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2018年12月14日 (金)

12月14日 赤穂浪士の討ち入り

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本所松坂町・討ち入りのあった吉良亭跡の案内板

12月も半ばの14日である。通勤途中に今年ももう終わりかなどと考えていると、「そう言えば今日は赤穂浪士の討ち入りの日だった」と思い出した。吉良邸への討ち入りと云えば即座に「時は元禄15年12月14日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ…!、おう、まさしく赤穂浪士の討ち入りじゃ」と南春夫が歌う”元禄名槍譜・俵星玄蕃”のセリフが浮かんでくる。もっとも旧暦の12月14日といえば今なら1月も後半だから、その夜は江戸の夜風もひとしお冷たく、両国橋のたもとで雪を踏みしめ仁王立ちする助太刀の俵星玄蕃もさぞや寒かったに違いない。


無念の切腹をした浅野内匠頭であるが、本当は田舎者で礼儀知らずなのに、後世「忠臣蔵」などによって吉良上野介が悪役として書き換えられたのかも、との思いがふと湧いた。切り付けられた上野介は名門の出であり領地でも名君と云われていたそうだから、田舎から来た大名の世間知らずな所作を以前から苦々しく思っていたとも考えられる。一方で内匠頭も若い頃は江戸住まいが長く、そのうえ参勤交代でしばしば江戸にも来ており、そのあたり本当の田舎侍で礼儀しらずだったのか真偽のほどはわからない。結局のところ、今でいう上野介のパワハラにぶちキレて、松の廊下で刃傷沙汰に及んだのだろう。


浅野内匠頭はその場で取り押さえられ即日切腹処分の上、お家お取り潰しとなったのは「忠臣蔵」や「赤穂浪士」でよく知られる通りである。人々の平均年齢が40歳ほどの時代のことだ。内匠頭は33歳でこの重大な事件をおこしたのだから「若気のいたり」でキレたわけでもなし、まさに「短気は損気」の見本のような例であった。ただこの刃傷沙汰が日本人が好きな「忠臣蔵」につながっていくのだから、浅野内匠頭は歴史に名を残した大名だったと言えよう。私も高田馬場を通れば堀部安兵衛を思い出し、本所を車で過ぎれば以前訪れた吉良亭が目に浮かんできてしまうほどだ「江戸散策その4(2008年11月16日)」。と言うことで今日の昼休みは忠臣蔵にちなみ、内匠頭が切腹させられた新橋の田村右京太夫亭跡までぶらぶら散歩してみた。

新橋にある浅野内匠頭終焉の地にたつ石碑
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