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2024年7月14日 (日)

播州赤穂 訪問

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赤穂城 本丸への城門

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当時の建物が現存する大石邸長屋門


忠臣蔵に興味を持つようになったのは、子供のころ(昭和39年)にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」を見てからだ。長谷川一夫演じる大石内蔵助の「 おのおのがた、討ち入りでござる 」という名セリフ、滝沢修のなんとも憎々しい吉良上野介、宇野重吉演ずる蜘蛛の甚十郎の暗躍などを今でもよく覚えている。当時さっそく大佛次郎の原作「赤穂浪士」の文庫本を買って読んだし、その後も事あるごとに忠臣蔵ゆかりの地を訪ねるのが好きだった。本所松坂町の吉良邸「江戸散策その4(2008年11月16日)」や新橋の浅野内匠頭の切腹終焉の地「12月14日 赤穂浪士の討ち入り(2018年12月14日)」、高田馬場の堀部安兵衛の決闘「高田馬場の決闘(2020年6月22日)」の場所を訪ねたことは過去のブログにアップした通りで、その他にも品川の泉岳寺にある四十七士の墓にお参りしたこともある。三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜・俵星玄蕃」は全曲暗記しており、ドライブ中に渋滞にはまると一人クルマの中でハンドルを握りつ 「♪ 槍は錆びてもこの名は錆びぬ~♯」と唸ったりする。


赤穂浪士たちの何が、日本人の心にこれほど刺さるのだろうか。誰もが知っているとおり、元禄14年(1701年)、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家で監督役であった吉良上野介に切りかかる刃傷(傷害)事件を起こし、ために幕府は直ちに内匠頭に切腹を命じ、浅野家は取りつぶしの処分を下される。一方的な幕府の裁定に納得できぬ赤穂藩の家臣たちは浪人となり、復讐のために雌伏の時を過ごすこと一年有余、ついに総大将の大石内蔵助を筆頭に47人の浪士(浪人)が吉良邸に討ち入りし憎き吉良の首を取り、亡き主君の本懐を遂げるドラマが「忠臣蔵」であり「赤穂浪士」である。今なら狂信的なテロ集団の組織的犯罪とでも云われる行為だが、公儀(幕府の法律)に反してまでも、忠義(主君や国家に対してまごころを尽くして仕えること=広辞苑)に尽くすところが、深く日本人の琴線に触れるのだろう。「俵星玄蕃」で「命惜しむな名をこそ惜しめ」とうたわれたように、いつの時代も赤穂浪士の志が軽佻浮薄の世を憂う人々に持て囃されるのである。(俵星玄蕃の話は後世に作られたものであるが・・・)


と云っても東京ではこれほど忠臣蔵ゆかりの地に詣でたにも関わらず、肝心な赤穂浪士のふるさと、播州赤穂の地はなかなか訪問する機会がなかった。なにせ東京から赤穂に行くには、新幹線なら「こだま」か一部の「ひかり」しか停車しない兵庫県の相生から、単線の赤穂線に乗り換えるしかなく、その赤穂線は昼間の時間帯には一時間に一本の運転頻度とあって、ちょっと寄ってみようかというわけには行かなかった。しかしいつまで待っていても、本当に行くには自ら行動を起こすしかチャンスは廻ってこない。シニア世代は、時間ならたっぷりあるのである。そう思っていたらたまたま先週末、海運関係の友人たちとしまなみ海道の(伊予)大島にある千年松の地に集まり気勢を上げる恒例の宴会に参加する機会があり、それなら往路に一日余分に日程をとっても念願の赤穂の町に寄り道しようと思いたった。


朝9時過ぎに播州赤穂駅に降り立てば、梅雨時期に関わらず曇り空から晴れ間がのぞき、暑さも感じぬそよ風で、なにやら赤穂義士たちに天から歓迎された気がする。駅からほど近く、ぶらぶらと歩ける範囲に浅野家や義士ゆかりの花岳寺、きれいに整備された赤穂城跡、大石内蔵助を祭った大石神社などが点在して、市内をゆっくり散策することができる。赤穂市立歴史博物館では、この町の上水道が江戸初期に開通し江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水」と呼ばれたこと、入浜塩田による製塩ではこの地がパイオニアであり、良質の塩を上方や江戸に送り出したことなど郷土の誇りが展示されていた。そう云えば吉良上野介の領地である三河でも製塩が行われていたので、塩の生産に関するトラブルで浅野内匠頭には吉良に遺恨があったという説もある。かつてドリフターズの志村扮する吉良が「 この赤穂の田舎侍めが・・・・」と加藤茶扮する浅野内匠頭をさんざん馬鹿にして、それがもとで「 おのれ吉良殿 !!」と加藤が刀を抜いて刃傷沙汰になるコントがあったが、「赤穂五万五千石」は決して田舎大名などではなく、産業を奨励した立派な殿様であり、それが赤穂浪士の忠君に結び着いたであろうと推測できた。しかしここまで来ると、さすがにインバウンドの外国人がほとんど見られないのが良い。忠義などはシナ人や朝鮮人には理解不能であろう。やはり忠臣蔵は日本人の心のふるさとである。

 

製塩の終わりの過程 石釜模型(赤穂市立歴史博物館)
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2024年5月22日 (水)

「海里」(上り)乗車(酒田・海里の旅③)

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上り「海里」のイタリアン弁当(手前)とドルチェ(奥)、イタリアンのボリュームはこれだけ?


