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2016年6月

2016年6月29日 (水)

Shall we dance again ?

3月30日の飛鳥Ⅱ「ダンス編」でアップした通り、妻に送り出されて一人で近所のダンス教室に通い始めて約1ヶ月がたった。週に1回各30分のペースで5回ワンセットになる女性の先生による個人指導レッスンも、やっと第1クールが終わったところである。小・中学校時代にはフォークダンスさえ逃げまくっていた私だから、正直言って社交ダンスに対する心理的抵抗もないではない。だが、せっかく大枚はたいて乗船した飛鳥Ⅱで、何十日間もダンス教室に参加したのだから、ここで終わっては何とももったいないと云う気持ちでのレッスンである。まあ60歳台も半ばになってジョギングばかりしていると、このままいつまでも走り続けられるのかと云う不安も芽生えてくるので、ここでダンスも良いかとのひそかな思いもある。


と云うことで、今回のレッスン始めはまずワルツであった。船上では足型を追うのにかなりの時間をさいたが、陸の教室ではまず基礎の動きとあって、大きな鏡の前で腰を動かして重心移動の練習をしたり、体をひねってポーズを決めたりの時間が長い。「こうすれば女性が踊りやすいのですよ」と先生が示すと、やはり船上の多人数のレッスンとはかなり違う事が私にもわかる。パーティの席で酒でも飲みながら、何となくええ格好をしたいという不埒な動機の中年ながら、基礎からこうして習ってみると、ダンスは随分と奥深いものだという気がしてくる。基礎をマスターした上でこそ上手になれると云う事は、自己流でやって結局モノにならなかった我がゴルフ暦を反省してみれば瞭然だから、ここはじっと先生の指導に従う事にするのである。


不得意種目にチャレンジしているゆえに何らかのインセンティブが必要とあって、先生はきれいだし妻より若くてまずは良かったなどと思っていたが、考えてみればプロの個人レッスンは1分間に約100円宛チャージされている料金である。先生に手をとられて踊っているうちに、何か自動販売機に100円玉がチャリーン!チャリーンと音をたてて吸い込まれて行くかの如き幻想が頭をよぎっていくのが何とも悩ましい。しかし各地の公民館などで募集している「社交ダンス教室」は主に平日の昼で今の私には無理だし、基礎のキから教えてくれるプロのレッスンはさすが、とちょっと気分を新たにしているところだ。そのうち船上でカクテルを片手に見知らぬ女性を優雅に誘いだし”SHALL WE DANCE?”と言えたら、などと果かない夢を抱きつつ奮闘しているおっさんである。

毎週のレッスン教室会場
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2016年6月27日 (月)

山縣亮太君、祝オリンピック・リオ大会に出場

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2014年早慶対抗陸上の山縣君(右から3番目)

競走部の後輩である山縣亮太君が、陸上競技100米競走でオリンピック・ロンドン大会に続き、リオ・デ・ジャネイロ大会へ出場する事が決まった。先の土曜日に行われた陸上競技の第100回日本選手権大会をテレビで見ていたら、ケンブリッジ飛鳥選手に最後でかわされて彼は残念ながら2着。しかし僅か100分の1秒差とあって当確だろうとは思っていたものの、まずはその出場が発表された事を祝福したい。現役時代と同様、私はあまり模範となるようなOBではないから、応援回数もそこそことあって実際に彼の姿を見たのは競技場では数回のみである。あとはたまに出る納会や、激励会の場で学生服姿を見ただけなので大きな事は云えないが、やはり後輩がオリンピックに出るのはとても嬉しいものだ。


山縣君は、下級生の頃からその力を発揮し、オリンピック・ロンドン大会の他、早慶戦やインカレなどでおおいに活躍していたが、社会人となってからは腰を痛めていたと報道されている。まさかこのまま競技力が衰えたりはしないかと心配していたところ、今シーズンはまず順調のようで正にご同慶の至りだ。そう云えば第二次大戦前には長距離などで多くの選手をオリンピックに送り出した母校も、戦後となると1964年の東京大会の短距離に出た室洋二郎氏、2000年シドニー大会競歩代表の小池昭彦君、それにロンドン大会では800米の横田真人君とともに山縣君だけがオリンピックに参加できた選手である。ここで山縣君の再度の出場とあって、夏のリオ大会も急に我が感心が高まってくる処である。


