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2017年11月10日 (金)

山下埠頭

20171110
山下埠頭の遠望

朝のテレビニュースで、主に在来貨物を扱う横浜港の山下埠頭がなくなるというニュースが流れている。国際物流のコンテナ化によって在来船の貨物取り扱い量が大きく減った山下埠頭を再開発し、一般市民も楽しめるハーバーリゾートに再開発されるそうである。確かに横浜市港湾局のホームページをみると、昭和50年代の初めに200万トン、1000隻近くの荷さばきをした山下埠頭も、昨年は一般貨物船の減少でわずかに14万トン、100隻ほどに減っている。ここが横浜の繁華街に近い事を考えると、こういう計画が進められるという事も納得できるというものだ。


そのニュースを聞いているうち、昭和50年代の初め、一万総トンの日本籍の在来貨物船に乗ってカリブ海・中南米へ3か月の乗船研修に出たのが山下埠頭だったのを思い出した。最近は日本の外国航路の貨物船といえども、船籍はパナマなど便宜置籍国にして外国人で運航されるのが当たり前の時代となった。わずかに危険物や可燃物など特殊な荷物を積む船に限って日本人数名に外国人が混乗するケースもあるが、我が乗船研修の当時は外国航路の船と云えば日本人30数名が乗っていた時代である。よきマドロスの最後とも云える頃であった。


スケジュール通りに走るコンテナ船と違って、その頃は船混みや積荷、揚げ荷の状況で、貨物船が港で長期停泊する事もしばしばで、若い乗り組み員たちは、ゴーショーギ(Go Shore 着)を着て、荷役のない夜や当直の合間に夜の街に繰り出したものだった。私が横浜から乗船した時も、クルーとなじみの伊勢佐木町あたりのおねえさん達が大挙して山下埠頭におしかけ、出ていく本船に向かって手を振ってくれていた。何か月も海の上で生活する船乗りたちが、後進で山下埠頭から離岸する船の舳先に立ち尽くし、いつまでも彼女らと別れを惜しんでいた光景が忘れられない。


ちょうどその頃は海運産業が長い不況に突入していくさなかで、私は帰ったら転職するかと去り行く横浜港を振り返りつ考えていたが、とうとうそんな事もせず40数年、この業界で永らく禄をはむ事になった。山下埠頭のニュースを聞くにつけ、貨物船で語り合ったクルーたちはその後の不況の下で、どうしたのだろうかとの思いが浮かんでくる。彼らの本名は覚えていなくとも、船乗り独特の職名で呼ばれていたそれぞれが働く姿は今も強烈にまぶたに残っているものである。チョッサー(一等航海士)、ボースン(甲板長)、クオーターマスター(操舵手)、ナンバン(機関部の一職名)、局長(船舶無線局長)、シチョージ(司厨長)など船内での職名が、山下埠頭のニュースと共に蘇ってきたのであった。

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