酒田の町の探訪を終え、新潟までの帰路は白新線経由の羽越本線「のってたのしい」観光列車「海里」乗車である。昨年4月に新潟発 酒田行の「海里」下り列車に乗車した際(「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅 2023年4月3日)は食事とドリンクの付いた旅行商品用の車両である4号車を利用したので、今回も同じく4号車に乗車することにした。その時は新潟の有名料亭の弁当を車内で味わったが、逆ルートでは沿線の鶴岡のイタリアン弁当とドルチェが出るとのことで、どう味やサービスが変わるのか違いをみるのも楽しみである。新潟からやって来て午後1時半に到着した「海里」専用ハイブリッド気動車HBE300系は、折り返し午後3時3分に酒田駅を出発して上り列車になる。乗車すると早速、4号車の車内に配置された2人の専任サービス掛の女性が飲み物の注文にやって来た。彼女たちはJR東日本関連会社から派遣され、週末に運転される「海里」に乗車しない日は、新幹線の車内販売も手掛けているそうだ。車内を見渡せば、我々夫婦の他には個人手配らしき壮年カップルと、その他6人~7人の団体旅行客が1組だけと余裕がある。以前は満席だったので、上りと下りで乗車率にばらつきがあるのか尋ねたところ「その時の状況によってまちまちです」との笑顔の答えだった。


我々は、まず選べるウェルカムドリンクで庄内地方産の地ビール「月山」を注文したが(下りはエチゴビールであった)、この時間の列車で嬉しいのはアルコールが心置きなく呑めること。新潟駅を朝10時過ぎに出る下り列車では、朝っぱらから車内でガンガン呑むのも、と周囲の目を気にする私にとってはアルコールの追加連続にちょっと気がひけたものだ。酔って他人に迷惑をかける訳ではないが、酒飲みの心境としては近くに同輩がいて、皆が楽しそうに呑んでいればこちらも杯が進むのである。この日は夕方とあって周りも呑んでいるし、一日かけてけっこう坂の多い酒田の町を自転車で走り回った身である。早速出されたビールは五臓六腑に染み渡り、やはり酒は体を動かした後に限ると、特にウマい1本目のビールはあっという間に空になった。お待ちかねのイタリアンとドルチェは、どちらも味は良かったが、イタリアンの方は「本当にこれだけ?」という少なさであった。時間的に昼食に遅すぎ、夕食には早過ぎで中途半端だから致し方ないし、腹が減っているなら売店のある3号車で追加の食べ物を買っても良し、途中停車駅では改札外に出られるので外から調達も可なのだが、楽しみにしていたメシが腹の足しにほど遠いのは予想外だった。ということで、前の晩に買った乾き物の残りを取り出し、追加のビールやワイン(ともに有料)を楽しみながらの乗車となった。


午前と較べてこちらが断然良いと思ったのが、日本海の景色であった。この日は雲一つない好天とあって、海岸沿いに走る羽越本線からは、水平線の彼方に傾く太陽と海岸べりの景勝が見えて乗客の目を楽しませてくれる。陽光が海面にキラキラと反射する光景は午前中の便では見られないメリットで、列車も見どころではかなり速度を落として走る。「笹川流れ」で有名な桑川駅では30分ほど休憩があって、海岸に出て周囲の奇岩や沖に浮かぶ粟島の景色をゆっくり見ることもできるのが、この臨時快速列車が「観光列車」である所以。桑川駅では運転士さん自らホームで記念撮影のシャッターを押すサービスをしてくれるので、ついでに「ハイブリッドのこの列車を運転する感覚は気動車ですか?電車ですか?」と質問したところ、「電車です。僕の免許も気動車ではなく電車です。」との答えが返ってくる。普通の列車ではまず味わえない乗務員との会話も、「のってたのしい」列車ならではである。4号車は新潟に向かう先頭車とあって、酔眼をこすりつつ大きく開けた前面展望を楽しんでいるうち、あっという間に3時間半の旅は終わり新潟駅に到着した。

 

車窓から見る夕陽に映える日本海と遠くに浮かぶ粟島
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2024年5月20日 (月)

酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)

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日和山公園にある千石船(北前船)の1/2のレプリカ

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北前船の東西航路を開発した河村瑞賢像(日和山公園)

酒田は江戸から明治時代の前・中期まで沿岸航路で活躍した北前船の発航の地である。貨物の輸送と云えば、かつて明治の後期にかけて鉄道が全国に開通するまでは、もっぱら沿岸航法による海運がその手段であった。寛文時代、江戸幕府は天領であった出羽(秋田・山形)の米を大坂(大阪)まで大量輸送すると共に、国内の物流網を整備するため、豪商かつ政商で公共工事に長けた河村瑞賢に沿岸航路の整備を命じている。これに応じて瑞賢は酒田を起点に1671年、津軽海峡から太平洋沿岸諸港を経由して江戸に至る東回り航路、1672年に酒田から日本海諸港を経由して関門海峡を越え、瀬戸内海を通って大坂、さらには江戸に至る西回り航路を開発した。彼は綿密な気象・海象の調査を実施し、酒田から大阪や江戸までの航路や水路を開いたばかりでなく、徴税の免除や水先船の設置など各種制度の改廃や整備を行い、さらに船体や船乗りの状態をチェックする番屋を主な港に設けて、安全かつ安定的な海運基盤の確立に尽くしている。現在の海運界においても簡単に実現できない航路や港湾などのインフラ整備や、安全や労務に関する仕組みの構築を全国的に行えたのは、幕府の権威が津々浦々まで行き渡っていたことと、瑞賢の卓越した指導力によるものだと云えよう。


