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2015年5月

2015年5月29日 (金)

富田勝と法政三羽ガラス

東京六大学野球春のリーグ戦も東大が連敗から脱出し、いよいよ優勝のかかった早慶戦とクライマックスを迎える。おりしも新聞紙上では田淵幸一選手や山本浩二選手と共に、法政三羽ガラスといわれ六大学野球やプロ野球で活躍した富田勝氏が亡くなった事が報じられている。法大時代の富田選手といえば、松永怜一監督の下、リーグ屈指の内野手として一年下の小さな大投手・山中正竹らと神宮球場を湧かした事を思い出す。当時から私は神宮球場に母校の応援に行っていたのだが、その頃の憎らしいほどに強い法政は敵ながらあっぱれ、ただただ「恐れ入りました」と頭を下げて球場を去った日がよくあった。


久々の富田選手の写真や法政三羽ガラスの記事に往時の選手たちの思い出が蘇り、ネットを検索していたら昭和43年度プロ野球ドラフトのサイトに行き着いた。それによると富田選手は南海、同期の田淵は阪神、山本浩二は広島へ一位指名で行った他、この年はアマチュア野球界に大物選手が多く 「史上まれにみる大豊作の年」 だったとされている。なるほどこの年のドラフトでは、明大の星野仙一が中日、近大の有藤がロッテ、富士鉄釜石の山田久志が阪急と大物選手が一位に指名されている。その他、西鉄の東尾や阪急の福本など、後年プロ野球を盛り上げた多くの選手たちが昭和43年のドラフトリストに名を連ねている。


この年のドラフトで、ひときわ目をひいたのが目黒高校-早稲田と陸上・短距離の第一人者だった飯島秀雄選手のロッテ9位指名。100米10秒1の記録を持つ飯島の盗塁要員としての球界入りとあって、今で云えば陸上短距離の桐生君(東洋大)が野球に転進する様なものだろう。当時は随分と話題を呼んだ飯島だが 「陸上と野球の走塁は別」 という世評はたがわず、結局これといった活躍もなく選手生活を終えているのである。またこの年サンケイに一位で指名された藤原 真は、慶応のエースとして前年南海に一位指名されたが、結局入団せず全鐘紡に入社して一年後の再指名であった。神宮球場のマウンドではグレーのKEIOユニフォームでひょうひょうと投げていた藤原も、サンケイのホームでもある同じ神宮では勝手が違ったか、初年度の9勝以後あまりパッとせず引退してしまった。


などと昭和43年の名だたる選手たちのドラフト結果を見ていたら、この年、阪神の8位指名に北陽高校の長崎慶一の名前がある。このドラフトで入団を拒否し法政に進学、大学では主軸を打ち、のち大洋ホエールズで活躍したあの長崎である。また阪急3位、岸和田高校の長谷部 優も入団せずに慶応に進学、慶応野球部初のリーグ三連覇に大いに貢献したのが印象深い。彼は卒業後プロには進まず松下電器に入って都市対抗野球などに出ているが、こうして見るとドラフトで指名された選手達もその後の人生は、当然の事ながら実にさまざまである事がわかる。それにつけても法政の花の43年組、富田・田淵・山本浩二の三羽ガラスは期待に寸分も違わず皆プロで活躍、まさに偉大な選手達だったと改めて訃報とドラフト一覧表を見ながら思い出すのである。

2015年5月24日 (日)

In Heaven There Is No Beer !

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夕闇迫る日比谷オクトーバーフェスト

ビールのおいしい季節である。おりしも日比谷公園で恒例”ドイツ・ビールの祭典、オクトーバーフェスト”が開かれているので、金曜日は妻と2人でビールのお祭りを楽しんだ。5月なのになぜ『オクトーバー』なのか?という疑問を感じつつも、まあ酒を飲むのにヤボな理屈は要らないというものだ。ミュンヘンから来たバンドの演奏をバックに、本場ドイツのヴァイツェンやケルシュなど日本ではなかなか飲めない生ビールを味わうのは格別である。


ビールといえば健康診断で尿酸値がやや高めになって、たまには飲むのを少し控えようかと気になるのだが、ジョギングをして汗をかいたりするともういけない。運動した後にシャワーを浴び缶ビールのタブをプシュと開け、ビアグラスにシュワーッと注ぐ時には思わず「至福」という言葉が脳裏に浮かんでくるほどだ。いよいよグラスが白い泡を冠した黄金色の液体に満たされ、最初の一口を喉に流し込む瞬間は「うまーい!こんなにビールが美味しいのは健康な証拠に違いない」と勝手な理屈を毎度こねているのである。


それにしてもビールを飲む度に生きてて良かった、人類はなんと素晴らしい飲み物を造ったのかと思うのはちょっと大げさか?そしてもしこの世に酒と音楽がなかったら、我が人生はどんなに退屈だろうかとちょっと怖くもなる。その為には少し節制しようか、などとこれまた毎晩飲む度にちょっと殊勝に反省したりするのだが、杯が進むうちにそんな思いはまるでどこかに吹き飛んで「ま、いいか」となるのが日々である。「まあ先の事は誰もわからない、飲みすぎないようにだけして楽しむか、THERE IS NO BEER IN HEAVEN だしな」と今日もほいほいとビールを飲むのである。


