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2015年12月

2015年12月25日 (金)

キウイの国から

2015年のクリスマスイブに飛鳥Ⅱはニュージーランドンのオークランドに入港した。仕事では1990年代から毎年のように来ていたニュージーランドだったが、海からの入国は初めてだし、考えてみれば今回は13年ぶりの訪問になる。最後は出向していた会社の社長と日本・ニュージーランド(NZ)経済人会議に出席するために来た時で、船上から懐かしい景色を眺めながら、この13年間のわが身の帰し方や周囲の変化に思いを馳せいささか感慨深くなった。


ニュージーランドは「300万人の人口に3000万頭の羊の国」と当時よく云われたものだが、今では人口が430万人に増え、その増えた大部分が中国などアジアからの移民だそうだ。ここでもアジアンパワーを感じる一方で、白人の国家と思われていた国でアジア系の人が増え「古き良き時代」の伝統や雰囲気が崩れていくのを見るのはちょっと寂しい気がする。そういえば往時、この国も経済の自由化を巡って国を挙げての論争や大ストライキがあったし、今回もTPP交渉ではNZはとてもタフなネゴを繰り広げた。生き残りに汗をかく国でアジア人の急増を見たり、消費税15%の重さを感じていると、日本の高齢化対策も時間的な猶予があまりないと思われてくる。


さてクルーズ開始から2週間が過ぎ、この頃は船内アクティビティーや食事のテーブル、あるいは上陸地ツアーで一緒になった人達と親しくなる機会が増えてくる。そんな方々と話をしていると、お互い驚くような接点のあることがわかる。先日はさるご夫妻が、妻の亡父と同じ銀行に勤めていた事がわかり、「エー!あの○○さんのお嬢さんなの!」と会話が弾んだものだった。また同じような年齢かなと思っていた男性は、以前勤めてきた会社の関連会社に長年海上職として勤務していたそうである。これからどの様な出会いがあるのだろうか、世の中は結構狭いものだなどと思いながら、クルーズの序盤を過ごす日々である。さてこの先電波の届かない海域に入るとあって、次はいつブログを更新できるだろうか。

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オークランド出港時の夜景

2015年12月19日 (土)

南太平洋の戦場

ラバウルからソロモン海、そしてサンゴ海へと飛鳥Ⅱは順調に航海を続けている。2010年にオーストラリアの客船”パシフィック・ドーン”号で、ブリスベーンからニューカレドニアやバヌアツを訪れる南太平洋クルーズに来た際にブログ「珊瑚海(2010年2月15日)」に記した通り、このソロモン海やサンゴ海は先の大戦緒戦において、日本と米国との間で熾烈な戦いが繰り広げられた海である。その海を今は日本の客船で優雅にクルーズできるとは、平和は何とありがたいものかとの思いが胸に迫る。


あらためて本船の図書館にある大百科事典をひも解くと、開戦へき頭、南方へ快進撃を続けた日本軍は1942年夏にニューギニアのポートモレスビー攻略を企図。その上陸作戦支援に出撃した日本の機動部隊とそれに対する米機動部隊の一騎打ちがサンゴ海開戦である。我が軍は”翔鶴””瑞鶴”からなる制式空母、米軍は大型空母”ヨークタウン””レキシントン”を繰り出し、”翔鶴”と”ヨークタウン”が大破、”レキシントン”沈没で海戦は終わった。一見すると米側の損害が大きかった様にみえるが、この戦いで日本軍はポートモレスビー進出を延期せざるをえなくなったのである。


またガダルカナル島の争奪を巡って、同年夏から秋にかけて3回に亘って繰り広げられたソロモン海海戦は双方ともに甚大な損害を蒙ったものの、結局ガ島の攻防によって我が方が喫した戦力の消耗が戦局の一大転換点になるのである。今回こうして飛鳥Ⅱで18ノット余のスピードで南下しても日本からソロモン海までまる7日航海したが、当時の鈍足の輸送船ではいったいここまでに何日要したであろうか。現在の視点から考えれば兵站線の延び切った無理な戦場と思えるも、クルーズ船にゆったり乗りながら乾坤一擲の勝負を行った先達の労苦など批評出来ようかという気持ちになる。