旅の2日目は観光列車「海里」の酒田駅発車は15時3分と遅いので、朝から駅前で借りた観光用レンタサイクル(無料)を繰って、こじんまりした酒田の旧市街地を巡ることにした。地域貢献に力を尽くした大地主の本間家の屋敷や、米の集積や保存に造られた立派な山居倉庫は前回に来た時に訪問したので今回はパス。まずは河村瑞賢の銅像の立つ日和山公園を訪れ、そこに置かれた千石船の2分の1のレプリカや、港の場所を示した1813年製造の常夜灯を見学した。次に寄った酒田海洋センターは、港町らしく商船や漁船の展示が豊富で、海運界OBの私にとっても興味深い場所であった。天気に恵まれ、こうして地図を片手に変速ギアもないチャリをギコギコこぎながらの町の散策を続ける。大きな港町には立派な料亭がよくあるのだが、ここでも港からほど近い住宅街の一角に由緒正しそうな料亭が幾つか現存しており、かつての辺りの繁栄を偲ばせてくれる。北前船の船頭は操船指揮だけでなく、各地の特産品を自ら買い求めて、港々で商売する商人でもあり、運送業兼商社の役目を果たしたので、港に北前船がつくと船乗りや地元の商人たちで料亭が大賑いしたそうだ。そんな料亭の一つ 「山王くらぶ」 では、郷土のつるし飾りであるまことに豪華な「傘福」の展示を見ることができ、ここがその昔「東の酒田、西の堺」と謳われ栄えた土地であることを感ずることができた。


北前船といっても、酒田は津軽海峡を抜ける東回りよりも西回り航路で賑わったようだが、それは江戸時代の商業の中心地である大坂が海路で近いことが第一の理由であるらしい。因みに地図で測ると、酒田から関門海峡を経て瀬戸内海を大坂まで行けば直行で約1400キロ、これに対して酒田から津軽海峡を抜けて東京湾までは約1300キロ、そのまま大坂までは約1800キロの行程である。最上川の水運を利用して内陸から運ばれた庄内米や特産品の紅花 (顔料や染料の元で油も採れ当時は人気商品だったとのこと) を酒田で北前船に載せ替え上方に運ぶには、日本海を経由し、瀬戸内海の潮流に乗って運送するルートが効率的であった。日本海は冬場以外は海が穏やかだし、大陸や朝鮮半島との交易を通じて発展した港町が点在する他、瀬戸内には多くの港があり、津々浦々で商売する北前船にとっては、西回り航路のほうが太平洋岸より商売がし易かったに違いない。上方の市況や積み荷の保存状況を考えて、敦賀から琵琶湖の水運に載せ替えたり、舞鶴や小浜から山越えで急ぎ京や大坂へ運んだ物資もあるのかも知れない、などと想像するとこれを調べるだけで老後の一大研究ができそうだ。そういえば能登の黒瓦が日本海沿岸の諸港に広まったのも北前船によるという話を聞いたし、”にっぽん丸”で訪れた佐渡の小木(宿根木地区)は、かつて多数の北前船建造の大工を擁した地であったことを思い出した。酒田の方言は京言葉に近いという地元の話を聞くと、日本の各地は昔から船によって繋がっていたことを実感するのである。

 

料亭 「山王くらぶ」 に飾られた豪華な地元のつるし飾り・傘福
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2022年5月 ”にっぽん丸”で訪れた佐渡島 小木(宿根木)、 復元された千石船(北前船)のデッキ
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2024年5月19日 (日)

五月雨を集めて早し最上川 (酒田・海里の旅①)

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「五月雨を集めて早し最上川」。そう松尾芭蕉に詠まれたこの季節に、最上川の景色を楽しみ、併せて河口にある酒田の町を再度見学する旅をした。酒田は昨年4月、新潟‐酒田間の白新線・羽越本線で運転される観光列車「海里」の北向き(下り)に乗車し、終着駅として初めて降り立った地である(リンク:「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅)。今は人口10万人ほどのさりげない海辺の地方都市だが、ここは江戸時代に西回り行路の北前船の発航の地となり、「東の酒田、西の堺」と云われるほど栄えた町であることをその際に知ってとても驚いた。スケジュールの都合で昨年はゆっくりと市内各所を見ることが出来なかったため、今回は酒田始発の「海里」の南行(上り)乗車と絡め、再びこの地を訪れることにしたのである。「乗って楽しい列車」である「海里」の4号車は、食事つき旅行商品となっており、新潟より酒田に向かう午前の下り列車は新潟の料亭の弁当、逆コースの午後の酒田発上りは庄内地方のイタリアンとスイーツが出されると、前回とは別の趣向なのも乗車の楽しみである。


酒田まで行くには、時間的には上越新幹線の新潟駅で羽越線(白新線経由)の特急「いなほ」に乗り換えるのが一番早いが、行きと帰りが同じ経路というのもつまらない。よって今回は山形新幹線の終点駅である新庄まで「つばさ」で行き、新庄から陸羽西線で酒田に出るルートをたどることにした。もっとも陸羽西線は平行する国道のトンネル工事の影響で列車が走らず、現在は代行バスによる営業のため、東京・酒田間では新潟経由より2時間以上も余計に時間がかかる。しかし時間に縛られないのが、閑ならいくらでもあるシニアの旅の特権である。「奥の細道最上川ライン」との別名もある陸羽西線に沿ってチンタラとバスの旅も良かろうと、今年は「大人の休日倶楽部」の3割引き切符で山形新幹線に乗車することにした。バス区間はトイレも不便だろうという見立てで、新庄までの新幹線ではお約束であるビールもやや控えめにした旅の序章であった。


新庄駅前で待っていた山形交通の代行バスは車内は空いていたが、平日の午後とあって地元の高校生やら勤め人がパラパラと乗っており、いかにも地元の足であるローカル線の「代行」という雰囲気。新庄から酒田まで55キロ、途中12駅の駅前や駅至近の広場に停車しつつ、バスは2時間近くかけてゆったりと走る。バス道からは、初夏の陽光が川面に映える最上川が近付いたり離れたりで、鉄道で旅するよりこちらの方がよほど景色は良いようだ。最上川と云えば1983年から翌年にかけた放送されたNHKドラマ「おしん」は、このあたりを中心に主人公の幼少期の脚本が作られたそうで、おしんがいかだに載せられて子守奉公に出る有名なシーンそのままの景色が車窓に続き見ていて飽きない。かつては川の舟運によって稲作物や紅花が河口の酒田港に運ばれ、北前船に載せ替えられ上方や江戸に輸送されたと云うが、その史実通り、最上川は水量が多く、庄内地方の輸送の大動脈として機能したことがよく分かる道中であった。代行バスは陸羽西線の各駅前に出入りするために、時には鄙びたごく地元の道路を走り、「トイレ休憩」もあって想像したよりずっと楽しい旅であった。

