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2024年5月

2024年5月27日 (月)

飛鳥Ⅱ 2025年世界一周クルーズ 急遽発売

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'2025 MITUI OCEAN FUJIと '2024 飛鳥Ⅱ世界一周クルーズのパンフレット

飛鳥Ⅱは、今年に続いて来年2025年3月31日に横浜を出港する103日間の世界一周クルーズを催行すると発表した。しばらく前にある船友からは、飛鳥Ⅱは来年にまた世界一周クルーズを催行するらしいとの噂は聞いていたが、昨年から今春のグアム・サイパンクルーズまで、船内のセールスオフィスでは、一貫して2025年はこれを行わないと断言していただけにびっくりである。過去の例を見てもワールドクルーズの旅程と代金の発表は遅くとも1年半前ほど前にはあったのに、今回はあと10か月になろうという時点で突如としてのアナウンスである。一体どういう情勢の変化なのだろうか。飛鳥Ⅱはいま現在2024年の世界一周クルーズの真っ只中だが、このクルーズが滞りなく行われそうなことを見届けての発表なのか。


今年の世界一周クルーズは元々のスケジュールがスエズ運河を通って地中海を廻る予定だったものの、中東情勢の悪化で紅海が通過できなくなってケープタウン周りとなり、その結果ヨーロッパの寄港地が減る旅程になってしまった。これによる予約のキャンセルを最小にするために、「2025年は世界一周を行いませんから是非2024年に乗船を」と船側は今年の予約を薦めてきたのである。もし2025年に世界一周クルーズを連続して行うと早くから発表すれば、寄港地の少ない今年はやめて、来年に繰り越そうと考える乗客も相当数いたかもしれない。いま飛鳥Ⅱは日本を離れ1ヶ月半、クルーズも大西洋と佳境に入っており、もはやキャンセルすることはできないし、来年は急遽決まったという体裁なら現在の乗船客にも面子がたつということで、この時期に発表したのだろうか?


今回発表された2025年のスケジュールを見ると、外地の寄港地は103日で19港(含むパナマ運河)と今年の100日間で18港(含むパナマ運河)とさして変わらない。ところが料金はまたまたあっと驚く大幅値上げで、我々がよく利用するDバルコニーに関しては、今年の10月末までに全額支払うことが条件のワールド特別旅行代金が、なんと915万円と云うから椅子から転げ落ちそうである。もともと我々は2020年の世界一周クルーズ(料金が600万円・29港寄港予定)を申し込んでいたが、これが世界的な感染騒ぎで中止となり、翌年向けにスケジュールを組みなおして再募集すること4回。ようやく実施された今年の2024年クルーズは、寄港地の少なさに加えて料金が一挙に800万円に上がり、すでに支払った金額に追加を支払えとのことで、流石にこれはもうムリと今年の乗船を諦めたものである。それが発表された2025年度は寄港地は1港増えただけなのに、なんと一年でさらに料金が100万円以上アップとはなんともやるせない。(下表)


たしかに世界的なインフレ情勢の中で、飛鳥Ⅱの料金が大幅にアップするのも海運界に身を置いた者として一定程度は理解できる。なにより為替の大幅な円安である。乗客からのクルーズ代金は円貨で受け取るのに対して、世界各国で支払う費用や外国人クルーなどのコストはほとんどがドル建。最後に世界一周に乗船した2018年には、為替は約110円程度だったので当時と比べて今ならそもそもかなりの費用が40%アップ、加えて燃料油(バンカー油)も約40%高くなっているし、新たに船会社には硫黄酸化物(SOx)対策の諸費用が追加される。船員費もこの6年で約50%は上がっているようだ。そのほか各地のポートチャージや食料品の値段も相当インフレが進行しているに違いない。2018年の世界一周料金は520万円だったので、以後のある程度の値上げは理解できるし、2025年は為替も物価も予想困難ゆえ、その分のマージンを見越しての915万円なのだろうと想像はつく。しかし乗る身となると「遊び」の代金としての一人900万円余、夫婦で倍額はチョット高すぎる気がしてならない。


