38年ぶりのキュラソー
ブラジル沿岸を北上しアマゾン川の河口もとうに過ぎて、間もなくカリブ海に入らんとする頃、ある朝起きると海の色が突然それまでの群青色から緑色に変わっている。このあたりで海流が変わる事によるものだろうか、カリブ海の南の方はこんな色だったかなどと記憶を辿っていると、翌日から海の色はやや青さを増したものの、これまで渡って来たどの海より緑色が濃いようだ。2011年に飛鳥Ⅱでバハマなどカリブの北部には来たが、何と言っても南カリブ海への航海は1978年以来38年ぶりとあって海の色も思い出深い。
その当時は私の様な大学の文系出身者と云えども、海運会社の若手社員は船員手帳を持たされて、事務員やら事務長として数ヶ月から一年くらい貨物船に乗船していたのである。なにしろ日本の貨物船に日本人が30~40人も乗り組んでいたから、各種の手続きはもとより乗り組み員の給料計算も本船で行っていた時代である。本社や各地の代理店との連絡は無線士による「トン・ツー・」のモールス信号だけで細かい連絡はままならず、船は自分たちの事を自分達でこなす必要が今より遥かに多かったものだ。そのために貨物船にも事務長(パ-サー)や事務員が乗船して、船内の諸業務をこなしていたのであった。
そんな事務員として38年前に1万トンの貨物船に乗船し、やって来たのがカリブ海の島々であった。生まれて初めて踏む海外の地ロサンジェルスで感激し、パナマでは日本大使館で荒天遭遇報告書を認証して貰い、はるばる運河を越えてまず到着したのがプエルトリコのサンファンであった。その後は香港で積んだおもちゃや衣類、日本の各港で積んだ鉄鋼製品や機械類をカリブの島々やべネスエラ各地で荷揚げしたが、オイルブームで沸く各港は大いに賑わい、荷役の順番を待つ沖待ちがどの位になるのか判らないという時代であった。
飛鳥Ⅱの今回のクルーズでは、それら当時に行った港のうちキュラソーに再び寄港する事になる。キュラソーと聞けばただちに思い出すのがマッチ箱の様なオランダ家屋が立ち並んだウイレムスタッドの町並で、ここはその後世界遺産に指定されたそうだが、往時と変わらずに多くの観光客を集めている事だろう。あの時カリブの各港でやっと揚げ荷役の順番が来て作業が始まっても、アメリカのクルーズ客船がやって来ると、貨物船は作業を中断し他の岸壁へ移動させられたものだった。若手の乗組員同士で「さっさとカリブでは作業を終わらせて、日本への帰りの積荷が待つ合衆国に行きたいもんだね」などと会話したのが昨日の様な気がしてきたが、今度はこちらがクルーズ船で思い出の港を訪れるのも感慨深い。
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