数日前、飛鳥Ⅱがラバウルに寄港した際は、山本五十六長官が亡くなる前日に作戦会議を開いたとされる山本バンカー(地下壕)や、日本政府が建立した南太平洋戦没者の碑を訪れる事ができた。シンプソン湾に錨泊する飛鳥Ⅱを見下す小高い丘の戦没者の碑は、天井に世界地図が描かれ、ラバウルの場所には丸い穴があいてそこから光が差し込む様になっていた。慰霊の碑の前で用意された花を皆で手向けるうち、今の平和があるのはこうした方々の尊い犠牲によるものとの思いが胸にこみ上げ、思わず目頭が熱くなったのであった。

ラバウルの山本バンカーと南太平洋戦没者の碑
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2015年12月18日 (金)

ラバウル蜜蜂騒動

国際海運を巡るルールや諸規制は、最近ますます項目が増えかつ厳しくなるばかりである。かねてからあった乗組員に対する最低賃金の保証や各種の船舶検査ならびに衛生検査はもとより、油濁事故に関する賠償責任補償・テロ対策・海運版品質管理システムの導入など従わねばならないルールは実に多岐多様に亘っている。最近は船舶が使用する燃料油の成分や航海の安定の為に使用したバラスト水の排出規制なども課題になっており、それらは国連の海運機関(IMO)によって導入されたものから、船の船籍国・寄港国の定めたもの、さらに保険業界などそれぞれの関係機関が独自に決めたものまで様々な観点から制定されている。


近頃は貨物船に関して品質が良いのか格付けをする機関もでき、荷主には基準になるのだろうが評価される船会社にとってはまた余分な作業が必要になってきた。そんな諸規則の中で運航する側にとって頭が痛いものの一つに害虫対策がある。これは日本を含む極東地域に広く生息しているマイマイ蛾というガの一種が春~秋にかけて入港した船舶の上に卵を産み、その船が米国やカナダに到着した頃に羽化し、現地の針葉樹を食い荒らすためにその対策として行われるものである。夏場に極東各地から北米に行く船は、現地で煙突の中からマストの先まで、どこにあるのかないのか判らない蛾の卵検査があるのでその対策に多大な人手と時間を要しているのである。


さて昨日、早朝に飛鳥Ⅱが入港したラバウルでは、何を勘違いしたのか蜜蜂たちが、本船のテニスコートや後部デッキに大きな巣を作り始めた。飛鳥Ⅱは海岸から数百米離れた湾内に錨泊したのだが、この白い船体の上は熱帯の森林と違って外敵もいないと蜜蜂たちは勝手に思ったのだろうか。海に出てしまえば瞬時に生きる術もないというのに、朝ラバウルに入港した数時間のうちに高さ数十センチの黒い蜂の巣(かたまり)が本船上にできている。そのうちデッキにもプールの周囲にも多くの蜂が飛翔し始めたので、乗客がさされないかとクルーたちも心配しだした。虫といえば仕事ではマイマイ蛾でさんざん悩まされたものだが、乗客として船上で蜂に遭遇するとは想像もしなかった。


昨日は関係各部による鳩首凝議の末、勇敢なホテル部門とデッキ部門のクルーが完全防虫防備の格好で蜂の巣に殺虫剤を散布し事なきを得たが、予期せぬ出来事に迅速に対処するさまから、人を乗せる仕事がいかに大変なのかその一端を垣間見る気がした。私が仕事で長らく関わってきた貨物輸送でも、時には荷崩れや発火によって船の安全性が損なわれたり荷物の損傷事故などが起こるが、生身の人間を海上や他国の港を経由して安全快適に運ぶ事には我々が想像もできない苦労がつきまとうはずである。今回の蜜蜂騒動は、停泊中の出来事で多くの乗船客が上陸中ゆえ知る人こそ少なかったものの、最近の様々な諸規制の対応に加え、目に見えぬところで安全輸送を請け負う客船のサービスとは大変なものだと実感したのであった。

