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2016年11月

2016年11月28日 (月)

ビールが認知症を予防する

”ビールの苦味 認知症を予防”すると云う記事が今朝の読売新聞にあった。ビールメーカーと東大や学習院大の共同研究チームが明らかにしたもので、「ホップ由来の苦味成分である『イソα酸』に、脳内の免疫細胞である『ミクログリア』を活性化させ、アミロイドβを除去する作用が見られた」そうだ。このアミロイドβの加齢による脳内蓄積が、国内の認知症(約462万人)の約七割を占めるアルツハイマーの原因とされるとの事で、ビールを飲むとアミロイドβが減少し認知機能の向上が期待できるという。


こういう研究は、後年の詳しい調査やさらなる大研究によって理論が覆ることもしばしばあるが、まずは若い頃から毎日ビールを飲み続けている私にとっては『現時点』での朗報である。思いおこしてみると、小さい時分に父親のビールを口にふくんで「うまい!」などとちょっと無理して言うと、「こいつは大人になったら呑み助になるなあ」などと父親が笑ったのが妙に嬉しかったものだ。高校生の頃のスキーの写真には、友人達とビール片手に談笑しているものがあるから、そのころからビールの味を覚えたのだろうか。


大学生になっても中・長距離の部門は比較的アルコールに寛容で、練習の後よく駅前の中華料理屋で、その頃初めて町でも飲めるようになった”生”ビールで水分を補給した(それまでは町の食堂で飲めるのは瓶ビールのみ)。なにしろ学生の身分ゆえそう贅沢はできなかったから、”生の大ジョッキ”とヒヤヤッコの安いセットばかり注文していた覚えがある(財布に余裕がある時には、サンマーメンつき)。当時マラソンで強かった君原健二選手が、大のビール好きだったというのも「競技とビールはあまり関係ないね」と飲酒を正当化するのには都合よかったものだ。そんな頃からのビール党だから今でもほぼ毎日ジョギングし、夕方になると「何はなくともまずビール」というのが我が生活習慣である。


走って大汗をかいた後シャワーを浴びビールを飲んでいると、心地よく腹が膨れつつ適度なアルコールで脳が少しづつ麻痺し、その感覚は”至福”という言葉がぴったりだ。などと思ってビールを飲み続けていたら、最近の健康診断で痛風の指標である尿酸値が基準を越え「食べ物、飲み物に注意」となってしまった。ビールは尿酸値に良くないそうで、近頃は家では「とりあえずのビール」は、なるべく缶1本だけでやめるようにしている。もっとも最近物忘れがひどくなり、妻にしばしば「ボケは大丈夫!?」と指摘される日々ゆえ、認知症の予防にビールが有効と聞くと、痛風はこわいがビールをもっと飲んでボケ防止したら良いのかとも思えてくる。ならば運動後のビールは同じ1缶なら350ccでなく500ccのにしてみるか、などと記事を読みながら都合の良い解釈を考えるのである。

2016年11月21日 (月)

平戸銘菓・蔦屋のカスドース

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好き嫌いなしで何でも食べる。酒も好きだから(というより無くては生きていけないから)、当然塩辛いものが好きだが、さりとて和洋かぎらず甘いものも好きである。以前にもアップしたとおり伝統の日本各地名産の和菓子の中では、佐世保の九十九島せんぺいや博多の鶏卵(たまご)そうめんが永年の好物なのだが、今年ねんりんピックで長崎県を訪問した際に、東京都選手団の宿舎だった佐世保の町で買った平戸の蔦屋(つたや)のカスドースも印象に残る菓子であった。


カスドースは以前テレビの「百年てみやげ」で紹介され、平戸に行く機会があったら買おうと思っていたところ、佐世保のみやげ物店でも販売されておりさっそく購入した。その蔦屋は1502年創業というからまさに戦国時代から続くお菓子やさんである。カスドースは「ポルトガルとの交流によって伝えられた南蛮菓子のひとつ」(お菓子の栞)で、「カステラを卵黄にくぐらせ、糖蜜で揚げた」(ホームページ)ものである。砂糖がふんだんに使われているが、のちの江戸時代になっても卵や砂糖は貴重品だったから、明や南蛮との貿易ができた平戸ならではの、往時の”超高級菓子”であったであろう。


