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2024年7月

2024年7月26日 (金)

第95回都市対抗野球大会 伏木海陸運送 vs 三菱重工East

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ビール片手に社会人野球観戦

取引先の要請で、久しぶりに東京ドームに第95回都市対抗野球野球大会の応援に行ってきた。応援するのは北信越代表、富山県高岡市の伏木海陸運送で、この会社は港湾荷役を中心とする地場の総合物流会社である。東京など大都市ではあまり知られていないが、港湾荷役や地方の大手物流業者は地元で大変な勢力を持つ有力企業であることが多く、このチームも3年ぶりだがこれまで6回の出場を誇る社会人野球の名門である。この日対する相手は強豪の横浜市代表の三菱重工 Eastで、平日の昼下がりにも関わらずドーム球場には、会社の関係者や取引先、それに地元からの応援団など大勢の観客が集まった。


都市対抗野球と云えば、思い出すのは1970年代から80年代にかけて我が国の鉄鋼業が最盛期の時代のことである。当時は南は八幡や大分から北は室蘭まで多くの大手製鉄会社の野球チームが予選を勝ち抜き、まだドームになる前の旧後楽園球場に勢揃いしていた。私は新入社員の最初の配属先が製鉄原料船の部だったため、この時期になると動員をかけられ、部長以下皆で仕事を調整しあって球場に駆け付けたものだった。今でも社会人野球を見ていると『♪ 新日鉄、新日鉄、新ニッーテーツ、ニッポンスティール、GO,GO,GO !!♪』だとか 『# 日鉄、日鉄、新ニッーテーツ、鉄の団結!!♭』などとあの頃繰り返した応援歌のフレーズが頭に蘇る。


当時ナイトゲームとなる第3試合や第4試合以外は、試合が終われば会社に戻らねばならなかったが、オフィスにいるより野球を見ていほうが何倍も楽である。出欠確認の如く「 ちゃんと応援に来てますよ」と相手の担当者を見つけて声をかければ目的を達したようなもので、炎天下の後楽園球場でビールを飲みつつ、延長戦にでもなってくれれば会社に戻るのはさらにゆっくりでよいとほくそえみながら観戦をしたことを思い出す。応援したチームによってはちょっとした土産品が配られることもあり、特に80年代、全農から要請された秋田県経済連チームの応援では、一合入り米パックや食料品が入ったバッグを貰ったものだ。


都市対抗と云えば応援合戦も見もので、ローカル色を前面に押し出した応援団を見ているだけで楽しい。伏木海陸の試合でも駆け付けた高岡市長の挨拶や市歌斉唱、それにハッピを来た踊り手による地元の踊りなどがベンチ上で披露され、ドームでの夏祭りの雰囲気である。野球が共同体の繋がりを一つにする手段になるのは我が国独自の文化だ。試合は三菱重工 Eastの補強選手(都市対抗では予選が同じ地区の他チームから3名補強できる)である東芝の下山選手が2本のソロホームランを打ち、善戦したものの伏木海陸は2対0で敗れてしまった。下山と云えば2年前の慶應大学野球部の主将で、慶応高校~大学の下級生の頃は注目されていたが、主将になった4年時には重圧によるのか今一歩精彩がなかった記憶がある。そんな彼が一回り成長して大活躍する場面を目の当たりにし、嬉しいような気持ちと、「おいおい、ホームランは今日じゃなく早慶戦でやってくれれば良かったのに」と複雑な気持ちがしたが、大学野球選手のその後を見るのもまた社会人野球観戦の楽しみである。

2024年7月22日 (月)

まずトランプになった 来年は日本の覚悟も試される

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民主党が強いカリフォルニアでも銃撃事件直後にはトランプ支持の行進が( ロス留学中の姪が送って来た写真)

 

銃撃されて耳から血をだしながらも「FIGHT、FIGHT、FIGHT !」と3回叫び、こぶしを突き上げたトランプ氏の映像を見て、おもわずかつての漫画 ”嗚呼花の応援団” 薬痴寺先輩の「 役者やのォー !」との名言を思い出した。我々世代以上のアメリカ人ならジーン・オートリー(GENE AUTRY)のCOWBOY CODEを思い出したかもしれない(下記)。普通なら腰が抜けてしまいとても立ち上がれない場面なのに、この強さがあれば、もし核戦争などの危機が来ても、きっとブレずに行動するはずとの確信を米国民に抱かせる闘志であった。常人にはとても真似のできない千両役者である。これで大統領選においてボケが目立つバイデン氏に一層差をつけるだろうと思っていたら、バイデン氏が次期大統領選から撤退するとついに発表した。