一方で同じ時期、2025年4月12日から7月20日までの100日間で、世界一周クルーズを発表している商船三井クルーズの"MITUI OCEN FUJI"を見れば、こちらは27港に寄港し、ベランダスイートが約600万円から900万円との価格設定で、船内に大浴場こそないものの、すべてのキャビンがスイートでウォシュレットも完備するらしい。この船は海外からの買船で世界一周に際してはまだ日本籍船にならないが、日本人クルーも多数配置するとのことで、なにより元々は高級ラグジュアリークラス船の"SEABOURNE ODYSSEY"とあって、キャビンが飛鳥Ⅱより広く、船齢も若いのが魅力的である。飛鳥Ⅱがこの強気の値段ならここは諦めて"MITSUI OCEAN FUJI"に乗り換えるかとも思うが、今後ガザでの戦乱が収まらなければ、いずれこちらも航路変更は不可避であろう。昨日の新聞の書籍広告には「貯金を残して死ぬことは人生タダ働きしたのと同じ」との名言があった。思い出はプライスレスである。飛鳥Ⅱ最後の世界一周に興味はあれど、値段は高騰とあってしばらくは為替動向を見つつ様子見か、2025年新造の”飛鳥Ⅲ”はもっと高くなることが間違いないから、清水の舞台で慣れたる”飛鳥Ⅱ”で行くか、はたまた”MITSUI OCEAN FUJI”か、いろいろ逡巡するところだ。

飛鳥Ⅱ 世界一周クルーズDバルコニーの料金(いずれもワールド特別割引)
催行年 料金 日数 寄港地数 2018年比
2018年 520万円  102日間  28港(含む運河) -
2020年 600万円  103日間 29港(含む運河・フィヨルド) +15%
2024年 800万円 100日間 18港(含む運河) +54%
2025年 915万円 103日間 19港(含む運河) +76%

2024年5月22日 (水)

「海里」(上り)乗車(酒田・海里の旅③)

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上り「海里」のイタリアン弁当(手前)とドルチェ(奥)、イタリアンのボリュームはこれだけ?


酒田の町の探訪を終え、新潟までの帰路は白新線経由の羽越本線「のってたのしい」観光列車「海里」乗車である。昨年4月に新潟発 酒田行の「海里」下り列車に乗車した際(「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅 2023年4月3日)は食事とドリンクの付いた旅行商品用の車両である4号車を利用したので、今回も同じく4号車に乗車することにした。その時は新潟の有名料亭の弁当を車内で味わったが、逆ルートでは沿線の鶴岡のイタリアン弁当とドルチェが出るとのことで、どう味やサービスが変わるのか違いをみるのも楽しみである。新潟からやって来て午後1時半に到着した「海里」専用ハイブリッド気動車HBE300系は、折り返し午後3時3分に酒田駅を出発して上り列車になる。乗車すると早速、4号車の車内に配置された2人の専任サービス掛の女性が飲み物の注文にやって来た。彼女たちはJR東日本関連会社から派遣され、週末に運転される「海里」に乗車しない日は、新幹線の車内販売も手掛けているそうだ。車内を見渡せば、我々夫婦の他には個人手配らしき壮年カップルと、その他6人~7人の団体旅行客が1組だけと余裕がある。以前は満席だったので、上りと下りで乗車率にばらつきがあるのか尋ねたところ「その時の状況によってまちまちです」との笑顔の答えだった。


我々は、まず選べるウェルカムドリンクで庄内地方産の地ビール「月山」を注文したが(下りはエチゴビールであった)、この時間の列車で嬉しいのはアルコールが心置きなく呑めること。新潟駅を朝10時過ぎに出る下り列車では、朝っぱらから車内でガンガン呑むのも、と周囲の目を気にする私にとってはアルコールの追加連続にちょっと気がひけたものだ。酔って他人に迷惑をかける訳ではないが、酒飲みの心境としては近くに同輩がいて、皆が楽しそうに呑んでいればこちらも杯が進むのである。この日は夕方とあって周りも呑んでいるし、一日かけてけっこう坂の多い酒田の町を自転車で走り回った身である。早速出されたビールは五臓六腑に染み渡り、やはり酒は体を動かした後に限ると、特にウマい1本目のビールはあっという間に空になった。お待ちかねのイタリアンとドルチェは、どちらも味は良かったが、イタリアンの方は「本当にこれだけ?」という少なさであった。時間的に昼食に遅すぎ、夕食には早過ぎで中途半端だから致し方ないし、腹が減っているなら売店のある3号車で追加の食べ物を買っても良し、途中停車駅では改札外に出られるので外から調達も可なのだが、楽しみにしていたメシが腹の足しにほど遠いのは予想外だった。ということで、前の晩に買った乾き物の残りを取り出し、追加のビールやワイン(ともに有料)を楽しみながらの乗車となった。