ちなみに戦国時代では日本の砂糖輸入量が150キログラム/年、江戸時代初期になって100トン/年(独立行政法人・農畜産業振興機構のホームページより)で、人口が何倍も違うといえ現在は日本国内で使用する砂糖が約200万トンだと云うから、当時の砂糖の貴重さが判ろうというものである。平戸藩門外不出の菓子として育まれたカスドースは、明治時代以降は皇室献上銘菓となったそうで、小分けにしたその封を切るとファっと黄身の匂いがただよってくる。それは「ほれ旨いぞ、食べてみい」とでも云っているかの様で、長崎の南蛮交流の伝統を今に伝えているのであった。

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2016年11月17日 (木)

スマホの買い替え

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買ってから僅か2年数ヶ月の旧スマホ、内臓電池がふくらんで裏ぶたが曲がってしまう。これの修理が高そう???

電車に乗ると周り中の乗客が熱心にスマホを見ていてなんだか気持ち悪い。何をそんなに熱心に見ているのかとそれとなくのぞいてみると、けっこういい大人が朝っぱらからスマホのゲームに熱中したりしてなおさら気色悪くなってくる。朝の通勤時は日経新聞を読んで、少なくとも経済の大きな出来事、それに自分や取引先業界の記事、人事とか訃報を頭に入れてから出社すべしなどというサラリーマンの不文律はいまや存在しなくなったのだろうか。それにしても老いも若きも、すごいスマホ普及率である。


かく云う私も2年ほど前に”みえ”でスマホにしてみたものの、ひごろ使うのは妻への”帰るコール”くらいで、こんな使用方ならガラ携で充分であろう。で、次は操作も簡単で安いガラ携に戻そうかとも考えたが、そもそもガラ携を通信電話の事業者が止めると聞いて何だか釈然としない心持ちである。などと思っていたところ、先日会社から家へ電話しようとして我がスマホを取り出すと、その裏ぶたが妙にふくらんでいるのに気がついた。


「おかしいな、どこにもぶつけたりしていないのに」といぶかしく感じながら会社の若者に聞くと「あ、これは中の電池ですね。電池が膨らんだために裏ぶたも曲がったので、ほっておくとよくないかもしれませんよ」との事。あわててドコモショップに駆け込むと、修理に出すが場合によっては見積もりに「万」の単位がつくかもしれぬと若い店員が事もなげに言う。「え、こんな電池などここでちょこっと換えて、せいぜい千円くらいじゃないの?」と店頭でいくら毒づいてみても、店員からは「お預かりしてから、あらためて修理代をお知らせします」とマニュアル通りの返事が返ってくるのみだ。


「では新しいスマホに換えたらどうなるの」と尋ねたところ、急に店員は私には理解不能な様々な購入プランをぺらぺらと並べたあげく、「今と変らない使用料で新しいスマホをご利用いただけます、もちろん新しいスマホに換える代金はそのプランに含まれています。これなら修理代金がかからない事にもなります」と立て板に水で一気にしゃべる。たかが電池の修理に大金を払うくらいなら、追加料金なしで新しいスマホに換えた方がどうも得のような気もしてきて、業者のえげつない買い替え策かとややあきれつつも、策略にまんまと乗せられてしまう事になった。


もっともスマホを買い換えるとなっても、新しいものへの切り替え作業は、私にはとうてい無理である。我が家のIT主任である妻にすべて頼まねばならないから、買い替えの契約は日曜日に妻を連れて、あらためてドコモショップに来店する事にした。という事で妻のご機嫌をとりつつ、かつ彼女のも新しいスマホに買い換えるという条件で、先の日曜日の午後に新しいスマホへの契約更改を終えた。その更改はサインやら担当者の説明が延々と続き、2時間以上もかかる半日仕事である。世の中は便利になったのか、却ってこんなものに振り回されて不便になったのか判らないが、せっかく最新の機種にしたのだから、今まで使わなかったアプリも少しは覚えて使いこなすか、と思い直しているところである。ボケ防止にもよいかもしれないし・・・・・。

2016年11月10日 (木)

