東京オリンピック50周年
4人の奏者のうち右端が東京オリンピックで実際に使われたファンファーレ用トランペット
昨10月10日は東京オリンピック50周年記念日であった。同事業関連イベントという事で日比谷公園小音楽堂の恒例、消防庁音楽隊による金曜コンサートでも、「東京オリンピック・ファンファーレ」や懐かしい「オリンピックマーチ」が演奏された。コンサートでは、オリンピックの開会式で実際に消防庁音楽隊によって使われたファンファーレ用のトラペットが50年ぶりに登場し、いつにも増して多い聴衆を楽しませてくれた。
50年前、1964年10月10日は「世界中の青空を東京に持ってきたような」(NHK北出アナウンサー)快晴だったが、父の転勤先の神戸で仰いだ空も青空であった。その日は土曜日で学校は半ドン、いつもなら友達とグダグダと校内で駄弁ったりしているのに「今日はオリンピックの開会式だから、速やかに下校する様に」という校内放送があり、いそいそと家路についてテレビの中継を見た事を昨日のように思い出す。
オリンピックを契機に東京の街も大きく変わったが、オリンピックの翌年に都内に戻った当時は都電もまだ多くの路線が残っていたし、首都高は羽田線と都心環状線の一部が開通したのみだった。郊外に出るとあちこちに肥溜めはあったし、木のふたがついたコンクリートのゴミ捨て場が町のあちこちで異臭を放っていた。夏に総武線の電車で隅田川を渡ると、ひどい汚臭が窓から車内に流れ込み、乗客は一斉に窓をしめたものだった。それでも新幹線や東京タワーを見ては人々は高度成長を実感したのだった。まさに「三丁目の夕日」の世界である。
そういえば昭和45年(1970年)の夏、当時は西武線の東伏見にあった早稲田大学のグランドや合宿所を訪問した際、かつて早大競走部のキャプテンだった坂井義則さんが書いた練習日誌が残っていて、「へえ、これがあの坂井選手のものか」と興味深く拝見した事があった。そこにはテレビでみた聖火最終ランナーの坂井さんの姿ではなく、アスリートとして日々精進したり苦悩する様が綴られており、彼も同じ競技者なのだと急に親近感が湧いてきたものだった。日比谷公園でオリンピックマーチを聴いていると、若き日の様々な場面が脳裏に浮かんできた。
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