2024年4月15日 (月)

箱根は花盛り

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富士霊園の桜と愛車

週末は箱根の強羅にある区営の山荘に行ってきた。この施設も武漢ウイルス騒動中はガラガラだったが、最近の週末は予約で一杯になっている。今回は偶々、直近のネット検索中に空きを見つけたものである。セミリタイア夫婦の身とあって、なにも混む週末でなく、空いているウイークデイに行っても良いのだが、最近、妻がパートで季節的な仕事をするようになり、暫くの間、遠出は週末という事になった。ちょうど我が愛車であるカブリオレの屋根を開けて走るにも良い季節でもある。そもそも10年ほど前にこのクルマを購入した際には、夫婦二人でオープンカーに乗ってのんびりと郊外でオープンエアドライブを、というコンセプトであった。普段は都内のごちゃごちゃした道ばかりを走っているため、たまの長距離ドライブとあってクルマも喜ぶ気がする。


途中で立ち寄った御殿場の富士霊園には妻の父の墓がある。ここには見事な桜の並木道があり、霊園の参拝者の他にこの季節は花見の人たちで大賑わいする場所である。宿泊する山荘の夕食時間を気にしつつも、東京より2週間ばかり遅れて咲く桜の満開を屋根のないクルマから楽しみ、いつもよりゆっくりと墓参りの時間をとった。思ったより桜に見とれてぎりぎり夕方に到着した宿だが、温泉と云えばご飯前にひとっ風呂がお約束。浴衣に着替えて風呂場へ駆けつければ、弱酸性、硫黄泉の露天風呂の上を桜の枝が覆い、湯舟に浸かった肩に一片の桜の花びらとは正に風情満点、極楽気分。日本人で良かったとつくづく思う。平日に来ると高齢者の姿が目につくが、週末には現役世代の家族連れが多く雰囲気も賑やかであった。


別荘などを持てば貧乏性の私なら償却費やら固定資産税、維持管理費などを考えてしまい、年間これぐらいは行かないとペイしないなどと却って振り回されるに違いない。妻も着いた途端に掃除や食事の準備、寝具の確認などは真っ平だと言うとおり、別荘を持つより気軽に宿泊できる宿に泊まった方がすべてにおいて負担が少ない気がする。豪華な旅館やホテルはそれなりのサービスでリッチな気分に浸れ、それもまた良しだが、公営の宿舎でも豪華食材は出されなくとも家で食べるより料理の品数は多いし、味もそこそこ旨い。夫婦2人で夫々3回づつ湯につかり満腹になって宿賃は1万5千円。年に数回は利用するが、高速道路やガソリン代を入れても2人で2万円ほどの休息の週末である。

中強羅地区のしだれ桜
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2023年6月 4日 (日)

立山黒部アルペンルート(2)と上高地

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ダムの堰堤から下をのぞくと何とも足元がざわざわする黒部ダム

乗り物を乗り継いでやってきた黒部ダム。かつては黒四ダムと呼ばれており、黒部川に造られた4番目のダムだと思っていたが、そうではなく黒部川第4発電所に送る水を貯めるダムで「黒部ダム」というのが正式な名称だそうだ。黒部ダムは1963年に完成し、今でも日本で最も高い堤高(186米)を誇る発電用アーチ型ダムである。ダムの堰堤から下流を覗けば、コンクリートアーチのへこみの為に眼下は完全な空洞、はるか下に黒部川の流れが見えるだけで、足下がゾクゾクするような眺めである。黒四と云えば、1960年代には三船敏郎、石原裕次郎の映画「黒部の太陽」の舞台となるなど、様々なメディアで建設の労苦が報じられたことを思いだす。当時読んだ本では、ダム建設資材運搬用の「日電歩道」の危険なことや、トンネル掘削時に「破砕帯」から大量に出水した模様などが詳しく描かれていたが、その苦闘も今はむかし、こうして簡単に観光ルートの一部として来られることに隔世の感がある。


そういえばあの頃は黒四ダムの他に、戦後初の国産旅客機YS11が1962年に初飛行、同じ年に出光興産の当時世界最大の13万トンタンカー日章丸が竣工するなど、戦後の科学技術の復興を遂げる出来事が相次いだ。極めつけは1964年の「夢の超特急」東海道新幹線の開通で、日本はこれから益々発展するのだという高揚感が子供心にも伝わってきた時代であった。こうした高度成長を背景に、旺盛になる一方の電力需要を満たすため、戦前からの念願だった黒部川にこの大規模なダムが建設されたのだが、かつては「水主火従」と云われた水力発電も、現在の我が国の電力事情では供給の8%を占めるのみだという。発電と云えば、地球温暖化の原因は本当は何も分かっていないのにも関わらず、CO2削減が急務だとする利権ビジネスが世界を席捲して、日本全国の海岸べりや丘陵に何とも異様な風力発電の風車が立ち並ぶようになった。さらにシナ利権にどっぷりつかった太陽光パネルが日本の野山を覆っているのだが、これら環境破壊の設備を見るたびに不愉快な気持ちにさせられるのが常である。豊富で安価な電力は産業の基盤。怪しげな利権に乗じた世界の動向に惑わされず、原子力発電やわが国が誇る省エネの石炭火力発電、水力発電など従来型の発電施設のさらなる開発や活用がならないものか、総貯水量2億トンの雪解け水を貯えたダム湖面を見ながら、電源開発に思いを巡らす。