 ♪ "IN HEAVEN THERE IS NO BEER" ♪

In heaven there is no beer
That's why we drink it here
When we are gone from here
All our friends will be drinking all our beer

2015年5月18日 (月)

女性の活躍

大学の競走部OB会も後期高齢者の超OBがいつまでも中心となるのではなく、そろそろ我々60歳代の退職世代が働かねばならない時代になってきた。という事で最近は同期やら卒業年次が近い同士が集まる会合が頻繁に開かれる。この週末も現役・競走部の一大イベントである第94回関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)に関東在住同期で集まって現役選手の応援となった。そして試合観戦後には、会場の新横浜ニッサンスタジアムにほど近い同期の家で飲み会という事になる。


現役の試合は短距離のエースが足の故障で途中欠場し、以後の競技や得点争いがどうなる事かと心配したが、幸い他の種目の頑張りで2部落ちする事もなく日程を終えたのは嬉しかった。競技観戦の余韻さめやらぬまま集まった友人宅では、久しぶりに陸上競技談義に華が咲き、まず予想した通り一同飲み過ぎで散会したのだが、酔人の談もろもろ出た中で印象深かったのが最近の女子選手の増加である。


なにしろ我々が現役だった頃は、女子にはあまりにも過酷すぎると云う事で800米を越えるトラック種目がなかった時代である。そもそも女子の大学生自体が少なかったし、体育大学ではない普通の学校で、本格的に競技をする女性などあまりいなかった。当然、我々も男子ばかりの4年間であったから、当時は合宿所では無礼講、話題と云えばほとんどが女性に関する事だった覚えがある。それがいつの間にか、母校に多数の女子選手が入学して来る様になったと思っていたら他校でも女子の選手が増え、気がつくとそれが当たり前という時代になった。


久しぶりに観戦した今年の関東インカレでは、女子の4X400米リレーに何と30チームもの学校がエントリーしており、予選が男子並に4組も行われたのにはひどく驚いた。中には有名な女子大のチームも出場とあって我々の頃とは隔世の感だが、若い女性たちがトラックの周回を重ね、真剣に競技に打ち込んでいる姿を見ていると、この国の未来も彼女たちの様な学生がいれば捨てたものではないと思えてきた。友人宅の飲み会では酔っぱらうにつれ「同じチームにあんなに女子がいたら、俺たちは競技どころじゃなかったよなぁ。男子ばかりで良かったなあ」などと会話が盛り上げるのは、女っ気のない競技生活を送ったオッサン世代の悲しい習性かもしれない。

2015年5月13日 (水)

戦後リベラルの終焉

当ブログでもアップした 「 リベラルじゃダメですか?」 の著者、香山リカ氏が先ごろ放送中に喋った事について番組の関係者から批判され、その言いわけの内容がネット上で大炎上している。まさに退潮するリベラル(=サヨク)を象徴する様な出来事だが、おりしも「戦後リベラルの終焉」という興味深いタイトルの新刊がPHP新書から出たので早速買ってみる事にした。著者の池田信夫氏は、東大・経済学部の学生時代に社会科学研究会(社研)の部長だったとあるから、まさに正真正銘の元サヨクである。かつてのサヨクが、なぜリベラルがいま受けいれられなくなったのか、「敗者の戦後史」について著書自身の経験も踏まえ、多様な切り口から考察を加えているのが面白い。


著者の定義する「戦後リベラル」とは「日本的なサヨク」で、「反戦・平和を至上目的とし、戦争について考えないことが平和を守ること」という錯覚を抱いた人達だと云う。彼らはその空想的アジェンダに固執するあまり「反原発」やら「辺野古移設反対」などの固定観念にとらわれ、結局は何も時代を変える事ができなかったとある。それに対する自民党は特定のアジェンダやイデオロギーを持たず、そのレーゾンデートルはまさに日本の各地の地元代表でありつづけた事だと著者は分析する。人々は「平和憲法」だとか「秘密保護法」などという理念より、イデオロギーに立脚せず結局のところ『地に足がついた』政策を期待してきたと云う事なのだろう。


リベラル敗北の根底には彼らの原点である「悔恨共同体」的な思考方法(戦争を止めるどころか煽ってしまった悔恨)が、もはや時代の趨勢に合わなくなり風化してしまった事にあると著者は指摘している。先の朝日新聞の問題は、正にその悔恨共同体的思考が自爆してしまった典型なのであろう。私自身考えても、なぜ曽祖父の時代に日本が近隣諸国に行った事を、戦後70年も経って我々以下の世代が虚心坦懐に反省しなければならないのか今一つピンと来ない。そのリベラルの教条主義からは、「反原発」しかり「辺野古」でも「憲法改正」においても、反対のための反対ばかりで未来に向けて実現可能な対案がみえてこない。空想的理念に埋没し現実を見据えた対案が出せない彼らが、世の中から消えていくのは時代の流れだと「戦後リベラルの終焉」を読んであらためて意を強くした。

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2015年5月11日 (月)