午前と較べてこちらが断然良いと思ったのが、日本海の景色であった。この日は雲一つない好天とあって、海岸沿いに走る羽越本線からは、水平線の彼方に傾く太陽と海岸べりの景勝が見えて乗客の目を楽しませてくれる。陽光が海面にキラキラと反射する光景は午前中の便では見られないメリットで、列車も見どころではかなり速度を落として走る。「笹川流れ」で有名な桑川駅では30分ほど休憩があって、海岸に出て周囲の奇岩や沖に浮かぶ粟島の景色をゆっくり見ることもできるのが、この臨時快速列車が「観光列車」である所以。桑川駅では運転士さん自らホームで記念撮影のシャッターを押すサービスをしてくれるので、ついでに「ハイブリッドのこの列車を運転する感覚は気動車ですか?電車ですか?」と質問したところ、「電車です。僕の免許も気動車ではなく電車です。」との答えが返ってくる。普通の列車ではまず味わえない乗務員との会話も、「のってたのしい」列車ならではである。4号車は新潟に向かう先頭車とあって、酔眼をこすりつつ大きく開けた前面展望を楽しんでいるうち、あっという間に3時間半の旅は終わり新潟駅に到着した。

 

車窓から見る夕陽に映える日本海と遠くに浮かぶ粟島
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2024年5月20日 (月)

酒田探訪 北前船 (酒田・海里の旅②)

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日和山公園にある千石船(北前船)の1/2のレプリカ

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北前船の東西航路を開発した河村瑞賢像(日和山公園)

酒田は江戸から明治時代の前・中期まで沿岸航路で活躍した北前船の発航の地である。貨物の輸送と云えば、かつて明治の後期にかけて鉄道が全国に開通するまでは、もっぱら沿岸航法による海運がその手段であった。寛文時代、江戸幕府は天領であった出羽(秋田・山形)の米を大坂(大阪)まで大量輸送すると共に、国内の物流網を整備するため、豪商かつ政商で公共工事に長けた河村瑞賢に沿岸航路の整備を命じている。これに応じて瑞賢は酒田を起点に1671年、津軽海峡から太平洋沿岸諸港を経由して江戸に至る東回り航路、1672年に酒田から日本海諸港を経由して関門海峡を越え、瀬戸内海を通って大坂、さらには江戸に至る西回り航路を開発した。彼は綿密な気象・海象の調査を実施し、酒田から大阪や江戸までの航路や水路を開いたばかりでなく、徴税の免除や水先船の設置など各種制度の改廃や整備を行い、さらに船体や船乗りの状態をチェックする番屋を主な港に設けて、安全かつ安定的な海運基盤の確立に尽くしている。現在の海運界においても簡単に実現できない航路や港湾などのインフラ整備や、安全や労務に関する仕組みの構築を全国的に行えたのは、幕府の権威が津々浦々まで行き渡っていたことと、瑞賢の卓越した指導力によるものだと云えよう。


旅の2日目は観光列車「海里」の酒田駅発車は15時3分と遅いので、朝から駅前で借りた観光用レンタサイクル(無料)を繰って、こじんまりした酒田の旧市街地を巡ることにした。地域貢献に力を尽くした大地主の本間家の屋敷や、米の集積や保存に造られた立派な山居倉庫は前回に来た時に訪問したので今回はパス。まずは河村瑞賢の銅像の立つ日和山公園を訪れ、そこに置かれた千石船の2分の1のレプリカや、港の場所を示した1813年製造の常夜灯を見学した。次に寄った酒田海洋センターは、港町らしく商船や漁船の展示が豊富で、海運界OBの私にとっても興味深い場所であった。天気に恵まれ、こうして地図を片手に変速ギアもないチャリをギコギコこぎながらの町の散策を続ける。大きな港町には立派な料亭がよくあるのだが、ここでも港からほど近い住宅街の一角に由緒正しそうな料亭が幾つか現存しており、かつての辺りの繁栄を偲ばせてくれる。北前船の船頭は操船指揮だけでなく、各地の特産品を自ら買い求めて、港々で商売する商人でもあり、運送業兼商社の役目を果たしたので、港に北前船がつくと船乗りや地元の商人たちで料亭が大賑いしたそうだ。そんな料亭の一つ 「山王くらぶ」 では、郷土のつるし飾りであるまことに豪華な「傘福」の展示を見ることができ、ここがその昔「東の酒田、西の堺」と謳われ栄えた土地であることを感ずることができた。