こうして50年ぶりの立山黒部アルペンルートを過ぎ、扇沢からは再び「びゅう」の観光バスに乗車。JR信濃大町駅で立山駅で預けた手荷物をピックアップして、一行は一路安曇野をその夜の宿舎の穂高ビューホテルへやってきた。名前の通りここからは穂高岳連峰の景色が楽しめるのかと思いきや、フロントで尋ねると「ここからは穂高は見えないんです。近くの明神岳の上の方がちょっと・・・・」と残念な答えが返って来る。しかし今の天皇陛下が皇太子時代にも宿泊されたホテルは、芝生の庭も美しい高原リゾートで、洋食フルコースの後は河鹿の声に包まれた露天風呂の温泉に浸かり、2晩目もゆっくり休息をとることが出来た。翌日は貸し切りバスで、釜トンネルを抜けて40年ぶりの上高地へ。上高地は自家用車の乗り入れは禁止である。若い頃、連休中に東京から自家用車で来て、上高地から登山したことがあった。乗り入れ禁止のため釜トンネル手前の駐車場を利用しようと思ったが、どこも満杯で止む無く多くのクルマが縦列駐車している国道に自分の車を停めて穂高に登ったのであった。3日後に下山して来ると観光地散策だけの他の車はみなとっくに出発しており、トンネル前の山道にポツンと我がクルマ一台だけが故障車のように駐まっていた。よく狭い国道に3日間も違法駐車して違反のステッカーを貼られなかったものだと冷や汗をかいたことがあったが、ここには貸し切りバスで来るのが一番ラクだ。


この日は午後から雨予報の天気も何とか曇り空で、久しぶりの上高地では大正池から明神まで徒歩10キロ、約2万歩の散策を楽しむことができた。上高地の中心地、河童橋からは岳沢を前面にして標高3190米の奥穂高岳が聳え立ち、右に目を転じれば吊り尾根から前穂高岳(3090米)、左にジャンダルムから西穂高岳(2909米)と、かつて憧れて登った懐かしい峰々が連なるのを見る事ができる。穂高山行は小屋泊まりだったが、そういえばあの当時使ったコンロやコッヘルはもう捨ててしまったのか、どこかの押し入れにまだ眠っているのかなどと急に気になってくる。時々参加した会社のハイキング部には大学時代に山岳部に属しヒマラヤ遠征に参加した猛者もいたが、彼らはいったい今どうしているのだろうか、懐かしい場所に来ると懐かしい山の友人の顔を思いだすものだ。戸田豊鉄作詞・作曲「山の友よ」の「友をしのんで仰ぐ雲」と歌詞を口ずさみながら、こうしてステップも軽く妻と二人で久々の梓川沿いの遊歩道を歩くことができた。本格的な登山はもうやりたくないが、次は若い頃に何度か訪れた尾瀬に行ってみようと思いつつ、上高地バスターミナルで待つ観光バスに戻った。

焼岳と大正池
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2023年6月 1日 (木)

立山黒部アルペンルート(1)

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雪の大谷

今回の”びゅう”団体ツアーは総勢25名。シニア男性1人参加が2組、3人の家族連れが1組、残り20名は夫婦らしきシニアカップルが10組である。乗り物に頼るとはいえ、一応立山連峰の中腹まで行って雪面を歩き、上高地は主に徒歩での移動のため、さすがに足許が覚束ないような参加者はいない。装備もほとんどの人が軽登山靴やトレッキングシューズを履き、山用のストック持参者もいて皆一応それらしい恰好であった。私たちは街中で履くウオーキングシューズで参加しており、一同の中では最も軽装の部類だったが、雪上歩行ならきわめて容易に着脱が可能な簡易アイゼンは持参している。また若い頃、上高地から奥穂高岳などに登ったこともあったので、天気さえ良ければ上高地も明神池くらいまでなら町歩きのカジュアルシューズで十分だろうと考えて、重い靴は履かなかった。ただ私のような楽観主義者にもし何か事があれば「そら見たことか、中高年のくせに体力を過信している」とか「山を軽く見た」と云われるから、そこは天気予報などを見て判断する必要がある。幸い今回の旅も天候に恵まれて、結果はこれで十分、改めて簡易アイゼンの効果も確認できた。


団体旅行と云えば、部屋割りの都合や新幹線の席での、運・不運もある。新幹線ではブロックで団体分の指定を受けるので、カップルで参加しても2人掛け席でなく、3人掛けシートの窓側と窮屈な真中に座ることとなり、通路側に1人別の参加者が来る時もある。往路から車中飲むビールによる利尿効果で夫婦2人してトイレが近い時には、この席の配置はちょっと困る。ホテルや旅館の部屋もブロックで割り当てられるため、たまたまエレベーターから遠かったり、同じフロアーでもグレードが低かったり、景色の良くない部屋に案内されたりする不運もままある。しかし今回は最初の宿である立山国際ホテルでは、逆に他の同行者より1段グレードの高い広い部屋に案内されるという幸運に恵まれた。つるつると滑る立山山麓温泉に浸かり、リビングとベッドルームがセパレートされる広い部屋で却って身の置き所に困りつつもぐっすり眠って、翌日の立山黒部アルペンルート旅行に備えることができたのは良かった。その上、この旅行ではアルペンルートに持参する携行品以外の荷物は、ホテルのロビーからルート終点の信濃大町駅前まで運んでくれるサービスがついており、何回もの乗り換えや散策の際に手荷物に患わされることも一切ない。とにかく団体旅行は、集合時間さえ守っていれば自動的に目的地に連れて行ってくれるから、楽な事この上ない。


