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2014年3月

2014年3月31日 (月)

恒例・表敬訪問

毎年春や秋の気候の良い侯になると世界中から船舶代理店が日本にやってくる。ほとんどの相手とは緊急の商談や議論すべき問題点もないが、コーテーシィコール(表敬訪問)として1時間くらい会議室で仕事(らしき)話をして、その後に昼食や夕食を一緒にとる。Seeing is believing(百聞は一見にしかず)とは世界共通の真実なのだろう。今週もアメリカやアルゼンチンから数社の代理店のお相手という事で、今日はアメリカの代理店の友人達とグダグダ喋っていた。その中から聞いたちょっと面白かった3つの話。

1.不明のマレーシア航空機:機長はマレーシアのある政党の支持者であったと報じられている。米国の友人の推理では「きっと機長は位置通報など各種トランスポンダーをオフにした後に、マレーシア政府に何らかの政治的な要求をしていたに違いない。それを政府にことごとく拒否されたので最後にインド洋に向かったのではないか。マレーシア政府の情報が遅く、かつあいまいで小出しなのはきっとすべてを知っているからであろう。」

2.新造客船からの食料・備品購買オーダー:ある有名なクルーズ船会社の新造客船が処女航海で彼らが仕事をする港に立ち寄った。様々な備品・什器や食料の積み込みに加え、衛生用品としてコンドーム5000個を出帆までに準備して欲しいとの要求。何でもクルーの為に船内衛生講習用に使うのだとか。代理店の新人だった彼は、5000個を必死で周囲からかき集めたが、それ以後しばらく港で関係者に会うたびに「コンドーム5000個の男」と有名になった。「乗客は高齢者が多いのに、数百人のクルーは一体何の講習に使うのかね?おさかんだね」 だそうだ。

3.一行の中の一人で中東から移民してアメリカ人となった者の言葉:「私はアメリカに来てからアメリカが世界で一番サービスが良いと思っていた。しかしここのところ毎年日本に日本に来るようになって、日本の方があらゆる面でサービスが良い事が判った。」お世辞でもこんな事を聞くと嬉しいものだ。

他愛もない話で、英語で時間をつぶすのは骨が折れる。もっと英語がうまければなあ、とは40年間思い続ける感想である。何はともあれ彼らが、地球の向こう側にいても桜開花の絶好期を逃さず来るのは、なかなか大した予知能力だとも感心する。毎年、春と秋にこんな事を繰り返しながら海の向こうとこちらでお互いに馬齢を重ねていくのであろうか。

2014年3月25日 (火)

半世紀ぶりのピアノ練習

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「そろそろ会社を辞めさせてくれないか」と打診してみたら「まあ、そんな事言わないでもう少しやって下さいよ」とありがたい様なそうでない様な返事が返ってきた。やっている仕事の本質は若い頃とちっとも変わらないが、事務のIT化では狼狽することが多いし、周囲は新入社員の頃からコンプライアンスやらガバナンスという言葉に慣れ親しんで育った世代ばかりで、この業界の雰囲気も変化してしまい多少疲れを覚えるのである。もっとも還暦をとうに過ぎたこの歳でそう言ってもらえるのは幸せな事だと気を取り直し、4月からももうしばらく勤めを続けることにした。しかしそのためには今までにない何らかのインセンティブが自分に欲しくなったのも事実である。


という事で、購入したのがヤマハの電子ピアノである。考えてみれば小学校1年から6年まで親に無理やりピアノの前に座らせられてすっかりピアノ嫌いになり、反動で中学からこの歳まで体育会系で過ごしてきたものの、各地のマラソン大会でも60歳以上の部はすべて一くくりとあって、後は年齢相応に記録も順位も落ちるだけとは寂しいものである。ここは体を使った運動の他に何か文科系の趣味を持ちたいものだと考え、ならば子供の頃やったピアノかと思いたったのである。先の三連休に届いた梱包を解いて組み立てたのが写真のヤマハ電子ピアノである。こんなキーボードで本格的なピアノの音はもとより、スイッチ切り替えによってハープシコードからジャズオルガン、パイプオルガンなど様々な弦楽器の音が出てくるとは何とも驚きだ。


