カテゴリー「スポーツ」の記事

2024年11月11日 (月)

旧友と行く慶早戦

202411111

同期の仲間が、最近はみな閑になって、様々なお誘いがあちこちからかかる。先の土曜日は高校時代の友人に誘われて、神宮球場に野球の早慶戦の応援に行ってきた。50数年ぶりに 「 昔の仲間と肩を組んで『塾歌』や『若き血』を球場で歌いたくなった」と云うのが、言い出しっぺで、今は大病院の院長を辞し悠々自適の身になった医者の友人。彼と海外勤務の長かった銀行員のもう一名と三人での野球観戦である。東京六大学野球の秋期リーグ戦も、慶応はここまで東大から挙げた勝ち点1のみで第5位と、久しぶりにBクラスに落ちたのに対し、早稲田はすでに勝ち点4を挙げて首位を走り、この早慶戦で1勝でもすれば優勝とあって、神宮球場には3万人近い観衆が詰めかけた。


慶応が今季振るわなかったのは、主戦投手・外丸君(3年前橋育英)の不調もあるが、何と言っても打撃不振のためで、チャンスを作ってもあと一本がどうしても出ない。なにせ最終週の早慶戦前までチーム打率が2割を切り、主将の本間君(4年慶応)にいたっては、4分3厘という低打率にあえいでいたくらいだ。話題の清原ジュニア(4年慶応)も、速い球で内角を攻められた後に縦の変化球などを投げられればクルっとバットが空を切り三振という場面が多く、とてもプロにすすむレベルではないとみていた。対する早稲田は甲子園でも活躍したエースの伊藤君(3年仙台育英)を擁し、吉納(4年東邦)、山縣(4年早大学院)の両君がプロ野球ドラフト会議で指名を受けるなど戦力はかなり充実している。


ただ「 早慶戦は弱い方が勝つ」というのが、昔から云われるジンクスである。ここ10年ばかりのゲームを思い出しても、慶応が『あと1勝』で優勝という場面で、早稲田に連敗して涙をのんだ場面が幾度あったことか。最近では2020年秋、9回2死から蛭間君(現・西武ライオンズ)の逆転サヨナラホームランで、優勝がポロリと慶應の手中から落ちたことが記憶に新しい。我々の頃は、早慶1回戦の土曜日には「こんな所で講義を受けてないで、今日は出欠とらないから神宮球場に行ってこい」という先生もけっこうおり、学校を挙げて応援するなかで、独特の雰囲気で行われるのが早慶戦である。そんな異様な応援を背に1勝を挙げるのは周囲が考えるほど易しい事ではないようで、今季は優勝にあと一歩の早稲田に慶応が一矢をむくいるチャンスも大とひそかに期待しつつ入場した。


試合は2年生になってようやく覚醒した左腕、渡邊君(高松商業)の好投に加え、主将・本間君の最後の奮起や4番清原君の4打数4安打、うち1本は大本塁打の大活躍でなんと9対1で慶応の快勝である。この神宮球場で学生野球を応援する良いところは、周囲に連帯感が芽生えることである。土曜日も隣に座った見ず知らずのオヤジ達グループと一緒に応援歌を歌ううち、試合が終わるころには彼らとすっかり仲良くなってしまった。隣のオヤジは「僕は86年卒なんですよ」と言うので「そうか、あの志村君の時代だね」「そうなんす」と慶應が得点を着々と揚げるに連れて会話もはずむ。「先輩の時代は?」「我々の頃は慶応三連覇で強かったよ、山下大輔知っている?」などと話しているうちに、知らない者とも百年の知己のようになっているから同窓とは不思議なものだ。


この日は久々に憎き早稲田に快勝とあって、早稲田の優勝はお預けとなり、みなで歌う「塾歌」の声もひときわ大きかったが、満員の早稲田の応援席から流れる「都の西北」も惨敗にも関わらずスタンドに声高らかに響く。塾歌も良いが、4拍子で悠揚と場内に流れる「都の西北」も素晴らしい。特に感動的なのは3番の「 あれ見よ彼処(かしこ)の常磐の森は、心のふるさと我らが母校、集り散じて人は変れど仰ぐは同じき 理想の光、いざ声揃えて 空も轟(とどろ)に我らが母校の 名をば讃えん」の歌詞で、これを暮れなずむスタンドで聞いていると、いつもジーンと目頭が熱くなる。「勝っても負けても六大学野球は素晴らしいね。特に秋の慶早戦は良い。今日は早稲田をコテンパンにやっつけてもっと気持ちいいや。いつまでもこの伝統が続いて欲しいね。」などと、表参道駅近くで3人で杯を傾けながら秋の夜長を楽しんだ。

追記:日曜日も慶応の執念に負け2連敗となった早稲田は、明日12日に同勝ち点・同勝率の明治と優勝決定戦に回ることになってしまった。

20241117

2024年9月 5日 (木)