北前船といっても、酒田は津軽海峡を抜ける東回りよりも西回り航路で賑わったようだが、それは江戸時代の商業の中心地である大坂が海路で近いことが第一の理由であるらしい。因みに地図で測ると、酒田から関門海峡を経て瀬戸内海を大坂まで行けば直行で約1400キロ、これに対して酒田から津軽海峡を抜けて東京湾までは約1300キロ、そのまま大坂までは約1800キロの行程である。最上川の水運を利用して内陸から運ばれた庄内米や特産品の紅花 (顔料や染料の元で油も採れ当時は人気商品だったとのこと) を酒田で北前船に載せ替え上方に運ぶには、日本海を経由し、瀬戸内海の潮流に乗って運送するルートが効率的であった。日本海は冬場以外は海が穏やかだし、大陸や朝鮮半島との交易を通じて発展した港町が点在する他、瀬戸内には多くの港があり、津々浦々で商売する北前船にとっては、西回り航路のほうが太平洋岸より商売がし易かったに違いない。上方の市況や積み荷の保存状況を考えて、敦賀から琵琶湖の水運に載せ替えたり、舞鶴や小浜から山越えで急ぎ京や大坂へ運んだ物資もあるのかも知れない、などと想像するとこれを調べるだけで老後の一大研究ができそうだ。そういえば能登の黒瓦が日本海沿岸の諸港に広まったのも北前船によるという話を聞いたし、”にっぽん丸”で訪れた佐渡の小木(宿根木地区)は、かつて多数の北前船建造の大工を擁した地であったことを思い出した。酒田の方言は京言葉に近いという地元の話を聞くと、日本の各地は昔から船によって繋がっていたことを実感するのである。

 

料亭 「山王くらぶ」 に飾られた豪華な地元のつるし飾り・傘福
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2022年5月 ”にっぽん丸”で訪れた佐渡島 小木(宿根木)、 復元された千石船(北前船)のデッキ
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2024年5月19日 (日)

五月雨を集めて早し最上川 (酒田・海里の旅①)

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「五月雨を集めて早し最上川」。そう松尾芭蕉に詠まれたこの季節に、最上川の景色を楽しみ、併せて河口にある酒田の町を再度見学する旅をした。酒田は昨年4月、新潟‐酒田間の白新線・羽越本線で運転される観光列車「海里」の北向き(下り)に乗車し、終着駅として初めて降り立った地である(リンク:「海里」に乗車 東北地方・新旧乗り比べ鉄旅)。今は人口10万人ほどのさりげない海辺の地方都市だが、ここは江戸時代に西回り行路の北前船の発航の地となり、「東の酒田、西の堺」と云われるほど栄えた町であることをその際に知ってとても驚いた。スケジュールの都合で昨年はゆっくりと市内各所を見ることが出来なかったため、今回は酒田始発の「海里」の南行(上り)乗車と絡め、再びこの地を訪れることにしたのである。「乗って楽しい列車」である「海里」の4号車は、食事つき旅行商品となっており、新潟より酒田に向かう午前の下り列車は新潟の料亭の弁当、逆コースの午後の酒田発上りは庄内地方のイタリアンとスイーツが出されると、前回とは別の趣向なのも乗車の楽しみである。


酒田まで行くには、時間的には上越新幹線の新潟駅で羽越線(白新線経由)の特急「いなほ」に乗り換えるのが一番早いが、行きと帰りが同じ経路というのもつまらない。よって今回は山形新幹線の終点駅である新庄まで「つばさ」で行き、新庄から陸羽西線で酒田に出るルートをたどることにした。もっとも陸羽西線は平行する国道のトンネル工事の影響で列車が走らず、現在は代行バスによる営業のため、東京・酒田間では新潟経由より2時間以上も余計に時間がかかる。しかし時間に縛られないのが、閑ならいくらでもあるシニアの旅の特権である。「奥の細道最上川ライン」との別名もある陸羽西線に沿ってチンタラとバスの旅も良かろうと、今年は「大人の休日倶楽部」の3割引き切符で山形新幹線に乗車することにした。バス区間はトイレも不便だろうという見立てで、新庄までの新幹線ではお約束であるビールもやや控えめにした旅の序章であった。