これで本物のピアノでも最も安い部類の何分の一かの値段、その上メトロノームも内臓されているし、高価な調律も必要ないとは世の中便利になったものである。「バイエルからやりたい」と言う私に、妻は「最近はバイエルなどやらないのよ」と買ってくれたのがブルグミューラーで、その第1番は「素直なこころ」という題名である。性、狷介にして何事にも頑固になりつつある私には、最初から何やら因縁めいた題名である。幼児が弾ける様な易しい楽譜だったが、何回かつっかえながらも初回で一曲が弾ける様になるのは、子供の頃の体験が記憶のどこかに残っているのだろうか。以前にもちょっと思い立ったものの、マジメに取り組むのは50年ぶりで、ボケ防止にこれから少しずつ練習する事にしたいが、「若くてきれいなピアノの先生が近所にいないかなあ」とか「モーツアルトのトルコ行進曲が弾ける様になるのとボケるのがどちらが先だろうか」などと様々な思いが脳裏を駆け巡っている。

2014年3月20日 (木)

博多名物鶏卵素麺

ポテトチップスの次は鶏卵素麺(けいらん・そーめん)である。素麺といっても茹でる麺ではなく、これは博多名物の伝統の菓子である。会社の誰かが博多に出張したのか、福岡の代理店の手みやげなのか職場の棚の上に、しにせ松屋の鶏卵素麺が置いてある。思わず手を伸ばし「これこれ、これは美味いんだよなあ」と給茶器からお茶をくんで、久しぶりの鶏卵(たまご)素麺をデスクで味わいながら廻りの者にも勧める。


そういえば子供の頃、近所に住む祖母が鎌倉に墓参りする時は横浜崎陽軒のシウマイ、父が九州に出張に出張した際は博多名物の鶏卵素麺を希望した定番おみやげがこれだった。鶏卵素麺と云えば松屋の他にもう一軒博多に老舗があるそうだが、なぜか父が買ってくるのはしっとりした感じのこちらの方が多かった気がする。何でも氷砂糖を沸騰させて造った蜜の中に卵黄を流し入れそうめん状に固めてつくるとの事、口の中でふんわりと甘い玉子が溶ける様な独特の食感がたまらない。ただその味は極めて甘く、よってカロリーもすこぶる高そうである。


鶏卵素麺はポルトガル由来の菓子で、菓子箱に入っている松屋の「鶏卵素麺の栞」には「今から330有余年の昔、松屋の初代が・・・・長崎におもむきました。」「そこで初代はポルトガル伝来の南蛮菓子を・・・・伝授され」「さらに、それを日本の風土に適応するよう研究工夫をかさねて完成したのが『鶏卵素麺』です。」とある。この菓子はまた黒田節で有名な筑前・黒田藩御用達となり、毎年江戸へ献上する栄誉を担ったともいう。「名物に旨いものなし」などと云うが、佐世保の九十九島せんぺいと博多の鶏卵素麺はみやげのホームラン王だと私は思っている。

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2014年3月17日 (月)

コスコ(COSTCO・コストコ)の巨大ポテトチップス

普段よく行く近所のスーパーにちょっと目を引くバルキーな袋のポテトチップスが置いてあった。と見るとアメリカ・オレゴンにあるKETTLE BRAND社のポテトチップス大盛り袋ではないか。厚く切ったポテトをそのまま削ぎ落としたかの様な自然な形状、上質のオイルで揚げたであろう手造り風で薄塩のKETTLE BRANDのポテトチップは私の好物で、以前はこの袋を都内有名店などで見つけると時々買ってきた覚えがある。ただ、味はとてもうまいものの、そういう店で売られているポテトチップスはそうとうな値段で、いつもは買えないと躊躇していたのだった。ところがそのチップスが、町のスーパーの売り場で、何と2ポンド(907)グラムも入って800円弱台と言う事である。普通の日本のポテトチップスはラージサイズでもせいぜい100~200グラムくらいだから、「ええ?」と驚く妻を尻目にさっさと大きな袋をカートに放りこんだのであった。