時代の証言者 こころで走る 瀬古利彦氏

20240905

読売新聞の「 時代の証言者」 では、マラソンの瀬古利彦氏が、『 心で走る 』との題で、彼の生い立ちや競技歴を連載で寄せている。私も最近は時間ができたので慶応競走部の後輩の試合にはよく顔を出すようになったが、競技場の観客席では瀬古氏の姿を見かけることも多い。彼は早稲田大学競走部のOB会会長をつとめているにも関わらず、息子さんが慶応卒とのことで、日ごろから 「僕は慶応が好きなんですよ」と広言しつつ、試合後のOBたちの飲み会にはいつの間にか慶応側の席にきて、その饒舌に場を和ませてくれる好漢である。私と同じく、60歳過ぎてから奥さんと共に社交ダンスを始めたとのことで、これも彼に親しみを感じるところだ。なので毎朝起きると彼のこのシリーズを楽しみに朝刊を開いているこの頃である。


ここ2日間は、早稲田大学に入学して中村清監督に運命的に出会ったことを中心に話が進んでいるが、かつて駅伝やトラックで遠くから見かけた監督に関するエピソードがとても面白い。昭和51年、瀬古氏の入学と時を同じくして早大に駅伝監督として返り咲いた中村氏は、「『今の早稲田が弱いのお前たちのせじゃない。面倒をみなかったOBのせいだ。俺が代表して謝る 』 と言い出すと、何十発も自分の顔を殴りつけるのです。皆が言葉を失っていると 『 これでも足らんだろう 』と口元に血をにじませ、今度は壁に頭をうちつけました 」。砂浜での朝練習では「『俺はこれを食ったら世界一になれると言われたら食う 』と言って、口の中に(足元の砂を)放り込んでしまいました 」 と、瀬古氏は中村監督の尋常では考えられぬ熱情を著している。


この逸話に関して、友人である早大の元駅伝選手(瀬古よりやや年上)からかつて聞いたのは、 中村監督は口元に血をにじませたではなく、「口から 血がドバっと噴き出た」であり、砂浜の砂を食べたのは、「俺はこんなに陸上競技を愛しているのだと、グランドの土をムシャクシャ食べた」であったが、いずれにしても、そのようなことが本当にあったのだと情景が目にうかぶようだ。その友人は「 練習が終わると、着替えもしない前に中村監督のとにかく長い話が始まるので、汗で濡れた練習着が冷たくなって、みな風邪ひいちゃうんですよ」という話もしていたが、熱血漢の監督と運命的な出会いをし、そのチャンスを逃さず、教えを忠実に実行したのが凡百と違う瀬古選手の偉大なところである。そういえばあの頃は、中村監督に限らず明治大学野球部の島岡監督など軍隊式の名物指導者が健在だった。今では選手に手でも上げようものなら即座にパワハラで訴えられる時代となったから、この連載はまさに「時代の証言」という感がする。

 

早慶対抗陸上 100回記念祝賀会でスピーチする瀬古氏
20240707_20240905114401

2024年8月22日 (木)

袖ふり合うも多生の縁

20240822
2024年5月19日(日)SEIKO ゴールデングランプリ陸上(国立競技場)での橋岡選手

高校時代からの友人と2人で、梅ヶ丘にある人気の寿司屋に行った。例によって5時きっかりの店オープンとともに始まる、退職オヤジ的飲み会である。やけにネタが大ぶりの寿司をつまみつつ近況などを語り合ううちに、話題はパリオリンピックの陸上競技に及んだ。この大会、北口選手の女子やり投げ優勝をはじめ、日本代表選手団の健闘が目立ったが、その中で男子走り幅跳びだけは、予選敗退した橋岡選手のフテ腐れたようなテレビインタービューがけしからんと二人してオヤジ話で盛り上がる。陸上競技には詳しい我が友人も「幅跳びは記録が伸びないね、そういえば山田宏臣選手が日本人で初めて8米跳んだのはいつだっけ」と我々の世代なら多くが知る当時話題だった走り幅飛びのことを話し始めた。リンク「地獄のジャンプ」(2008年5月20日)  と、寿司カウンターの隣の席に並んだそれなりの年恰好のシニアカップルが会話を止め、我々の陸上話に聞き耳をたてている気配がした。


案の定、カップルの男性は 「失礼ですが陸上関係者ですか?」と問いかけてくる。 うん!?、そう云えばこの辺りは日大のグランドが近いし、橋岡選手は日大の出身なので我々2人の悪口が彼の気に障ったのか、とすればこんな所で気まずくなるのも嫌だと一瞬かまえつつ、「昔、少しばかりやってました」とおそるおそる答える。「そちらも関係の方ですか?」とこちらから探りをいれると「パリでは後輩の三浦が頑張りました」との言。ああ順天堂大学の出身者か、日大でなくて良かったとホッとしつつ、「三浦選手はすごいですね」と3000米障害で東京大会に続いて連続入賞した三浦龍司君を誉めることにした。「失礼ですが長距離ですか?」と問えば、彼は「棒高跳びでした」とのこと。聞けば私より少し上の世代だそうである。それならば当時順大の主将だった山田宏臣氏とは同じ跳躍部門で切磋琢磨した仲間に違いない。私が友人と交わした日本初の8米ジャンプの会話に、彼が耳ざとく反応したのも道理である。