京王線特急

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友人の家に行くために久しぶりに京王線の特急電車に乗った。始発・新宿駅から例によって前方風景を堪能するべく先頭車両に乗り込み、運転台すぐ後ろのいわゆる「かぶりつき」に陣取る。ただ京王線は新宿から笹塚駅までは地下化されており、しばらくは運転士後ろの遮光ブラインドが閉められているので前を見る事はできない。で、最初の停車駅である明大前が地上なので、ここで当然の如くカーテンが開けられるものだと思っていたら、昼間なのにいつまでもブラインドが閉め切られたままである。かつて労働組合の強かった東武東上線などは昼間でもカーテンを下ろしていたが、それ以外の大手私鉄は普通は運転士の後ろのカーテンは日中開けられてきたものだ。京王線も伝統的に前方の景色が見えたのに、この日は運転士の体調でも悪いのかと余計な心配をしたりする。


まあしょうがないと思いつつ明大前を出て快調にとばす特急の運転台のすぐ後ろに立っていると、電車はやがて柴崎駅の付近から調布に向かって新しい長いトンネルに入っていく。そういえば、以前京王線の調布駅付近の地下化工事が進んでいると聞いた事を思い出し、どうやらこのまま調布まで昼でもブラインドをしめたままの運転をするのかとようやく合点がいったのだった。予想通り調布駅でこのブラインドは揚げられたが「いやあ、京王線がすっかり変ってしまったのでびっくりした」と訪問先の友人に言うと、3年ほど前にやっと調布駅付近の地下化が完成したのだと彼が教えてくれる。かつて1960年代初め、沿線に住んでいた別の友人が「京王線は小田急などと違って地味で遅れている」とよく嘆いていたものだが、日本初の通勤電車冷房化(2010年6月29日ブログ「伊予鉄道」)を始め往時がまるで嘘の様な近代化である。


ところで私は"多摩プラーザ”やら”流山セントラルパーク”などという横文字の駅や、単に地名に東・西・南・北をつけただけの安直に決められたような駅名がどうも好きになれない。その土地にふさわしい名称を関係者が知恵をしぼって名付けたような駅や、同じ北と云っても阪急の”西宮北口”の様に一ひねりを入れた名前が好ましいと日頃私鉄に乗る度に思うのである。そういう眼であらためて京王線に乗ってみると、”桜上水”や”芦花公園”に始まり”百草園”などきれいな名前の駅が沿線に多いのが嬉しい。この線にも”西調布”や”東府中”という平凡な駅もあるが、”分倍河原””聖蹟桜ヶ丘””飛田給”などの駅名はなかなかインパクトがあるし、”多磨霊園”といきなり墓地が駅名になるのもユニークである。天気の良いこの季節、郊外に行く際に車のハンドルを握らず、電車に乗りながら沿線に思いを馳せ、車窓に流れる景色を楽しむのも良いものだ。

2015年5月 4日 (月)

上野英三郎博士とハチ公像

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東大農学部に建立された上野博士とハチの像

ジョギングを愛好する我々夫婦にとって、お正月とゴールデンウイークは格好の走り込み時期である。特にゴールデンウイークの頃は暑すぎず寒すぎず、風も肌に心地良くなり、クルマが少ない都内を走るのはまことに快適だ。という事で、この休みも我々のホームコースである皇居周回に繰り出しているのだが、さすがに毎日の様に同じところばかりグルグル廻っているとチョット嫌気がさしてくる。たまには他の街をジョギングしたり、名所めぐりでもしようかと云う気になるのである。(昨秋のブログ「マラニック田端運転所(2014年11月25日)」


という事で、先日は走りがてら本郷の東大農学部キャンパスに新たに建てられた「ハチ公と上野英三郎博士像」を見に行く事にした。家から数十分、弥生町の農学部の門をくぐるとこの3月に建立された像がすぐ左手にあり、上野博士の仕事からの帰り道、ハチが渋谷駅前でご主人に会えて抱きつかんとするさまが示されている。おなじみ渋谷駅前の「ハチ公像」はただ一匹で待っているが、こちらのはご主人を見つけて喜ぶ姿と、わざわざ鞄を足元に置き、愛犬の歓待を心から喜ぶ博士の様子が描かれている。また渋谷のハチ公は史実に従って左の耳が下がっているが、新しい像は両耳が立って顔も心なしか現代風の犬に見える。


リチャード・ギア主演によるアメリカの映画 (HACHI 約束の犬(2009年8月 9日)) にもなったハチ公物語だが、実際の犬は離れていった人や場所の記憶は残っていても、人間が持つような郷愁や懐旧の念はないと云われている。なので上野博士が1925年に急逝したあと、ハチが渋谷の駅頭で長い間ご主人を待ち続けていた本当の気持ちは誰にも判らない。しかしこの像を見ていると「ハチ、90年ぶりに博士と会えて良かったね」という思いが胸に迫り、清々しい気持ちになってきた。で、帰り道にジョギングしながら「うちでも犬を飼おうよ」と妻に打診すると、「もっとずっと世話のかかるのが一頭いるからね~、」と軽く一蹴され現実に戻ってしまったのだった。

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