テニスコート脇の蜂の巣と完全防虫で駆除するクルー
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2015年12月13日 (日)

マリアナ沖 南下

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4日目の航海日。今日は空も晴れ渡り気分が良い。昨日に続きプールの水はまだ飛び跳ね、ゆったり泳ぐには程遠い状態のためプールはクローズされてしまったが、船の周囲はもうかなり南国の気分である。本船は現在サイパンやテニアン島があるマリアナ諸島の西200キロ付近を南に向かって航行している。テニアン島と云えば戦争末期に日本本土を爆撃するB29の基地があった場所で、こんな所から爆撃のために片道5~6時間もかけて無数のB29爆撃機が我が国まで往復したのだ。戦争とは何と愚かな壮大なる浪費なのかと近辺を航行しているとあらためて実感できる。


さて船内ではこれまでのクルーズで知り合った友人も多く、また顔見知りのクルーもあちこちにいて、4年半前の最初のワールドクルーズ当初に感じた緊張こそ感じない。しかし逆に予想がついたり知っている事も多いから、これからやってくるであろう些事にかえって余計な不安を感じたりもするが、船内時間の経過とともにそれも慣れてくるのだろう。なにしろ2週間ほど前までは嘱託とはいえ都心のオフィスで多くの若者達と事務作業をし日常業務に埋没していた上、気分転換の下手な私には”Escape Completely"(プリンセスクルーズの標語)という気分になるまで若干時間がかかるはずだ。今回の旅は、数年後に必ずやって来るありあまる時間をいかに過ごすかの予行演習の様な気分もしている。


とりあえず船内のアクティビティとして、例によってダンス教室とブリッジ教室に通う事とし、ピアノの練習が出来る様になったら適宜個人レッスン(有料)を受けようかと思っているところである。これまでにも幾度か書いたが、最近の大型外国船でも本当の板張りのプロムナードデッキが少なくなる中、飛鳥Ⅱの構造上の優れたところは伝統的な板張りの7デッキであろう。この7デッキに面するキャビンは一段と高い位置にあってデッキから覗かれたりする事もないし、すぐ下の6デッキがすべて公の空間で乗客のキャビンがないからそこを走ってもドシドシと音が下に響かない。青い海原を眺めながらゆったりとジョギングして汗を流せるのも飛鳥クルーズの魅力の一つといえよう。

2015年12月12日 (土)

2015-16飛鳥Ⅱ南極・南米ワールドクルーズ開始

あわただしく準備を終え横浜から飛鳥Ⅱに乗船して3日目、最近我々がよく乗る2泊3日のクルーズならもう下船日だというのに、これから序章が始まるというのが長いクルーズの余裕である。横浜を出港してすぐに低気圧遭遇とあって雨模様の空に時化の海と生憎の天候だったが、硫黄島に接近した今朝になってやっと太陽も顔を見せ、本船は北回帰線を越え南下中である。これでやっと南の国へのクルーズが始まったと云う感じがしてきた。


今回の南極・南米ワールドクルーズは横浜からの乗船客が460名、途中からの区間乗船が160名との事で、現在は比較的ゆったりとした感じが船内に横溢している。またリピーターがほとんどと案内があった通り、乗客の中にはかつて飛鳥Ⅱで出合った事がある顔見知りも多く、その方たちへの挨拶と船内生活のペースやリズムを構築する事が乗船直後ここ数日の日課と云えよう。


本船は増山船長のサービスかこれまでになく硫黄島に接近し、島内を走る車両の姿なども肉眼で捉える事ができた。ここで太平洋戦争末期に激戦が行われた事が信じられない穏やかな島の光景だったが、今回はここから遥かな潮路、赤道を越えたラバウルが最初の寄港地である。大戦劈頭に米国と豪州の間の連絡を絶つ為にラバウルに海軍が進出したものの、当時の輸送船の遅い船速や未熟な航空機の能力を考えると兵站を伸ばしすぎだったのではないか。そのあたりをこのクルーズでぜひ体感してみたいものだ。