よく知られているように立山黒部アルペンルートは、富山地鉄の立山駅から(標高475米)まず立山ケーブルカーで美女平(標高977米)に、美女平から立山高原バスで最高地点の室堂(標高2450米)に上る。下りは立山トンネルバス(トロリーバス)で立山の下を縦貫し大観峰(標高2316米)に出て、次はロープウエイで標高1828米の黒部平に、そこから再びケーブルカーに乗って1455米の黒部湖に到着、黒部ダム( かつてはクロヨンダムだったが今は黒部ダムというらしい )を徒歩で亘り、最後はトンネルバス(電気バス)で標高1433米の扇沢に至る37キロあまり、高低差1975米の山岳観光ルート(反対方向のルートも可)である。これに両端の富山駅から立山駅間の富山地方鉄道(34キロ)、扇沢からJR信濃大町駅間の路線バス(18キロ)を加えると全長は89キロとなり、乗車時間だけで正味3時間以上、途中の乗り換え時間や休憩時間を含めると、まる1日近くかかる大規模なシステムである。立山駅から扇沢までは直線にして25キロ足らずなので、観光目的でここに自動車道路を造る計画も当初はあったそうだが、環境保護の為、現在の多くの交通機関を使う方式になったという。もしマイカーでさっさと通り抜けられる形にしたならば、こうまで多くの観光客を集めなかったであろうし、ここで働く人々の雇用も産まなかったであろうから、管理修繕費用はかかるがこの方式は成功に違いない。尚、個人旅行であれば立山黒部アルペンルートの富山~信濃大町間で総運賃1万3820円、中心部分の立山~扇沢間で1万940円である。


多くの観光客でにぎわう室堂に来るとパンフレットで有名な雪の壁、雪の大谷が道路の両側に聳え立っていた。春先は壁は最高20米にもなるが、現在は11米ほどで、これも夏になるに従いもっと融けて低くなるそうだ。ここでは中国語や朝鮮語も聞こえて海外の人たちも多いことがわかる。雪の斜面では、山スキーを楽しむ人たちがスキーを担いで登っていく姿が見える。室堂のバスターミナルを降りた後は、雪道を簡易アイゼンをつけてみくりが池まで散策し、その後は雪上のオープンカフェ「立山ユキテラス」で缶コーヒーで一休み。高度2400米余り、眼前に広がる山の景色をゆったり眺めコーヒーを飲みながら春風に吹かれていると、ここはツエルマットか、という気分になってくる。仰ぎみれば立山の標高2700米にある一の越山荘や、雄山(3003米)山頂の立山神社社務所が稜線にくっきりと姿を現し、にわかに山心が刺激されて、斜面を登りたくなってきた。そういえば若い頃は当時の若者の常で山に憧れたもので、休暇を取って幾つかの名山に挑んだことを思い出した。だがやはりアルピニストへの憧憬だけで山行も終わり、いつしか都会生活に埋もれてしまったのが我が来し方である。そんなことを考えていたら、突如 「♯♫ 朝日にきらめく新雪踏んで、今日も行こうよあの嶺こえて♭♯」 の「 雪山賛歌 」の歌詞が頭に浮かんで来た。海も良いが山も良い!

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立山ユキテラスにて缶コーヒーを飲んで一休み

2023年5月29日 (月)

黒部峡谷鉄道 トロッコ電車

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スリル満点の車窓

飛鳥Ⅱクルーズの翌週は「人気観光地が目白押し!黒部峡谷トロッコ電車・立山黒部アルペンルート・上高地を1日1か所ずつめぐる充実3日間」の旅に行って来た。このところ毎週毎週遊びで忙しい。今回の旅はJR東日本系の”びゅう”が主催する添乗員付き団体旅行(2泊)である。かねてより一度乗りたいと思っていた黒部のトロッコ電車に乗車し、私にとっては50年ぶりとなるアルペンルートと、40年ぶりの上高地を一挙に効率よく回ってくれる旅という事で参加したものである。旅の初日は、一同25名+添乗員の計26名で東京地区から北陸新幹線に乗り黒部宇奈月温泉駅で下車、観光バスで黒部峡谷鉄道の始発駅・宇奈月駅に行き、黒部峡谷トロッコ電車に乗車する日程である。やって来た宇奈月は富山から伸びる富山地方鉄道の終着駅で、地鉄の宇奈月温泉駅ターミナルに隣接してトロッコ列車の基地が拡がり、その山側に黒部峡谷鉄道の宇奈月駅があった。宇奈月から黒部川の渓谷に沿って上流の欅平までの20.1キロ、大正時代末期から昭和初期~戦前にかけて、電源開発のダム資材輸送のために762ミリのナローゲージで敷設されたのが黒部峡谷鉄道である。同鉄道は1953年に地方鉄道の免許を得て観光輸送にも乗り出し、冬季以外に運転されるトロッコ列車が有名になったが、鉄路はまだ資材の輸送にも使われており、会社は関西電力の完全子会社になっている。


