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2024年7月

2024年7月16日 (火)

500系「こだま」6号車乗車

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ちょうど一年前、しまなみ海道沿いの大島・千年松で行われた宴会に妻と出席し、帰りに500系「こだま」に乗ろうとしたところ、梅雨末期の豪雨で山陽新幹線のダイヤが大きく乱れ、これに乗車がかなわなかった。いつかはリベンジをと機会を探っていたが、一年経過して同じ宴会に妻と共に招待されたのを機に、今年は福山から新大阪まで500系の「こだま」に乗車することにした。かつて「のぞみ」に使われ東京までこの車両が来ていた頃、出張でさんざん乗ったので私は特段の思い入れはないが、JR西日本に残る500系6編成のうち、4編成は2024年~26年に引退と発表されているため、乗るなら今のうちと妻のたっての希望である。「のぞみ」時代の16両編成から今は8両編成になり山陽区間だけで運転される500系「こだま」のうち、6号車の普通車指定席は旧グリーン車がそのまま充てられているので、予め6号車を予約して乗車することにした。


500系新幹線は、山陽新幹線の300キロ運転を念頭に当時の最新技術を投入し、JR西日本によって1996年に登場した。高速運転を可能にすると共にトンネル内の気圧差や空力上の問題解決の為に、先頭車はロケットのような形状とし、車両の断面積も他の形式より小さく円筒状になっているのが特徴。この車両はデビュー当時は、鉄道ブルーリボン賞やグッドデザイン賞を受け(ウィキペディア)、巷で話題になったものだった。新製価格は一編成46億円だったとのことで、これは船なら中型~大型の外航貨物船1隻、航空機ならボーイング737の中古機ほどになるが、登場して30年近く経過しているため、いまでは減価償却も終わっていることだろう。普通車のシートピッチは現在のN700系の1040ミリに対して1020ミリとやや短いため、かつて西日本に出張する際に「のぞみ」5号(東京駅発07:52)をしばしば利用したが、なんだか狭くてごつごつした乗り心地だった記憶がある。


今回はしまなみ街道をドライブしたレンタカーを福山駅で返して、15時31分の500系「こだま」854号に乗車である。今では一日に「こだま」7列車のみ、そのうち博多/岡山間の運転が5本とあって、福山から新大阪まで行くのは一日2本のみとなる妻が切望の500系だ。最近は東海道・山陽新幹線では車内販売がないので、運転から解放されビールやつまみを福山駅で買いこんでホームに。山陽新幹線には500系のほかにN700系、700系ひかりレールスター、九州新幹線のN700系7000番台も運転されており、福山駅の停車列車や通過列車を眺めるのも楽しい。やってきた500系旧グリーン車の6号車は、シートピッチが1160ミリとゆったり仕様で、リクライニングの角度も深い。ただ床は絨毯張りからリノリウムになり、オーディオサービスのイヤホン差し込み口はパネルで覆われ、フットレストや読書灯が撤去されたのはさすがに仕方あるまい。加速も最新のN700Sに較べるとゆったりという感じがしたが、最近の電子制御満載感より無闇に旅を急かされていない感覚である。こうして新大阪までの2時間弱、ビール片手にゆったりと各駅に停車する「こだま」の旅を楽しんだ。車両運用上は、なるべく性能や仕様が揃った形式を揃えるのが効率的なのだろうが、名車である500系の退役が進むのはちょっと哀しい気持ちもする。これでやっと一年越しに妻との約束を果たし、ホッ!。

こだま854・旧グリーン車の6号車
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2024年7月14日 (日)

播州赤穂 訪問

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赤穂城 本丸への城門

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当時の建物が現存する大石邸長屋門


忠臣蔵に興味を持つようになったのは、子供のころ(昭和39年)にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」を見てからだ。長谷川一夫演じる大石内蔵助の「 おのおのがた、討ち入りでござる 」という名セリフ、滝沢修のなんとも憎々しい吉良上野介、宇野重吉演ずる蜘蛛の甚十郎の暗躍などを今でもよく覚えている。当時さっそく大佛次郎の原作「赤穂浪士」の文庫本を買って読んだし、その後も事あるごとに忠臣蔵ゆかりの地を訪ねるのが好きだった。本所松坂町の吉良邸「江戸散策その4(2008年11月16日)」や新橋の浅野内匠頭の切腹終焉の地「12月14日 赤穂浪士の討ち入り(2018年12月14日)」、高田馬場の堀部安兵衛の決闘「高田馬場の決闘(2020年6月22日)」の場所を訪ねたことは過去のブログにアップした通りで、その他にも品川の泉岳寺にある四十七士の墓にお参りしたこともある。三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜・俵星玄蕃」は全曲暗記しており、ドライブ中に渋滞にはまると一人クルマの中でハンドルを握りつ 「♪ 槍は錆びてもこの名は錆びぬ~♯」と唸ったりする。


