« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2016年2月

2016年2月21日 (日)

38年ぶりのキュラソー

160220_141829curacao

ブラジル沿岸を北上しアマゾン川の河口もとうに過ぎて、間もなくカリブ海に入らんとする頃、ある朝起きると海の色が突然それまでの群青色から緑色に変わっている。このあたりで海流が変わる事によるものだろうか、カリブ海の南の方はこんな色だったかなどと記憶を辿っていると、翌日から海の色はやや青さを増したものの、これまで渡って来たどの海より緑色が濃いようだ。2011年に飛鳥Ⅱでバハマなどカリブの北部には来たが、何と言っても南カリブ海への航海は1978年以来38年ぶりとあって海の色も思い出深い。


その当時は私の様な大学の文系出身者と云えども、海運会社の若手社員は船員手帳を持たされて、事務員やら事務長として数ヶ月から一年くらい貨物船に乗船していたのである。なにしろ日本の貨物船に日本人が30~40人も乗り組んでいたから、各種の手続きはもとより乗り組み員の給料計算も本船で行っていた時代である。本社や各地の代理店との連絡は無線士による「トン・ツー・」のモールス信号だけで細かい連絡はままならず、船は自分たちの事を自分達でこなす必要が今より遥かに多かったものだ。そのために貨物船にも事務長(パ-サー)や事務員が乗船して、船内の諸業務をこなしていたのであった。


そんな事務員として38年前に1万トンの貨物船に乗船し、やって来たのがカリブ海の島々であった。生まれて初めて踏む海外の地ロサンジェルスで感激し、パナマでは日本大使館で荒天遭遇報告書を認証して貰い、はるばる運河を越えてまず到着したのがプエルトリコのサンファンであった。その後は香港で積んだおもちゃや衣類、日本の各港で積んだ鉄鋼製品や機械類をカリブの島々やべネスエラ各地で荷揚げしたが、オイルブームで沸く各港は大いに賑わい、荷役の順番を待つ沖待ちがどの位になるのか判らないという時代であった。


飛鳥Ⅱの今回のクルーズでは、それら当時に行った港のうちキュラソーに再び寄港する事になる。キュラソーと聞けばただちに思い出すのがマッチ箱の様なオランダ家屋が立ち並んだウイレムスタッドの町並で、ここはその後世界遺産に指定されたそうだが、往時と変わらずに多くの観光客を集めている事だろう。あの時カリブの各港でやっと揚げ荷役の順番が来て作業が始まっても、アメリカのクルーズ客船がやって来ると、貨物船は作業を中断し他の岸壁へ移動させられたものだった。若手の乗組員同士で「さっさとカリブでは作業を終わらせて、日本への帰りの積荷が待つ合衆国に行きたいもんだね」などと会話したのが昨日の様な気がしてきたが、今度はこちらがクルーズ船で思い出の港を訪れるのも感慨深い。

160216_133251green

2016年2月16日 (火)

ブラジル・イグアスの滝編

小学校時代の一時期をブラジルで過ごした妻が、今回の飛鳥Ⅱ乗船前からイグアスへのオプショナルツアーには必ず行こうねと盛んに言っていた。リオで一旦船に別れを告げ、3泊してサルバドールで帰船するツアー料金は、例によって日本から行くのとさして変わらぬ高さである。飛鳥Ⅱは旅行で不在する期間について何がしかの割引をしてくれるわけでもないからあまり乗り気ではなかったが、若い頃にイグアスに2回行っている妻は今度は是非二人で一緒に滝を見たいと言う。「以前出張のついでにナイアガラをちょこっと見たから滝などはもう良いよ」と言っても、その昔ルーズベルト大統領婦人がイグアスの滝を見て”My poor Niagara!"と嘆いたと云う話を持ち出し、その迫力はナイアガラの比ではないからとあまりに主張するので結局ツアーに参加する事にした。