こうなると民主党の大統領選候補者は「 笑ってごまかすしか能のない」(島田洋一・福井大学名誉教授)極左のカマラ・ハリス氏とあって、共和党のトランプ氏が次期大統領に当選する確率がぐっと高まった。「ほぼトラ」から、「まずトラ」になったわけだ。以前にも何度もアップしたとおり、これは世界的なグローバリズム勢力の後退と国家保守主義者の巻き返しのダイナミズムの一環である。「まずトラ」から、この秋に彼が大統領となった暁には何が起きるのだろうか?。共和党が先ごろ発表した大規模減税の綱領については、そう簡単に実現できるかは見通せないが、トランプ氏は外国からの輸入品に一律10%の関税、特に中国製品には60%超の関税をかけ、中国の最恵国待遇も取り消しすと云うから何とも頼もしい。


共和党は地球温暖化対策に関する諸策に反対し、石油や天然ガスの掘削を推進、大幅増産を目指すとともに、EV普及化にもネガティブであることを掲げている。またトランプ氏自身は「性別は男子と女子のみ」として、LGBT擁護を嫌いジェンダー議論を駆逐することも明らかにしている。両主張とも、これで一儲けしようと世界で画策する勢力を一蹴する極めて真っ当なものだと云えよう。まるで米国社会にマッチョなカウボーイが再来したようだ。The Cowboy is a patriotである。さて現バイデン政権の代理人であるエマニュエル駐日大使の手先となり、「バイデンのポチ」と呼ばれてきたのが岸田首相だ。LGBT法案を制定し「 共生社会と人権」を掲げて事実上の移民政策を始めた他、国民には何の説明もなくウクライナ支援に何千億円もの日本のカネをつぎ込むグローバリストの岸田首相(来年は退陣しているだろうが)や、もはや保守ではなくなった自民党は、来年から一体どうやってトランプ新政権と対峙していくつもりであろうか。


トランプ政権が実現すれば、トランプ氏の盟友であった安倍さん亡きあと、日本にも大変な国難がやってくることが予想される。現在2.5%の日本製自動車に関わる米輸入関税が引き上げられることが考えられるほか、様々な貿易障壁が高くなることは確かだ。また安全保障の分野では、米国一国主義のトランプ氏に続き、ヴアンス副大統領候補も同盟国に一層の責任分担を求める考えの持ち主だと云われる。トランプ氏はすでにアメリカの負担軽減のために、2016年には日韓は独自で核兵器を保有することまで容認する発言をしている。尖閣諸島はもとより「台湾有事」とあっても、まずは日本の自衛隊が前面で対処することを覚悟しておかねばならない。そうなれば日本国内は、媚中・親中派と、親米派の間に大きな亀裂が生じ、国論が2分することになろう。来年は大東亜戦争終結から80年となる。「平和憲法さえ守っていれば安心」とのお花畑思考がいよいよ、試練の時を迎えることになる。トランプ大統領の再選がまず確実となったいま、返す返すも安倍さんがいないことが悔やまれるが、これは日本が真の独立を得る良い機会でもある。

 

COWBOY CODE

1.The Cowboy must never shoot first, hit a smaller man, or take unfair advantage.
2.He must never go back on his word, or a trust confided in him.
3.He must always tell the truth.
4.He must be gentle with children, the elderly, and animals.
5.He must not advocate or possess racially or religiously intolerant ideas.
6.He must help people in distress.
7.He must be a good worker.
8.He must keep himself clean in thought, speech, action, and personal habits.
9.He must respect women, parents, and his nation's laws.
10.The Cowboy is a patriot.

2024年7月19日 (金)

運転免許 高齢者講習

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70歳になって数年経ち、今年の年末には運転免許の書き換えだなぁ、と思っていたら、突如「 免許証更新のための講習のお知らせ(重要)」なる葉書が警視庁より送られてきた。高齢者の免許更新が面倒になるとは聞いていたが、てっきり75歳以上の問題だとばっかり思っていたのでびっくりである。綴じ込みの葉書を開封すると「 70歳以上になる方で、(運転免許の)更新を希望される方は、更新手続き前に、( 免許有効期限の6カ月前から)高齢者講習等を裏面記載のいずれかの場所で受講して下さい」とあり、裏面には都内の教習所42か所の住所や電話番号の一覧表が記載されていた。75歳になる前でも何かしなきゃならないのか、とがっかりしながら、葉書の文面を読むと、リストにある教習所のどこかに自分で電話をかけてアポイントをとり、「 高齢者講習」なるものを受けなければ、次の免許更新手続きに入れない仕組みになったようだ。