言ってはいけない

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「トランプ候補にちょっと期待する」と前のブログで言ってはみたが、そうはなるまいと思っていたところで、本当に彼が勝利してしまった。事前の予想とまったく違った原因は、隠れトランプ支持者がそれだけ多かった訳で、多くの有権者が本音の部分では不満に思っていたものの人前では「言ってはいけない」事を彼が代弁していたのだろう。また「トランプ支持者は低所得の白人、レイシストで移民を排斥したい人達」というレッテル貼りが、そうでない普通の支持者に、事前にものを「言えない」状態にしていたに違いない。という事でアメリカでは「建て前」と「本音」のせめぎあいの中で、本音に近い部分が今回の大統領選挙結果でオモテに出たようであった。


「言ってはいけない」といえば、 橘 玲(あきら)という作家が書いた新潮新書の新刊「言ってはいけない」が面白かった。本の帯には「この本の内容を気安く口外しないで下さい」とあるので詳細は控えるが、「見た目で人生は変る」など、多くの人がそれとなく感じてはいるものの、口に出す事ははばかれる幾多の事実が披露されている。本書は進化論をベースに遺伝学、統計学や心理学、脳科学など様々な研究の成果を判り易くまとめたものだが、筆者はまえがきで「世界は本来、残酷で理不尽なもの」「みんな見たいものだけを見て、気分のいいことだけを聞きたい」としており、新書の中味は世の中の多くの建て前を覆すものになっている。


この本では人の行動や心は、考えられているより遥かに遺伝の働く力が大きいと云う事が示されたり、家庭教育について常識とは違った研究結果が紹介されたりするのだが、これらを読んでいると「努力」や「克己」、さらに「平等」や「融和」など我々が日頃心掛けたり、あるいは永い時間をかけて獲得したものは一体何だったのか、とちょっと不安な気持ちにさえなってくる。もっともあとがきには、世界的に犯罪や騒乱が減っているのは理性がなんとか役に立っているからで、私たちの認知・知性が進化のちからによってどのように偏向しているのか真実を知っておく必要があるとある。トランプ氏勝利を見るにつけ、不愉快ではあっても私たち人間の隠された本当の部分も認識しておく事が大事だと「言ってはいけない」に納得したのだった。

2016年11月 5日 (土)

佐伯啓思氏の「反・民主主義論」を読みつつトランプ候補にちょっと期待する

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英国が国民投票によってEUから離脱するというブレクジットにも驚いたが、米大統領選挙でトランプ候補が大いに盛り返し、クリントン候補と大接戦という連日のニュースにも驚く。「イスラム系をアメリカから追い出す。メキシコ国境に壁をつくる。アメリカは世界の警察をやめる。」などと吼えまくるトランプ氏が大衆の喝采をあびている現象を見ると、民主主義の行き着く先はこういうものかとの複雑な思いが湧きあがってくる。おりしも民主主義の様々な面を説き明かした京都大学名誉教授・佐伯啓思氏の「反・民主主義論」が新潮新書の新刊で本屋の店頭を飾っていたので迷わず手にしてみた。


佐伯氏は評論家の西部邁氏と学問的には近いとの事で、なるほど西部氏が日頃メディアで語るのに似た話の進め方によって、「憲法」や「民主主義」がこの本で俎上に載せられる。しばしパラドキシカルかつニヒルな論理の展開ゆえ「うん!??」と思い読み返したりする部分もあるが、民主主義や憲法の『本質』をどう捕らえるかについて 本来私たちが踏まえておかねばならない事がらが述べられる。安部政権に対して何かと云うと「民主主義の危機」「戦争への道」などと叫んでいる様な単純な左マキ連中に、民主主義とは何かについての覚悟を突きつけているのも良い。


氏によれば今のトランプ現象こそ民主主義そのものだと云う。民主主義とは自分たちの『支配者』を一定のルールに従って選ぶ政治で、どこへ流れ着くのか容易にわからないものであると云う。多数決で決まるから絶えず敗れた側に不満分子が生まれ、その不満分子に支えられ新たに世の中をそしる支配者が必然的に出てくるシステムが民主主義なのである。本来は民主主義が働くには神や自然、伝統や社会通念的な裏付けが必要だが 「自由な競争主義やIT革命やグローバル金融などによって共和主義的精神も宗教的精神も道徳的慣習も打ち壊しながら、民主主義をうまく機能させるなどという虫の良い話はありえない」 とこの本は説いている。アングロサクソン的自由主義が行き着いた先の、米国や英国でおこっている民主主義が何なのか、本書を読むとなるほどと考えさせられる。