隣同士に座った客同士である。お互い横を見ながら杯が進むうち 「昔、数年ぶりに出場できた箱根駅伝の前には、(当時順大の監督だった)沢木啓介氏に学校に来てもらい指導を受けたこともあるんです。本番では順大のはるか後塵を拝してましたが…」などと当時の思い出話に花が咲く。彼は「ハハハ、沢木もけっこういい加減なんですよ」とあの沢木氏の厳格なイメージから似つかわしくない面を披露してくれ、なんだか酒の味もより旨く感じてくる。「三浦君は良かったが、パリでは私の後輩の豊田君は足の故障で400米ハードルは残念でした」と後輩自慢を交わすうちに、寿司店は入れ替えの時間となってしまった。ここは人気の寿司屋ゆえ、いつまでもグダグダと居座ることが出来ないのがつらいところである。お互い名前も名乗らず、その場で別れることになったが、50数年前に関東インターカレッジなどで同じ景色を見ていた見知らぬ同士が、時を経て世田谷の寿司屋でたまたま場所と時間を共有するのも不思議な縁(えにし)である。袖ふり合うも多生の縁、スポーツをやって良かった、今晩は楽しかったと思いつつ、皆と別れ生暖かい夜風に吹かれながら帰路についた。

2024年7月26日 (金)

第95回都市対抗野球大会 伏木海陸運送 vs 三菱重工East

20240726
ビール片手に社会人野球観戦

取引先の要請で、久しぶりに東京ドームに第95回都市対抗野球野球大会の応援に行ってきた。応援するのは北信越代表、富山県高岡市の伏木海陸運送で、この会社は港湾荷役を中心とする地場の総合物流会社である。東京など大都市ではあまり知られていないが、港湾荷役や地方の大手物流業者は地元で大変な勢力を持つ有力企業であることが多く、このチームも3年ぶりだがこれまで6回の出場を誇る社会人野球の名門である。この日対する相手は強豪の横浜市代表の三菱重工 Eastで、平日の昼下がりにも関わらずドーム球場には、会社の関係者や取引先、それに地元からの応援団など大勢の観客が集まった。


都市対抗野球と云えば、思い出すのは1970年代から80年代にかけて我が国の鉄鋼業が最盛期の時代のことである。当時は南は八幡や大分から北は室蘭まで多くの大手製鉄会社の野球チームが予選を勝ち抜き、まだドームになる前の旧後楽園球場に勢揃いしていた。私は新入社員の最初の配属先が製鉄原料船の部だったため、この時期になると動員をかけられ、部長以下皆で仕事を調整しあって球場に駆け付けたものだった。今でも社会人野球を見ていると『♪ 新日鉄、新日鉄、新ニッーテーツ、ニッポンスティール、GO,GO,GO !!♪』だとか 『# 日鉄、日鉄、新ニッーテーツ、鉄の団結!!♭』などとあの頃繰り返した応援歌のフレーズが頭に蘇る。


当時ナイトゲームとなる第3試合や第4試合以外は、試合が終われば会社に戻らねばならなかったが、オフィスにいるより野球を見ていほうが何倍も楽である。出欠確認の如く「 ちゃんと応援に来てますよ」と相手の担当者を見つけて声をかければ目的を達したようなもので、炎天下の後楽園球場でビールを飲みつつ、延長戦にでもなってくれれば会社に戻るのはさらにゆっくりでよいとほくそえみながら観戦をしたことを思い出す。応援したチームによってはちょっとした土産品が配られることもあり、特に80年代、全農から要請された秋田県経済連チームの応援では、一合入り米パックや食料品が入ったバッグを貰ったものだ。


都市対抗と云えば応援合戦も見もので、ローカル色を前面に押し出した応援団を見ているだけで楽しい。伏木海陸の試合でも駆け付けた高岡市長の挨拶や市歌斉唱、それにハッピを来た踊り手による地元の踊りなどがベンチ上で披露され、ドームでの夏祭りの雰囲気である。野球が共同体の繋がりを一つにする手段になるのは我が国独自の文化だ。試合は三菱重工 Eastの補強選手(都市対抗では予選が同じ地区の他チームから3名補強できる)である東芝の下山選手が2本のソロホームランを打ち、善戦したものの伏木海陸は2対0で敗れてしまった。下山と云えば2年前の慶應大学野球部の主将で、慶応高校~大学の下級生の頃は注目されていたが、主将になった4年時には重圧によるのか今一歩精彩がなかった記憶がある。そんな彼が一回り成長して大活躍する場面を目の当たりにし、嬉しいような気持ちと、「おいおい、ホームランは今日じゃなく早慶戦でやってくれれば良かったのに」と複雑な気持ちがしたが、大学野球選手のその後を見るのもまた社会人野球観戦の楽しみである。

2024年7月 1日 (月)

豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)

