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2023年1月

2023年1月28日 (土)

新型コロナ感染記

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抗原検査キット:白いテストプレートのSの部分に検体を入れTの線が浮かびあがれば陽性となる。


正月明け、久しぶりに会った知人たちと会食し痛飲した夜に、まず異変を感じた。夜中に痰が出て目が覚めるのである。普段は痰などそう出ないが、寝てから明け方までの間に3回も目が覚めて洗面所で「カー!ぺッ!」と痰を吐き、何かおかしいな、とは思っていた。翌日は特に何もなかったが、翌々日はほぼ毎日続けているジョギングにどうしても行く気がしない。午前中からなんとなく体がだるくて家で一日1~2時間もあれば済むテレワーク以外は、居間でゴロゴロとしていた。念の為と夕方に熱を測ると体温計の表示は7度9分である。平熱は6度3分くらいだし、最近は風邪で熱も出したことがないから、四半世紀ぶりの発熱とあって身体もシンドイわけだ。といってもだるさ以外に特段の症状もないので、その夜は家にあったロキソニンと漢方の風邪薬である改源を飲んで早々に寝ることにした。


そもそもコロナ禍もオミクロン株になって以来、屋外ではマスクなど着用していないし、会食のお誘いもコロナ感染など一切気にせずに出席して大いに歓談を続けるポリシーでここまで来た。私自身は立派な高齢者であり基礎疾患もあるが、世の中に怖いものはコロナだけでなく、もっと重篤な病気のほか、多くの経済的、社会的なリスクに向き合いながら人間は生きている。よってコロナだけを恐怖の対象として煽る風潮は常々おかしいと思っていた。とは言うものの、流行の第7派から8派にかけては友人や親戚など身近にも感染者が出ており、武漢に端を発したこのウイルス感染症ももはや他人事とは言えないと思っていた矢先である。


翌朝起きてみると朝から熱も8度1分あり、喉にも強い痛みを感じる。普段ほとんど風邪をひかないのに、症状が重くなっていくのを見た妻が「まさかとは思うけど、念のため抗原検査しておく?」と言うことで、いつか使うかも、と東京都から取り寄せて家に備蓄してあった抗原検査セットの出番がやって来た。鼻の奥を綿棒でぬぐい抽出液に入れて作成した検体をテストプレートに滴下すると、指定された15分も待たずして陽性を示す「T」の所に出て来た線がみるみる濃くなった。オミクロンに感染、発症決定である。これまで感染爆発等の報道などほとんど気にせず自由に旅行や外出をしてきたから、これも仕方なしかと思ったがコロナも8派まで来て遂につかまってしまったわけだ。


陽性反応が出たのは土曜日の夜とあって、痛み止め兼熱さましのロキソニンを飲んで家で寝ているしかない。とは云うものの、喉の痛みはますます激しくなり唾をのみ込むも辛いし、ひっきりなしに大量の痰が出るので喉だけは何とか処方をして欲しいところだ。日曜日の朝になり、発熱外来リストに掲載されていた近所の総合病院に電話をしてみると、30分後に診てくれるというので駆け込むことにした。ただし病院側が一番怖いのは院内感染とあって、休日夜間受付で来院を告げると入口の外で待てとの指示である。完全防護服に身を包んだ医師の抗原検査も、その結果判明までの20分ほどの待機時間も、処方されたカロナールと喉の薬(メジコンとトラネキサム散)の手渡しも、すべて寒空の下の病院の建物外であった。病院内には一切のウイルスを入れないかの如く、まるで私が病原菌であるかのような扱いであったが、これも感染力の強さや現在の2類相当の分類を考えると仕方がないのであろう。