教習所に今さら行かねばならないとはなんのこっちゃ?と悪態をつきつつネットで警視庁の情報などを検索すると、令和4年5月の施行により無事故無違反のドライバーでも、70歳を超えたら免許証更新時には必ず高齢者講習を受けねばならぬことになったとある。高齢者講習の会場はどこも混んでいるのでとにかく早めの予約が必要で、都内の便利な場所にある教習所はすでに8月~9月くらいまで予約で一杯のところもあるとのことだ。妻は日頃、私の運転は安心でうまいと誉めてくれるし、毎日ピアノを弾いてジョギングをし、今は週に一度は水泳と社交ダンスをこなしているから、運動神経や認知にはまったく問題なしだと自分では思っているのだが、税務署や警察などの公権力にはからきし弱い私である。「なんとも面倒だなあ」と思わずため息が漏れ出たものの、法律とあればこれも仕方がない、さっさとやってしまおうと諦め、一番早く予約がとれた都内23区の西のはずれにある私鉄某駅に近い教習所で講習を受けることにした。


まったく地縁のない郊外の教習所だったが、50数年ぶりに身近に練習コースを見つつ建物に入ると、昔と違って中は随分と明るくモダンである。我々が免許をとった頃は、イジワルで嫌味タラタラの教員が多く(今なら間違いなくパワハラ)、その物言いにアタマに来てフロントに文句を言いに行ったことも幾度もあったが、最近の教習所の雰囲気は大分違っていて、若い教習生たちが伸び伸びと運転練習に励む様子がうかがえる。指定された時間になり、一般の免許証取得者と異なる別室に通された高齢者は男女5名。まずは受講料8000円の徴収に始まり、教官からこの講習の意味や最近の道交法のポイントに関する講義である。昔と大きく違って教官の講義はユーモアを交えひどく丁寧なのだが、これは我ら年長のジジイ・ババアに敬意を表したものか、はたまた最近の風潮なのか、身構えていたこちらもやや肩透かしである。いま運転で注意すべきポイントは、クルマが動いている間はいかなることがあってもスマホを操作することの禁止と、横断歩道及びその付近での歩行者の絶対優先を心がけるべしのことである。


続いて別室に移って目の検査が行われ、普通の視力検査の他に視野角度の測定、動体視力や夜間視力の測定と生まれて初めての検査を種々行う。いろいろな視力を測定する機械の前に座らされたが、8000円も払ったのだから普段は経験できない検査をいろいろしてよとの開き直りの気持ちである。講習の最後は教官が教習車(オートマ)の助手席に乗り、講習所内のコースを高齢者一人一人、各々10分~15分ほど運転する実技走行であった。例によってS字クランクや一時停止など50年数前を思い出す懐かしい実習だったが、段差に乗り上げた直後に直ちにブレーキを踏みクルマを停車させる実技もあって、これは昨今の老人のブレーキ踏み間違いによる事故を想定したものに違いない。これらの検査や実技走行はあくまで合否を判定するテストではなく、高齢者のための講習という位置付けだそうだ。こうして2時間余、めでたく「運転免許取得者等教習(高齢者講習同等)修了証書」を取得することが出来たが、この証書があれば来たる次回の免許更新手続きは、以前より簡単に済むそうである。

 

さて当日配布された資料によると、運転免許保有者1万人当たりの死亡事故件数は、年代別にみると70歳~74歳で0.29件であり、これは25歳~29歳を除き他の年代とまったく同等かまたは低い事が示されている。逆に16歳~24歳は0.43件と危険率が極めて高いことが明らかで、講習が必要なのは70~74歳より寧ろそちらの方である。メディアによる「 高齢者の運転が危険」とのいい加減な報道にも押されて、70歳からこのような講習が行われるようになったようだが、75歳になれば免許更新時にもっと厳しい手続きが待っているとのこと。行政は高齢者の運転を抑制する方向にもって行きたい意図がありありだが、一方で高齢者医学の専門医である和田秀樹医師は常々「 高齢者の免許返納などもっての他」と声を大にして叫んでいる。当日の講習会に参加した高齢者5名は皆ピンピンとあって、年齢による一方的差別とも云える恣意的な行政は如何なものかというのが講習会後の率直な感想である。「人間が犬を噛めばニュースだが、犬が人間を噛めばニュースにならない」とはよく言われることだ。たまたま起きた高齢者による事故はセンセーショナルでニュースにはなるが、統計的に本当に高齢者の運転は他の世代より危険なのか、有意の確率で重大事故を起こすものなのか?(例えば免許保有者1万人当たりの事故率といっても実際に運転している人とペーパードライバーの比率が各年代でどう異なるかデータが示されていない)、高齢者の増加という基本的要因も加味して真剣な議論が展開されることを望みたい。

