« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月28日 (火)

神戸電鉄

20141028

有馬温泉とくれば神戸電鉄である。往路は同期の仲間で揃って梅田から直行バスで有馬温泉に行ったが、翌日は義弟が出る大阪マラソン応援の為に、朝9時にはひとり御堂筋に着かねばならぬ。日曜日の早朝は大阪行きバスの便も悪く、ルート検討の結果、神戸電鉄と阪急電車の乗り継ぎで有馬温泉から梅田に向かう事にした。神戸電鉄と云えば、以前に何度か粟生線にある 「広野ゴルフ場前」 駅で降りてゴルフをした事があったものの、同行のゴルファー達は広野が屈指の名門コースとあってゴルフ談義ばかりに花が咲き、電車の風情を独り楽しむ暇などなかったものだ。それ以来10年ぶりの神戸電鉄、それも今度は本線とも言える有馬線に乗れるから興味津津である。


有馬温泉駅で神戸・新開地行き3両編成の始発電車に乗車すると乗客が数人で、日曜の朝ともあって実にのんびりとした車内だ。次の有馬口で三田方面から来た4両編成の急行・新開地行きに乗り換えても、沿線の風景や駅のたたずまいは郊外の中手私鉄という感じで、ほのぼのとした気分がただよっている。同じ中堅だった関東の相鉄線が、最近はすっかり大手になってしまったのに、神戸電鉄はワンマン運転の最大4両編成で、枕木も昔ながらの木製が残っているところがノスタルジックである。驚いたのが駅の列車接近のチャイムで、なんとメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」冒頭の伸びやかなメロディが使われている。これを聞いていたら、大手民鉄に車両や設備でかなわなくとも、古くからのモダン都市「神戸」を表しているかの意地を感じてきた。


さて終点も近い区間、鈴蘭台から鵯越を通り神戸市街地へ下る辺りで、車窓から線路脇の勾配表を見ると、なんと50‰(パーミル、1000米進む間に50米下がる)とある。箱根登山鉄道が80‰、アプト式の旧碓井峠が66.7‰だから、ここは郊外鉄道としては我が国でも最急勾配の一つであろう。この急勾配を抑速ブレーキを使いながら時速50キロほどで下るが、終点一つ手前の湊川から終着駅の新開地まで引き続き下り勾配が続いているようである。ふと、もしブレーキが故障して列車が暴走したらどうなるのかとの思いが頭をかすめるが、そこは二重・三重の絶対的な保安設備が設けられているそうだ。駅員も丁寧で気持ちが良かったし、なによりワンマン運転の運転士は、停車中に常時後方確認するなど列車防護体制も良く練られている様で安心だ。それにしても終点の神戸・新開地駅では改札口も通らずに、阪急や阪神電車に乗り換えができ、あらためて関西の私鉄は便利なものだと実感した。

2014年10月27日 (月)

有馬温泉のOB会

20141027

関西の奥座敷、有馬温泉の紅葉

60歳を過ぎた頃から、中学や高校・大学時代それぞれの仲間達とまた遊ぶ機会が増えてきた。自営業者は別にして会社員たちは大体リタイヤやセミ・リタイアの年とあって、若い頃が懐かしくなり会う回数が増えるのだろう。と云う事で大学の競走部で一緒に競技をした同期の仲間たちと、シーズン中の現役応援の他に、最近は年に一回、東京と関西で交互に宴会を行っている。さて今年は関西での開催とあって、この週末は有馬温泉に元は紅顔の美少年、今では厚顔の中高年10名が集まった。


夕食も終わり宿舎の一部屋でウイスキーや焼酎を酌み交しながら、秋の夜長にだべる事は、かつてのインターハイやインカレの話に始まり、各校の元競技仲間たちの消息や我々世代のお約束ごと、成人病や高齢の親の介護話などで、いつまでも話が尽きない。酔いも進むうちに箱根駅伝でユニフォームを忘れ、タスキを待つ中継所で急遽ポロシャツにナンバーカードをつけて走ったあわて者の後輩の事やら、大きな試合で出場する代表選手の馬券を部員に売って、主将にひどく怒られていた仲間の話など、やってる当時は真剣、今となってはお笑い話のエピソードが次々と皆の口にのぼる。


