して切符を入手する必要がある。列車の時間が迫っている際に、前の人が自販機の前でモタモタしていると大いに焦るのだが、各駅停車に乗車なら追加の切符も不要で琴平ではやってきたローカルの気動車列車に飛び乗ることが出来た。


各駅停車の列車で地元の高校生やら通勤客と乗り合わせながら夕方に姫路駅に着いた頃には、朝まで飛鳥Ⅱに乗船していたのが遠い世界の出来事のように思えてきた。駅前のホテルに泊まり翌日ぶらぶら歩いて行った世界遺産の「姫路城」は、子供の頃に訪れて以来なんと60年ぶり、妻は初めての見学である。最近ジパングで利用する「ひかり」(ジパングではのぞみの乗車は不可)のうち姫路駅に4分ほど停車する列車が多数あり、新幹線の上りホームからほど近い姫路城の大天守を窓超しに眺めているうち、またいつか来てみたいと思っていたのである。姫路城の五重七階の連立式天守は池田輝政により1609年に完成、以後何代かの大名が入封した後、明治維新や大東亜戦争の空襲にも生き残り、その美しい姿を今に保っている。高さ14.8米の天守台に31.5米の高さを誇る大天守は、白壁と屋根瓦を固める多量の漆喰により遠くから見た姿が白く見えることから別名を白鷺城とも呼ばれている。屋根や壁の漆喰は昭和31年から39年までの(昭和の)解体修理、平成21年から27年までの(平成の)大修理時に塗り替えられており、最後の塗り替えより7年半経過した現在は白さ加減も落ち着いて、白鷺城はいま見ごろの時期だと云えよう。


それにしても久方ぶりに訪れた姫路城は、約700米四方ほどの広い敷地に、大天守のほか3つの小天守、幾重にも重なる屋根や曲輪、廊下が連続する壮大な城構えであった。小天守などは他の城郭なら立派な天守閣になるほどの規模と云えよう。新興国に行くと「世界遺産」の登録もだいぶインフレ気味だと感じるが、ここは正に「国宝」「世界遺産」の名に恥じない文化遺産である。天守閣に入ったらエレベーターがありました、という新たに建て替えられた最近の城と違い、暗く急な階段を手すりに掴まりつつエッチラ上って辿り着いた最上7階から一望する市内や近郊の眺めは格別。この日は秋晴れの行楽日和とあって、これまで入国禁止となっていた欧米からの白人やアジア系では台湾からの観光客が姫路の町に目立っていた。集団でたむろしては大声でしゃべるシナ人の団体客がいないため場内も清々しく、当分の間、シナにはゼロコロナの愚策を貫徹し厳し~~い感染予防策を継続して欲しいところである。姫路からは山陽電鉄~阪神電鉄直通の特急に乗り、大阪から新幹線で帰ろうかとも思ったが、金毘羅さんの奥宮参りや姫路城の急階段でさすがに足が重くなり、早く新幹線で缶ビールを飲もうと姫路駅から「ひかり」に乗車して帰京した。

2022年11月13日 (日)

飛鳥Ⅱ のんびり秋旅クルーズ(続1/2)金毘羅参り

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「走る電車の博物館」琴電の仏生山駅に集う旧京浜急行の電車群

「飛鳥Ⅱ のんびり秋旅クルーズ」も新宮や四日市には何度か行ったことがあるため、船で3泊した後に最初の寄港地・高松で途中下船することとした。前日の夕方に飛鳥Ⅱは高松港に到着しているので、下船日の朝は早起きして港周辺をジョギング、一旦船に戻りシャワーを浴び朝食を摂って10時過ぎに船を離れた。これまでワールドクルーズなどで区間乗船の人たちを見送ったことは何回もあったが、見送られる側になるのは初めての経験で、いざ下りるとなるとひどく船が名残惜しくなってきた。乗り合わせた船友たちは今晩もフォーシーズンダイニングでディナーを楽しむのかと思うと、「やっぱり最後の横浜まで乗る事にします。差額はカードで支払います」と申告するかとの考えが一瞬頭をよぎる。ただすでに「大人の休日倶楽部ジパング」で帰りの割引乗車券を購入し、途中の姫路駅前のホテルも予約済みとあって気をとりなおし当初の予定を遂行することに。