2024年7月16日 (火)

500系「こだま」6号車乗車

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ちょうど一年前、しまなみ海道沿いの大島・千年松で行われた宴会に妻と出席し、帰りに500系「こだま」に乗ろうとしたところ、梅雨末期の豪雨で山陽新幹線のダイヤが大きく乱れ、これに乗車がかなわなかった。いつかはリベンジをと機会を探っていたが、一年経過して同じ宴会に妻と共に招待されたのを機に、今年は福山から新大阪まで500系の「こだま」に乗車することにした。かつて「のぞみ」に使われ東京までこの車両が来ていた頃、出張でさんざん乗ったので私は特段の思い入れはないが、JR西日本に残る500系6編成のうち、4編成は2024年~26年に引退と発表されているため、乗るなら今のうちと妻のたっての希望である。「のぞみ」時代の16両編成から今は8両編成になり山陽区間だけで運転される500系「こだま」のうち、6号車の普通車指定席は旧グリーン車がそのまま充てられているので、予め6号車を予約して乗車することにした。


500系新幹線は、山陽新幹線の300キロ運転を念頭に当時の最新技術を投入し、JR西日本によって1996年に登場した。高速運転を可能にすると共にトンネル内の気圧差や空力上の問題解決の為に、先頭車はロケットのような形状とし、車両の断面積も他の形式より小さく円筒状になっているのが特徴。この車両はデビュー当時は、鉄道ブルーリボン賞やグッドデザイン賞を受け(ウィキペディア)、巷で話題になったものだった。新製価格は一編成46億円だったとのことで、これは船なら中型~大型の外航貨物船1隻、航空機ならボーイング737の中古機ほどになるが、登場して30年近く経過しているため、いまでは減価償却も終わっていることだろう。普通車のシートピッチは現在のN700系の1040ミリに対して1020ミリとやや短いため、かつて西日本に出張する際に「のぞみ」5号(東京駅発07:52)をしばしば利用したが、なんだか狭くてごつごつした乗り心地だった記憶がある。


今回はしまなみ街道をドライブしたレンタカーを福山駅で返して、15時31分の500系「こだま」854号に乗車である。今では一日に「こだま」7列車のみ、そのうち博多/岡山間の運転が5本とあって、福山から新大阪まで行くのは一日2本のみとなる妻が切望の500系だ。最近は東海道・山陽新幹線では車内販売がないので、運転から解放されビールやつまみを福山駅で買いこんでホームに。山陽新幹線には500系のほかにN700系、700系ひかりレールスター、九州新幹線のN700系7000番台も運転されており、福山駅の停車列車や通過列車を眺めるのも楽しい。やってきた500系旧グリーン車の6号車は、シートピッチが1160ミリとゆったり仕様で、リクライニングの角度も深い。ただ床は絨毯張りからリノリウムになり、オーディオサービスのイヤホン差し込み口はパネルで覆われ、フットレストや読書灯が撤去されたのはさすがに仕方あるまい。加速も最新のN700Sに較べるとゆったりという感じがしたが、最近の電子制御満載感より無闇に旅を急かされていない感覚である。こうして新大阪までの2時間弱、ビール片手にゆったりと各駅に停車する「こだま」の旅を楽しんだ。車両運用上は、なるべく性能や仕様が揃った形式を揃えるのが効率的なのだろうが、名車である500系の退役が進むのはちょっと哀しい気持ちもする。これでやっと一年越しに妻との約束を果たし、ホッ!。

こだま854・旧グリーン車の6号車
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2024年7月14日 (日)

播州赤穂 訪問

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赤穂城 本丸への城門

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当時の建物が現存する大石邸長屋門


忠臣蔵に興味を持つようになったのは、子供のころ(昭和39年)にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」を見てからだ。長谷川一夫演じる大石内蔵助の「 おのおのがた、討ち入りでござる 」という名セリフ、滝沢修のなんとも憎々しい吉良上野介、宇野重吉演ずる蜘蛛の甚十郎の暗躍などを今でもよく覚えている。当時さっそく大佛次郎の原作「赤穂浪士」の文庫本を買って読んだし、その後も事あるごとに忠臣蔵ゆかりの地を訪ねるのが好きだった。本所松坂町の吉良邸「江戸散策その4(2008年11月16日)」や新橋の浅野内匠頭の切腹終焉の地「12月14日 赤穂浪士の討ち入り(2018年12月14日)」、高田馬場の堀部安兵衛の決闘「高田馬場の決闘(2020年6月22日)」の場所を訪ねたことは過去のブログにアップした通りで、その他にも品川の泉岳寺にある四十七士の墓にお参りしたこともある。三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜・俵星玄蕃」は全曲暗記しており、ドライブ中に渋滞にはまると一人クルマの中でハンドルを握りつ 「♪ 槍は錆びてもこの名は錆びぬ~♯」と唸ったりする。