このKETTLE BRAND製大盛りポテトチップスは、もともとアメリカの会員制ホール・セラーであるCOSTCO社で売られており、本日はこのスーパーの特別フェアとやらで目玉商品として置かれたものらしい。チップスの袋にはかつてコスコの本社だったワシントン州・カークランドにちなんだカークランドシグネーチャーとロゴが印刷されているのも心ひかれるところである。というのもカークランドは90年代の初めにシアトルに駐在した際に住んだ町で、家のごく近所のコスコ(アメリカ人は途中の”T”をほとんど発音しないので”コスコ”と言っている様に聞こえる)にはよく買い物に行った懐かしの場所なのである。当時は自家用のMPV(マルチ・パーパス・バン)でコスコの広い駐車場に乗りつけ、購入したバルキーな肉や日曜用品を満載のカートから車に乗せかえたら、店頭にある安くてシンプルなホットドッグにケチャップとマスタードをかけて食べた事が懐かしい。


コスコ発祥の地、そしてかつて住んだ町カークランドは、シアトル市内から20マイルほど東にある。シアトル市が海(ピュージェット湾)と湖(ユニオン湖)に囲まれ、住宅地としてこれ以上開発できないため、ユニオン湖の向かいベルビューやレドモンド、カークランドなどの東岸が新しい住宅地として整備されてきたその一画である。イーストサイドは住宅や商店だけでなく、マイクロ・ソフトの本社やニンテンドウアメリカなど時代の先端を行く企業があってますます賑わっているが、その中にあってカークランドはかなり後に開発された場所で、賃貸用住宅も新しい物件が多かった。住んだ当時はやや辺鄙な場所だとも感じたが、借りた新しい家はセントラルヒーティングのボイラーが大きく、深いバスにお湯をたっぷり入れて日本式入浴を楽しむ事もできた。コスコのブランドやカークランドのロゴを見ると、慣れない英語の生活と渋滞のドライブを終えて帰宅し、風呂に入ってホッとしたひと時、なかなか暮れないアメリカの夏の夜を楽しみながら、ゆったりとビールを飲んだ事を思い出す。

カークランドロゴ入り、たて45CM よこ30CM の巨大ポテトチップス袋
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2014年3月16日 (日)

江戸城天守閣再建

休日は妻と皇居の周りをジョギングする。ただ二人の走る速さが違うので途中からバラバラになる事が多い。そんな訳で昨日も一人で観光客で賑わう大手門前を走り過ぎようとすると、何やらキャンペーン活動を展開している中高年男性達が目に入ってきた。走りながら活動の趣旨がプリントされた彼らの着物を見ると、「江戸城天守閣を再建する会」とあるので思わずハッと立ち止まった。というのも私もかねてから江戸城跡(現在の皇居東御苑)に天守閣を再建したら、さぞ東京の景色が引きしまって観光の目玉になるのではないかと思っていたからである。


皇居の周りをマナーに従って左回りにジョギングすると、丸の内や大手町近辺では右手に近代的な高層建築、左手に玉砂利や皇居のみどりが見え広々として誠に清々しい。またお堀の向こうの富士見櫓などは小さなお城の天守閣ほどの規模を誇って美しいが、それでも現在の皇居東御苑や吹上御所の上空はぽかりと空間が広がり、ここに大きな天守閣が見えれば視覚的にも良いのにと常々思っていたのだった。その江戸城の天守閣は、いろいろと改築があったが最後のものは1638年に完成、高さは60米ほどの5層の大建築物であったと云う。これが1657年の明暦の大火で消失したまま、幕府の財政難でそれ以後は再建もされずに明治に至ったのである。


