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2019年8月10日 (土)

夏の思い出

20190810
大山街道(現国道246号線)を走る玉電。玉電真中(現田園都市線駒沢大学)にて

長い梅雨が終わったら暑い夏である。子供のころは冷房などなかったが、こんな暑さの中で普通に暮らしていたのだろうか。そういえば夏の夜は雨戸をあけて月を見ながら寝ていたような気がする。夜になると昭和30年代初めの東京郊外は風がけっこう吹き抜けて涼しかった。寝冷えするからと腹巻をして、蚊帳の中で寝たのだが、ただ蚊帳の中は空気がこもって寝苦しく、足や片手を外に出すと出ている箇所だけ蚊に刺されていた。地球は太陽系の大きな節理のなかで温暖化や冷却化を繰り返しており、最近の「二酸化炭素で地球が温暖化している」などという説を私はあまり信じていない。しかし60年ほど前に比べると日中の冷房の普及もあって、体感上たしかに東京は暑く寝苦しくなった。寝苦しいまま、子供のころの夏はどう過ごしていたのかつらつらと眠れぬベッドで記憶を辿ってみる。

小学校の夏休みは「宿題は朝の涼しいうちに済ませなさい」との親の言葉で午前中はしぶしぶ勉強。ただ専用の勉強机などなく、茶の間のちゃぶ台で学校から与えられたドリルなどを解いていた。昼になれば自転車に乗ってあちこち友達の家に行ったり、虫かごをもってセミやトンボを取りに出かけるとか、町の空き地に集まって野球をよくした。最近は夏休みでも補虫網を片手に虫を追いかける子供の姿をあまり見かけないし、野球はというとチームに入ってユニホームをビシっと決め、大人のコーチの指導を受けている。当時、人数が足りなければ三角ベース、時には走者は三塁から二塁、一塁へ走る逆回り野球も面白かったし、プレーをすると自分が与那嶺や広岡、長嶋らヒーローになった気がしたものだ。今の子供たちの管理された野球とはまったく違う遊びであろう。とにかく泥んこになり、体中赤チンだらけの夏休みで、よくぞ大きなけがもせずに大人になった、と今でもつくづく思う。

そのころの横丁には金魚売りの「キンギョーェ、キンギョー」や竿屋の「たけやー、竿だけー」という声がひびいていた。わが家には千葉から大きな背負いかごの行商のおじさんが佃煮やうぐいす豆を売りに来ており、「今日はお豆のおじさんはまだ?」などと話していた。そういえば房総からその朝獲りたての魚を売りに来ていたオバちゃんが来たし、水戸からワラにくるんだ納豆を持ってきたおばあちゃんも懐かしい。冷蔵庫といえば氷を買って冷やすものだったから、町のあちこちで氷屋さんが大きな氷をのこぎりで切り出す風景も見られた。ビールやスイカは大きな金ダライに冷たい井戸水を汲み上げて冷やしたが、井戸の手動ポンプをエッチラ、オッチラ汲み上げるのは子供の役目である。興がのると水を大量に汲み上げて、庭にドロンコで川の流れやダムなどをこさえて楽しんだのだった。スマホやらゲーム機などなかったが、考えてみれば何でも遊びの対象にできた時代だった。

夕方、当時はどの家にもお風呂があったわけではないし、毎日お風呂を沸かす習慣もなく「今日は行水ですまそう」とか「今日はお隣の家のお風呂を借りなさい」「銭湯に行きましょう」などというのが普通だった。髪の毛を毎日洗うこともなかったから、今の若い人達には考えられない生活であろう。今から思うと不便ではあったが、セピア色に包まれた数々の思い出は、まさに「三丁目の夕日」の世界そのもので、ひどく懐かしい気持ちが沸き起こってくる。そういえば最近帰宅してすぐに手を洗わず、妻に注意されムっとして「俺たちの世代は少々汚くても平気なんだよ」とうそぶくと、「そういう問題じゃなくて、その手でさわるからあちこち黒くなっちゃってるし」と反撃された。年代のやや違う彼女は、「三丁目の夕日」のノスタルジーは半分ぐらいしかわからないらしい。

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