赤穂浪士たちの何が、日本人の心にこれほど刺さるのだろうか。誰もが知っているとおり、元禄14年(1701年)、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家で監督役であった吉良上野介に切りかかる刃傷(傷害)事件を起こし、ために幕府は直ちに内匠頭に切腹を命じ、浅野家は取りつぶしの処分を下される。一方的な幕府の裁定に納得できぬ赤穂藩の家臣たちは浪人となり、復讐のために雌伏の時を過ごすこと一年有余、ついに総大将の大石内蔵助を筆頭に47人の浪士(浪人)が吉良邸に討ち入りし憎き吉良の首を取り、亡き主君の本懐を遂げるドラマが「忠臣蔵」であり「赤穂浪士」である。今なら狂信的なテロ集団の組織的犯罪とでも云われる行為だが、公儀(幕府の法律)に反してまでも、忠義(主君や国家に対してまごころを尽くして仕えること=広辞苑)に尽くすところが、深く日本人の琴線に触れるのだろう。「俵星玄蕃」で「命惜しむな名をこそ惜しめ」とうたわれたように、いつの時代も赤穂浪士の志が軽佻浮薄の世を憂う人々に持て囃されるのである。(俵星玄蕃の話は後世に作られたものであるが・・・)


と云っても東京ではこれほど忠臣蔵ゆかりの地に詣でたにも関わらず、肝心な赤穂浪士のふるさと、播州赤穂の地はなかなか訪問する機会がなかった。なにせ東京から赤穂に行くには、新幹線なら「こだま」か一部の「ひかり」しか停車しない兵庫県の相生から、単線の赤穂線に乗り換えるしかなく、その赤穂線は昼間の時間帯には一時間に一本の運転頻度とあって、ちょっと寄ってみようかというわけには行かなかった。しかしいつまで待っていても、本当に行くには自ら行動を起こすしかチャンスは廻ってこない。シニア世代は、時間ならたっぷりあるのである。そう思っていたらたまたま先週末、海運関係の友人たちとしまなみ海道の(伊予)大島にある千年松の地に集まり気勢を上げる恒例の宴会に参加する機会があり、それなら往路に一日余分に日程をとっても念願の赤穂の町に寄り道しようと思いたった。


朝9時過ぎに播州赤穂駅に降り立てば、梅雨時期に関わらず曇り空から晴れ間がのぞき、暑さも感じぬそよ風で、なにやら赤穂義士たちに天から歓迎された気がする。駅からほど近く、ぶらぶらと歩ける範囲に浅野家や義士ゆかりの花岳寺、きれいに整備された赤穂城跡、大石内蔵助を祭った大石神社などが点在して、市内をゆっくり散策することができる。赤穂市立歴史博物館では、この町の上水道が江戸初期に開通し江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水」と呼ばれたこと、入浜塩田による製塩ではこの地がパイオニアであり、良質の塩を上方や江戸に送り出したことなど郷土の誇りが展示されていた。そう云えば吉良上野介の領地である三河でも製塩が行われていたので、塩の生産に関するトラブルで浅野内匠頭には吉良に遺恨があったという説もある。かつてドリフターズの志村扮する吉良が「 この赤穂の田舎侍めが・・・・」と加藤茶扮する浅野内匠頭をさんざん馬鹿にして、それがもとで「 おのれ吉良殿 !!」と加藤が刀を抜いて刃傷沙汰になるコントがあったが、「赤穂五万五千石」は決して田舎大名などではなく、産業を奨励した立派な殿様であり、それが赤穂浪士の忠君に結び着いたであろうと推測できた。しかしここまで来ると、さすがにインバウンドの外国人がほとんど見られないのが良い。忠義などはシナ人や朝鮮人には理解不能であろう。やはり忠臣蔵は日本人の心のふるさとである。

 

製塩の終わりの過程 石釜模型(赤穂市立歴史博物館)
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2024年7月10日 (水)