20240701

週末は新潟で行われた第108回日本陸上競技選選手権大会をTV観戦して楽しんだ。この大会、何と云っても400米ハードルで競走部後輩の豊田兼君(4年・桐朋)が47秒99の好記録で優勝し、今夏のパリオリンピック大会の出場切符を手にしたのが嬉しかった。競走部からは2000年のシドニーオリンピックに競歩の小池昭彦君が出場、2004年アテネ大会、2008年北京大会を除き、山形亮太君や横田真人君らが2012年ロンドン、2016年リオ、2021年東京大会と続けてオリンピックに選手に選ばれており、豊田君の出場で4大会連続と記録がまた伸びることになった。次の週末には武漢ウイルス感染騒動後、5年ぶりに體育會の39部を一緒に卒業したOB一同が集まる同期会が行われるが、総勢100名以上の他部参加者の前で後輩たちの活躍に我々競走部のOBはちょっと鼻が高い。


私自身、現役時代は大した選手ではなかったが、ビールを片手にテレビ画面に映しだされる選手達の姿を眺めていると、当時の色々なことが頭に浮かんで来る。あの頃のレースはアンツーカーやシンダーの土の上で行われていたので、私が走った中・長距離のレースでは昨日のような雨の日には、前後の選手の跳ね揚げで全身泥まみれになったものだ。当時は土のトラック用にスパイクの針が長かったため、集団で走ると前の選手のスパイクで脛を削られて、膝から下が血だらけということもあった。今は全天候トラックとなってあの頃より雨の日でも記録の落ちがぐっと少ないのだろう。また最近は女子選手も多くなり、そのユニフォームもカラフルになって陸上競技の大会も華やかになったことが画面から伝わってくる。なにしろ、かつては800米を超えるトラック競技は女性には過酷すぎると云われ、種目がなかったのだから時代は変わるものだ。(因みに女子種目の1500米は昭和44年(1969)、5000米は平成9年(1997)、三段跳びは昭和62年(1987年)、棒高跳びは平成7年(1995年)から日本選手権の実施種目になっている。)

 

昨日もテレビで女子の中・長距離レースを観戦しているうち、つい身が入って「このペースなら50年前のオレなら集団について行って最後のスパートで優勝できたな」などとつい口走ってしまうのだが、傍らの妻は「女子と比べることになんか意味があるの」となんとも冷ややかである。一方で男子800米決勝では社会人のベテラン選手たちがマイペースに徹し、高校2年生の落合選手の先行逃げ切りに対応もしなかったので、「大の大人が策もなく高校生に負けてどうすんだ、高校生なんぞに絶対負けられるかという気概をもって走れよ」「こういう時はだな、最後の直線に入るまで彼を集団でポケットして前に出させないんだ」とつい鼻息荒く語ってしまった。聞いていた妻は「高校生にそんな意地悪するものなの?やぁねぇ」と思わぬところで面白がっていた。


最近いつも感心するのは800米から5000米まで多種目に積極的な挑む田中希美選手のチャレンジ精神。特に土曜日は800米の予選を走り、その1時間半後に5000米決勝を走るというふつうは考えられない間隔でレースをこなしたのには驚いた。彼女はよほど強靭なメンタルと大きな目標を持って競技に励んでいるに違いない。この心意気があれば、いつの日かもう一皮むけて国際的にも有名な大選手になることだろう。その反対に日本の男子跳躍陣はどうも覇気がなく、走り幅跳びの今回の優勝記録は7米95と8米にも届かなかったのはなんとも不甲斐ない。山田宏臣氏が8米01を跳んだのは「地獄のジャンプ(2008年5月20日投稿)」1970年と今から54年も前のことであり、1969年(昭和44年)の日本選手権の優勝記録は7米90だから、その当時から走り幅跳びはあまり進歩していないようだ。雨の影響があったことはわかるが、棒高跳びや走高跳の記録も然り。何十年も記録が伸びないのは、跳躍選手の発掘・育成になにか欠陥があるのではなかろうか。いずれにしてもオリンピック・パリ大会は間もなく開幕である。4年に一度(今回は東京以後3年)の熱い夏がやってきた。

 

男子800米 高校生の落合君が独走(Youtubeの日本陸連チャンネルより)
20240701800m

2024年5月13日 (月)

第103回関東学生陸上競技選手権大会(陸上 関東インカレ)

20240510ic-10
1年生でいきなり1部校10種競技に優勝し、将来が嘱望される高橋諒君(桐朋)LIVE中継より

週末は関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)の応援であった。昨今の駅伝人気で箱根駅伝ばかりが注目されているが、関東学生陸上競技連盟に加盟している159校にとって、この大会は春季における最大の競技会である。関東インカレはここのところ相模原競技場や横浜スタジアムで行われることが多かったが、今年は自宅に近い国立競技場で開催されるとあって、現場で直接 塾競走部の後輩の応援をしたいと思っていた。とは言え大会は、5月9日(木)から12日(日)まで4日間続き、入場料は当日券で2,500円(前売り券は2,000円)もするため連日フルに観戦すれば1万円コースになってしまう。よって1~3日目まではYoutubeのライブ中継で戦況を見守り、最終日のみ国立競技場に赴くことにした。