翌日には、病院からの連絡を受けた保健所からさっそく電話があり、長々と症状や身近に接触した人の事を聞かれ、7日~10日の外出自粛を求められた。その次の日には保健所手配による自宅療養支援の大量の配送食料品も届いた。そうこうして処方された薬を飲むうち、2日~3日ほどで発熱も喉の症状も緩和、巷で云われている通り発症から7日でほぼ体は普通に戻った。数日遅れで私から感染した妻は、喉の痛みはあまりない代わりに味覚障害を経験したが、2人とも熱は8度ほどで大したことはなく、同じウイルスでも症状の出方は人それぞれに異なるようだ。やはりオミクロンはインフルエンザよりは軽いものの、普通の風邪よりはちょっとシンドかったと云うのが我が感染記である。この感染症に関しては、投薬・治療や療養に大変な予算措置が講じられ、支援スキームが出来ていることを体験したが、これらはすべて私達の税金から賄われているのも事実である。5月8日に2類相当から5類に分類変更になることが決まったが、その後はどうなるのだろうか?ワクチンを一度も打っていない妻は、「思ったよりきつくない上に、これで当面は最強の免疫を獲得できた」と喜んでいる。

1月末日追記:全快して思うことは、少なくともオミクロンになってからは国を挙げて大騒ぎするほどの感染症だったのか?ということである。

届いた無料支援物資(一世帯に一セット)
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2023年1月20日 (金)

嗚呼!飛鳥Ⅱ2023年オセアニアグランドクルーズ運航中止

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1週間前、飛鳥Ⅱの運航会社である郵船クルーズ株式会社から「飛鳥Ⅱ 2023年オセアニアグランドクルーズに関するご案内」とする手紙を受け取った時から、悪い予感はしていた。東京港を出て39泊、オーストラリアやニュージーランド、ニューカレドニアを巡る飛鳥Ⅱ 2023年オセアニアグランドクルーズの出港が2月10日に迫ってきた矢先である。ウイルス騒ぎで海外クルーズが催されなくなって3年、2度も延期を重ねた飛鳥Ⅱオセアニアグランドクルーズだが、現地のオプショナルツアーの参加コンファーメーションも受け取り、すでに気持ちの半分は真夏の南半球にあった。その手紙は、昨年末に再び起った電気関係機器の不具合で、「本船の速力を制限しての運航とする必要がある状態が現在まで継続」している事を告げ、新春のドックで修復を試みているが、「仮に速力の回復が見込めない場合には、本オセアニアグランドクルーズのスケジュールが変更になる、もしくは予定した日程の維持が困難になる可能性」があることが書かれていた。


ディーゼルエレクトリック推進という、いまやさして珍しくない動力方式なのに、度重なる重大な不具合とは一体何が起こっているのか疑問が湧きおこるが、素人の部外者が何を考えてもしょうがない。手紙の字句を文言通り読んで、スケジュール変更やら日程の調整ですむと考えるか、ひょっとすると更なる措置に対するショック緩和療法として、取り合えずダメジを小出しにしたジャブの手紙なのか訝しく思ったが、「本件に関する次回のご案内は1月20日頃を予定」とのことで、クルーズの準備を始めつつ「次回のご案内」を待っていたところである。すでに仕事の上ではクルーズで不在の期間に業務を引き受けてくれる代理人の設定をすませ彼への報酬も合意、確定申告の時期ゆえ証憑の収集を早めて税理士にも相談、病院の予約はクルーズの時期に重ならないように調整するなど準備を進めていた。しばらくお休みしていた社交ダンスレッスンも新年になって再開したばかりである。私には珍しく着々と準備を進めたのも、この3年間、鎖国状態で海外クルーズへ出られなかった反動だと云えよう。