赤穂浪士たちの何が、日本人の心にこれほど刺さるのだろうか。誰もが知っているとおり、元禄14年(1701年)、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家で監督役であった吉良上野介に切りかかる刃傷(傷害)事件を起こし、ために幕府は直ちに内匠頭に切腹を命じ、浅野家は取りつぶしの処分を下される。一方的な幕府の裁定に納得できぬ赤穂藩の家臣たちは浪人となり、復讐のために雌伏の時を過ごすこと一年有余、ついに総大将の大石内蔵助を筆頭に47人の浪士(浪人)が吉良邸に討ち入りし憎き吉良の首を取り、亡き主君の本懐を遂げるドラマが「忠臣蔵」であり「赤穂浪士」である。今なら狂信的なテロ集団の組織的犯罪とでも云われる行為だが、公儀(幕府の法律)に反してまでも、忠義(主君や国家に対してまごころを尽くして仕えること=広辞苑)に尽くすところが、深く日本人の琴線に触れるのだろう。「俵星玄蕃」で「命惜しむな名をこそ惜しめ」とうたわれたように、いつの時代も赤穂浪士の志が軽佻浮薄の世を憂う人々に持て囃されるのである。(俵星玄蕃の話は後世に作られたものであるが・・・)


と云っても東京ではこれほど忠臣蔵ゆかりの地に詣でたにも関わらず、肝心な赤穂浪士のふるさと、播州赤穂の地はなかなか訪問する機会がなかった。なにせ東京から赤穂に行くには、新幹線なら「こだま」か一部の「ひかり」しか停車しない兵庫県の相生から、単線の赤穂線に乗り換えるしかなく、その赤穂線は昼間の時間帯には一時間に一本の運転頻度とあって、ちょっと寄ってみようかというわけには行かなかった。しかしいつまで待っていても、本当に行くには自ら行動を起こすしかチャンスは廻ってこない。シニア世代は、時間ならたっぷりあるのである。そう思っていたらたまたま先週末、海運関係の友人たちとしまなみ海道の(伊予)大島にある千年松の地に集まり気勢を上げる恒例の宴会に参加する機会があり、それなら往路に一日余分に日程をとっても念願の赤穂の町に寄り道しようと思いたった。


朝9時過ぎに播州赤穂駅に降り立てば、梅雨時期に関わらず曇り空から晴れ間がのぞき、暑さも感じぬそよ風で、なにやら赤穂義士たちに天から歓迎された気がする。駅からほど近く、ぶらぶらと歩ける範囲に浅野家や義士ゆかりの花岳寺、きれいに整備された赤穂城跡、大石内蔵助を祭った大石神社などが点在して、市内をゆっくり散策することができる。赤穂市立歴史博物館では、この町の上水道が江戸初期に開通し江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水」と呼ばれたこと、入浜塩田による製塩ではこの地がパイオニアであり、良質の塩を上方や江戸に送り出したことなど郷土の誇りが展示されていた。そう云えば吉良上野介の領地である三河でも製塩が行われていたので、塩の生産に関するトラブルで浅野内匠頭には吉良に遺恨があったという説もある。かつてドリフターズの志村扮する吉良が「 この赤穂の田舎侍めが・・・・」と加藤茶扮する浅野内匠頭をさんざん馬鹿にして、それがもとで「 おのれ吉良殿 !!」と加藤が刀を抜いて刃傷沙汰になるコントがあったが、「赤穂五万五千石」は決して田舎大名などではなく、産業を奨励した立派な殿様であり、それが赤穂浪士の忠君に結び着いたであろうと推測できた。しかしここまで来ると、さすがにインバウンドの外国人がほとんど見られないのが良い。忠義などはシナ人や朝鮮人には理解不能であろう。やはり忠臣蔵は日本人の心のふるさとである。

 

製塩の終わりの過程 石釜模型(赤穂市立歴史博物館)
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2024年7月10日 (水)

ディズニークルーズ日本に上陸

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ナッソーに入港する同年1月に就航した新造船「ディズニー・ドリーム」(2011年6月14日)