対校選手権大会と銘打たれているように、本大会は個人としての栄誉を競うのではなく、学校単位の競技会の形式をとっている。男子は3部の大学院生の部を除き、1部16校とそれ以外の2部校に競技は分かれ、それぞれの種目の決勝1位が8点、2位が7点、3位6点、以下8位が1点を獲得する学校対抗の得点争いの試合である。大会に参加できるのは、各種目で昨年1月1日以降に1・2部別に設定された参加標準記録(B標準)を突破した選手1名に限られ、特により高い記録(A標準)を突破した選手がいれば、追加選手(但し追加選手もB標準突破が条件)1名の参加が可能で、各校とも各種目に最大3人までが出場できる規定になっている。因みに現役時代の私は参加標準記録突破などは夢のまた夢で、大会に参加できる同僚の選手をスタンドから羨ましく応援していたものであった。


関東インカレと云えば、気になるのが2部落ちのこと。1部16校の得点争いの結果、15位と16位の学校は2部の上位2校と翌年は自動的に入れ替わる制度のため、選手層の薄い慶應は例年2部落ちしないかを心配しながらの応援となる。といっても最近は高校生への勧誘が功を奏して、インターハイで活躍した有望な選手の入学もチラホラで、後輩たちは1部の10位前後の総合成績を保っており、ヒヤヒヤしながらの観戦がないのが応援する側にとっては嬉しい。もっとも出場選手たちにとっては、得点争いのため、4日間でなるべく多くの種目を掛け持ちしなけらればらないのが辛いところである。特にトラック種目では予選、(準決勝)、決勝を何度も勝ち抜く必要があり、出る者は参加種目を調整し、体力を温存しながらより多種目で得点争いに関わるところに、他の競技会と違った難しさがある。また、青学大や駒大など多くの箱根駅伝有力校は2部校であるため、トラックやフィールド競技に満遍なくエントリーする学校よりも、駅伝に特化した2部校の方がしばしば長距離種目に限って記録が良いことがあるのも本大会の特徴だと云える。


ライブ中継によると土曜日までに後輩たちは1部校の10種競技、400米で優勝(8点x2)、走り幅跳びで5位(4点)110米ハードルで5位(4点)と順調に得点を伸ばし、3日目を終わった時点で10位以内を確保している。中継で見ていた前日までの結果を胸に、日曜日朝、千駄ヶ谷駅から国立競技場に向かう我が足取りも軽やかである。結果、この日はハーフマラソンで8位入賞と云う長距離種目での久々の快挙もあったし、200米決勝には2名残るなど後輩の健闘を現場で楽しませてもらった一日だった。一方で、我々の時代には慶應に入って陸上競技をやろうなどと云う女子はおらず女子部員はいなかったのだが、女子の部でもやり投げが優勝、800米も3位入賞と時代が変わったことも実感した。男子は最後に残念ながら棄権種目や予選突破できない種目もあり、最終的に1部で総合34点、12位と例年並みの結果に終わったが、国立競技場一杯に響き渡る関東インカレ独特の各校応援席の盛り上がりに久々に接して血が湧いた日であった。

1部校400米優勝の豊田君(4年桐朋)を伝える2024年5月11日(土)付 読売新聞記事 
20240513

 

2024年4月30日 (火)

東京六大学野球 慶應の渡辺憩君 初スイングがリーグ史上初の快挙

20240429
渡辺選手の史上初の初打席代打サヨナラホームラン(BIG 6 TVより)

風薫る季節、昨日は恒例の東京六大学野球春季リーグ戦の法政‐慶應、早稲田-明治の試合を観に明治神宮野球場に行ってきた。両カードとも1勝1敗で迎えた3回戦、この日勝てば優勝に一歩近づく大事な2試合とあって、観客席には1万余の観衆が入っていた。第1試合の慶應 対 法政戦は今秋のプロドラフト会議で上位指名が期待される法政の篠木君(木更津総合)と慶應の3年生エースの外丸君(前橋育英)の投手戦が予想されていた。篠木君は、1990年ごろに法政のエースとして活躍しプロ入りした高村祐投手(宇都宮南)を彷彿とさせる本格派の右腕で、下級生の頃から注目されていた投手である。片や外丸君は変化球をうまく使い、昨秋は慶應を大学日本一に導いたクレバーな投球が持ち味。試合は見込み通り投手戦が続き、後を継いだリリーフ陣の頑張りもあって、9回を終わってスコアは1対1のまま延長戦へともつれこんだ。


1対1のタイゲームのまま、連盟規定によりこの回を以て引き分け再試合となる12回裏の慶應の攻撃に、代打で起用されたのが一年生の渡辺憩君。昨年夏の甲子園大会で優勝した慶應高校の捕手で、これが神宮デビューとなる。このまま引き分けになるかとの雰囲気も漂い始めた一死後の打席、3ボール、見逃しの1ストライクの後、法政3年の宇山君(日大三)の高めの直球を渡辺君が思い切りよく振ると、なんと打球は高々とレフトスタンド中段に飛びこむ大ホームランになった。初打席の代打サヨナラホームランは長いリーグ戦史上でも初の快挙だそうだが、さらに彼の場合には大学に入った春の打席の初スウイングでもある。大学の公式試合で初めて振ったバットに当たった球が、優勝を左右するかもしれないサヨナラホームランになるとは劇的な幕切れであった。まさに野球は筋書のないドラマである。明治や法政に較べて選手層が薄い慶應が良く戦っているのは、堀井監督の采配が冴えていることが大きな要因だと思える代打の一振りだった。