という宙ぶらりんの状態の中、ついに昨1月19日に郵船クルーズから「飛鳥Ⅱ 2023年オセアニアグランドクルーズ運航中止のお知らせ」が発表された。それによると推進システムの不具合については「現時点では完全な原因特定には至っていないこと」「また定期点検中には、速力回復の確証が得られないこと」が判明し、「お客様の安全を確保した上で長期の海外クルーズを催行することは出来ないとの判断に至り、大変残念ながら『2023年 オセアニアグランドクルーズ』につきましては、運航中止を決定」したとのことである。やはり先の書簡は、ショック緩和の為のプレ・ノーティスだったのかと改めて合点がいく思いだ。我が家は寄港地のVISA申請はこれから、また海外旅行者障害保険付保もまだ検討中であったし、仕事の代理人は話がつくであろうから金銭面のダメジはあまりないだろう。だがここ数ヶ月間楽しみにしていたイベントが消滅してしまい、心にポッカリと穴があいてしまった昨日~今日である。返金された旅行代金で春から夏にかけて、ウンと贅沢な国内旅行に行くか、ヨーロッパのリバークルーズに乗船するかと、空いた穴を埋めるべくいろいろ代替案を考え始めねばならない気分だ。


≪参考≫「飛鳥Ⅱ 電気系統の不具合・原因(2022年4月12日)」

2023年1月19日 (木)

JAF Mate の 松任谷正隆 車のある風景

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新聞、雑誌、クレジットカード広報誌などには多くのエッセイやコラムが掲載されている。それらの中にあって、2019年2月27日(水)に「松任谷正隆氏のコラム」で触れたように、肩の力を抜いた松任谷正隆氏のさりげない文章がすっきりとしていてとてもよいと思っている。松任谷氏は作曲・編曲家や音楽プロデューサーとして活躍するほか、TVクルマ番組のキャスターも務めるモータージャーナリスでもあり、新聞などにもエッセイを寄せているが、とくにJAFの機関誌である「JAF Mate」に連載される「車のある風景」を楽しく読んでいる。ところが、その「JAF Mate」は(本当は経費削減であろうが)「環境負荷の低減」と「デジタル社会における新しいライフスタイルの創出」とかの理由で、昨年より年10回の配刊が季刊発行となってしまった。で、気が付くと彼の「車のある風景」とも暫くご無沙汰だったのだが、昨日、久しぶりに従来の紙の媒体である「JAF Mate」の2023年冬号が自宅に届いて彼のエッセーを読むことができた。


「車のある風景」を読むといつも感じることがある。松任谷氏はわれわれとはレベルの違う高級車や高性能車を運転する機会があるだろうし、クルマに対する豊富な経験や知識を持ち、貴重なウンチクも多数語ることが出来るだろうが、ここではごくフツーの街のドライバー目線で、クルマ社会独特の文化を平易かつユーモラスに描きだしている。運転しているとさまざま事象に出合うが、彼も似たような経験をしたり感じたりしているのが、彼のエッセイから伝わってきて共感を覚えるのである。今回の冬号で、彼は「クルマはある意味、人間拡大装置なのだ。どんな小さなクルマでも自分を拡大してくれる」として、普段は紳士が、クルマに乗ると病的な乱暴者になることに触れていて、これもハハーん!あるよね、こういうの!と多くの人が共感できる内容になっている。自分の周囲にも学生時代の友人で普段はごく大人しい人間なのだが、ひとたび彼がハンドルを握ると前車に煽るかのごとく接近し、誰が飛び出すかわからない商店街をクラクションを鳴らしながら疾駆するのがいた。


どんなに小さくとも自分を拡大してくれるのがクルマゆえ、「大きな立派にクルマになれば、さらに拡大してくれると思うのは当然」。かくして彼も「僕もその自然な流れに乗って、30歳になるまでは大きな、立派なクルマを目指していた。強いものが路上では楽なはず、と思っていたからだ。しかしクルマがいくら強そうでも、自分は所詮自分。クルマから降りたらもうそれは通用しない」。ところが、ある日奥さん(松任谷由美)が貰った小さな国産車に乗って「なんて気が楽なんだろう、と思ってしまった、どういう気分だったかと言えば、爪先立ちから解放された、といったらいいだろうか。これは目から鱗だった。それ以来、小さなクルマを好むようになった」そうだ。ウンウンその片意地と、それからふと解放された時の感覚ってわかるよね、とこちらもこの辺りで思わず一人呟く。と思っていたら「とはいえ、僕の場合、大きなクルマがあっての小さなクルマ。なんだかんだ言っても、どこか強そうにしたい自分は捨てきれないのである。」とまとめてある。再びこちらも、そうだよね、わかるわかるその気持ち、とまた妙に共感を抱いてしまう。ハンドルを握ると豹変する人格、大きく偉そうなクルマに人気が集まることなど、多くのオーナードライバーが感じるクルマ社会のあれこれを、気取らぬ文章で切り取った「車のある風景」は、この種のエッセーの中で秀逸である。