ディズニーランドやディズニーシーを運営するオリエンタルランドが、新造船を投入し2028年度からわが国でクルーズ事業を始めると発表した。2011年6月の下記ブログのように、かねてからディズニークルーズが日本に来ないかと勝手な期待を寄せていたが、我が願望が実現すると聞いてびっくりである。”ふじ丸”や初代”飛鳥”が本格的なクルーズに取り組んでから30数年、最近は各種の外国船も日本を中心とするクルーズを展開しているものの、どのフネも似たような旅程の上、カボタージュ規制(外国船は国内輸送のみはできないので外地に寄港する体裁が必要)で立ち寄らねばならない外地の港も韓国(釜山または済州島)か台湾(主に基隆)ばかりである。日本船、外国船とも国内の寄港先はクルーズ船の誘致に意欲的な港が中心となり、熱心なリピーターがいる一方、我々の場合は「あそこは何度も行ったからもういいかな」とクルーズラインアップの選択肢がかなり限られてきてしまった。


そんな時にオリエンタルランドは総額3300億円の投資をし、4000人の乗客を収容する14万トンの新造船、それも日本籍船を独・マイヤーヴェルフトで建造して2028年度からクルーズを展開するというから注目である。我々がディズニークルーズの楽しさを垣間見たのは、2011年と2018年に飛鳥Ⅱでナッソー(バハマ)に寄港した際に、すぐ真横に”ディズニードリーム”が着いた時だった。飛鳥Ⅱに続いて”ディズニードリーム”が岸壁に到着するやいなや「星に願いを」を模した汽笛を吹鳴し、多くの家族連れの乗客が華やいだ様子で下船してきたことを思いだす。その様子は2011年6月17日のブログ「クルーザーズ・オン・パレード」や、2018年6月18日の「ナッソーの客船天国」に記したとおりである。どちらかと云えば高齢者が多いクルーズ船の乗客のなかで、ディズニーの船から下船した人たちの若やいだ雰囲気がナッソーの町を一層愉し気にしたことが印象的で、それ以来ディズニーのような船が日本に来れば、我が国のクルーズ環境も大きく変わるだろうと密かに期待していたのである。


現在アメリカのディズニークルーズは14万トンのディズニーウイッシュクラス船を中心に、主にフロリダ半島をベースにナッソーやクルーズ専用の島であるキャスタウエイ・ケイ(バハマ)に寄港する3泊から4泊のショートクルーズを展開している。クルーズ業界のカテゴリーによるとスタンダード・カジュアル船に分類されており、大型船を使い、価格も家族連れで旅行できるリーズナブルな設定である。船内ではディズニーキャラクターたちとのダンスパーティや交流のほか、船上でしか観ることができないショーなどが催され、子供連れのファミリーを中心に3世代楽しめる工夫が凝らされている。日本で運航の暁には2泊から4泊の日程で10万円~30万円の価格帯で料金が設定されるというから、母港を出て沿岸・近海をグルーっと回る定点のカジュアルクルーズを催行するものと思われ、そのために船もわざわざ日本籍にしたのだろう。3世代乗船ならジジ・ババの財布の紐を緩ませるにも、これはちょうど良い価格だと云えよう。4000人もの客を乗せて価格を抑える方式にするために船体内側の窓無しキャビンも多いだろうが、乗船自体が目的のこのようなクルーズならそれでも十分船旅を愉しめるから、なかなかうまい線をついていると思う。

 

多くの乗客が上下船するとなると、それに対応できる母港がどこになるのかが気にかかる。遠浅の浦安では浚渫が必要で直ちに施設が造れないとなると、ゲートウエイブリッジを利用してディズニーランドやディズニシーにほど近い東京港お台場地区の新クルーズターミナルを関係者は念頭に置いているのか。とすれば今の公共交通機関である「ゆりかもめ」ではキャパシティ不足と思われるが、浦安側でチェックイン・アウトをしてバスを利用するオペレーションを予定しているのかもしれない。はたまた京葉線沿線の千葉港の一画に新ターミナルでも準備するのか? クルーズの寄港地については伊豆諸島の一つでも借り受け、本船は沖止めとし夢が溢れるようなテンダーボートで上陸し、ディズニークルーズの専用ビーチを作り、日本版キャスタウエイ・ケイにしたらさぞ楽しいのではないだろうか。もしこの様な案が実現したら子供たちの笑顔が目に浮かびそうだ。2028年の就航に向けて今後さまざまな発表がなされるだろうが、いろいろと勝手な想像を廻らしていると、シニア世代の我々夫婦でも是非とも乗船したいという気になってきた。