それにしても出発前に会社の若者たちに、最初はラバウルに行くと言ったら、ほとんどが「それどこですか?」と言う。「じゃあガダルカナル島も知らないのかい?」と聞くと「たしか、そんな名前の芸能人がいましたっけ・・・・?」と情けない答えが返ってきたのには愕然とした。一体全体、日本史や現代史では何を教えているのかと、いささか日本の教育に不安を感じながらのロングクルーズ出発である。

硫黄島・すり鉢山の遠望

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2015年12月 8日 (火)

航海安全祈願

2015-16飛鳥Ⅱ南極・南米ワールドクルーズの出発日が近付いてきた。2011年のワールドクルーズから5年近く、世界を船で廻るなど当分出来ないかと思っていたが、幸いな事に周囲に重病人もおらず、また職場の協力も得られて今回も100日の洋上生活がいよいよ実現しそうだ。すでに駐在員として住んだり仕事や遊びで幾度も行っている欧米の諸国と違い、今回初めて訪れる事ができる国(地域)はラバウル・タヒチ・イースター島などの南太平洋の島々、ウルグアイ・ブラジル・コロンビア・コスタリカなど中南米の国々と南極大陸沿岸で、そこではどういう発見や感動が待っているのだろうか実に楽しみである。


2011年に飛鳥Ⅱで世界を一緒に廻った仲間のうち幾組かとは一緒に乗船できる事が判り、その方達と再び経験を共にできる船上生活も楽しみである。また今年は航路の特性からかベテランの乗客が多い様で、さまざまな催しやエクスカーション、オプショナルツアーなどでまた新たな出会いも待っていそうだ。思えば2011年の飛鳥ワールドクルーズ下船直後からわが子より年下の若者達と一緒に毎日働いてきたが、やはりサラリーマン生活を続ける中で業務上のマンネリ感が澱の様に溜まってきたのは事実である。今回のクルーズはそれを忘却の彼方へ吹き飛ばし、帰国後の生活や仕事へ英気を養う為だと自ら格好(へ理屈?)をつけての出帆とも言える。


という事で出発も迫った今朝は、関東一円で霊験あらたかと云われる神奈川県・高座郡寒川町の寒川神社に海上安全と家内安全の祈願に行ってきた。実は前回のワールドクルーズの際も、横浜を出る1週間前にお参りしたら、その結果によるものか実に楽しい旅を経験する事ができた。ただそのお礼参りや頂いたお札を納める(返す)のがまだだったため、今回は僅かに後ろめたい気持ち半分と何とかの神頼みの様な気持ち半分の寒川神社詣でである。今朝は生憎の寒空かつ忙しい師走とあって参拝客の姿はごく少ない境内だったが、その分鳥の鳴き声がひときわあたりに満ちて、厳かな神社で旅立ちを前に身がわずかに引き締まる思いであった。

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2015年12月 7日 (月)

札幌味噌ラーメン

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元祖札幌や帝劇店  みそラーメン

”ラーメン”を意識したのは電車通学を始めた高校の頃だった。新宿に札幌味噌ラーメンを出す店ができたと聞いて、下校の途中にわざわざ寄り道をして食べに行ったのである。もちろんそれまでもラーメンなるものはあったが、ほとんどが町の中華料理屋にある「支那そば」のたぐいで、それはわずかに生姜の香りがする和風そば醤油スープがベースのものであった。なのでわざわざ”ラーメン”を意識して遠征する事はなかったのだが、60年代後半になると札幌から味噌ラーメンやバターラーメンが東京に進出し、若者だった私は、早速それにとびついたのであった。時代の先端を行く札幌ラーメンは、味噌やバターのこってりした濃厚スープで、それまでの和風、やや中華風味のラーメンとは違って実に美味しく感じたのだった。