追記:「車のある風景」はJAF会員でなくともネットのJAF Mate  On line(エッセー)で読めるようだ。

2023年1月14日 (土)

電車でGO ! PLUG & PLAY

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まだ細々と働いているので、電話やらメールから解放される週末が来るのがちょっと楽しみだが、今日のような雨模様の冴えない日には自宅で何をして過ごしたらよいか。ということで、「電車でGO! PLUG AND PLAY」を取り出して、運転ゲームを楽しむことにした。家庭用テレビゲーム「電車でGO!」は1997年に発売されて以来、色々なバージョンが販売されたが、2004年発売の「電車でGO! FINAL」を高解像度化、画面比率を16:9にして、併せソフトをゲーム器に内蔵したものが2018年に出た「電車でGO! PLUG & PLAY」である。「電車でGO! PLUG & PLAY」はコントローラーにソフトが組み込まれているため、カセットをわざわざ挿入しなくて良いし、以前のものより映像が格段にリアル、かつ従来より様々な設定が画面に表示され、ゲーム中にクリアすべき条件も増えているスグレ物である。これは歳と共に段々幼稚化する私に、古希のお祝いで妻が買ってくれたものである。


ただ「電車でGO! PLUG & PLAY」は2004年時点の車両をベースにソフトが作られているので、山手線はE231系、中央線快速・特快はなんと201系で運転というのがちょっと残念。やはり山手線なら最新のE235系、中央線はE233系で運転を楽しみたいところだ。最新の車両ならもっと加速・減速がシャープに違いない。またこのゲームは、ダイヤより早く走った時には前方の列車に接近しすぎて信号が注意信号(橙色)になる時もあるが、日常的に注意信号や警戒信号(橙色を2つ)を表示したり、ダイヤより遅れた際に回復運転できるようにして欲しいと思うのは期待しすぎだろうか。とは云うものの、暇な週末には、日ごろ馴染みの区間や、ちょっと行ってみたい路線を自分の手で運転してみるのも楽しい時間つぶしである。まだ全路線を走破したわけではないが、雨や夜の場面もあるそうで、そのうちじっくりと楽しみたいと思っている。


電車のシュミレーターで一番難しいのが、決められた時間にホームの停車位置にピタっと停車することである。実際のプロの運転士は速度計を見ずとも停止位置にセンチ単位の誤差で止まることができるし、担当する路線の条件は全部頭に入っているそうだ。ただ画面からの平板な情報だけでなく、減速していくことが体感で分かるので、もし私が実際の運転台に座り、習熟すればブレーキの操作ももう少しスムースになるのだろうとは感じている。2008年3月10日のブログ「電気機関車は腰で運転する」で紹介したとおり、「牽引する後部車両のブレーキの効き具合を『腰』で感じながら電気機関車は運転するものだ」というのは、当時指導してくれた碓井峠鉄道文化むらのもと運転士の言葉である。電車でGO!で船漕ぎブレーキの連続になったり、はたまた停止位置を大きく外して止めてしまった時は、腰で感じればもう少しうまく止めれるのではないかと都合の良いことを思うのである。

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2023年1月11日 (水)