新庄駅前で待っていた山形交通の代行バスは車内は空いていたが、平日の午後とあって地元の高校生やら勤め人がパラパラと乗っており、いかにも地元の足であるローカル線の「代行」という雰囲気。新庄から酒田まで55キロ、途中12駅の駅前や駅至近の広場に停車しつつ、バスは2時間近くかけてゆったりと走る。バス道からは、初夏の陽光が川面に映える最上川が近付いたり離れたりで、鉄道で旅するよりこちらの方がよほど景色は良いようだ。最上川と云えば1983年から翌年にかけた放送されたNHKドラマ「おしん」は、このあたりを中心に主人公の幼少期の脚本が作られたそうで、おしんがいかだに載せられて子守奉公に出る有名なシーンそのままの景色が車窓に続き見ていて飽きない。かつては川の舟運によって稲作物や紅花が河口の酒田港に運ばれ、北前船に載せ替えられ上方や江戸に輸送されたと云うが、その史実通り、最上川は水量が多く、庄内地方の輸送の大動脈として機能したことがよく分かる道中であった。代行バスは陸羽西線の各駅前に出入りするために、時には鄙びたごく地元の道路を走り、「トイレ休憩」もあって想像したよりずっと楽しい旅であった。

2024年5月15日 (水)

膝が痛い

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右足の膝関節から臀部に繋がる大腿二頭筋の下部を痛めてしばらく走れない。春先から左足の膝関節が痛かったのだが、無理してジョギングを続けているうちに、右足に痛みが移ったらしい。この間、近所の整形外科で見て貰ったものの、レントゲンでは半月板など膝廻りは問題なし、との診断で湿布薬を処方されたのみ。そうこうして少し痛みが治まると性懲りもなく走ることを再開しては、また痛くなることを繰り返すこの2~3ヶ月である。そもそも陸上競技を始めた中学生の頃から少々の痛みなどあるのは当たり前、そんなものは気にせず無理してでも走れという当時のやり方で馴らされてきた体である。特に60歳台になり時間が取れるようになってからは、少々の雨が降ろうが風が吹こうが、ジョギングはほとんど欠かなかったが、さすがに70歳を過ぎて無理を重ねると体が悲鳴を上げるようだ。


先日、こんな痛みを我慢しながら所要の途中、横断信号の変わり目で道路を渡り切ろうと軽くダッシュをしたところ、いきなり右膝の外側に物がぶつかったような異様なショックと激しい痛みを感じて、歩道の前でへたり込んでしまった。かがんだまま暫くその場から動けなかったが、何とか立ち上がってよろよろと痛い足をかばいつつ、肝心の用事も済ませずに取り敢えず家に戻ることとした。目の前を通り過ぎるタクシーを捕まえようかと思うも、クルマのドアに足をかけるだけで痛そうだ。ひどいビッコで必死の思いで歩いていると、前から来た若い人が心配そうに進路を譲ってくれる。人に道を譲られるなど初めての経験で、年齢を重ねて身体に障害が出ると、こういう風に町行く人に扱われるのかと自分の老い先をみたような気がする。


さすがにこの痛みには耐えかね、今までお世話になったことなどなかった近所の接骨院に行くことした。その整骨医によると、体の軸が少しずれているところに無理を重ねたとの診断で、しばらく通って下さいとのこと。かなりイタいマッサージを施術されて筋肉がほぐれたのか、数日して右膝を曲げなければそこそこ歩けるようになったが、それでも下り坂や段差のある所では膝に体重がかかって「イテテ~」と声が出るほどギクっと痛い。健康保険が適用されるのは嬉しいものの、痛みが取れるまでアイシングを欠かさず、運動といえば膝に体重が乗らない水泳か自転車しかできないのがちょっと辛い。年寄りの冷や水、毎月、定めた目標を完遂するために無理して走るのはもう卒業しようと思った。老いるとはこういうことか。走れなくなって一番がっかりなのが、旨いビールが飲めないことである。