ディズニークルーズ日本に上陸

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ナッソーに入港する同年1月に就航した新造船「ディズニー・ドリーム」(2011年6月14日)

ディズニーランドやディズニーシーを運営するオリエンタルランドが、新造船を投入し2028年度からわが国でクルーズ事業を始めると発表した。2011年6月の下記ブログのように、かねてからディズニークルーズが日本に来ないかと勝手な期待を寄せていたが、我が願望が実現すると聞いてびっくりである。”ふじ丸”や初代”飛鳥”が本格的なクルーズに取り組んでから30数年、最近は各種の外国船も日本を中心とするクルーズを展開しているものの、どのフネも似たような旅程の上、カボタージュ規制(外国船は国内輸送のみはできないので外地に寄港する体裁が必要)で立ち寄らねばならない外地の港も韓国(釜山または済州島)か台湾(主に基隆)ばかりである。日本船、外国船とも国内の寄港先はクルーズ船の誘致に意欲的な港が中心となり、熱心なリピーターがいる一方、我々の場合は「あそこは何度も行ったからもういいかな」とクルーズラインアップの選択肢がかなり限られてきてしまった。


そんな時にオリエンタルランドは総額3300億円の投資をし、4000人の乗客を収容する14万トンの新造船、それも日本籍船を独・マイヤーヴェルフトで建造して2028年度からクルーズを展開するというから注目である。我々がディズニークルーズの楽しさを垣間見たのは、2011年と2018年に飛鳥Ⅱでナッソー(バハマ)に寄港した際に、すぐ真横に”ディズニードリーム”が着いた時だった。飛鳥Ⅱに続いて”ディズニードリーム”が岸壁に到着するやいなや「星に願いを」を模した汽笛を吹鳴し、多くの家族連れの乗客が華やいだ様子で下船してきたことを思いだす。その様子は2011年6月17日のブログ「クルーザーズ・オン・パレード」や、2018年6月18日の「ナッソーの客船天国」に記したとおりである。どちらかと云えば高齢者が多いクルーズ船の乗客のなかで、ディズニーの船から下船した人たちの若やいだ雰囲気がナッソーの町を一層愉し気にしたことが印象的で、それ以来ディズニーのような船が日本に来れば、我が国のクルーズ環境も大きく変わるだろうと密かに期待していたのである。


現在アメリカのディズニークルーズは14万トンのディズニーウイッシュクラス船を中心に、主にフロリダ半島をベースにナッソーやクルーズ専用の島であるキャスタウエイ・ケイ(バハマ)に寄港する3泊から4泊のショートクルーズを展開している。クルーズ業界のカテゴリーによるとスタンダード・カジュアル船に分類されており、大型船を使い、価格も家族連れで旅行できるリーズナブルな設定である。船内ではディズニーキャラクターたちとのダンスパーティや交流のほか、船上でしか観ることができないショーなどが催され、子供連れのファミリーを中心に3世代楽しめる工夫が凝らされている。日本で運航の暁には2泊から4泊の日程で10万円~30万円の価格帯で料金が設定されるというから、母港を出て沿岸・近海をグルーっと回る定点のカジュアルクルーズを催行するものと思われ、そのために船もわざわざ日本籍にしたのだろう。3世代乗船ならジジ・ババの財布の紐を緩ませるにも、これはちょうど良い価格だと云えよう。4000人もの客を乗せて価格を抑える方式にするために船体内側の窓無しキャビンも多いだろうが、乗船自体が目的のこのようなクルーズならそれでも十分船旅を愉しめるから、なかなかうまい線をついていると思う。

 

多くの乗客が上下船するとなると、それに対応できる母港がどこになるのかが気にかかる。遠浅の浦安では浚渫が必要で直ちに施設が造れないとなると、ゲートウエイブリッジを利用してディズニーランドやディズニシーにほど近い東京港お台場地区の新クルーズターミナルを関係者は念頭に置いているのか。とすれば今の公共交通機関である「ゆりかもめ」ではキャパシティ不足と思われるが、浦安側でチェックイン・アウトをしてバスを利用するオペレーションを予定しているのかもしれない。はたまた京葉線沿線の千葉港の一画に新ターミナルでも準備するのか? クルーズの寄港地については伊豆諸島の一つでも借り受け、本船は沖止めとし夢が溢れるようなテンダーボートで上陸し、ディズニークルーズの専用ビーチを作り、日本版キャスタウエイ・ケイにしたらさぞ楽しいのではないだろうか。もしこの様な案が実現したら子供たちの笑顔が目に浮かびそうだ。2028年の就航に向けて今後さまざまな発表がなされるだろうが、いろいろと勝手な想像を廻らしていると、シニア世代の我々夫婦でも是非とも乗船したいという気になってきた。