世がふけアルコールも充分回ってくると、話題が競技の事からだんだんと下品になるのが世の常である。男子だけの合宿所で和式トイレのドアの調子が悪いので、投擲の大男がむりやりドアノブをこじ開けたら、まかないのおばちゃんが用を足していたなどと云う出来事や、定食屋さんの物干し台に派手な女性用下着が干してある日は、嫁に行ったばかりの看板娘の里帰りの日で、その日は皆で大挙して定食を食べに行った事など、40数年前の思い出が昨日の事のようにリアルに頭に浮かぶのが何とも面白い。 ( これ以上、昔の様々な愚かな出来事は、ここでは控える事としたい )


こんな話題は去年も同じ様に話されて、全員で大笑いしたはずなのだが、一年経って酒を呑むと、それぞれの場面乀がフレッシュに脳裏に蘇って、無邪気に反芻しながら毎回笑えるのである。記念撮影の際には 「禿げたやつはレンズがハレーションおこすから、真ん中に来るなよ」 などと会話が容赦ないのも昔の仲間ならではである。それにしてもこうして変らぬ話題、頭部以外変わらぬ顔ぶれでワイワイやっていると、この40年の社会人生活が本当に実在したのだろうか、となにやら夢の様な気がしてくるものである。翌朝は笑いすぎてちょっとお腹が痛かったものの、心が軽くなった気がして有馬温泉の坂道を下ってきたのだった。若い頃の運動部仲間はやはり良いものだ。

2014年10月20日 (月)

カーニバルと中国造船所のMOU

20141020
2011年6月、ナッソーに相次いで着岸したカーニバル船

最近のブルームバーグ情報によると、米クルーズ業界トップのカーニバル社は中国の国有造船所グループとMOU(Memorandum of Understanding:合意覚書)を交わしたとされている。内容は両社がジョイント・ベンチャーを組み中国のクルーズ事業に参画し、さらにクルーズ船建造の老舗であるイタリアのフィンカンチェリがこれに加わる事を推進するとの事である。この計画が実現すればフィンカンチェリの持つ客船建造のノウハウが中国の国営造船所に供与され、いずれ中国製のクルーズ客船が多数建造される事になるのだろう。中国人向けに造られた多くの客船の就航によって、アメリカについで世界で第2位にならんとする中国のクルーズ産業発展に一層のはずみがつく事はまちがいない。


そのあかつきには中国の客船が寄港する日本の各港が、中国人観光客で一層賑わう事が予想されるが、翻って我が国市場は昨年からプリンセスクルーズが参入しただけで、日本船の3隻体制から一向に進展していないのがなんとも寂しい。一方でクルーズ仲間のうわさによると、プリンセスクルーズは日本人を対象に、近々世界一周クルーズも計画していると云うから、そうなるといよいよ邦船の市場も大きく侵食される事になろう。主にシニアーを対象に至れりつくせりのサービスを提供する日本船も、その高価格料金体制のガラパゴス的な業容でいつまで事業を継続できるのであろうか。


日本人は海に囲まれすぎている為に却って海をレジャーの対象としないとか、長い休暇がとりにくい、そのほか社交が好きではない、はたまた中国・韓国など周囲が反日であるなど、我が国のクルーズ業界には様々な制約がある事はよく理解できる。一方で発展を期さない事業は、どんなものでもいずれ衰退が待ち受けると云うのも世のならいである。我が国の乗客が中国のクルーズ船に中国人と一緒に乗るとは思えないから、日本船はここで別の欧米資本と組むなり、グアムやサイパン、あるいは香港などを母港として、欧米人の乗客との”混乗”を目指すなり地平を開く計画を企画して欲しいところだ。仮に日の丸の旗を揚げておらず便宜置籍船でも、実質的に日本の船ならば納得する日本人も多いと思うから、邦船クルーズ社は発想を柔軟にし色々なアイデアでわが国のクルーズを盛り上げて欲しいと願うのである。