飛鳥クルーズの新造船(A3)トークショー

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2025年就航予定と発表された飛鳥クルーズの新造船がどんな船になるのか、クルーズファン、飛鳥ファンは大いに気になり色々と知りたいところだ。その期待に応えるべく、昨年末のアスカクラブクルーズNEXTの2日目に、「新造客船への想い」と銘打ったトークショーが飛鳥Ⅱのギャラクシーラウンジで開かれた。トークショーは雑誌「クルーズトラベラー」編集長の茂木政次氏の司会で、飛鳥クルーズ新造船準備室の女性リーダー、新造船の建造監督、それに飛鳥Ⅱの小川ホテルマネジャーの4名によって約50分間に亘って催された。アスカクラブクルーズNEXTはリピーターばかりの乗船、かつこの日は終日航海日とあってギャラクシーラウンジは結構な入りで、乗客の新しいクルーズ船に対する関心の高さがうかがえるトークショーであった。


まずこのプロジェクトは社内ではA3(エースリー)と呼ばれていることが紹介されたが、これからすると新造船は飛鳥Ⅲと命名させる可能性が高いのでは、と勘ぐりたくなった。建造工程はドイツのマイヤー造船所で2023年9月に船の起工式にあたるスティールカットが執り行われ、2024年1月~2月にキール・レイイング(本船の背骨に当たる竜骨の施設式)、2025年1月に造船所に面するエムス川への進水式、3月にエムス川から北海への川下り、4月にデリバリー(引き渡し)が予定されているとの説明がプロジェクトリーダーよりなされた。引き渡しにあわせて日本からの新造客船見学ツアーも計画しているというから楽しみである。引き渡し後の日本までの回航に一般乗客が乗れるのだろうか発表が待たれるところだが、新造船の就航ツアーで乗船すると、まだ技師も多数乗船していたり、船内の不具合があちこち見つかったりするのでそれなりの覚悟は必要かもしれない。そういえば私たちは2015年に長崎で引き渡しがあったアイーダクルーズの新造船に、ドイツまでの処女航海 兼 回航に乗船したいとアイーダクルーズ本社に直接メールしたことがあった。この時は「日本人用には用意がない」と丁重に断りの返事が来てがっかりした経験もある。さてA3ではどうなるだろうか?


トークショーでは建造予定のA3と現飛鳥Ⅱのスペックが比較紹介された。飛鳥Ⅱの長く伸びた美しいクリッパーバウ(船首)はA3では見られなくなるものの、今度はダック・テイルと云って船尾が長く伸びる船型を採用するとのことである。このダックテイルによりプロペラ効率が上がり、船の直進性能が高まるとの説明が監督からなされた。またA3は船体から水中に垂らした小さな容器内のモーターでプロペラを廻すポッドで推進するため、回頭性能が向上し狭い水路や港内での操船が容易になる。これに併せ船体が定位置に留まることが出来るDPS (DINAMIC POSITION SYSTEM) を採用し、錨を下さずとも定点に停泊できる船になるので、海底環境に対してもやさしいといま風の説明が誇らしげであった。デザイン的にはA3のファンネルが前後方向に大きくなっているのは、6台の発電用エンジンが、3台づつオモテ(船首)側とトモ(船尾)側にセパレートして配置される事によるものだそうだ。これとは別にハウス前部のデッキ上にはLNG用の小さなファンネルが設けられ、LNGを燃料にして推進する際はここから排気するというから面白い。


新造船準備室のリーダーからは、船室は9カテゴリーに分かれ、全キャビンがバルコニー付きであること、一人乗船客のためのシングルルームを設置することなどの説明があった。最前部には「船長目線で楽しむクルーズ」のキャビン、最後部には「航跡堪能!」キャビンが設けられると彼女は説明する。ただ以前アメリカでサファイアプリンセス乗船時に最前部スイートに、またゴールデンプリンセスで船尾スイートに乗船した経験があるが、最前部の進行方向を展望するバルコニーは容赦ない強風に始終悩まされたし、最後部バルコニーも船の速度(エンジンの回転数)によって乗り心地がひどく悪かった経験がある。A3が就航時にこの辺りの難問に対してどのような工夫をこらすのか気になるところだ。A3にはその他にマルチ・コートとする多目的広場ができて、飛鳥クルーズ伝統のイカ跳ばし大会が再開できるようになるのはちょっと嬉しいトピックである。また風呂やプールがハウスの前部に配置される予定とのことで、最もピッチングの影響を受けやすい船の前方で水の揺れをどうコントロールするのか今後の詳細発表が待ち遠しい。