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「ディズニー・ドリーム」の船尾キャラはミッキーマウスと箒

2024年7月 7日 (日)

KT50 慶應義塾體育会同期会と第100回早慶対抗陸上記念祝賀会

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相変わらずのサスペンダー姿 早慶対抗陸上祝賀会でスピーチする河野太郎大臣

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河野大臣に絡んで大ウケした早稲田OB会長の瀬古利彦氏

武漢ウイルス禍で2020年以来、4年間中止になっていた體育會36部の同期卒業者の会(KT50)が、日吉キャンパスのファカルティラウンジで昨日開催された。この4年間の物故者が19名あったという事だが、地方に住んでいる者も多いなか、大学卒業から50年経っても、総勢330名のうち110名が参加したというから立派な出席率と云える。どうやら皆、この会の再開を心待ちにしていたようで、今回はいつものメンバーに加えて、初出席の顔が多数あったのが目立った。これまで企業の役員などを勤めてきた者、或いは地方の工場などで長らく現場を離れられなかった者などが、やっと70歳を過ぎて任を解かれ出席できるようになったようだ。前後の代の同期会では出席者が少なくなり開催できなくなった世代もあると云うから、我々の学年はとても集まりが良いということになる。卒業当時は、野球や蹴球(ラグビー)などは戦力の谷間とも云える時代で、圧倒的なヒーローがいなかった故に、却って皆の結束が固いのかもしれない。(リンク2019年7月6日:KT50 慶應義塾體育会同期会)

かねてより顔だけは知っていても、なかなか話かけるチャンスがなかった他部の者同士も、「同じ釜のメシを喰った仲間」となるのだろうか、お互い目が合うと、今の現役部員の活躍や共通の友人の話題、合宿所のメシや賄のオバサンなどの昔話などで盛り上がる。70歳をとっくに過ぎてしまえば、もう裃を着ている必要もなくなったという感じであろう。最後に皆で会った5年前と比べて、今回は格段に他部の出席者との距離が縮み、和気藹々とした会場の雰囲気になったことが印象的だった。最近の體育會はラクロスなど新しい競技も増えたし、100名を越す部員を擁する部も多いが、当時は野球部や蹴球部や我が競走部のような大きな部でも部員は60人ほどとあって、同期は各部ともせいぜい10数人程度だった。学園紛争が吹き荒れたあの時代、大方の大学生とは反対に弊衣破帽、デモも勉強もせずスポーツに打ち込む生活をしてきた数少ない仲間とあって、老いて同期の絆は年々強まるようだ。


この日はたまたま昼間に第100回早慶対抗陸上競技会が同じ日吉の陸上競技場で行われ、試合後は学生食堂で記念祝賀会が行われたので、同期会に参加した我々競走部の仲間は、引き続き祝賀会へと両パーティ掛け持ちとなった。対抗試合の方は慶應の主将・豊田君がパリオリンピック準備のため出場を見合わせるなか、早稲田大学は4x200米リレーで日本新記録を出すなど、実力と層の厚さの違いを見せつけて慶應を下したが、夜に行われた祝賀会は、両校部員の他、関係者やOBなどが多数出席して大いに盛りあがった。当日は、陸上の試合中から何やら目つきの鋭い短髪・黒い背広姿の男たちがキャンパスのそこかしこに立っているのを不思議に思っていたら、早稲田大学競走部OBの河野洋平元衆院議長と慶應OBの河野太郎デジタル担当大臣の親子観戦とパーティ出席のために、周囲の警戒にあたるSPであった。


河野太郎氏は祝賀会のスピーチで「 慶應大学の競走部は中退です。でも慶応高校競走部時代に国立競技場で行われた早慶戦のオープン競技の5000米で、瀬古選手と一緒に走りました。後ろから来た瀬古選手にあっと云う間に抜かれたと思ったら、実は私は1周遅れでした」とウケを取ると、やおら早稲田大学競走部のOB会長である瀬古利彦氏がマイクを奪い「あれは1周ではなく、2周か3周遅れです」とまぜ返してワーッと会場が盛り上がる。政治家としての河野親子には許せない部分も多いが、これもいっときのご愛嬌と一応拍手を送っておいた。それにしても高校に続き、大学に入ってたかだか4年間、若い日に運動をやっただけで、70歳を過ぎた今も、同期の皆や世代を超えた早慶の多くの仲間と喜びを共有できるとは何と幸せなことだろう。運動部を卒業して良かったとの思いと、肉体的にも経済的にもそういう境遇を享受できた僥倖に改めて感謝した一日だった。