さて、こうして豊富な金を担保に「アメリカを強くする」と吼えながら大衆の情念を刺激した「むきだしの民主主義」者トランプ氏が本当に大統領になる可能性が高まってくると、我が国では従来の日米安全保障体制が揺らぎ、日米間の貿易体制にヒビが入るのではとの懸念が増している。まあ本当にそうなったら現実には一定の歯止めはかかるとしても、日本の防衛などに米国がカネを使わないと主張する彼の当初の方針によれば、国内の米軍基地もいずれ少なからず影響がでてくるのではなかろうか。


いま中国の軍事力が台頭し北朝鮮の核開発が進む中、もし相当な規模で在日米軍が引きあげてしまえば、それは直ちに日本人が戦後初めて自分の責任で自国や地域の平和を考えねばならない事態に直面する事になる。中国や北朝鮮の脅威に対し自主防衛のためには憲法は今のままで良いのか、集団的自衛権が云々などと抹消な論議をしている場合か、米軍去りて沖縄は経済的に成り立つのか、などなど日本も自分のアタマで自国と地域の安全保障を考える時期がやってくるのである。それは米国の軍事的プレゼンスの下、戦後憲法によってぬくぬくと生きる事が許された空想的平和主義の時代が、とうとう終わりを告げる時だと云えよう。トランプ氏がもし大統領になったら、我々もやっと戦後の呪縛からとき放たれ、これを奇貨として安全保障を自分で考える当たり前の国になるのかもしれない。

2016年11月 3日 (木)

文化の日

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自他ともに認める体育会系だと思ってきたが、60才を過ぎた頃から残りの人生これだけではまずいと考え始めた。という事で電子ピアノを買い一念発起して50年ぶりにピアノを始めたのはよいが、どうもバイエルやらブルグミュラーでは退屈である。で、いきなり実力よりはるかに上級のモーツアルトのピアノソナタ(K331 トルコ行進曲つき)を練習し始めたのが1年4ヶ月前だった。もともとこの曲が好きだったという事もあり、以来自分でも以外なほど熱心に練習に取り組み、会社に行く前など30分から1時間ほど毎日ピアノに向かってきた。


もっとも実力以上の曲の上、ハノンなど地味な指の練習は省略ときているから、8分音符や16分音符が連続しメロディーが上下するような難解なパートには始終てこずっているのが現状。それでも「60の手習い」も練習していると僅かずつでも上達するもので、時々妻に「うまくなっただろう」と自慢したりしつつ、3楽章のピアノソナタのうち、第2楽章まで何とか弾ける様になってきた。時々つっかえたりテンポが狂ったりするものの、プロが演奏すれば25分ほどかかる1、2楽章を弾ける様になるのに1年4ヶ月だから、テンポの早いトルコ行進曲である第3楽章は習得するのにまた1年くらい時間がかかる事であろう。


ピアノとともに文化的活動そのⅡは社交ダンスである。週1回の個人レッスンを受け始めて4ヶ月経過したいま、毎回みっちりとワルツやタンゴの基本姿勢の学習である。社交ダンスは足型さえ覚えてしまえば後は何とかなるものかと思っていたが、ダンスがダンスらしくなるのはポスチュアーとかホールドがとても大切だとおぼろげに判ってきた。個人教授はそれなりに費用もかかるものの、クルーズ船での集団レッスンと違って手取り足取り先生に教えてもらうと「なるほど、ダンスはこういうものか」と納得する事も多い。つい昼休みなどに会社近くの公園で復習をしたりして、道行く人に胡散臭く見られたりと、まるで映画「シャルウイダンス」ではないかと自ら苦笑してしまうのである。あまり自分には似つかわしくないピアノとダンスの練習で、老化やボケが少しでも防止されたら、などとツラツラ思う文化の日である。

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