眼前でプレーする選手たちも、もう孫の年代になってきた。母校が勝っても子供たちの勝敗にあまり興奮しないように、相手校の良いところも見ようと自制しているのだが、やはり第1試合で慶應が勝てば気持ちよく第2試合も見られるというものである。第2試合の早明戦は、これまたプロが注目する明治のショートストップ宗山君(4年・広陵)が出場するので試合中盤まで観戦することに。残念ながら宗山君は早稲田の伊藤投手(3年・仙台育英)の奮闘でこの日は良いところがなかったが、実力に加え甘いマスクでこの後人気も高まることだろう。ということで、こちらも延長戦の末に早稲田が5対0で明治を下して早慶が今週は勝ち点をゲットした。プロに進むにせよ一般企業に就職するにせよ、神宮球場で大勢の観客や母校の応援団の前で野球が出来ることに誇りを持って、各校の選手達はこの後もリーグ戦を盛り上げて欲しいものである。


ふと気が付けば、隣はかつて昭和の時代、リーグ戦を沸かした慶應の大エースが一人静かに観戦している。周囲には選手の友人や父兄に混じって、腰が曲がったり杖をついたりして来場した老人が、日がな一日、のんびりと野球を眺めている。老人たちの中には相手側スタンドの校歌も一緒に口ずさんでいる人もいて、きっと彼らは長い間このリーグ戦を見てきたに違いないと密かに共感を覚える。私も各校お馴染みの校歌や応援歌を聞くと、かつて目の前で繰り広げられた情景や六校の選手が活躍するありさまを思い出し、その折々に自分が置かれていた境遇やその後の来し方が自然に頭に浮かんで懐かしい気持ちになる。東京六大学野球のリーグ戦を見始めて60年、今日もここで元気に野球を観戦できる幸せを噛みしめながら、若者の溌剌としたプレーに自分も元気を貰った。神宮球場は「私の居場所」という空間である。

第2試合の早明戦開始
20240430

2024年4月 7日 (日)

第57回東京六大学陸上競技大会

202404075000
応援団の声援をバックに代表5000米レースの熱戦


改修工事の終わった慶應義塾日吉競技場のこけら落としとして、昨日は第57回東京六大学陸上競技大会が行われた。後輩たちの今年の戦力を占う緒戦とあって日吉に赴けば、やや肌寒い曇り空だったが風もなく陸上競技日和である。当日は男子18種目、女子10種目に亘り、それぞれ代表レースと他の学校やOBも参加できるオープン競技が新しいグラウンドで繰り広げられた。我々が学生だった50年前は、この競技会の黎明期とあって、代々木の織田フィールドや世田谷競技場などで観衆もなく担々と試合をやっていたものだが、今や各校100名を超える部員に加え、競技関係者や多くのOBが観戦に訪れるちょっとした大会に成長した。もともと東京六大学と云えば野球の連盟であり別に陸上競技で集まることもないのだが、そこは東京に昔からある大学のよしみで早慶戦や明法戦など対抗陸上競技会を開いてきた間柄であり、友好的な関係にある仲間でもある。6大学は集まるにはちょうど良い規模、環境で、50回大会からは女子種目も加わって一層盛り上がるようになった。


六大学は競技の成績に於いても昨年の関東インカレで、男子1部16校のうち早稲田が2位、法政9位、慶応12位、明治14位であり、2部42校中のうち立教は5位、東大は18位と各校がそれなりに健闘している状況にある。早稲田は今年の関東インカレで優勝を狙っているし、2部とはいえ立教も最近は箱根駅伝に復活し意気が上がっているので見る方も熱が入る。体育専門の大学に較べれば、各校ともトラックやフィールドの全種目にあまねく人材が揃っているわけではないが、却ってそれが得点争いの穴になるのが対校陸上の面白いところ(※インカレも六大学も決勝の1位が8点、2位が7点、以下8位が1点を獲得し、各校が合計得点で順位を競う)。箱根駅伝のテレビ中継で見た顔や、400米ハードルでパリオリンピックを狙う母校の主将・豊田兼君(4年桐朋)のような注目の顔が眼前で全力の争いを繰り広げるのを見ると、こちらもエネルギーを貰った気分になる。昨日は6校の応援団やチア、ブラバンの応援合戦もあって、対校競技会としての雰囲気も一段と盛り上がるなか、100米で三輪爽太君(4年西武文理)、3000米障害の安田陸人君(4年開成)ら後輩の優勝や、トリの1600米リレーの早慶デッドヒートで久々に陸上競技を楽しんだ一日であった。