シングルルームのキャビン
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新造客船のドック見学ツアー(ドイツ)検討中
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2023年1月 5日 (木)

「津軽鉄道・ストーブ列車」と津軽海峡を望む天然温泉「ホテル竜飛」その2

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鶴の舞橋と上半分が雲に覆われた岩木山

明けて2023年元旦の朝である。竜飛岬は相変わらず風が強いものの、天気予報に反して海峡には薄日も漏れ対岸の北海道も良く見える。当初の予報より天気が崩れるのが遅くなって夜半から吹雪になると云うから、この日に予定する観光は雪に見舞わることもなさそうだ。天気は覚悟して来たものの、これは春から縁起が良いや、皆の日ごろの心がけの賜物だと空を見上げて一同で喜んだ。9時前に宿を出発し、観光バスに2時間ほど揺られて着いたのが、津軽平野に鎮座する高山稲荷神社であった。高山稲荷は鎌倉~室町時代に創建された当地きっての神社で、五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の神様とされるそうだ。それでも東京近辺の寺社仏閣に比べると人出も少なく、まずは落ち着いた元日の初詣となった。次に立ち寄ったのが、大きな溜池である津軽富士見湖にかかる鶴の舞橋という太鼓橋であった。この橋は長さ300米の日本一長い木造三連橋で、地元青森特産のヒバの木でできており、名山である岩木山をバックに湖面には丹頂鶴が見られる景勝の地である。残念ながらこの日は鶴は見られなかったし岩木山も半分雲に隠れ、せっかく来たので向う岸まで渡ったものの、寒さもつのり皆は早々にバスに戻っていった。


五所川原駅近くのホテルで郷土料理「ホタテ貝焼き味噌」の昼食をとったあとは、いよいよ津軽鉄道のストーブ列車に乗車となる。津軽鉄道は津軽平野の中央に位置する五所川原から北に向かって中里駅までの20.7キロを結ぶ非電化単線のローカル私鉄で、津軽平野北部の開発と津軽半島環状鉄道の敷設促進のために地元有志が資金を出し合い昭和の初期に開通したとのこと。途中の金木駅で駅員が丸い輪のタブレットキャリアーを駅務室に運んでいるのを見てタイムスリップした気分になったが、ここはいまだに非自動閉塞でタブレットやスタフで鉄路の安全を確保している。ウイルス騒ぎが始まって以来、海外旅行に行けない分、国内ローカル線の旅が増えたが、鉄道の旅を通じて明治の末から大正、昭和にかけて日本中どこでも鉄道誘致、鉄道建設運動が盛んだったことを改めて思い知らされた。その後、国鉄に買いあげられた鉄道、はたまた私鉄のまま残った鉄道が、それぞれそのインフラを現在にどう活用しているのか、安全輸送と経済性にどう折り合いをつけるのか、ローカル列車に乗る度に、もしこの線路を自分で経営(運営)したら何をするだろうかと考えるのが楽しみになった。