20141020s
今まで乗船したフィンカンチェリ造船所建造のクルーズ船たち
パシフィック・ドーン/フォーレンダム
ウェステルダム/ゴールデン・プリンセス

2014年10月19日 (日)

原鉄道模型博物館

20141019

2011年飛鳥Ⅱワールド・クルーズの船友10数人が集まって、年に2回ほど春と秋に親睦会を行っている。先日は横浜の会員のお世話で、みなとみらいにほど近い地区のモダンなカフェに集合したのだが、集まるまで少し時間があったので、マニアの間で話題になっている原鉄道模型博物館に立ち寄ってみた。博物館は新しいビルの2階にあって2012年に開館、横浜駅から南に徒歩5分ほどの場所である。世界的に名高い鉄道模型愛好家だった原信太郎氏のコレクションを中心に、1000両といわれる鉄道模型などが展示され、博物館の中央にある「世界最大級のジオラマ」ではヨーロッパの列車を中心に一番ゲージと言う大型の模型車両が走り廻っている。


原信太郎氏は1919年生まれでコクヨの元専務、今年2014年夏に95歳で亡くなったが幼少の頃から鉄道模型に親しみ、生涯をかけて精密な模型の作製やコレクションを楽しんだそうである。その略歴には東京の三田、慶応義塾の近所で生まれて幼稚舎に入学、小さい頃は祖母から当時の大学新卒の初任給に匹敵する額のおもちゃを「ツケ」で買うことが許されていたとあるから相当なおぼっちゃんである。一旦、慶応商工を卒業した後に、東京工大に進んだのも鉄道技術や模型の為だったのだろうか。いずれにしても世間一般からすればかなり金持ちの自由人であった様だが、それを活かしこうして世界的な博物館を開くまでに趣味を極めるのも生半可な事ではない。


このジオラマを走り回る模型車両の先頭にはカメラ専用の車両がつけられ、線路の傍らに設けられた運転席では、モニターを見ながら見学者が模型の運転を楽しめる様になっている。HOゲージなどより2まわりも大きい一番ゲージ車両から送られてくる映像は、まさに実際のヨーロッパの鉄道の旅を想起させてくれるリアルなもので運転操作も楽しそうだ。その他ジオラマには数々のこだわりがあって、無料で貸し出してくれるオペラグラスでその細部を観察していると、思わず時を忘れ子供の頃にかえった気分で楽しい。なにしろ電気機関車や電車は架線から集電してモーターを動かしているし、驚くべき事には車両は力行運転だけでなく惰行運転もできると云う。信号機は実際に閉塞区間を現示する他、列車がブレーキをかける場所では車輪の鉄粉が落ちてバラストが変色する有り様まで再現している懲りようである。


原氏の作成した模型を前に一番唸ったのは、旧型台車の板バネを一枚一枚木片を削っては作り上げ、揺れ枕やイコライザーまで本物の鉄道車両さながらに可動させる様にしたその精緻さである。脱線防止の為に台車までリアルに再現した模型を見たのは初めてで、そこに原氏の凄まじいばかりのこだわりと情熱を感じたのだった。こうなると電動車の駆動方式まで質問したくなったのだが、係員の女性は「すみません、私にはわからないので・・・」と頼りない返事である。では判る人を、と探したのだが、肝心の『学芸員』らしき人はジオラマの向こうらしく、場内に見当たらないのはとても残念だった。帰り道に寄ったビル一階のミュージアムショップ「天賞堂」の店員によると「大型の模型は実際にツリカケ式にしてますよ」との事だが、入場料を1000円も取るミュージアムならば専門家は常時配置して欲しかったと云うのが唯一の注文である。