1時間に1本ほどの間隔で運転されるトロッコ電車(本当は電気機関車牽引なのでトロッコ列車というべきだが、同鉄道のホームページには「トロッコ電車」とあるためここでも電車とする)は、直流600ボルトの動力源によって運転される。ここでは主に日立製作所製のEDR型と呼ばれる全長7米弱の直流電気機関車により、10両余り(乗客の波動で客車の編成両数は変化するようだ)の客車が牽引されて渓谷に沿った鉄路を登り下りしている。重連総括制御の電気機関車は抑速にエアの他に発電ブレーキを使用、常に列車の先頭に立つプル牽引運転で、標高223米の宇奈月駅から599米の欅平まで、アプト式などではなく粘着方式の運転である。主力のEDR型の他に、粘着性能に優れたインバータ制御・交流モーターのEDV型という新鋭機関車(川重製)もあり、こちらは回生ブレーキを装備しているとのこと。いずれの機関車も台車には空転防止対策のとても大きな砂まき装置が目立つ。客車はオープンタイプのトロッコ車両と、客席がエンクローズされるリラックス客車(こちらは追加料金が必要)の2種類があり、定員は1両20名~30名、いずれも全長は7米強のボギー車両でアルナ工機製であった。編成後尾はボハフ呼ばれる客車で、多分ボはボギー車、ハは普通車、フは手ブレーキ装着を指していると思われ、最後尾には車掌が乗務している。アルナ工機と云えば路面電車の製造が得意であり、かつ関西私鉄の雄である阪急電鉄の子会社であることを考えると、こちら関西電力の完全子会社でナローゲージ鉄道の車両にはアルナ工機製が打ってつけという感じもする。全線単線の運転だが、安全を担保する信号系統は、ATSのようなシステムが構築されているようで、軌道内には地上子が置かれていた。


この鉄道は、旧国鉄の東京起点による列車分類方法を踏襲しているらしく、終点の欅平に登るのが下り列車、起点の宇奈月に下るのが上り列車となっているのが面白い。トロッコ車両に乗車して宇奈月駅を出発すると、車内は地元富山県出身の女優室井滋さんの解説放送が流れ、沿線の様子や鉄道の沿革が分かるようになっていた。黒部峡谷のV字谷に沿って山あり谷ありダムありで、トンネルや橋梁の連続する線路の周囲は、インディジョーンズの映画に出てくるかのスリル溢れる光景が展開する。急カーブの度に車輪とレールの擦れる”キーキー”という摩擦音を派手に響かせつつ、「電車」は最高でも時速25キロ程度で急峻な崖沿いにゆったりと走った。乗車して約1時間、我々”びゅう”団体客は、なぜか終点の欅平まで行かず、2.6キロ手前の鐘釣駅で下車して、黒部川対岸の万年雪の雪渓を眺め、河原の露天風呂付近を散策したが、見るとクラツーなど他の団体も皆ここで降りている。多分終点の欅平まで行くと時間がかかるので、日程管理のために団体客は皆がここで折り返すことになっているようだ。どうせなら終点まで行ってみたいところだが、このあたりが自由の効かない団体旅行の辛いところである。鉄オタの為に、本鉄道に関するより詳しい技術的な資料や展示、説明パンフレットが欲しかったが、そんな客はごく少数だろうからこれまた仕方がない。釣鐘駅より「下りの上り列車」で宇奈月まで戻ってくると総時間は4時間余り、冒険心が刺激される峡谷鉄道の旅であった。天気も順調でこうして旅が始まった。

最新の電機EDV型と途中駅で列車交換
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2023年4月12日 (水)

東北鉄道旅 (補遺編)

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ラッセル車用の雪かき警表 

「海里」や「ツガルツナガル」など座席指定制の列車は別として、鉄道の旅ではなるべく運転台の後ろ「かぶりつき」に立って、列車の前面展望を楽しむことにしている。ローカル線のワンマン運転の列車で、都会ではあまりない運転士の運賃収受業務などを見るのは旅の楽しみの一つだ。また地方によっては線路際に立つ鉄道標識が独特で、この地区ではどういうことが列車運行上に注意すべき点なのか分かるのも面白い。今回は奥羽本線で、黄色の正方形が上下に並んだ写真のような標識が線路際に立っているのをしばしば目にしたが、これは今までの鉄道の旅で見なかったもので一体なんであろうか? 「ツガルツナガル」の折り返し駅である弘前駅でホームに立っていた駅長さんにこの標識が示す意味を尋ねると、「私も良く分からないので運転士に聞いてみましょう」と「弘前へようこそ」の歓迎横断幕を持ってホームに出ていた女性運転士のところへ連れて行ってくれた。


彼女曰く「自分は電車の運転士などで直接関係ないが、あれはラッセル車のための標識です」とのことである。ポールの上に掲げられた黄色の◇の標識は、線路際の雪をどけるためにラッセル車から左右に広げたウイングをここで畳め、下の□は軌道内の雪をかくためのフランジャーをここで上げろという意味で、トンネルの入り口や踏切、線路の分岐器などの手前に設置されているそうだ。雪かき中にウイングやフランジャーをそのままにして走ると、ウイングがトンネルの壁に当たったり、フランジャーが施設を破損させたりするので、それを防ぐために掲示されているとの事である。なるほどこれは雪国ならでは標識で、鉄道防雪林などと同様に首都圏ではまず見ることがない。70歳を越えても、旅に出ると初めて見聞きするものが沢山あるものだ。


弘前駅で「ツガルツナガル」の折り返し時間を利用して訪問した黒石市のB級グルメ、「黒石やきそば」も今回の旅の思い出である。もともとここ黒石ではうどん用の乾麺をゆでて醤油で炒めて食べていたが、戦後、中国人から支那そばが伝わり、乾麺用のカッターを使った太いそばにソースを絡めたところ、これがなかなかいけると評判になったそうだ。これに和風のそばつゆをかけたのが、黒石名物の「つゆやきそば」で、ソース焼きそばに日本そばのたれをかけて食べるのがなんともユニークである。「つゆやきそば」の起源としては昭和30年代、町の食堂で冷えた焼きそばにつゆをかけて温かくしたメニューが評判になったという説や、同じ食堂で麵だけでは腹持ちが悪いためにつゆをかけたら良かったなどの諸説あるそうだ。我々夫婦は、つゆ有りとつゆ無しを一つづつ注文したが、無い方はきわめてシンプルなふつうの焼きそば、つゆ有りの焼きそばは、まさにふつうのそばつゆ(関東風の醤油味)にソース麺を入れた味で、共にあっさりした味であった。