2024年5月13日 (月)

第103回関東学生陸上競技選手権大会(陸上 関東インカレ)

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1年生でいきなり1部校10種競技に優勝し、将来が嘱望される高橋諒君(桐朋)LIVE中継より

週末は関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)の応援であった。昨今の駅伝人気で箱根駅伝ばかりが注目されているが、関東学生陸上競技連盟に加盟している159校にとって、この大会は春季における最大の競技会である。関東インカレはここのところ相模原競技場や横浜スタジアムで行われることが多かったが、今年は自宅に近い国立競技場で開催されるとあって、現場で直接 塾競走部の後輩の応援をしたいと思っていた。とは言え大会は、5月9日(木)から12日(日)まで4日間続き、入場料は当日券で2,500円(前売り券は2,000円)もするため連日フルに観戦すれば1万円コースになってしまう。よって1~3日目まではYoutubeのライブ中継で戦況を見守り、最終日のみ国立競技場に赴くことにした。


対校選手権大会と銘打たれているように、本大会は個人としての栄誉を競うのではなく、学校単位の競技会の形式をとっている。男子は3部の大学院生の部を除き、1部16校とそれ以外の2部校に競技は分かれ、それぞれの種目の決勝1位が8点、2位が7点、3位6点、以下8位が1点を獲得する学校対抗の得点争いの試合である。大会に参加できるのは、各種目で昨年1月1日以降に1・2部別に設定された参加標準記録(B標準)を突破した選手1名に限られ、特により高い記録(A標準)を突破した選手がいれば、追加選手(但し追加選手もB標準突破が条件)1名の参加が可能で、各校とも各種目に最大3人までが出場できる規定になっている。因みに現役時代の私は参加標準記録突破などは夢のまた夢で、大会に参加できる同僚の選手をスタンドから羨ましく応援していたものであった。


関東インカレと云えば、気になるのが2部落ちのこと。1部16校の得点争いの結果、15位と16位の学校は2部の上位2校と翌年は自動的に入れ替わる制度のため、選手層の薄い慶應は例年2部落ちしないかを心配しながらの応援となる。といっても最近は高校生への勧誘が功を奏して、インターハイで活躍した有望な選手の入学もチラホラで、後輩たちは1部の10位前後の総合成績を保っており、ヒヤヒヤしながらの観戦がないのが応援する側にとっては嬉しい。もっとも出場選手たちにとっては、得点争いのため、4日間でなるべく多くの種目を掛け持ちしなけらればらないのが辛いところである。特にトラック種目では予選、(準決勝)、決勝を何度も勝ち抜く必要があり、出る者は参加種目を調整し、体力を温存しながらより多種目で得点争いに関わるところに、他の競技会と違った難しさがある。また、青学大や駒大など多くの箱根駅伝有力校は2部校であるため、トラックやフィールド競技に満遍なくエントリーする学校よりも、駅伝に特化した2部校の方がしばしば長距離種目に限って記録が良いことがあるのも本大会の特徴だと云える。


ライブ中継によると土曜日までに後輩たちは1部校の10種競技、400米で優勝(8点x2)、走り幅跳びで5位(4点)110米ハードルで5位(4点)と順調に得点を伸ばし、3日目を終わった時点で10位以内を確保している。中継で見ていた前日までの結果を胸に、日曜日朝、千駄ヶ谷駅から国立競技場に向かう我が足取りも軽やかである。結果、この日はハーフマラソンで8位入賞と云う長距離種目での久々の快挙もあったし、200米決勝には2名残るなど後輩の健闘を現場で楽しませてもらった一日だった。一方で、我々の時代には慶應に入って陸上競技をやろうなどと云う女子はおらず女子部員はいなかったのだが、女子の部でもやり投げが優勝、800米も3位入賞と時代が変わったことも実感した。男子は最後に残念ながら棄権種目や予選突破できない種目もあり、最終的に1部で総合34点、12位と例年並みの結果に終わったが、国立競技場一杯に響き渡る関東インカレ独特の各校応援席の盛り上がりに久々に接して血が湧いた日であった。

1部校400米優勝の豊田君(4年桐朋)を伝える2024年5月11日(土)付 読売新聞記事 
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2024年5月 8日 (水)