JR津軽線も昨年の大雨で線路が決壊し、復旧に多額の費用かかるため廃止する方向に入ったと報じられている。ここ津軽鉄道も赤字に悩んでいるが、車両の更新ができないことを逆手にとって、昔ながらの石炭炊きのダルマストーブを旧型客車に載せたストーブ列車を観光の目玉にしている。ストーブ列車は12月1日から3月31日の間に一日3往復運転され運賃の他に500円の列車券が必要だが、この日は満席で海外からの観光客もちらほら見うけられた。津軽鉄道は夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車を運転して観光収入を得ており、地方私鉄の必死の生き残り策を肌で感じるかの乗車体験である。車内では日本酒(350円)にスルメ(700円)が販売され、観光ガイドのおばちゃんが買ったスルメをダルマストーブで焼いてくれる。おばちゃんは2枚重ねにした軍手でストーブの上に置いた金網に、スルメをぐいぐい押し当てて素早く焼き上げ、みるみる車内はスルメ香が充満してくる。金木駅近辺にある太宰治の生家を遠望しつつ、津軽平野の雪景色を眺めながら日本酒片手に食べるこのスルメのなんと美味いこと。ついお酒も進んでしまったが、ほぼすべての乗客がスルメと日本酒を買い求めているようで、ストーブ列車の企画も大受けのようだ。


この日は地元乗客のための気動車2両が動力源となり、牽引される「オハ46 2」と「オハフ33 1」の2両がストーブ付き客車で、我々団体一同は「オハ46」に座席が指定されていた。Wikipediaによると乗車した「オハ46 2」のタネ車は、1954(昭和29)年製造の旧国鉄「オハ46 2612」だそうで、1983年に津軽鉄道に譲渡されたとのこと。さらにネットでいろいろ調べていくと、この「オハ46 2612」は元々は「スハ43 612」として戦後復興期に急行型客車の体質改善のために作られた車両であり、のちに軽量化改造と電気暖房設備を設置してオハ46の2000番台を名乗るようになったとされる。とすると元来この車両には暖房設備があるはずなのだが、津軽鉄道では牽引する側のディーゼル機関車や気動車に暖房用の電源供給設備がないため、やむなくダルマストーブを積んでストーブ列車にしたようだ。苦肉の策が却って大当たりとなって、今では観光の目玉になっているのだから世の中わからないものだ。その「オハ46 2」の車内はさすがにくたびれており、アルミサッシの窓(アルミサッシ化は国鉄時代なのか津軽鉄道でなされたのか不明)からは隙間風がビュービューと吹き込んで来る上、どこからかわからないが細かい雪まで入り込んで舞っていた。スルメを焼いていたおばちゃんは「吹雪の時はもっと吹き込んで来るよ~」と津軽弁で説明してくれた。


期待して乗車したストーブ列車だったが、旧型客車のノスタルジーを望んで乗車した私のような鉄オタにはやや不満も感じた。旧型客車の座席モケットと云えば濃青色のはずがピンク系の生地に張り替えられ、それもあちこちにツギが当たっている。客車特有の高いアーチ天井は良いが、照明は電球用の台座に丸い蛍光灯が裸で収まっているし、かつて扇風機が据え付けれていた台座も、意味不明の照明が設置されているのが何とも興ざめだ。客車列車というとバネ下重量が軽く軽快な走行音を聞くのが楽しみだが、かつては評判の良かったTR47系の台車も、ローカル鉄道の路盤状況では乗り心地を楽しむ術もなくガタンガタンと揺れが激しい。せっかく現役で走る貴重な旧型客車である。500円の乗車料金を1000円にしても良いし、寄付やらクラウドファンディングで資金を集めても良いから、動態保存の意味でもオリジナル状態への復元やメインテナンスに力を入れて欲しいところだ。団体旅行の悲しさ、もう一両の「オハフ33 1」をゆっくり見る時間がなかったのが残念だが、津軽鉄道は我々のようなオタクの為に車両の来歴を披露する説明や掲示も欲しいと思った。終点の中里駅で津軽鉄道を降りる頃から雪が強くなり、竜飛岬に戻るころは外は吹雪であった。津軽海峡冬景色、地元神社への初詣、岩木山に太鼓橋、ストーブ列車と印象的な2023年の正月休みであった。(了)

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天井の蛍光灯と扇風機跡が無粋なオハ46 2

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 地元案内のおばちゃんは軍手2枚履きで焼き網にスルメを押し付け素早く焼き上げる