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「ディズニー・ドリーム」の船尾キャラはミッキーマウスと箒

2024年7月 7日 (日)

KT50 慶應義塾體育会同期会と第100回早慶対抗陸上記念祝賀会

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相変わらずのサスペンダー姿 早慶対抗陸上祝賀会でスピーチする河野太郎大臣

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河野大臣に絡んで大ウケした早稲田OB会長の瀬古利彦氏

武漢ウイルス禍で2020年以来、4年間中止になっていた體育會36部の同期卒業者の会(KT50)が、日吉キャンパスのファカルティラウンジで昨日開催された。この4年間の物故者が19名あったという事だが、地方に住んでいる者も多いなか、大学卒業から50年経っても、総勢330名のうち110名が参加したというから立派な出席率と云える。どうやら皆、この会の再開を心待ちにしていたようで、今回はいつものメンバーに加えて、初出席の顔が多数あったのが目立った。これまで企業の役員などを勤めてきた者、或いは地方の工場などで長らく現場を離れられなかった者などが、やっと70歳を過ぎて任を解かれ出席できるようになったようだ。前後の代の同期会では出席者が少なくなり開催できなくなった世代もあると云うから、我々の学年はとても集まりが良いということになる。卒業当時は、野球や蹴球(ラグビー)などは戦力の谷間とも云える時代で、圧倒的なヒーローがいなかった故に、却って皆の結束が固いのかもしれない。(リンク2019年7月6日:KT50 慶應義塾體育会同期会)

かねてより顔だけは知っていても、なかなか話かけるチャンスがなかった他部の者同士も、「同じ釜のメシを喰った仲間」となるのだろうか、お互い目が合うと、今の現役部員の活躍や共通の友人の話題、合宿所のメシや賄のオバサンなどの昔話などで盛り上がる。70歳をとっくに過ぎてしまえば、もう裃を着ている必要もなくなったという感じであろう。最後に皆で会った5年前と比べて、今回は格段に他部の出席者との距離が縮み、和気藹々とした会場の雰囲気になったことが印象的だった。最近の體育會はラクロスなど新しい競技も増えたし、100名を越す部員を擁する部も多いが、当時は野球部や蹴球部や我が競走部のような大きな部でも部員は60人ほどとあって、同期は各部ともせいぜい10数人程度だった。学園紛争が吹き荒れたあの時代、大方の大学生とは反対に弊衣破帽、デモも勉強もせずスポーツに打ち込む生活をしてきた数少ない仲間とあって、老いて同期の絆は年々強まるようだ。


この日はたまたま昼間に第100回早慶対抗陸上競技会が同じ日吉の陸上競技場で行われ、試合後は学生食堂で記念祝賀会が行われたので、同期会に参加した我々競走部の仲間は、引き続き祝賀会へと両パーティ掛け持ちとなった。対抗試合の方は慶應の主将・豊田君がパリオリンピック準備のため出場を見合わせるなか、早稲田大学は4x200米リレーで日本新記録を出すなど、実力と層の厚さの違いを見せつけて慶應を下したが、夜に行われた祝賀会は、両校部員の他、関係者やOBなどが多数出席して大いに盛りあがった。当日は、陸上の試合中から何やら目つきの鋭い短髪・黒い背広姿の男たちがキャンパスのそこかしこに立っているのを不思議に思っていたら、早稲田大学競走部OBの河野洋平元衆院議長と慶應OBの河野太郎デジタル担当大臣の親子観戦とパーティ出席のために、周囲の警戒にあたるSPであった。


河野太郎氏は祝賀会のスピーチで「 慶應大学の競走部は中退です。でも慶応高校競走部時代に国立競技場で行われた早慶戦のオープン競技の5000米で、瀬古選手と一緒に走りました。後ろから来た瀬古選手にあっと云う間に抜かれたと思ったら、実は私は1周遅れでした」とウケを取ると、やおら早稲田大学競走部のOB会長である瀬古利彦氏がマイクを奪い「あれは1周ではなく、2周か3周遅れです」とまぜ返してワーッと会場が盛り上がる。政治家としての河野親子には許せない部分も多いが、これもいっときのご愛嬌と一応拍手を送っておいた。それにしても高校に続き、大学に入ってたかだか4年間、若い日に運動をやっただけで、70歳を過ぎた今も、同期の皆や世代を超えた早慶の多くの仲間と喜びを共有できるとは何と幸せなことだろう。運動部を卒業して良かったとの思いと、肉体的にも経済的にもそういう境遇を享受できた僥倖に改めて感謝した一日だった。