こうしてリオのカーニバル見物で夜更かしした翌日、眠い目をこすりながら飛鳥Ⅱのツアー客37名とブラジル国内線の飛行機に搭乗した。リオからサンパウロで乗り換え千数百キロ、延々と広がる大地を眼下に見てようやく着いたのがフォス・ド・イグアスの町である。このあたりブラジル、アルゼンチンとパラグアイの三国国境になり、ラプラタ川の支流であるイグアス川が、これまたラプラタ川支流のパラナ川に合流する直前にこの滝がある。滝の周囲は国立公園となっていて、到着した日はブラジル側公園内にあるダス・カタラタスホテルにチェックインしたが、まずこのホテルの宿泊設備のすばらしさにしばし感動した。コロニアル調の木造建物は天井が高く、すべてがゆったりとした造りで、調度品も一つ一つが洗練されている。泊まった事はないものの、シンガポールのラッフルズホテルはこんなだろうかと想像させる老舗感漂うホテルであった。ここを基点にアルゼンチン側とブラジル側からイグアスの滝を見学するとはさすが飛鳥Ⅱのツアーである。


久しぶりにエンジン音や揺れから開放され熟睡した翌日は、国境を超えてアルゼンチン側から滝の見学である。滝の入り口からトロッコ列車に乗ってまず案内されたのは”悪魔の喉笛”といかにもそれらしい名前のついた滝のま上にあたるポイントだった。大小300の滝が幅4キロに渡り、最大100米以上の落差で落ちるイグアス一帯でも、ここが最も水の迫力を感じる場所らしく、目の前で水煙を上げながら眼下に落ちてゆく圧倒的な水の流れは、何か別の生き物がのた打ち回っている様にも感じる。周囲はどこを見ても滝と水しぶきと轟き、ところどころに虹がかかり、たしかにナイアガラの比ではない圧倒的な水の一大ぺージェントである。翌日は多くの滝を今度は下から見上げるブラジル側に行き、別の趣きで眼前に迫る滝のエネルギーを堪能したのであった。飛鳥のオプショナルツアーと云うとふつうは健脚コースでも散策程度の歩きなのだが、今回は本当の健脚向き、そして例によって至れりつくせりのご案内で、料金は高いものの一生に幾度もない大名旅行を楽しんだのであった。

上から覗き込むアルゼンチン側
160209_100632arg

下から見上げるブラジル側
160210_084608br

格式あふれるホテル・ダス・カタラタス
160209_205759hotel

2016年2月15日 (月)

ブラジル・リオのカーニバル編

160207_235000carnaval_2

アルゼンチンやチリ、ベネズエラなどの南米の国々には仕事で来た事があったが、なぜかこれまで縁があるようで遠かったブラジルである。これら南米の国に出張した際は、せっかくここまで来るならブラジルに寄らないかとサンパウロの駐在者や知人に誘われたものの、とにかくビザを取得するのが面倒だったためである。会社に頼んでビザを得る手続きするには、一応ブラジルに行く何らかの目的が必要だし、帰国した後にはこれまたレポート類の提出が必要とあって、そんなこんなを考えるとここはスキップしてさっさと帰国しようと当時は考えたのであった。


今回の飛鳥Ⅱクルーズ乗船ではサントス・リオデジャネイロ・サルバドールのブラジル三港に寄港し、またイグアスの滝へランドツアーにも参加するとあってこのビザが必須である。という事で生まれて初めてブラジルのビザを取得したのである。こうして上陸したブラジルの地、とにかく土地が広大で見渡す限り地平線が広がっている。大地は地盤が古く硬いので豊富な鉱物資源に恵まれているとのガイドの説明が何とも羨ましい。もし日本の国土がブラジル並に広く、そして資源があったら、日本人はどういう国民になっていただろうかと突飛な疑問がふと心に芽生えるのだった。


リオでは船に案内されるまま見学したカーニバルであったが、カーニバルとは各グループ別にテーマを主張するパーフォマンスのコンペティションである事も知らなかったし、夜中から明け方まで決められた会場を行進するという事も知らなかった。会場で飛鳥Ⅱのクルーズ客に割り当てられた席は中心部の特等席ではあったが、とにかくその混雑ぶりに驚き、会場で何がどう進行していくのか判らないまま、とにかく口をあんぐり開けて熱狂する人々の前をパレードが通るのを眺めていたのであった。それにしてもカーニバル期間中は街中お祭り気分で道はどこも渋滞、パレードの本選は真夜中から始まり朝まで続くというのがいかにも南米である。


