河村瑞賢(伊藤潤著:江戸を造った男)
酒田の町を2度訪問して、この町がかつて北前船の発航の地であったことを知り、好奇心を大いに刺激されたのは先ごろ記したばかりだ。北前船といえば、2022年5月”にっぽん丸”で佐渡の小木港に寄港した際、「北前船で栄えた町 宿根木散策ツアー」に参加し、北前船の船大工の町や、実物大に復元された千石船”白山丸”を見学したことが記憶に新しい。また今でも瀬戸内海の各地を折々訪れると、北前船が潮待ち、風待ちした港がそこかしこに残っており、往時を偲ばせる常夜燈などの施設や街並みを見ることができる。江戸時代から鉄道が整備される明治時代の半ばまで、北前船が日本の物流を支えていたことを、クルーズ船などで日本の古い港町を訪れれば訪れるほど肌身に感じることが出来る。この北前船の航路を開いたのが河村瑞賢である。彼の胸像を酒田市の日和山公園で見た際に、船乗りでもない江戸の商人だったこの人物が、徳川幕府の命により54才の時に航路を開設したと知り、いったい彼はいかなる者だったのか、にわかに興味を覚えた。(下のリンク参照)
その取り掛かりとして、河村瑞賢の一生を描いた小説「江戸を造った男」(伊藤潤 著)が朝日新聞出版から出ているので取り寄せてみた。文庫本にして、河村瑞賢の幼少の頃から、死に至るまでの足跡を丹念に描いた540頁に亘る大書である。小説なので所々に筋を盛り上げるための創作や誇張があるではあろうものの、一介の商人だった河村瑞賢がなぜ徳川幕府にこれほどに重用され、幕藩体制の下で歴史に残るインフラ整備に力を尽くせたのかがまとめられていた。読み進めると江戸時代初期の流通や経済の仕組みが小説の中に分かり易く描かれ、「なぜ酒田が北前船の発航の地になったのか」など、以前から疑問に思っていた点に得心がいく内容であった。平均寿命がせいぜい40才ほどだった時代に、彼は50歳台で航路開設事業を成功させたほか、80歳過ぎで亡くなるまでに鉱山開発や大規模な治水事業などを成し遂げ、最後は徳川幕府から武士身分を下賜されている。隠居する間もなく清廉を胸に、世の為人の為にと働き、逆境に屈せず数々の難事業を成功させた彼の生き様を描いた「江戸を造った男」は、「ビジネスパーソン必読の長編時代小説」と本の帯にある通り人生訓の本でもあった。
河村瑞賢の晩年の大事業は大阪・河内平野の治水対策で、本書にはこの工事の模様も詳しい。私は大阪に行く度に淀川の右岸(北岸)を走る東海道在来線が、淀川を渡って大阪駅だけ川の左岸(南岸)に行き、駅を出たら再び淀川を渡って右岸(北岸)に戻る、すなわち駅の前後でなぜ都合2回、大きな淀川を渡っているのか昔から不思議だった。これについては、最近読んだ「鉄道ジャーナル」6月号の「大阪神戸間鉄道の戦前史」に、度重なる大阪地区の大水害を防ぐために明治時代に淀川の大改良工事が行われ、大阪市内の水の流れを新しい箇所に造った放水路に付け替えたことによって生まれた光景であると説明されていた。治水事業が大阪駅の前後で同じ川を渡る2つの鉄橋を作ったとは目から鱗だが、これは東京で暴れ川の荒川を付け替えたためにできた、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵大カーブと同じようなことだったのだ。村田英雄が「王将」で「生まれなにわの八百八橋」と歌ったとおり、大阪の歴史は常に治水の歴史でもあった。瑞賢の死後、懸案の大和川の付け替え工事が行われたが、この町の治水の基礎は彼の工事に負うところが大きいことを知ると、次に大阪に行って見る淀川や道頓堀の景色もまた違ったものに感じることだろう。
リンク:
酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)2024年5月20日
続・陸と海と空 にっぽん丸の「門司発着 海の京都 舞鶴と佐渡島プレミアムクルーズ」その5(寄港地編 佐渡)2022年6月10日
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