この日は高松から初乗車の琴電に乗って金毘羅さんにお参りし、その後は瀬戸大橋経由で姫路まで行く予定である。琴平までの高松琴平電気鉄道は、乗車する琴平線(33キロ)と志度線や長岡線の3線からなる、軌間1435ミリ、全線1500ボルトの地方民鉄だが、ここを走る電車は元京急や京王帝都、名古屋地下鉄の車両が多く、「走る電車の博物館」と全国にその名前を知られている。さっそく下船した足で始発の高松築港駅で琴平行きを待つことしばし、コトコトと入線して来た2両編成の電車は1200形の1207編成で、塗装こそ黄色に塗り替えられているが、その面構えは昭和45年から製造された元京急の700形であった。さっそくかぶりつきに陣取り終点の琴平までの前面展望と運転システムを楽しむことにすると、先ほどまでの船旅の余韻がすっかり頭から消え去り、テツの血が湧いてくるから我ながら現金なものである。


東京都心の鉄道ではめっきり聞かなくなった抵抗制御の機械音、ブレーキシューの制動音、派手なレール継ぎ目のジョイント音や揺れ具合は、いかにも地方の電車といった風情である。瓦駅での分岐や高松市内の立体連続高架区間を過ぎ、電車は都市郊外の住宅地区や近郊農業地帯、ほどなく森や林を抜けたと思えば鉄橋を超え、ため池が点在する讃岐平野を走り抜ける。運転席のスピードメーターには、60キロ付近にマーカーがあり、どうやらその辺りが最高速度の一応の目安らしいが、かつて100キロ以上で京浜地区を疾駆していた真っ赤な京急の700形が、のんびりと田園風景を走る風景もなかなか味があってよいものだ。この日は日曜日の朝にも拘わらず下りの乗客が多いことに驚くも、これは高松から20キロほどの綾川駅に隣接する大規模ショッピングモールの買い物客であった。地方民鉄の例に漏れず琴電も赤字経営らしいが、沿線に大規模な商業施設を誘致すれば、自動車から鉄道を利用する乗客を取り込めるのだろう。地方の鉄道に乗る度に感じる土地に応じた営業努力には頭が下がる。


高松から一時間あまりで、終点の琴電琴平駅に到着。荷物を近くのJR琴平駅に預けてここから金毘羅参りである。「♬ 廻れば四国は讃州那賀の群 象頭山金毘羅大権現 ♪」と謳われたとおり、琴電の電車から見ると、進行正面に象の頭のような山が横たわって見える。金毘羅さんと云えば航海安全の神社で名高いが、讃岐富士(飯野山)や屋島と同様に、特徴的なその山の姿は、かつて沿岸航法の時代に船乗りの良い目標になっていたに違いない。大昔は海岸がもっと象頭山に迫っていたとも云われ、ここに航海安全の神様が鎮座するのもうべなるかなである。海運会社に勤めていた頃には、四国の造船所で進水式が行われた折などに金毘羅さんに度々詣でたことがあるが、あれからはや20年が過ぎているし、妻は初めての参拝である。天気も秋晴れ、本宮までの約2キロ、785段の階段はさして苦にならず一気に上ってしまい、そのまま調子に乗って、1.3キロ先、階段をさらに600段上がって標高420米の奥宮にも参拝した。奥宮では高松で後にした飛鳥Ⅱの残りのクルーズの航海安全とともに、私がまだ細々と続けている海運関係の仕事の商売繁盛を祈願し、次の目的地である姫路に向かった。

金毘羅宮の奥宮 標高400余メートル、階段1368段
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