年配客が中心の飛鳥の観覧席は、夜が更けるに連れパレードが始まるか始まらないかの時間に帰る人が目についたが、お隣の一画もやはり外国クルーズ船の乗客で、アメリカ人なども今ひとつ会場の雰囲気にノれずに帰船していた様であった。カーニバルのパレードを歓迎する地元ブラジルの人々のノリを身近で体験していると、ここの国情は日本などとはちょと違っている事を肌で感じる。広い土地と豊富な資源、異民族の混淆と大自然が作り上げたこの国だが、これまで資源を大量に購買していた中国の経済成長鈍化で経済環境も悪化しているそうだ。今年はリオでオリンピックが開催されるが、諸準備が間に合うのかと心配されながら、終わってみれば何とかなっていたという事になるだろう、とのガイドの説明が印象的であった。

2016年2月 6日 (土)

南米での中国のプレゼンス

20年ぶりにアルゼンティンのブエノスアイレスに来た。前回来た時は、現地の荷主と長期契約の締結サインのため、NYで乗り換えて一人で日本から飛行機に乗って来たが、その時ホテルの窓から見たラプラタ川の泥色をした水がひどく印象的だった。その泥色の川を通って20年後に飛鳥Ⅱでブエノスアイレスを再訪するとは考えもしなかった事である。今回、飛鳥Ⅱが停泊した岸壁は、町に程近いガントリークレーンや港湾機器に囲まれたコンテナターミナルの一画で、我々のキャビンからは積荷を待っていたり荷繰りされる多くのコンテナの山と、その間を縫って作業する各種の重機械の様子が間近に見える。


それにしても窓を閉め切っても船のキャビンまで作業車の音がやけにうるさく響くと思っていたら、どうやらこれはコンテナーを構内で移動させるストラドルキャリアーという機器から出るエンジン音のようである。あまりにその音がけたたましいのでよく観察して見ると、機械に掲げられた製造業者のプレートには”ZPMC”とあり”上海”と云う2文字の漢字に続いて日本では使わない漢字で綴られた中国のメーカー名がある。ここは南米のアルゼンチンだからお馴染みのIHIとかMITSUBISHI製の機器でなくとも、少なくともヨーロッパのクレーンメーカーLIEBHERRなどが設備を席捲しているのかと思ったら、中国の機械がこんな場所にも進出して騒音をけたたましく奏でていたのであった。


翌日ブエノスアイレスからラプラタ川を下ってウルグアイの首都モンテビデオに入港する時、何隻かの小型作業船が港を出たり入ったりしているのに気付いた。何をする船なのか目を凝らしてみると、その船のデッキ上に置かれた設備や多数のパイプが川の泥色で汚れているのが見える。船名はとみると”航浚(漢字)○(数字)”とあり中国の旗が船尾に翻っているから、どうやらラプラタ川の浚渫を中国の企業が引き受けているらしい。海の様に広いラプラタ川は、上流から土砂の流れ込む量も多いので川の色も土色であるし、大型船が航行する航路もいつも浚渫作業を繰り返さないとすぐに土砂で浅くなるのであろう。国のインフラと云うべき航路維持の浚渫作業をするのがいまや中国船とあって、南米での中国のプレゼンスをここでも感じるのである。


そのほか中南米では鉄道車両の入札にも中国の企業が売り込みを図っているというが、いくら安値で請け負っていたとしても、鉄道はもちろん港湾や航路の維持という一国の基本的インフラを中国人などに任せて良いものだろうか。そういえば中国が中心になって先に創設されたAIIBも、こういうプロジェクトの融資に積極的に絡んでくるのだろうが、かつては日本や欧米の機器で運営されていた現場が中国製にとって代わられるのを見ると、日本人としてはなんとも複雑な気持ちがしてくるものである。それとともに破綻寸前の中国経済はその実態も判らない上、中国人の気質を考えるとその後のメンテナンスなどで「安いから中国製を導入したが、結局彼らに頼んで大失敗だった」と南米の人々がいずれほぞを噛む日が来る様な気がしてならない。

160202_153742china
中国籍の浚渫船

160201_230444loader
爆音ストラドルキャリアー

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