2024年7月 1日 (月)

豊田兼君 パリオリンピックへ(第108回 日本陸上競技選手権大会)

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週末は新潟で行われた第108回日本陸上競技選選手権大会をTV観戦して楽しんだ。この大会、何と云っても400米ハードルで競走部後輩の豊田兼君(4年・桐朋)が47秒99の好記録で優勝し、今夏のパリオリンピック大会の出場切符を手にしたのが嬉しかった。競走部からは2000年のシドニーオリンピックに競歩の小池昭彦君が出場、2004年アテネ大会、2008年北京大会を除き、山形亮太君や横田真人君らが2012年ロンドン、2016年リオ、2021年東京大会と続けてオリンピックに選手に選ばれており、豊田君の出場で4大会連続と記録がまた伸びることになった。次の週末には武漢ウイルス感染騒動後、5年ぶりに體育會の39部を一緒に卒業したOB一同が集まる同期会が行われるが、総勢100名以上の他部参加者の前で後輩たちの活躍に我々競走部のOBはちょっと鼻が高い。


私自身、現役時代は大した選手ではなかったが、ビールを片手にテレビ画面に映しだされる選手達の姿を眺めていると、当時の色々なことが頭に浮かんで来る。あの頃のレースはアンツーカーやシンダーの土の上で行われていたので、私が走った中・長距離のレースでは昨日のような雨の日には、前後の選手の跳ね揚げで全身泥まみれになったものだ。当時は土のトラック用にスパイクの針が長かったため、集団で走ると前の選手のスパイクで脛を削られて、膝から下が血だらけということもあった。今は全天候トラックとなってあの頃より雨の日でも記録の落ちがぐっと少ないのだろう。また最近は女子選手も多くなり、そのユニフォームもカラフルになって陸上競技の大会も華やかになったことが画面から伝わってくる。なにしろ、かつては800米を超えるトラック競技は女性には過酷すぎると云われ、種目がなかったのだから時代は変わるものだ。(因みに女子種目の1500米は昭和44年(1969)、5000米は平成9年(1997)、三段跳びは昭和62年(1987年)、棒高跳びは平成7年(1995年)から日本選手権の実施種目になっている。)

 

昨日もテレビで女子の中・長距離レースを観戦しているうち、つい身が入って「このペースなら50年前のオレなら集団について行って最後のスパートで優勝できたな」などとつい口走ってしまうのだが、傍らの妻は「女子と比べることになんか意味があるの」となんとも冷ややかである。一方で男子800米決勝では社会人のベテラン選手たちがマイペースに徹し、高校2年生の落合選手の先行逃げ切りに対応もしなかったので、「大の大人が策もなく高校生に負けてどうすんだ、高校生なんぞに絶対負けられるかという気概をもって走れよ」「こういう時はだな、最後の直線に入るまで彼を集団でポケットして前に出させないんだ」とつい鼻息荒く語ってしまった。聞いていた妻は「高校生にそんな意地悪するものなの?やぁねぇ」と思わぬところで面白がっていた。


最近いつも感心するのは800米から5000米まで多種目に積極的な挑む田中希美選手のチャレンジ精神。特に土曜日は800米の予選を走り、その1時間半後に5000米決勝を走るというふつうは考えられない間隔でレースをこなしたのには驚いた。彼女はよほど強靭なメンタルと大きな目標を持って競技に励んでいるに違いない。この心意気があれば、いつの日かもう一皮むけて国際的にも有名な大選手になることだろう。その反対に日本の男子跳躍陣はどうも覇気がなく、走り幅跳びの今回の優勝記録は7米95と8米にも届かなかったのはなんとも不甲斐ない。山田宏臣氏が8米01を跳んだのは「地獄のジャンプ(2008年5月20日投稿)」1970年と今から54年も前のことであり、1969年(昭和44年)の日本選手権の優勝記録は7米90だから、その当時から走り幅跳びはあまり進歩していないようだ。雨の影響があったことはわかるが、棒高跳びや走高跳の記録も然り。何十年も記録が伸びないのは、跳躍選手の発掘・育成になにか欠陥があるのではなかろうか。いずれにしてもオリンピック・パリ大会は間もなく開幕である。4年に一度(今回は東京以後3年)の熱い夏がやってきた。

 

男子800米 高校生の落合君が独走(Youtubeの日本陸連チャンネルより)
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