2024年7月 1日 (月)

豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)

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週末は新潟で行われた第108回日本陸上競技選選手権大会をTV観戦して楽しんだ。この大会、何と云っても400米ハードルで競走部後輩の豊田兼君(4年・桐朋)が47秒99の好記録で優勝し、今夏のパリオリンピック大会の出場切符を手にしたのが嬉しかった。競走部からは2000年のシドニーオリンピックに競歩の小池昭彦君が出場、2004年アテネ大会、2008年北京大会を除き、山形亮太君や横田真人君らが2012年ロンドン、2016年リオ、2021年東京大会と続けてオリンピックに選手に選ばれており、豊田君の出場で4大会連続と記録がまた伸びることになった。次の週末には武漢ウイルス感染騒動後、5年ぶりに體育會の39部を一緒に卒業したOB一同が集まる同期会が行われるが、総勢100名以上の他部参加者の前で後輩たちの活躍に我々競走部のOBはちょっと鼻が高い。


私自身、現役時代は大した選手ではなかったが、ビールを片手にテレビ画面に映しだされる選手達の姿を眺めていると、当時の色々なことが頭に浮かんで来る。あの頃のレースはアンツーカーやシンダーの土の上で行われていたので、私が走った中・長距離のレースでは昨日のような雨の日には、前後の選手の跳ね揚げで全身泥まみれになったものだ。当時は土のトラック用にスパイクの針が長かったため、集団で走ると前の選手のスパイクで脛を削られて、膝から下が血だらけということもあった。今は全天候トラックとなってあの頃より雨の日でも記録の落ちがぐっと少ないのだろう。また最近は女子選手も多くなり、そのユニフォームもカラフルになって陸上競技の大会も華やかになったことが画面から伝わってくる。なにしろ、かつては800米を超えるトラック競技は女性には過酷すぎると云われ、種目がなかったのだから時代は変わるものだ。(因みに女子種目の1500米は昭和44年(1969)、5000米は平成9年(1997)、三段跳びは昭和62年(1987年)、棒高跳びは平成7年(1995年)から日本選手権の実施種目になっている。)

 

昨日もテレビで女子の中・長距離レースを観戦しているうち、つい身が入って「このペースなら50年前のオレなら集団について行って最後のスパートで優勝できたな」などとつい口走ってしまうのだが、傍らの妻は「女子と比べることになんか意味があるの」となんとも冷ややかである。一方で男子800米決勝では社会人のベテラン選手たちがマイペースに徹し、高校2年生の落合選手の先行逃げ切りに対応もしなかったので、「大の大人が策もなく高校生に負けてどうすんだ、高校生なんぞに絶対負けられるかという気概をもって走れよ」「こういう時はだな、最後の直線に入るまで彼を集団でポケットして前に出させないんだ」とつい鼻息荒く語ってしまった。聞いていた妻は「高校生にそんな意地悪するものなの?やぁねぇ」と思わぬところで面白がっていた。


最近いつも感心するのは800米から5000米まで多種目に積極的な挑む田中希美選手のチャレンジ精神。特に土曜日は800米の予選を走り、その1時間半後に5000米決勝を走るというふつうは考えられない間隔でレースをこなしたのには驚いた。彼女はよほど強靭なメンタルと大きな目標を持って競技に励んでいるに違いない。この心意気があれば、いつの日かもう一皮むけて国際的にも有名な大選手になることだろう。その反対に日本の男子跳躍陣はどうも覇気がなく、走り幅跳びの今回の優勝記録は7米95と8米にも届かなかったのはなんとも不甲斐ない。山田宏臣氏が8米01を跳んだのは「地獄のジャンプ(2008年5月20日投稿)」1970年と今から54年も前のことであり、1969年(昭和44年)の日本選手権の優勝記録は7米90だから、その当時から走り幅跳びはあまり進歩していないようだ。雨の影響があったことはわかるが、棒高跳びや走高跳の記録も然り。何十年も記録が伸びないのは、跳躍選手の発掘・育成になにか欠陥があるのではなかろうか。いずれにしてもオリンピック・パリ大会は間もなく開幕である。4年に一度(今回は東京以後3年)の熱い夏がやってきた。

 

男子800米 高校生の落合君が独走(Youtubeの日本陸連チャンネルより)
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