競技が終了した後は、懐かしの日吉の街でOBの懇親会となる。会場の居酒屋には老若男女40名ほどのOB・OGが参加したが、見回せば我々の代が最長老であることを発見して愕然とした。若い頃にこの種の催しに参加すると、上席は白髪や禿げあがった爺さん達ばかりで、その長い説教や訓示に辟易としたものだが、気が付けばこちらがあの世代さえ超えている。まさか自分がそういう年齢になろうとは、想像だにしなかった。月日の経つのはなんと早いことか。と、隣の部屋で懇親会を開いていた早稲田OB会会長の瀬古利彦氏が我々の座に押しかけて、「本当はボク慶応大好きなんですよ、息子も慶応だし」「今の早稲田にはフィールド選手がいないんですよ、だから早慶対抗戦はフィールド種目をやめてトラック種目を増やしましょう、円盤なんか20m飛ばしてもしょうがないでしょう」など投擲陣が怒り出しそうな冗談を飛ばしていた。あの有名な瀬古もサービス精神を発揮して敵チームの宴会に乱入し、日本の瀬古ではなく早稲田の瀬古になるのだな、と彼のテレビで見るのと変わらない軽妙なトークに我々は大いに盛り上がった。

世界の瀬古から早稲田の瀬古へ、慶応OB会に乱入して盛り上げてくれた瀬古利彦氏
20240407

2023年12月31日 (日)

あれから50年 第100回箱根駅伝

20231231
第50回箱根駅伝のパンフレットと当日繋いだ母校のタスキ(小さい赤いリボンが選手章)


東京箱根間大学駅伝競走が第100回を迎えるとあって、主催の読売新聞社や完全中継を担う日本テレビ網の、大会に関連した事前報道が例年に増して賑やかだ。読売新聞は連日のように紙面の多くを駅伝に割いているが、昨日は日本テレビ局系列によって夕方のゴールデンタイムに「箱根駅伝伝説のシーン 表と裏3時間SP」なる特集番組が放送されていたので、過去の大会の懐かしい場面を居間でゆっくりと眺めることができた。そういえば私が第50回の記念大会に出場してからちょうど50年経ったことになる。50年前のあの時は母校が3年ぶりの出場とあって、多くの関係者とともに箱根駅伝黎明期の大先輩たちも多数応援や激励に駆けつけてくれたが、今の私はその大先輩たちの年齢をとっくに過ぎてしまったことにただただ驚くばかりである。時の流れはなんと早いことだろう。


報道ラッシュを見るにつけ、かつて関東学連の一レースに過ぎなかった箱根駅伝が、いまや正月の風物詩になるほど隆盛を極めているさまに隔世の感を禁じ得ない。私が走った当時は、箱根駅伝の中継と云えばNHKのラジオ放送だけとあって、後日学校に行くと同級生のうちただ一人が「(映画の前に流れる)読売新聞ニュースにオマエの姿が出てたぞ」と教えてくれた程度であり、ほとんどはクラスメートの箱根駅伝出場など気にも留めない時代であった。両親も大手町のゴールにこそ顔を見せたが、私が走った区間には応援に来なかった。それが当時の普通であった。ところがどうだろう、最近会社のOB会に久しぶりに顔を出すと、「君は箱根走ったんだよな、そんな人と机を並べてたのか」などと、これまで聞いたことのない挨拶をされ、却ってこちらが面映ゆくなるほどだ。


「そんなんじゃないんですよ。あの頃の下位を走った学校は20キロ以上走る選手を10人そろえるのがやっとで、そのチームの中で私は8番目か9番目の記録だったから今の高校生の記録にも劣ります」と答えるのだが、サラリーマン現役時代にはついぞ聞いたことのない挨拶をされると、最近のテレビが報じる大会の盛り上がりによって、元同僚らの記憶が、私が凄いことを成したかのように置き換えられたのかと苦笑する。たしかに全国的に人気あるアマチュア競技といえば、いまや高校生の春夏の甲子園大会と大学生の箱根駅伝となるが、甲子園は春夏合計で80校余校が出場しグラウンドに立てる選手が延べ1,000人ほどに対し、箱根駅伝は(年によってやや異なるが)参加校が約20校×10区なので一年で200人ほどしか出場できない。それを考えると、自分のようなランナーが歴史の1頁を穢すことができたのはなんとラッキーだったかと、ただただ学校の伝統や周囲のサポートに感謝するのみである。


思い起こせば50年前の今日12月31日は大会前最後の全体練習、元旦は日吉のグランドで各自調整ジョッグ。1月2日は監督や往路の選手、付き添いがレースに参加している中、一人軽いジョッグをして昼からマネジャーのクルマで箱根山中の旅館に向かったが、あの数日間がつい昨日のことのようだ。だが50年の歳月が経過する中で監督・コーチはすでに亡くなり、一緒に走った10人のうち2人は鬼籍入り、1人は途中退部して行方知れずとなり、いま後輩の試合やOB会に顔を出すのは僅かになってしまった。一方で現役大学生の後輩達は私たちの何倍もの努力をして、少し前なら予選会を十分突破できる実力を培っているが、なにしろ箱根駅伝は今や全国的一大イベントとなり、学校法人のプロモーションの場と化している。助っ人で日本語を話せないアフリカ人選手が走るのが当たり前の現状からすると、後輩たちの走る姿を見ることはしばらく叶いそうにないと寂しい。かつて大先輩たちから箱根の宿で「やあやあ、明日は頑張れよ」などと声を掛けられたことを思い出す度に、生きている間にそういう風に後輩に声をかける新春が来ないかと心待ちにするこの頃である。