ダンスパーティ・ タンゴの トライアル

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「初ダンスパーティ・初トライアル(1月15日)」でワルツを踊って以来3カ月あまり、通っているダンス教室のパーティがこの連休中にまた開催され、今度はタンゴのトライアルに出ることにした。妻はパーティには参加するものの、今回も仕事が忙しくトライアルには出ないため、いつも習っている女性の先生と組んでの挑戦である。思い起こせばその昔、色気が付き始めた中学生の頃、やたら異性を意識するあまりフォークダンスさえ逃げまわっていた自分が、人前で情熱の踊り、タンゴを披露するとは何という変化であろうか。昔の友人に社交ダンスの話をすると、皆 「お前が? ウソだろ!」と吹き出すとおり、人生は本当にわからないものである。


内輪のトライアルとは云え人前で踊るにはそれなりの練習がいる。よってダンスパーティ前には週に2~3回の特訓が必要となるのだが、この集中練習と他人の視線にさらされる本番の発表で、何となく一皮むけた気分になれるのがポイント。以前のトライアルによってワルツが少し上達したような感触をつかんだので、今度は次にポピュラーなタンゴに挑戦することにしたものである。社交ダンスと云ってもスタンダード種目にはワルツ、タンゴ、スローフォックスロット、クイックステップ、ヴイニーズ(ウィンナワルツ)の5種目、ラテンはルンバ、チャチャチャ、サンバ、パソドブレ、ジャイブの5種目と計10種目もある。パソドブレやジャイブは未挑戦なるも週に1回、1時間程度の練習ではとてもとても8種目を覚えていられず、いつも中途半端にレッスンを終えている感があるため、トライアルに向けて集中的に1つの種目に専念するのはとても有意義だと思うのだ。


それでも当日が近づくにしたがい、なんでパーティー参加料に加えトライアルの費用を払ってまで「また出ます!」と云ってしまったかと後悔の念がふつふつと湧きおこってくる。空を見上げればこの連休は快晴続きとあって、野球でも見に行ったほうが良かったか、郊外をドライブでもしてた方がずっと気が楽だったなどと、ふと妻に愚痴ってしまうと「私は最初から出られないと云っているのに、私のいない間に勝手に決めて来て!。直前になったらそういう後ろ向きなこと言い出しそうだと思っていたけれど、自分で蒔いた種なのだから自分で刈り取ってね」といつものように淡々とロジカルな返しで相手にされない。


タンゴはもともと男女の駆け引きをモチーフにしたダンスとのことで、男女の下半身はワルツより密着しているうえ、明確でメリハリの効いた動きが求められる種目である。そのため腰から上は広く取り、下半身の使い方が重要なのに、どうも私のような素人は腕力に頼りがち。一曲終わると上半身がガチガチに固まって疲れてしまうのは正しく踊れていない証拠だ。クルーズ船のダンス会場を見ていても、タンゴが決まっている、という男性はあまり見られないようである。ということで頭の中と実際の踊りのギャップは感じるものの、事前の特訓ではなかなかそのギャップを埋められず、最後は「まあ何とかなるわ」と開き直って当日を迎えた。


例によって、バッチリとお化粧や衣装を決めたおば様方でいっぱいの会場には、(3名の先生やバイトの学生パートナー2名以外の)男性は私の他に1名の計2名のみ。ただ、圧倒的少数派であっても、妙齢の女性の集団に気後れしなくなったことは大きな心境の変化と云える。ほとんどの参加者がトライアルを前にアルコールを控える中、今回ものっけからビールやワインを楽しんでいると、パートナーの先生が耳元で「トライアルが終わるまであまり飲まないで下さいね」とささやく。もっとも、船上では食後の酔っぱらった状態で踊っているので、経験的に少々のアルコールがあった方がかえって動きが良いので心配ご無用だ。パーティも進み自分のトライアルの番がくる。いざ名前を呼ばれてフロアーに立ち「間違えたらその時」と覚悟を決めて踊り出せば、なんとか1分半の最後まで間違えず踊り切り、練習で繰り返し直した姿勢や動きも最後まで忘れなかったようだ。「特訓したことは全部出ていたと思います。本番に強いのですね。」の先生のお褒めの言葉に、まだまだボケは来ていないことを実感したダンス―パーティであった。

タンゴを習い始めた頃の記事「情熱のタンゴ(2011年3月7日)」。最初は男の先生に習っていた。

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