20141019_2


2014年10月14日 (火)

マッサンとニッカ記念ボトルとアイリッシュ

以前は余り見なかったNHKの朝のドラマだが、年をとるに連れてフツーの番組をフツーに見る様になって、「梅ちゃん先生」あたりから毎朝テレビの前に座るようになった。もっとも半年で前シリーズが終わってしまうと、次のドラマに慣れるのに少し時間がかかるのだが、しばらく見ているうちに新しい主人公に感情移入して、朝が待ち遠しくなる毎日である。という事で今のシリーズ「マッサン」も、いつの間にかハマってしまい、毎朝出勤前にお約束の「外人嫁いびり」を楽しんでいる。


さて昨日は関東地方に台風接近という事になったので外出の日課は午前中にすませ、午後は本や新聞などをパラパラめくりながらまったりと過ごしていた。悪天候で夕方早く暗くなってくると、かつて旅行で行ったイギリスのどんよりした空を連想し、「マッサン」を見て刺激されたウイスキーに対する興味がにわかに心に湧きおこってくる。日頃、我が家ではスーパーで1000円以下で特売されるバレンタインしか飲まないが、「マッサン」の主人公、竹鶴正孝が始めたニッカウイスキーから送られてきた『 ニッカ十年浪漫倶楽部の記念ボトル 』(2012年11月26日ブログ)が封も切らずに我が家にある事を思い出し、にわかに心がざわめいてきたのである。


もっとも台風で自宅に居る時に、この大事な記念ボトルの栓を開けるのもウイスキーの神様に悪い気もする。これは会社を退職した夜に、40数年の社会人生活を顧みながら、一人粛々と飲むかなどと考え直すも、代わりにいつもの1000円のバレンタインでは、一旦燃え上がったこのウイスキーへの衝動を消す事ができない。と、ふと見るとニッカの記念ボトルの傍らには、2010年夏にイギリスをクルーズ船で周遊した後に購入したBUSHMILLSがあるではないか。かつて東京のホテルでバーテンダーから「ブッシュミルズの街を訪れる事ができるなんて!」【「にわかスコッチファン(2010年9月 6日ブログ)」】とうらやましがられたあのBUSHMILLSである。「マッサン」のスコッチではないが、今日はアイリッシュでいくかと購入後4年になるBUSHMILLSの封を切ったのであった。


せっかくのアイリッシュである。水に薄めては作り手に申し訳ないから、まずは生のままで一杯、香りや味を楽しむ事にすると、ストレートBUSHMILLSはいたって癖のない飲み易いお酒である。あの荒涼たるアイルランドの田舎町からは、もう少し刺激的かつワイルドな味を連想をしたのでちょっと拍子抜けとも言えるが、封を切った直後の壜から立ち上る馥郁たる香りは本場を感じさせてくれる。味と香りを楽しむと次は我が自慢の新鋭冷蔵庫製氷(2012年9月30日)を入れてオンザロックで一杯、そして最後にアイリッシュには硬水と、エビアン水を入れた水割りで昨日は午後を過ごした。


それにしても日本はスコッチ、アイリッシュ、バーボン、カナディアンと共に世界の5大ウイスキー産地だそうだ。BUSHMILLSを味わいつつ、”マッサン”こと竹鶴氏のニッカウヰスキーに代表される先駆的なもの造りへの探究心や情熱、それに本物志向に驚嘆しながら、台風の近づく中で徐々に訪れる酔いに身を任せていったのだった。

写真はニッカ十年浪漫倶楽部の5年記念ボトルとアイリッシュのBUSHMILLS

20141014

2014年10月11日 (土)

