浅草の鮨松波
先日、知人に連れられて、予約がとても取りづらいと云われる浅草の名店「鮨松波」で夫婦して江戸前すしを堪能することができた。「鮨松波」は地下鉄 銀座線の田原町または浅草線・大江戸線の蔵前から徒歩5分ほど、いかにも下町という風情の一画に店を構える老舗であった。腹を空かせて暖簾をくぐると、1階には玉砂利を敷いた空間だけが広がり、2階にある店に続く螺旋階段が伸びている。ふつうの寿司屋さんにはない余裕の店構えに、「高級店」に来てしまったという緊張感が身を包む。2階に上がるとひのき柾目一枚板のゆったりしたカウンターに10席ほどのみで、すべての鮨は大将一人が目の前で握ってくれる。なんでもこの檜のカウンターは樹齢200年以上のもので、これまで一度も削ったことがないそうだ。
都内名店で修行したのちこの地で店を開いて60年近く、小柄な大将は最初は寡黙で取っつきにくいかとこちらが心配したが、「浅草の鮨は初めてですよ」と云うと、「この辺りは町内会がまだ残っていて助かるんですよ」と程よい距離感を漂わせている。聞けばその日の予約者の顔を思い浮かべながら大将が豊洲市場でサカナを仕入れるとのことで、客に出される新鮮な材料は皆きれいに江戸前の仕事がされ、大ざるに乗ってまな板の脇に置かれている。ここでは一日に来店する客の数も決まっており、大将がすべての食材をコントロールしているので、冷蔵庫に出し入れするよりこの方が旨くて良いらしい。料理はお任せが中心で、シャコのカクテルに始まり、刺身、握り、吸い物、酒はビールと広島のゴールド加茂鶴だけというラインナップであった。
いかにも江戸っ子の職人と云ういで立ちの大将は「今日のサバとブリはシミ(氷見)、コハダは房総、アジは相模湾、アナゴは羽田沖、シラメ(平目)は青森」とちゃきちゃきの下町ことばでサカナの説明をしてくれる。それは見事な下町言葉につられて「このサカナなら淡泊な加茂鶴ひきゃないね」と思わずこちらも怪しげな江戸弁になってしまうほどである。他店と一味違う大将の握りは「本手返し」と云う正統の技だそうで、感心して見ていると丁寧な手さばきの説明も加わった。昨冬は寒ブリを喰いたさに富山県まで遠征したものの、シーズンを僅かに過ぎて遂にありつけなかった氷見の寒ブリだが、それを今年は浅草で味わえることになり、「氷見の仇を江戸で討つ」とばかり妻と二人して酒飲むピッチも進んでしまった。
予想にたがわずしっかりと脂の乗ったマグロのようなシミのブリ、大間のマグロの大トロに、宮城のウニ、江戸前の魚介類の旬ネタを刺身と握りで愉しみ、〆はかんぴょう巻に自家製の玉子。時間をかけて焼きあげた卵焼きは、丁寧に裏ごしされた芝エビのすり身がたっぷりと入り、「これが江戸前の玉です」と大将自慢の逸品のようだ。鴨肉と野菜のお澄ましは甘味さえ感じる優しい味で、一同皆でお代わりし、腹一杯となってお開きとなった。この日は知人にすっかりごちそうになってしまったが、隅田を渡る夜の川風に吹かれつつ適度な酔いも手伝って、妻に「旨いもの喰うと元気がでるね。70歳過ぎてあと何年美味しく食べられるか分からないから、一年に一度くらいはこんな寿司を自分たちの力で食いに来よう」と話しながら帰路についた。
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