2023年11月21日 (火)

第54回明治神宮野球大会大学の部 慶應義塾大学が5回目の優勝

20231121
優勝旗を受け取る廣瀬主将

昨日行われた第54回明治神宮野球大会 大学の部の決勝戦、慶應義塾大学と青山学院大学の試合を観に神宮球場に行ってきた。秋の大学野球日本一を決める明治神宮大会は、神宮球場を本拠地とする東京六大学野球連盟と東都大学野球連盟の秋季リーグ戦の各優勝校、それ以外の全国各地区からはそれぞれのリーグ戦やその後の予選を勝ち抜いて来た大学によって争われるトーナメント戦である。この大会は、1970(昭和45)年に明治神宮鎮座50年を記念して行われた奉納野球大会から始まりこれまで53回を重ねたが、その間、東京六大学代表が15回、東都大学代表が16回優勝と両連盟が優勝回数の多さを誇っている。今年も大方の予想通り、決勝まで勝ち上がってきたのは両リーグの代表チームであった。快晴の東京ではあったが木枯らしも吹き始めるこの時期は、一旦陽も傾いてくると観客席でじっと見ている身には寒さがこたえるものだ。この日は登山用の防寒下着を着こみ手袋やブランケットを持参しての野球観戦である。


午前中に行われた高校の部決勝の関係者も残り、いつもの東京六大学野球リーグ戦とは場内の雰囲気がやや異なる神宮球場のスタンドに座って、両校選手のノック練習風景などを見ていると、この大会における慶応野球部の過去の試合の模様が脳裏に蘇る。1985年、エース志村(桐蔭学園)の好投、相場(桐生)、仲沢(桐蔭学園)らの本塁打で愛知工大を下しての初優勝、1991年、若松(丸亀)の広島経済大学戦でのノーヒットノーラン達成の試合など、眼前で繰り広げれられたさまざまなシーンを思い出していると、働き盛りだった当時の我が仕事ぶりや生活の記憶が目前の情景とシンクロして不思議な気持ちが胸に去来する。そのうち神宮球場も取り壊されて新しく生まれ変わるそうだが、この古色蒼然たる場所は「我がフィールド・オブ・ドリームス」なのかも知れない、などと感慨に耽っているうちにプレー・ボールである。過去のブログ「第50回明治神宮野球大会(2019年11月18日)


入れ替え戦がなく対校戦の形式を採る東京六大学野球リーグに対して、2部、3部に降格もあり、熾烈な順位争いが繰り広げられる東都大学野球リーグは「人気の六大学」に対し「実力の東都」と呼ばれることもある。その中にあって青山学院大学は今年の春・秋のリーグ戦を連覇し、6月に行なわれた大学野球選手権大会の決勝戦では、六大学代表の明治大学を下して日本一になっている強豪。特に先のプロ野球ドラフト会議において、阪神に1位に指名された下村投手、広島1位指名の常廣投手と2人の強力な投手陣を青学は擁している。対する慶応は「昨年の主力がほぼ抜け『日本一になれるとは思ってなかった(廣瀬主将)』」(読売新聞11月21日)と云うチーム。慶応の2年生エース外丸(前橋育英)のクレバーな投球がどこまで相手打線に通じるかだが、青学投手陣から大量点をとるのは至難とあって、よほどのことが無ければ慶応は青学に負けてしまうのだろうと内心ひやひやしながら試合を見つめていた。


ところが試合は外丸君の投球術が光り、予想に反し序盤は慶応が押し気味に試合をすすめる。コースが決まり緩急を操って投げていた外丸君は、中盤からはライナー性の良い当たりをしばしば打たれるものの、守備陣のファインプレーもあり7回を終えて両校 0-0と決勝戦に相応しい緊迫した試合展開。しかし野球とは不思議なスポーツである。8回表の青学の守備は二つのエラーの後、好投の下村君が突如ストライクを取れなくなり、一死満塁から押し出しの四球。急遽代わった投手の常廣君から広瀬君(ソフトバンク3位)の大きな外野犠打で慶応が2点目を挙げ、そのまま慶応は終盤守り切ってゲームセットとなった。なぜ下村君はこんなに急に崩れたのだろうか。DH制を採る東都大学(六大学はDH制なし)で、直前の回に一塁まで全力疾走してリズムを崩したのか、東都のリーグ戦では経験したことのない相手側の大応援団に圧迫されたのか、それまでの素晴らしいピッチングとは別人になったような急変ぶりだった。一方の外丸君は打たせて取るピッチングから、9回裏はそれまで見せなかった最速145キロの速球も交えて3三振と、豪速球だけが投手の強さではないことを見せて青学打線を完封したのは見事だった。2023年は夏の慶応義塾高校の甲子園優勝に加え、秋の大学日本一と、慶応野球ファンには生涯忘れられない年になった。

20231121_20231121141201

より以前の記事一覧

フォト
2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