東京オリンピック50周年

20141011
4人の奏者のうち右端が東京オリンピックで実際に使われたファンファーレ用トランペット


昨10月10日は東京オリンピック50周年記念日であった。同事業関連イベントという事で日比谷公園小音楽堂の恒例、消防庁音楽隊による金曜コンサートでも、「東京オリンピック・ファンファーレ」や懐かしい「オリンピックマーチ」が演奏された。コンサートでは、オリンピックの開会式で実際に消防庁音楽隊によって使われたファンファーレ用のトラペットが50年ぶりに登場し、いつにも増して多い聴衆を楽しませてくれた。


50年前、1964年10月10日は「世界中の青空を東京に持ってきたような」(NHK北出アナウンサー)快晴だったが、父の転勤先の神戸で仰いだ空も青空であった。その日は土曜日で学校は半ドン、いつもなら友達とグダグダと校内で駄弁ったりしているのに「今日はオリンピックの開会式だから、速やかに下校する様に」という校内放送があり、いそいそと家路についてテレビの中継を見た事を昨日のように思い出す。


オリンピックを契機に東京の街も大きく変わったが、オリンピックの翌年に都内に戻った当時は都電もまだ多くの路線が残っていたし、首都高は羽田線と都心環状線の一部が開通したのみだった。郊外に出るとあちこちに肥溜めはあったし、木のふたがついたコンクリートのゴミ捨て場が町のあちこちで異臭を放っていた。夏に総武線の電車で隅田川を渡ると、ひどい汚臭が窓から車内に流れ込み、乗客は一斉に窓をしめたものだった。それでも新幹線や東京タワーを見ては人々は高度成長を実感したのだった。まさに「三丁目の夕日」の世界である。


そういえば昭和45年(1970年)の夏、当時は西武線の東伏見にあった早稲田大学のグランドや合宿所を訪問した際、かつて早大競走部のキャプテンだった坂井義則さんが書いた練習日誌が残っていて、「へえ、これがあの坂井選手のものか」と興味深く拝見した事があった。そこにはテレビでみた聖火最終ランナーの坂井さんの姿ではなく、アスリートとして日々精進したり苦悩する様が綴られており、彼も同じ競技者なのだと急に親近感が湧いてきたものだった。日比谷公園でオリンピックマーチを聴いていると、若き日の様々な場面が脳裏に浮かんできた。

日比谷公園のコンサートで配られた東京オリンピック50周年の記念品
20141011_2


聖火最終ランナー坂井義則さんの勇姿(Youtubeへのリンク)

2014年10月 9日 (木)

ねんりんピック栃木2014に参加して(3)

マラソン競技の会場では、ねんりんピックに出場する選手専用のテントが設営され、各県の代表は立ち並ぶテントの下で競技の進行を待つ事になっていた。同じチームの仲間だけでなく他県のランナー達とも交流するのが大会の趣旨とあって、テントの中ではあちこちで競技者同士 「こんな用具を使っている」 「こんなサプリも良いよ」などと話に花が咲いている。それにしても周囲を見ると腹がへこんでいるばかりか腹筋がくっきり見えるランナーも多く、皆とても60歳以上の老人とは思えない体型である。私は特に腹は出ていないが彼らの様に”腹筋くっきり”でもなく、着替えをする他の選手の見事に割れたお腹を見ては、「ほえエエエエー」と思わずため息を漏らしたのである。


3キロ、5キロ、10キロと各レースのスタートラインに並んだねんりんピックの選手達は、雨にもかかわらず上半身はランニング一枚、下もランニングパンツのランナーが多く、まるで本物の陸上競技大会の様だ。最近はジョギングブームとあってファッショナブルな衣裳と華やか雰囲気が漂う大会が多い中、さすが全国から選抜されてきたシニアー選手達によるレースらしく、この会場はややストイックな雰囲気が漂っている。こんな雰囲気に一瞬気後れもするが、そこは経験だけは半世紀近く走ってきた我が身ゆえ 「なに、みな走ってみれば同じで大した事ないさ」 と平静を装って自らを鼓舞したのである。