さてリオ大会では彼の専門の100米競走はもちろんだが、桐生君やケンブリッジ君と組んで、400米リレーでオリンピック・北京大会以来のメダル獲得をとひそかに願っている。そうなれば「友情のメダル」として有名な1936年ベルリン大会、棒高跳び大江季雄先輩による銅メダル以来の母校出身者の快挙で、これを期待するのは先輩OBの勝手な願望であろうか。まもなく7月になると体育会各部を40数年前に出た同期の懇親会が開かれるが、ここで現役世代が強い部は、会場でも話題が集まって華やぐのが何となく楽しみだ。そう云えばこの2月に飛鳥Ⅱでリオを訪問した際、こんな所で本当にオリンピックが開催出来るのだろうかと、工事の遅れを見て心配したものだが、代表選手の選考が進む中、どうやら大会が開催される現実感が迫って来たのであった。

2016年6月21日 (火)

終わった人・内館牧子著

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これまでリタイアをテーマにした小説などあまり読まなかったが、定年の花束を手にしたサラリーマンが描かれたイラスト表紙が気にいって、この本を購読してしまった。時あたかも同じ年代の友人達から「今日限りで会社を辞めます」というメールがしばしば届く季節である。本の帯に書かれた「定年って生前葬だな」という文句に加え、読売新聞の橋本五郎氏による「私も60代。まるで自分が裸にされているよう」との評も何やら気になった。読み始めてみると、予想通り我々のごとき退職世代の心理を実にうまく描いた話に、本を繰る手がすすんで一気に読了してしまった。


物語の主人公のような東大法学部卒ではないが、私もちょうどこの本と同じ49歳で子会社へ出向し、数年して転籍を示唆されたものだった。出世街道からはずれる主人公の葛藤が、まるで昨日の自分の事であるかの様に思え、一ページ毎に「これはまるで我が人生を書いているのではないの?」と錯覚したり、「ははは、それ良くわかるわかる!」と膝を打ったりしてしまうのだ。かと思うと「ここは主人公より俺の方がずっとましだね」と妙に自分に安堵しつつ、作者の内館牧子氏がたかだか13年のOL生活で、これほど巧みに「サラリーマンとして成就していない」人を描けると云うその技量に驚く。


プライドだけは矜持し老人くさい行動を忌避しながら、どうにも時間と体を持て余す主人公の定年生活。反対に自分の世界を持ちますます強くなる妻と、お約束通りの筋書きが続くうち、話は思わぬ方向へ急展開を遂げていく。若い彼女の出現や故郷の旧友など、シニア世代をくすぐる設定も効果的で、本来は重いテーマも軽やかな筆致で心地よく話が進行する。ストーリーを追いながらも結末がなかなか見えない中、どうやってこの話しが終わるのか、ちょっとスリリングな気持ちさえ感じながら本書は最後まで楽しめたのだった。「六十代というのは・・・まだ生々しい年代である」、「なのに、社会に『お引き取り下さい』と云われるのだ」(あとがき)という現実を踏まえ、”格好よく年をとること”を私自身もこれからどう体得していくか、この小説からは考えさせられるところも多いのである。


追記:これを読んだ妻は「日ごろ無意識にスルーしている(夫の)事柄が、活字化されて改めてムカムカした」との事である。

2016年6月13日 (月)

ゼロ戦の里帰り

20160612

しまなみ海道の旅行で広島空港に着陸し、飛行機が所定のスポットまで移動する中、ふと窓から外を見ると駐機場の片隅になにやら変った形で濃緑色の小さな機体がいる。緑色の小型機と胴体の日の丸がめずらしいと思い目を凝らすと、その飛行機は小さい頃から本や模型によって、私の記憶に深く刻まれた形体ではないか。「そうだ、これはゼロ戦じゃないのか」とあらためて気づきびっくりしたが、その姿はあまりにも美しく、映画の撮影などで他の機種を改造したものかと一瞬いぶかしく思ったのである。しかし小さいながらも、今にも大空に向かって駆け上がりそうなそのたたずまいは、まさしく「本物」のゼロに違いないようだ。


と云う事で旅行から帰って調べると、これは日本人の篤志家が私財を投じておこした「ゼロ戦里帰りプロジェクト」のゼロ戦らしい。大東亜戦争初期ソロモン海海戦で墜落したラバウル基地のゼロ戦22型をアメリカに持ち込み、エンジンこそ三菱の栄からアメリカ製に換装したものの、往時のように飛べるべくレストアした機体だと云う。今回は里帰り中で日本国内各地を飛行していたが、九州から関東地方への移動中に機体に不具合を起こし、着陸予定の岡山ではなく急遽広島空港に来ていたとの事だ。それにしても私達は昨年末に”飛鳥Ⅱ”でラバウルの海軍基地跡を訪問し、ソロモン海を航海したばかりだから、その基地から飛び立ちその海で見つかったゼロ戦と広島で出会うとは、これも何かの縁かとの思いが胸をよぎる。