爾来50年経った今でも、私はラーメンといえば札幌みそラーメンなのである。最近は医者から血圧を考えて塩分を多くとってはいけないなどと言われるので、ラーメンを食べる回数も減り、たまに行ってもスープを半分残したりするのだが、それでも昼食にはしばしば「ちょっとラーメン食うか」みたいな気分になる。と云っても今では全国ご当地ラーメンの全盛で、東京にも各地のラーメン店があるものの、どうも横浜「家」系や博多の豚骨ラーメンは味がこってりしすぎて私はあまり好きになれない。逆に東京風ラーメンや喜多方の醤油味はあっさり味のため二日酔いの日のみ食べようかと思うくらいで、やはり私には思春期に舌になじんだ札幌味噌ラーメンがどうも保守本流の気分がしてならないのである。


そんな中で、どの店の札幌ラーメンが好きかと聞かれれば、凝った店よりもあちこちにある「元祖札幌や」なのである、チェーン店と云えば「どさん子」ラーメンも良いし、最近では「味の時計台」も東京に進出しているが、若い時代に残業の途中で抜け出して空腹を満たした「元祖札幌や」帝劇店が私には印象的である。「元祖札幌や」はこってりもせずあっさりもせずの程よいスープ加減で、ごくフツーの札幌みそラーメンを、ごくフツーのサラリーマンが安心して食べられる雰囲気が良かったのだと思う。かつて地下鉄の外苑前駅から神宮球場に向かう途中にもチェーン店があって、早慶戦の後や秩父宮ラグビー場での大学対抗戦の帰りにしばしば立ち寄ったのも「元祖札幌や」の良き思い出である。先日は久しぶりに帝劇店に行ってみたら、昔より野菜でも多く入ったのかスープはやや甘めに感じたが、それ以外は変わらぬ風味で若い日の味を思い出したのだった。

2015年12月 4日 (金)

皇居ランの思わぬ幸福

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半蔵門にて皇后陛下のお姿(奥に天皇陛下)

都心できわめて便利、警官がそこかしこに配備されているので夜間でも安全、1周するとちょうど5キロと切りが良い皇居周回のコースは、早朝から深夜までつねにランナーで溢れている。以前は神田あたりの銭湯で着替えて走る人もいたが、最近ではコース周辺にロッカーやシャワー設備を備えたジョガー用の店も多く、遠方から走りに来た人にも便利になった。私が陸上競技を始めた1960年代には「欧米ではジョギングと云って、選手でもないのに趣味でゆっくり走る人達が増えてきたんだって」と話題になったものだが、正に隔世の感の皇居周回コースである。


皇居周回を走っていると乾門か半蔵門の辺りでちょっとした人だかりと、多くの警官が配置についている光景に出会う事がある。皇室の方々の皇居への出入りがあるのだが、一団が首都高を利用する際には北側の乾門、赤坂の東宮御所や都内各地を訪問される際はここ半蔵門を通るからランナー達と交錯するのである。そんな場面に行き当たると、よほどタイムを計って先を急ぐ走りをしていなければ、警官か周囲の刑事に「誰がお通りになるのですか」「あと何分ですか?」と聞いて待つ事にしている。警官はこちらに一瞥をくれ、まあ怪しそうでないと見ると「○○宮様です」「あと何分でここを通過します」と親切に教えてくれる。門の脇には見学者用の一角が簡単に仕切られており、そこで皆で手を振っていると、皇室の方々は車のブラインドガラスを下げて我々に手を振って下さるのである。