さてレースも済んだテントでは、大会差し入れのお弁当に皆で舌鼓をうちながら、月にどのくらい走るのかが話題になっていた。それを聞くと 「私は月に500キロ」 とか 「いや700キロは走る」 「100キロのウルトラマラソンが好き」 など一流選手並みの距離を踏んでいる人が多い。仕事上では第一線を退いて時間の都合がつくランナーが多いのだろうが、それにも増して走る事にみな情熱を傾けている事がうかがえて驚愕した。彼らに較べると私は月に200キロか、多い月でもせいぜい250キロと ”努力なし” 派なのである。こんな練習でよく彼らと一緒に走る事ができるものだと、かえって小さな自負の念も起こる一方、もっと走ればまだ少しは記録が伸びるのかと、はかない希望も心の隅に芽生えてくる。


我が身を顧みれば、現在は定年再雇用で嘱託とはいえ、残業する日もあれば飲み会や接待の日もまだちょくちょくある日々だ。しばらくして会社をリタイアしたら毎日が日曜日となって、時間的には運動をもっとできるだろうが、そんなに練習したらきっと故障するか体を壊すのではないかと云う心配もある。もともとはトラックの800米や1500米競走が好きで陸上競技を始めたので、若い頃からあまり長い距離を踏むのは好きではないし、走るばかりでなく音楽などリタイア後はもっとやってみたい事も多い。でもまあ50才や60才になって走り始めた他のランナー達がこんなに情熱的に走れるなら、自分も会社を辞めたら月に300キロくらいは走ってみるか、と大いなる刺激を受けて栃木路から帰ってきたのであった。(完)

20141009

2014年10月 8日 (水)

ねんりんピック栃木2014に参加して(2)

20141008
40数年ぶり旗手の後ろで行進

土曜日の朝、貸切バスで250名余りの東京都選手団と役員は、那須高原から宇都宮の栃木県総合運動公園へ到着した。ここ公園内の開会式が行われる陸上競技場にほど近い野球場で、他県の選手団と共に我々も10時50分の入場行進まで2時間近く待機となるのだが、この間に地元の小学生による激励セレモニーなどがあって、全国の選手たちと一緒に徐々に気分が盛り上がっていったのだった。それにつけても、イベントを秒単位でとり仕切る進行役の人達、宿や交通の手配をする旅行社、食べ物や飲み物を配る弁当係り、その他多くのボランティアが滞りなく準備を進めて行くさまを見ると、その統制された仕切りぶりに驚嘆するのである。各種のスポーツ大会をはじめ日本で行われる様々なイベントの陰にこの様な人達がいて、準備万端怠りなく大会が執り行なわれるのだろう。


開会式の華、陸上競技場での入場行進は北海道を筆頭に順次北から南へ下る順番で行われ、参加47都道府県に全国20の政令指定都市の計67チームが参加した。考えてみれば入場行進などに参加するのは大学時代のインターカレッジ以来40数年ぶりの事で、まさか60歳過ぎてから旗手の後を歩くなどとは想像もしなかったから、私にとってはちょっとした感激の場面であった。メインスタンドには常陸宮ご夫妻や厚労副大臣、県知事や宇都宮市長が列席されており、歩きながら観客席に向かって帽子を振りつつ礼を送れるのも我が人生の中でめったにない慶事である。会場に響く君が代の斉唱が他の大会より一層大きかったのもシニアの大会であるゆえんで嬉しいし、日光東照宮の流鏑馬や子供たちのダンスなどのアトラクションも開会式を大いに盛り上げてくれた。


開会式を終えると栃木県内各地に散らばる各競技別の会場へと選手団は分かれ、マラソンの選手達は県東南部に位置する真岡市にバスで移動である。ここでも真岡市長、市議会議長の挨拶や和太鼓の歓迎セレモニーがあって、土曜日は試合前日の調整をする間もなく行事でまる一日が過ぎ去ってしまったのである。我々もようやく午後6時頃にスケジュールから解放され、宿舎である指定されたビジネスホテルで荷をほどき、すでに暗闇に包まれたホテル近所で軽く足慣らしをして翌日に備える事ができたのだった。いささかハードな日程だがそこは全国から選抜され時間も体力もあるシニア世代のこと、ホテルの食堂では他県の代表達とすぐにうちとけて交歓する選手の光景があちこちに見られ次第に夜が深まっていった。