それにしても梅雨に入る直前の青空に、旧海軍の暗緑色の機体が栄えてなんとも格好良いし、博物館や資料館で見るのと違い、大空を自由に飛べるゼロ戦とあって出合った感激もひとしおである。これを見ていると、世界で数少ない”飛べるゼロ戦を日本人が所有”し、”日本人が操縦”すると云う 「ゼロ戦里帰りプロジェクト」 に大いに拍手を送りたいと思ったのだ。戦争に負けて往時の技術遺産はほとんどが逸失してしまったが、日本人の精神までもアメリカの占領政策によっていまだに骨抜き、平和ボケにされたままである。中国の覇権主義が脅威になり世界のパラダイムが変わる中、今一度我々は大東亜戦争や戦後の意義を見つめ直し、未来を考える事が必要だとゼロ戦を見つつ考えていた。

2016年6月 7日 (火)

宮窪瀬戸 潮流体験船

20160608
宮窪瀬戸

これまで数えきれないほど来たしまなみ海道だが、ほとんどが仕事だったので名所や旧跡を訪れた事はあまりなかった。進水式や新造船就航のお祓いに大三島の大山祇神社を訪れた事があるくらいのものである。ただ今回は久しぶりのプライベート訪問という事で、宿も来島海峡を望む大島の海岸べりの民宿とし、翌日は大島と伯方島の間にある宮窪瀬戸の潮流体験船に乗船する事にした。


広島県と愛媛県の間、瀬戸内海に横たわる芸予諸島のうち、大島とその北の伯方島にはさまれた海には、急な潮流で名高い宮窪瀬戸や船折瀬戸がある。大島の北端にある宮窪港から小型の観潮用船に乗って約40分間、潮の変わり目に発生する潮流や渦潮を体験するのがこのツアーだ。宮窪瀬戸には15世紀以来、この地を本拠にした能島村上水軍の要塞だった能島があって、乗船の前・後には水軍博物館でその歴史を学ぶ事もできる。


潮流体験船に1000円の乗船料を払い乗った客は20名ほど、潮流が速くなる昼過ぎに港を出ると、宮窪瀬戸に近づくにつれ渓谷を流れる川のような潮流が船から見えてくる。海面に近い体験船から眺めると、最大10ノット(18.5キロ/時)になる潮の流れが迫力満点だ。何より海岸の崖に当たって潮が流れを変える時、浅瀬の上と下では海面に数十センチの段差が出来て、それがまるで小さな滝の様に見えるのが面白い。(上の写真)


阪神と九州を結ぶ航路のうち、ここを通ると来島海峡の本ルートより数十マイル短くなると云われる船折瀬戸は、文字通り小さな船ならば折れてしまうかと云う渦が巻いてる。体験船船長の巧みな操船で渦潮のど真ん中の航海を体感しつつ、傍らを潮流を巧みに交しながら航行する内航の貨物船を見るのも一興だ。観潮と云えば鳴門の渦が有名だが、ここはすぐそばに迫る川の流れの如き潮とあって、鳴門の大きな渦潮とはまた違った海の力を体験できるのである。

船折瀬戸
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2016年6月 6日 (月)

ニッサン NOTE

20160605

この週末は妻や会社の友人達と、しまなみ海道沿いに瀬戸内の各地を久しぶりに訪れた。広島空港でレンタカーを借り、島伝いにあちこちを見物しつつ四国の今治市まで、往復の行程はちょうど300キロであった。今回空港のニッサンレンタカー事務所で借りたクルマは、NOTE(ノート)という車種でまだ5000キロ走行しただけの新車である。そのノートの中でも廉価なXと云うグレードを運転したが、このクルマはエンジン排気量が1200CCで価格は150万円程度らしい。


さて1000CC超前後のコンパクトカー、その中でもレンタカーに使われる低いグレードのクルマはこれまでに幾度も乗ったが、運転していてあまり楽しいという感じはしなかった。総じて直列4気筒のエンジンは安っぽいサウンドを奏で、内装は化学樹脂そのものの薄っぺらい仕様、室内にはエンジンの唸り音が共鳴したものである。なので今回もそんなものだろうと思いつつハンドルを握ってみた。