2023年1月 4日 (水)

「津軽鉄道・ストーブ列車」と津軽海峡を望む天然温泉「ホテル竜飛」その1

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北海道を対岸にする竜飛岬

元旦を挟んで大晦日から1月2日までの2泊3日で、JR東日本の団体旅行びゅうによる「冬の風物詩『津軽鉄道・ストーブ列車』と津軽海峡を望む天然温泉『ホテル竜飛』」に参加して来た。妻とその母、妻の妹と大学生の娘(姪)の老若女性4人と爺さん1人の5人組である。男兄弟で育ち高校は男子校、大学はクラスも部活も男だけ、就職先も男性主体の産業と若い頃は男性中心の社会で生きてきたが、歳をとればとる程どうやら女性の渦の中に巻き込まれて生きることになりそうだ。人生わからないものだ。さて人に話せばこの寒いのに何を好き好んで正月休みをそんな本州の北端で過ごすのかと笑われそうだが、このツアーは同じ宿に連泊し雪を見ながらゆっくりと温泉に浸かり、元日は初詣も出来る上に変わった鉄道に乗れるという旅程になっている。こんな企画旅行にのらなければ竜飛崎などは2度と行けない場所なので、この際思い切って訪問するのも良かろうと皆で参加することにした。


とは云え強風で名高い竜飛岬である。石川さゆりも「津軽海峡冬景色」で「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと見知らぬ人が指をさす (中略)さよならあなた私は帰ります、風の音が胸をゆする泣けとばかりに」と歌っている。ましてや青森県津軽地方の正月の天気予報は、強い寒気の襲来で吹雪になると告げる。厚手のコートにスキー用の帽子と手袋を着用し、凍った道でも滑らないように靴に装着するスパイク付滑り止めを持ち、妻は2016年に飛鳥Ⅱで行った南極クルーズで支給された防寒パルカを着こんだ完全防備で出発することにした。東京から東北新幹線”はやぶさ”に乗って3時間半、到着した最寄の奥津軽いまべつ駅は、あたり一面真っ白な雪に覆われたローカルな景色の中にポツンと佇んでいた。ここから貸し切りバスに1時間ほど揺られて着いた竜飛岬は、にび色にうねる津軽海峡をはさんで北海道の渡島半島の山々を望む半島の突端に位置していた。因みに正式にはこの地の名前は「竜飛」でも「龍飛」でもどちらでも良いそうで、観光用には画数の多い「龍飛」を使うそうだ。


やや高台に位置する岬には我々が宿泊するホテルの他には灯台と「津軽海峡冬景色」の歌碑があるだけで、この時期は我々のような団体客以外の観光客はまれにしか訪れない寂しい場所であった。歌にあるように竜飛といえば風の名所だと観光バスの地元ガイドさんも言っていたが、この日は立っているのも困難なほどの突風が時々吹き抜け、まさに地の果てという情景がひろがる。ただ歌碑の前にある赤いボタンを押すと「♯ごらんあれが竜飛岬♭」と石川さゆりの歌が大音量で聞こえる仕組みになっていて、夏場にはここが観光名所であることを示していた。その岬近くにただ一軒建っている宿が2晩泊まる「ホテル竜飛」であった。津軽半島の先端部には他に適当な宿泊施設がないのか、大晦日から元旦にかけては我々JR東日本びゅうのほかに、JTBとクラブツーリズムの大手御三家のツアーが揃い踏みになってホテルの中だけは大賑わい。宿は人出が足りない様子で、働いている外国人男性はネパールから来たとのこと。突風をついて歌碑や灯台を散策し冷え切った体には、竜飛温泉の塩泉がとても気持ち良かった。こうして吹き荒れる風の音を窓外に聞き、津軽海峡の荒海を眼下にしながら大晦日は暮れていった。


津軽海峡冬景色の歌碑
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