東御苑に残る江戸城旧天守閣の台座は標高20米くらいだから、もしここに高さ60米の天守閣がそびえたてば20階建てくらいのビルに匹敵し、きっとあたりを睥睨するかの様な壮大な東京名所になる事であろう。そうなればスカイツリーに江戸城と、世界に誇る東京名所がまた増えようというものである。走るのを一時中断してもらったビラには、2020年のオリンピックまでに江戸城天守を再建すると云う趣旨でNPO法人が設立され、現在300名ほどの会員だとある。そこには「この夢が実現したら、東京の都市景観は一変し、世界に類を見ない日本の伝統と文化の象徴として、この国を代表するモニュメントになることでしょう」とうたわれ、会費は正会員(個人)は一年で1万円(プラス入会金3千円)、個人賛助会は千円からとある。


NPOの人達からビラを貰ったり話を聞いたりでジョギング中にすっかり時間を喰ってしまい、これでは妻に追いつかれるか等と思ってゴールで待っていたら、ほどなく妻も同じビラを手に持って嬉しそうに走ってきた。聞くと彼女も走るのを中断し、私よりももっとじっくりと会の詳細を聞いていたそうで、お互い興味の方向が同じなのかと改めて笑ってしまった。そういえば先に石原前知事の呼びかけに共感して夫婦で東京都尖閣諸島寄付金に募金をしたものの、せっかく集まった基金は相変わらず眠ったままであるらしい。このまま何も行動を起こせないなら、いっそあの寄付金を返却してもらって、江戸城再建に振り替えようか、など妻と話しながら整理運動をしたのだった。

貰ったビラ
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2014年3月10日 (月)

万世橋マーチエキュートN3331とセクション外停止位置

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都電(市電)須田町近辺を探索した後は、”万世橋マーチエキュート”の見学である。万世橋駅跡といえば我々世代の脳裏に浮かぶのが交通博物館なのだが、この博物館は2006年に鉄道博物館として、さいたま市・大宮に越して行ってしまった(鉄道博物館)。そのあと旧万世橋駅を改装し、ホームや階段などの遺構と、モダンな雑貨店や飲食店などを一体化させたのが、”マーチエキュート”という耳慣れない新しい施設である。マチと駅をもじったのだろうか、もう少しセンスあるネーミングにならないのかと考えつつ、神田川に面したそのエキュート内部を探索する。前ブログにアップしたとおり館内には旧万世橋駅や旧須田町交差点のジオラマが展示されていて、この場所が明治末~大正初めは東京の一大交通ジャンクションだった事を教えてくれる。


さて万世橋駅は甲武鉄道のターミナルとして東京駅と同じく辰野金吾の設計で造られ、国有化後の1912年(明治45年)にこの地で開業したそうだ。ところが1919年(大正8年)に東京駅が開業したためターミナルとしての機能がなくなり、1923年(大正12年)には関東大震災で駅舎が焼失し、市電との乗り換えで賑わった須田町交差点も東に移動、その上ごく近辺に秋葉原駅が出来たために駅としての役割も大きく低下してしまった。1936年(昭和11年)には交通博物館(鉄道博物館)を併設したものの、駅の営業は戦争中の1943年(昭和18年)をもって終了した薄倖とも云える鉄道遺構なのである。


そのエキュートに残る当時の階段や、新装なるモダンなショップを一巡りして向かう先は、お目あての”N3331”という旧高架のホーム跡を利用したカフェである。3331とは何でも大相撲などでおなじみの”ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃん”と打つ江戸手拍子からのネーミングだそうで、島式ホーム上に造られたガラス張りのカフェの両側を、オレンジ帯を巻いた中央線快速のE233系電車がジャランジャランとひっきりなしに通過していく。


夕方5時までは喫茶タイムでメニューも限定との事で、やむなく妻とビールとナッツをとりつつ中央線電車や近くを走る総武緩行線E231系電車の往来を眺めるうち、何やら食堂車に乗って酔っぱらっている様な心もちになってきた。中央線下り線のここから少し先には御茶ノ水駅の第一場内信号機があり、目の前には「セクション外停止位置表」が掲示されている。という事は、ラッシュ時に中央線の下り電車が駅構内進入で信号待ちする際には、カフェの目の前が運転台の停止位置になると云う図らずもまことに粋な設定になっているのである。

N3331の前にはセクション外停止位置票が・・・
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2014年3月 9日 (日)