「海里」の終着駅である酒田は、これまで人口10万人のごく普通の東北の一都市、あるいは火力発電の基地くらいの認識しかなかった。今回、列車待ちの約2時間に駅前の観光案内所が無料で貸し出していた自転車で街をぐるっと回ってみると、江戸時代はここは「西の堺、東の酒田」と呼ばれた大変な商都、港町であったことを知り驚いた。酒田は地域の水運の要であった最上川と海上輸送の結節点にあり、東回りと西回り両方の北前船発航の港として発展したとのこと。「五月雨を集めて早し最上川」と詠まれたことから、最上川は急流のイメージがあったのだが、実際に見る川は庄内平野を悠々と流れる大河である。内陸から川舟で運ばれてきた米や紅花を北前船に積み換え、各地の着物や工芸品、美術品を荷揚げしたのが酒田で、自転車で訪れた山居倉庫や、日和山公園にある北前船のレプリカなどから当時の繁栄ぶりがうかがえる。日本の港町をクルーズ船や列車で巡ると北前船の津(港)から発展した場所が多いことが分かり、北前船のことをもっと知りたいという気持ちも湧いてくる。「だったら次は酒田発新潟行きの上り『海里』をからめて旅を企画しちゃおうかな?イタリアン弁当も食べてみたいから」と妻が横で笑っている。


現存する洋式の木造六角灯台として日本最古の貴重な日和山公園灯台(旧酒田宮之浦灯台)
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酒田の山居倉庫 米を約1万トン収納できた。収納された米に対しては倉荷証券が出され、これは有価証券として流通可能であった。
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2023年2月20日 (月)

氷見ブリと「べるもんた」(2)

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新高岡駅の「べるもんた」

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世界広しと云えども隋一の景色との富山湾 海越しに3千米級の急峻(立山連峰)が立ち上げるのかここだけとか

旅の2日目のハイライトは、JR西日本の”ベル・モンターニュ・エ・メール”乗車だ。”ベル・モンタ―ニュ・エ・メール”は原語フランス語では"Belles montagnes et mer"で、Bellesは美しい、montagnesは山々、etは英語のand、merは海の意味である。富山県の美しい山々や海を楽しむ観光列車ということで名前がつけられたが、列車の愛称にしては少々凝りすぎと思われ、通称「べるもんた」号と呼ばれている。2015年4月に東京から金沢まで北陸新幹線が延伸したことをうけ、同年10月から高岡駅または新幹線の新高岡駅を起点に、砺波平野を南下する城端線(じょうはな線)と、富山湾に向かい北上する氷見線で「べるもんた」の週末限定の運転が開始され、以来人気の観光列車になっている。


新幹線開業により、富山県内の在来の北陸本線は第三セクターの「あいの風とやま鉄道」となったため、北陸本線高岡駅を起点としていたJRの氷見線と城端線は、在来のJR線との接続点がない離れ小島の孤立路線となり、従来より一層厳しい経営状態に直面することになった。もっとも沿線は砺波平野のチューリップ、瑞泉寺や五箇山、雄大な立山連峰遠望や富山湾の絶景などの観光資源が盛りだくさん。そこで新幹線の延伸と相まってこれを増収に活かさない手はないと、「 べるもんた」の運転が始められたそうだ。キハ40を改造しダークグリーンに塗られた観光列車(単行一両編成)は土曜日が高岡駅から新高岡駅経由で城端線(高岡駅~城端駅29.9キロ)を、日曜日は氷見線(高岡駅~氷見駅16.5キロ)+高岡駅/新高岡駅(城端線1.8キロ)(合計18.3キロ)間で各々1日に2往復運転されている。尚、この列車に乗るには、通常の乗車券以外に城端線運行でも氷見線運行でも指定料金530円が必要である。

我々は昨年7月に同列車の城端線部分に乗ったが(瑞泉寺・五箇山合掌造り・”ベル・モンタ―ニュ・エ・メール”)、今回は寒ブリ喰いたさに富山に来たところ、幸運にも日曜日の午前中に氷見駅から新高岡駅間を運転する「べるもんた2号」のチケットをとることができた。昨年城端駅から乗車した際は、暑さのため車内で出されるご当地クラフトビールがまさかの売り切れという、我々によっては大きな災難に見舞われたので、今回はリベンジの意味もあり、乗車前は氷見市内をゆっくりとジョギングで観光し、十分汗も出してビールを楽しみに乗車に備えることにした。


再度乗車することになった「べるもんた」号だが、車両はこの地方の景色を楽しむために、大きな窓は額縁調にデザインされており、吊り革は高岡の銅器をイメージ、座席の仕切り版は井波彫刻の作品と、沿線の伝統工芸品が前面に押し出された意匠である。列車は一両編成なので車内に厨房スペースこそないが、氷見寄りの車端には寿司やつまみを準備する寿司カウンターが設けられており、「白エビと紅ズワイ蟹のお造り」を肴に、前に飲みそこなった「はかまビール」「麦やビール」と銘打たれた城端の特産ペールエールを楽しむ。「海越しに3000米級の山々を見られるのは世界でもここだけ」とガイドの説明を聞き立山連峰の車窓風景を楽しむうち、列車はあっという間に高岡へ到着。高岡駅では、氷見線の7番ホームから新高岡駅に向かう城端線の2番ホームまで14か所のポイントを通過して進行方向を変える小さなアトラクションも楽しめるが、それにしても乗車時間が短いのがちょっと残念である(氷見駅~高岡駅なら31分、氷見駅~新高岡駅は1時間5分)。せっかくの観光列車なのだから、氷見から城端線の城端駅までを乗り通す便があっても良さそうなものだというのが2回乗車した感想である。

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富山湾をバックに地元ビールに白エビと紅ズワイ蟹のお造り

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高岡駅では合計14のポイントを通過し氷見線から城端線へ移動

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