広島空港から山陽自動車道を通り、巨大な橋が連続するしまなみ海道を運転しながら、目の前のレバーやらボタンをあれこれをいじってみると、最近のクルマはこのグレードでも多彩な装備が満載なのが判る。前車に急接近するとブレーキがかかる(らしい)追突防止装置に目を見張り、少しでも車線を跨ぐと警告音が鳴るのに驚き、バックで駐車するとカーナビのモニターに、自車の位置と止めるべきスペースがくっきりと表示され感激。もっともアナログドライバーの私は、やはり後方をこの目で確認しないとバックできないのであるが・・・。


最も驚いたのがエンジンだった。1200CCで何と3気筒、79馬力でトルク10.8Kgと聞くとちょっと頼りなさそうに感じて、大人4人が乗ったこの車を加速させるにはよほど頑張らねばと思いきや、これが実にスムースかつフィーリングも気持ちよい。かつての安い4気筒の車をはるかに凌ぐエンジンサウンドやその快適さ、力強さで、この10年~15年のエンジンの急速な進歩が体感できる。室内は広大、かつ運転姿勢がかなり立っているので普段はスポーツタイプの愛車に乗る私には違和感があるが、ドライブはとても楽チンだ。ただ燃費を稼ぐ為に、交差点で停車する度にエンジンがストップするのだけは、エンストをおこした様で落ち着かなかった。


こうしてノートに3日間乗っていると、この種のクルマの”質感”が上がっている事を実感し、「クルマはこれで充分だよな」とも思えてくる。とくに生まれた時から自家用車が家にあったような最近の若者なら、これに乗れば「クルマってこんなものだよ」ときっと満足する事だろう。さて最後に満タンにして返すべくスタンドに行くと、入ったガソリンは15リッターだけ、何と1リッターで20キロ!も走った計算になる。モーターも一部使って走る最新のハイブリッドカーならこれをもっと上回るとの事で、こんなクルマばかりならガソリンスタンドは要らなくなると、時代の変化に驚いたのであった。一方で私たちが若い頃に感じたクルマへの憧れや高揚感が、こういう合理的なクルマからあまり感じられないのは、こちらがジジイになった証拠なのだろう。

2016年6月 1日 (水)

ねんりんピック長崎2016

外出から帰ると留守番電話に東京陸上競技協会からメッセージがあってコールバックしてくれとの事である。かつて現役選手だった頃の登記・登録は神奈川陸協だったし、東京陸協に何か用事があったかなと訝しく思いながらも電話をかけると、「今秋、長崎で行われるねんりんピックのマラソンに東京代表で推薦したいが都合はどうですか」と係りの人が言う。昨秋行われた予選に参加したものの、その時は60歳になったばかりらしき元気なランナーに大きく離されての2位だったから、今年は駄目かと忘れていた。それがどうも1位の選手が怪我かなにかで都合がつかず、参加を辞退したために次点の私にお鉢が廻ってきたようで、出場を依頼する電話に二つ返事で応えたのだった。


正式には「全国健康福祉祭」と云われるねんりんピックは、年に1度開かれる「60歳以上を中心とした健康と福祉の祭典」である。国民体育大会の老人版と思えば良いが、国民体育大会が文部省関連に対してこちらは厚労省が主体で、国体と同じく全国各地もち回りで開かれている。開催期間中は各県代表によるテニス・卓球・ソフトボール・ラグビーや水泳などの競技スポーツの他に、ゲートボールやペタンク、ダンスなどシニア向け種目も競われ、さらに囲碁や将棋などの文化交流も行われるというお祭りである。1988年に始まったねんりんピックも29回目になる今年は長崎県で開催されるが、選手は最短でも一年あけた翌々年にしか出場できない仕組みなので、一昨年の27回栃木大会に参加した私にとっては、実質的に連続出場という事になる。


さて問題は団体競技や技術・経験がものをいう種目と違って、走力は60歳を過ぎると年々急速に衰えると云う点である。各地で盛んに行われるシニア向けマラソン大会の結果を見ても、50歳代と60歳代の記録は大きく違うし、60歳と65歳の間に刻みがある試合では、5歳の差によってもその差が歴然としてくる。昨秋の予選会で私が60歳そこそこの選手に遠く及ばなかった通り、長崎においても60から70歳までが一括りの中で、60歳代半ばになると云う私がどこまで「若い」選手に食い下がる事ができるのだろうか。思い起こせば、高校時代にはぜひインターハイに出場し全国から来た選手と戦いたいと思っていたが、実力が伴わなずインターハイどころか県予選で敗退したものだった。しかしあれから半世紀近く経って、予選を突破し東京代表として連続で『全国大会』に出られる事になるとは、人生は面白いものである。

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