いよいよ日曜日の大会当日である。3キロ、5キロ、10キロの部それぞれのマラソンレースに出場する全国から集まった60歳代70歳代の選手250名余が、真岡市井頭公園のロードで日頃の健脚を競った。この日は折からの台風接近で一日中雨に降られたが、怪我をする者もないようで3つのレースが無事行われた。個人的には雨で途中から体が冷えて動かなくなり記録的には大いに不満だったが、何とか入賞できて記念のメダルを頂いたのは良い思い出となろう。そういえば昨秋行われたこの大会の予選会も大雨の中のレースだったから、ねんりんピックと云えば、”雨のレース”と胸に刻まれそうである。因みに各都道府県別にマラソンの3種目、60歳台と70歳代をそれぞれ1位8点、2位7点・・・8位1点として集計すると、47都道府県の中で優勝は地元の栃木54点、2位は静岡の34点、3位が東京25点、以下愛知22点、宮城21点、高知18点となった。地元が優勝、2位が陸上王国・静岡などと云うと何やら若者主体の国民体育大会とあまり変らないのも面白い。(続く)

入賞記念のメダルと賞品
20141008_2

2014年10月 6日 (月)

ねんりんピック栃木2014に参加して(1)

20141006
常陸宮様ご夫妻ご臨席の下、栃木大会の開会式(栃木県総合運動公園)

週末は栃木県で行われた全国健康福祉祭ねんりんピック栃木2014に参加した。一言で言うと知る人ぞ知る、逆に言えば知っている人しか知らない様な老人の大会が、国民体育大会の如く毎年毎年、日本各地持ち回りで開催されている事を経験したわけである。文化活動も含め似た規模のイベントが各省庁の管轄で他にも沢山あって、国やそれぞれの地方で予算措置が執られるのだろうが、財政超多難な折り、大切な税金をこうして費消して良いものなのか、”うーん?”と唸らないわけでもない。まあ野暮な事は脇において、せっかくの大会だから全国から集まったシニアー選手たちと交流し、いろいろなイベントを精一杯楽しもうとこの3日間を栃木県内で過ごした。


我々が参加したマラソン競技では、地元の体協や陸協の推薦で選手が選ばれる方式の府県(市)が多い中、東京は予選会を勝ち抜いて選抜されたので、やはり好成績をおさめ、多くの選手が60歳代・70歳代の各3キロ、5キロ、10キロ競走で優勝や入賞のメダルを手にできた。走った日曜日は台風接近による雨にたたられたものの、マラソン開催地である真岡市の円滑な大会運営や地元の暖かい歓迎の気持ちが嬉しく、全国から集まった選手たちは、孫の様な小中学生の歓迎に喜んだのだった。東京から100キロばかりの近郊ながら、今まであまり縁のなかった栃木県南東部のこの町を、多くの選手たちは今後なにか事ある度に思い起こす事になるだろう。


さて金曜日の午後、東京駅に集まった東京都の選手団は250名ほどで、これに役員や関係者も加わり、他県の代表とともに臨時の貸切新幹線列車で栃木県へ向かう。団体・臨時と云えば中学生時代の修学旅行列車「ひので」以来で、つい嬉しくなって新幹線乗車と同時に缶ビールの蓋をプッシューと抜くが、どうも周囲は真面目な競技者ばかりなのかそんな光景もほとんど見られない。他の団体競技と違って個人参加の寄せ集めマラソンチームも、当初は何となくお互いの会話もよそよそしかったものの、開会式前夜に東京都選手団に割り当てられた那須温泉で揃って食事をとって歓談をするうちに、仲間で一緒にやろうという気持ちが盛り上がってきたのであった。(続く)