電車唱歌(1905年)のなぞ(2)

1.玉の宮居は丸の内、近き日比谷に集まれる
  電車の道は十文字、まず上野へと遊ばんか

2.左に宮城おがみつつ、東京府庁を右に見て
  馬場先門や和田蔵門、大手町には内務省

3.渡るもはやし神田橋、錦町より小川町
  乗り換えしげき須田町や昌平橋を渡り行く

4.(以下本郷通りを神田明神より本郷三丁目
   湯島・上野広小路方面へ電車は進行する)
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マーチエキュート神田万世橋

甲武鉄道の東京口ターミナルだった万世橋駅跡は、長らく交通博物館として多くの人に親しまれてきた。2006年5月でその役割を終えた跡地が、マーチエキュート神田万世橋として再開発され昨年オープンしたと評判なので、週末の一日妻とブラブラと見学に行ってきた。旧駅の遺構見学に加えて、かねてから興味のあった旧・万世橋駅の駅前や須田町交差点の往時のありさまを何か伺い知れるものがあるのではないかと、ちょっと好奇心を抱いての見学である。というのも2008年9月に「電車唱歌のなぞ」という題名でブログをアップした通り、かつての東京市電の有様を歌った電車唱歌のこの近辺の歌詞にどうもひっかかりを感じて疑問が拭えない箇所があったからである。 電車唱歌のなぞ

1905年(明治38年)に発表された電車唱歌は東京市内を行きつ戻りつ、公営化される以前3社で運行されていた路面電車を縦横に乗り継いで沿線の風景を歌っている。今では地理的に変わってしまったところもあって、歌われた場所を完全にトレースするのも結構難しいが、私は出だしの3番でつまずくのは先にブログに書いた通りである。というのも日比谷から現在の本郷通りを北上してきた電車が、なぜか小川町で右折し東に針路をとり(現在の靖国通りを通り)須田町に至り、須田町から今度はまた逆戻りするかの様に北西の昌平橋を渡るという順路がどうにも疑問だったのである。須田町の交差点が今と違っていたという事は以前から知っていたが、鉄道の唱歌は一筆書きが原則で、なぜ同じ路線をあと戻りするかの様な歌詞がつくられたのかが腑におちなかった。


マーチエキュート神田万世橋には立派なジオラマがあって、当時のにぎわう万世橋駅と駅前の須田町のさまが展示されている。それによると軍神・広瀬中佐の銅像があった駅前の広場は扇状に大きく広がり、現在の中央通りは銀座方面から直進してそのまま北西の昌平橋方面へ向かい、現在の靖国通りが万世橋の南詰に向かって伸びている。以前にもアップしたとおり、ここ神田地区は東京にあっても東海道に沿って発展してきた町並みと、中仙道や日光街道など北に向かってできた町がちょうど交錯するような場所で、大きな通りの向かう方向がやや変則的になるのだが、その分わずかな交差点の付け替えで街道が向かう先が大きく変わってしまう場所ともいえる。で、ジオラマを眺めつつはっと気づいた事は、小川町から東進した電車は当時の須田町・万世橋駅前で左に90度折れるだけで後戻りすることなく中央通り(の延長部分)を昌平橋方面に進行できるのであった。


現在の須田町交差点は後年開通した靖国通りと、万世橋をスムースに渡るべくやや右に折れる様に付け替えられた中央通りが交差する処(やや東南)に移された。そのため、いったん(現在の)須田町まで行った電車が昌平橋を渡るというと、なぜか今来た方向に後ろ向きに進行する様な錯覚を覚えるのだが、ジオラマで見る須田町交差点は今より北西の位置にあって道の向かう先きも今と違う。なおかつ帰宅後に明治の古地図で調べてみると、当時の本郷通りは神田小川町より北へ駿河台方面には通じておらず、丸の内・日比谷から上野方面に向かうのは、小川町右折・須田町左折・昌平橋から神田神社・本郷3丁目右折・湯島天神・切り通し・上野広小路をとるルートがトランクラインであった事が容易に想像できるのである。いまの感覚では丸の内から上野に行くには、本郷通りと中央通りを適宜使うのが当たり前のよう思われるが、100年前にはこんな近い所でも随分違うルートを人々は辿っていたのだと、目からウロコの一日であった。