これまでも皇太子殿下・妃殿下はじめ宮様たちを何度か拝見したが、先日はたまたま天皇皇后両陛下がお通りになると云うので、ジョギングを中断して手を振る事にした。見物の中国人の観光客などもちらほら見られる中、スマホの動画を熱心に操作し動画を撮ろうとする白人の中年男性がいたので「今日はlucky dayだね。天皇皇后両陛下だよ」と英語で話しかけると「知ってます、今回で両陛下の通過を見るのは2回目ですよ」とまことに流暢な日本語が返ってきて、欧米にも皇室マニアがいるのかと驚いたのだった。などとしばしそこで佇むうちにいよいよ車列は近づき、一台の窓がスルスルと下げられると、見慣れた皇后陛下のニコヤカなお顔とその奥で会釈される天皇陛下のお姿を拝見できたのである。


平日こそ車の排気ガスがやや気になるものの、緑近く適度な高低差ありかつ信号一切なしの上、運がよければこうして天皇陛下をお見受けできるとあって、ジョガーにはとっては素晴らしい環境のコースだといつもここを走る度に思うのである。天皇皇后両陛下を拝見できたこの日は、それからの走りにいつの間にか力が入ってしまい「♪起て一系の大君(おおきみ)を、光と永久(とわ)に戴きて、臣民われら皆ともに、御稜威(みいつ)に副わん大使命、往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし四海(しかい)の人を導きて・・・・・・♯」などと愛国行進曲を思わず口ずさんで速度を増している自分に気がつくのである。いや皇居ランは良いものだ。

2015年12月 1日 (火)

大阪の心意気

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大阪に会議で出張に行った。「のぞみ」を新大阪駅で下車し在来線に乗り換えるエスカレーターは、右側がステップに乗る人、左側が急いで降りる人と関東とは逆で、毎度ここで「ああ、関西だ」といや応なく気づかされる。確か名古屋は東京と同じ側に立つから、関西方式になるのは関が原あたりからだろうか。大阪駅に行くのにやってきたJR西日本の電車は、東京のJR線長編成では珍しい運転台付車両にモーターのついた”クモハ”である。そういえば大阪地区でのJR西の新型電車は、1両に2つある台車のうち1つの台車のみにモーターをつけ、列車を全電動車化する車両を導入していると聞いたから、ここでは”クモハ”形式もごく普通なのだと改めて納得である。(JR東では列車の両端車両はモーターなし、中間のみモーター付電動車の編成が多い)


新装成った大阪駅で環状線の電車に乗り換え福島・野田と進むと3つ目の西九条あたりで、すでに線路近くに平屋の民家も見えて東京都心とは沿線風景がかなり違う事を感じる。このあたりで大阪の北の中心である梅田から3キロくらいだから、東京駅を基点にして云えばちょうど浜松町や秋葉原の先ぐらいの距離となる。最近は東京のこれらの町がすさまじい勢いで変化しているのに対して、大阪の町並みを見ていると都市の成り立ちや商圏の推移、人の移動などが東京とは随分と違う事を実感できる。また西九条で阪神電車が高架で環状線を跨いで行くさまは、JRターミナルに沿って平行して駅を作る関東私鉄に対し、国鉄何するものぞとJR線とは直角に交差する関西私鉄の心意気を見る気がしてくる。


今回は急な出張で宿泊するホテルを探したが、なかなか手頃なのがとれないので、タクシーの運転手に「大阪は景気が良いの?」と聞くと、「いやぜんぜんあきまへん」との答えである。「だってホテルはどこも満杯だよ」と云うと、「中国の人がちょっと減ったけど、その代わりに韓国と台湾の観光客が今はぎょうさん来ます。だから儲かってるのは、ホテルとチャーターの観光バス会社だけです。ホテルなんか昔は6千円くらいだった所が、今では1万円も2万円も取って・・・!私らもどうかと思っています。ああ云うのはそのうち世の中が変わったらバチがあたるんとちゃうやろか」などと会話がはずむ。そういえば今回、訪問先の会社に焼肉をご馳走になったら、東京の接待用の店ではまず出ない生のセンマイ(腸)などが出てきた。日本は画一化していると云われるが、新幹線で僅か2時間半ほどの場所でも、ちょっとした伝統や文化の違いを味わえるから出張と云えども旅は良いものである。

まだ201系が主力・大阪環状線
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