子供達に歓迎されマラソン会場へ
20141006_2

2014年10月 1日 (水)

祝・東海道新幹線開業50年

20141001
山陽筋に永らく残っていた0系

東京駅の新幹線中央乗り換え口を入ると19番線ホームの下に小さな銘版がある。「 東海道新幹線 この鉄道は日本人の叡智と努力によって完成された」・・・「営業開始 1964年10月1日」とそこには記されている。飛行機やモータリゼーションの時代が来るのに、世界銀行から借金をしてまで高速鉄道を造るとは何事か、と当時は万里の長城や戦艦大和と並んで”世界の三大バカ”と嘲笑された「夢の超特急」が、乗客の死亡事故ゼロを更新しつつ開業50年を迎えた。新幹線の成功によって、今では欧州だけではなく中国や台湾に高速鉄道が導入され、アメリカでも真剣に高速鉄道が検討されていると伝えられているから、日本人はこの偉業をもっと誇りに思って良いのではないだろうか。


思い起こせば、鴨宮のモデル線区で試験車両が次々と速度記録を更新する様子を、ヘリコプターからのTV中継で見て興奮していたのがついこの前の様な気がする。その憧れの「夢の超特急」に初めて乗ったのが開業半年後の昭和40年3月だった。それまで在来線151系特急「こだま」や「つばめ」で6時間半かかっていた東京・大阪間が4時間(当初)で結ばれ、「なんて便利な時代になったのだろう」と感激したものだった。それから現在に至るまで、何百回新幹線に乗った事だろう。いま新幹線開業50年と聞くと0系、100系、300系、500系、700系、N700系とそれぞれの型式に乗った際の様々な思い出が蘇ってくる。


0系と云えば昭和50年代大阪で仕事を終えた後、会社の仲間と帰京する際に京都手前から東京直前まで食堂車で宴会を続け、結局自分の席に戻ったのが到着前に荷物を取る時だけだったという事があった。一体どれだけ飲んだのだろうかと支払いの際に結構ドキドキしたが、たしか一人7000円くらいで覚悟していたよりは安く、やはりいくら飲んでもしょせん列車の食堂か、とホッとしたものだった。新幹線と酒にまつわる思い出も幾つかある中、窮屈で堅めの乗り心地だった500系普通車3人掛け中央席に、二日酔いの際に押し込まれた時の辛さなどは、思い出すと今でも冷や汗が出てきそうだ。


2階建て100系の1階にグリーン個室が設置された時には、出張の折にこの個室を予約してゆったりと寝ながら旅した事がよくあった。当時は飛行機で行くなどと偽って会社に旅費申請をし、規定外のグリーン料金をなんとか捻出した事などがおぼろげに脳裏に浮かんでくる。その他、瀬戸内を案内したアメリカ人達を連れて福山駅ホームで東京行きの乗車列車を待っていた時に、駅を通過する「のぞみ」のあまりの速さに彼らが大きな驚きの声をあげていた事など新幹線にまつわる思い出は数えきれない。


飛行機 VS 新幹線の比較では私は世間の標準よりやや新幹線派だと自認している。今でも東京から西日本に出張する際には阪神地区までなら100%新幹線、岡山・福山でもほとんど新幹線を利用し、広島になると行きは飛行機で帰りは新幹線というパターンが多くなる。広島以西になってやっと飛行機を利用する割合が増える鉄道派の私としては、これからも新幹線が日本列島をくまなく結び、事故のない運転を続けて欲しいと願っている。ただあえて注文するならば、東海道新幹線などの普通車のうち少なくとも指定席車両は、そろそろ横3列+2列の5席並びを横2列の計4列にし、もっとゆったりと旅を楽しませてもらいたい。私なら現行の3列シートの真ん中に座る位なら、次の列車を待つか自由席に移るかした方がまだましだと考えてしまうのである。

20141001_2

20141001n700

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