あれから50年 第100回箱根駅伝
第50回箱根駅伝のパンフレットと当日繋いだ母校のタスキ(小さい赤いリボンが選手章)
東京箱根間大学駅伝競走が第100回を迎えるとあって、主催の読売新聞社や完全中継を担う日本テレビ網の、大会に関連した事前報道が例年に増して賑やかだ。読売新聞は連日のように紙面の多くを駅伝に割いているが、昨日は日本テレビ局系列によって夕方のゴールデンタイムに「箱根駅伝伝説のシーン 表と裏3時間SP」なる特集番組が放送されていたので、過去の大会の懐かしい場面を居間でゆっくりと眺めることができた。そういえば私が第50回の記念大会に出場してからちょうど50年経ったことになる。50年前のあの時は母校が3年ぶりの出場とあって、多くの関係者とともに箱根駅伝黎明期の大先輩たちも多数応援や激励に駆けつけてくれたが、今の私はその大先輩たちの年齢をとっくに過ぎてしまったことにただただ驚くばかりである。時の流れはなんと早いことだろう。
報道ラッシュを見るにつけ、かつて関東学連の一レースに過ぎなかった箱根駅伝が、いまや正月の風物詩になるほど隆盛を極めているさまに隔世の感を禁じ得ない。私が走った当時は、箱根駅伝の中継と云えばNHKのラジオ放送だけとあって、後日学校に行くと同級生のうちただ一人が「(映画の前に流れる)読売新聞ニュースにオマエの姿が出てたぞ」と教えてくれた程度であり、ほとんどはクラスメートの箱根駅伝出場など気にも留めない時代であった。両親も大手町のゴールにこそ顔を見せたが、私が走った区間には応援に来なかった。それが当時の普通であった。ところがどうだろう、最近会社のOB会に久しぶりに顔を出すと、「君は箱根走ったんだよな、そんな人と机を並べてたのか」などと、これまで聞いたことのない挨拶をされ、却ってこちらが面映ゆくなるほどだ。
「そんなんじゃないんですよ。あの頃の下位を走った学校は20キロ以上走る選手を10人そろえるのがやっとで、そのチームの中で私は8番目か9番目の記録だったから今の高校生の記録にも劣ります」と答えるのだが、サラリーマン現役時代にはついぞ聞いたことのない挨拶をされると、最近のテレビが報じる大会の盛り上がりによって、元同僚らの記憶が、私が凄いことを成したかのように置き換えられたのかと苦笑する。たしかに全国的に人気あるアマチュア競技といえば、いまや高校生の春夏の甲子園大会と大学生の箱根駅伝となるが、甲子園は春夏合計で80校余校が出場しグラウンドに立てる選手が延べ1,000人ほどに対し、箱根駅伝は(年によってやや異なるが)参加校が約20校×10区なので一年で200人ほどしか出場できない。それを考えると、自分のようなランナーが歴史の1頁を穢すことができたのはなんとラッキーだったかと、ただただ学校の伝統や周囲のサポートに感謝するのみである。
思い起こせば50年前の今日12月31日は大会前最後の全体練習、元旦は日吉のグランドで各自調整ジョッグ。1月2日は監督や往路の選手、付き添いがレースに参加している中、一人軽いジョッグをして昼からマネジャーのクルマで箱根山中の旅館に向かったが、あの数日間がつい昨日のことのようだ。だが50年の歳月が経過する中で監督・コーチはすでに亡くなり、一緒に走った10人のうち2人は鬼籍入り、1人は途中退部して行方知れずとなり、いま後輩の試合やOB会に顔を出すのは僅かになってしまった。一方で現役大学生の後輩達は私たちの何倍もの努力をして、少し前なら予選会を十分突破できる実力を培っているが、なにしろ箱根駅伝は今や全国的一大イベントとなり、学校法人のプロモーションの場と化している。助っ人で日本語を話せないアフリカ人選手が走るのが当たり前の現状からすると、後輩たちの走る姿を見ることはしばらく叶いそうにないと寂しい。かつて大先輩たちから箱根の宿で「やあやあ、明日は頑張れよ」などと声を掛けられたことを思い出す度に、生きている間にそういう風に後輩に声をかける新春が来ないかと心待ちにするこの頃である。
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