<立派な万世橋駅ジオラマ> ななめ左下、日比谷から小川町経由(現在の)靖国通りを東進してきた電車は、万世橋駅前で左に直角に折れ左上向こうにある昌平橋にむかう。靖国通り自体は直進すると万世橋南詰めへ行く。一方右下の中央(銀座)通りから来た電車は、右に直角に折れ万世橋から秋葉原方面に行く。中央通りを直進すれば昌平橋となるが、今の須田町の地理に慣れるている身には少々こんがらかる。
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2014年3月 2日 (日)

河野談話を検証したらよい

韓国の朴大統領が窮地に陥っている様だ。朝日新聞がでっちあげたいわゆる「従軍慰安婦」問題に関して、彼女は就任以来一年間に渡って悪口・告げ口外交を世界にしまくってきたが、安倍政権は従来の日本の政権と違っていた事を彼女は読み誤ったのだろう。多分今まで歴代の日本の内閣は、韓国が強く出れば謝罪と反省(それに多分何がしかの援助ないし金銭的なおみやげの追加もあったであろうか )をして事を丸く治めてきたのだろう。この大統領は強い態度を示せば日本が譲歩するだろうと考えていたのだろうが、今回はちょっとそうはいかなかった。日本では嫌韓本が大売れ、日本から韓国への観光客も投資も減っている上に、安倍政権は「河野談話」のベースとなった元『慰安婦』の証言を検証し直すと逆に出た。韓国経済も落ちこみ始め、アメリカからは日韓の対話を迫られる中、朴大統領は自らハードルを上げたつけが自分に戻ってきたわけだ。


あわててサヨクの村山元首相が韓国にご注進に行って「証言を確かめる必要なし」などと言っているが、証言の裏付けをとって事実に迫られるのが彼らは本当に怖いのだろう。すでに多くの研究者や学者の検証でほぼ明らかなとおり、云われる従軍慰安婦などは存在せず、(世界のほとんどの戦争でそうだった様に)兵士を相手に春をひさぐ『商売』の女性達がいて、彼女らは兵士の何倍も稼ぐ高給とりであり、その中に朝鮮半島出身の人達も含まれていたというのが真実らしい。どうか充分に裏付け調査をやって、旧日本だけが世界でも特異なひどい事を行っていたのか調べたら良いのである。以前にもアップしたが、当時がそういう時代だった事や半島には貧しい女性が多数いた事は誠に悲惨ではあるが、それと謝罪外交を続けるのは別の事である。間違った事実に基づいた「談話」があって、それを根拠に永久に謝罪を続けなければならないとなれば、韓国といくら関係が悪化しようと事実を掘り起こすのが筋というものだ。


私も仕事を通じて韓国人とは随分付き合いがあるし、個人対個人ではごく真面目で仕事熱心な人が多い。ただ彼らが自分より下と思う人間に対する態度は、概してひどく威張って権威主義的である。日本人の船長にフィリピン人のクルーの船ではあまり問題がおきないが、韓国人の上級船員にフィリピン人のクルーの場合はしばしば船内で喧嘩がおきるのである。陽気なフィリピン人も、横柄で威圧的な韓国人の態度に耐えられないのであろう。また以前ソウルの会社に500万円ほどの売掛債権があって、いくら督促しても払ってこない事があった。やむなく単身オリンピックスタジアム近くのその会社に乗り込んで、初対面の若い社長に「すぐ払え、払うまで帰らない」と迫ったところ、その会社は窮状だったにもかかわらず直ちに借金を払ってきた。そういう事から韓国人に対しては、こちらが「上」で、「絶対ひかない」と強く出る方が良いと私は学んだつもりである。ここは安倍さん、妥協せず初志を貫き河野談話の検証を徹底的にして欲しいものだ。「尖閣は日・中・台湾で共同管理したら良い」などと妄言を吐く村山さんは、眉毛でも剃って引退願いたい。

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