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2014年1月

2014年1月29日 (水)

マッカーサー道路の完成間近

さして気にも留めていなかったが、以前から虎ノ門病院の本館入り口が道路より奥まった所にあるのがちょと不思議だった。などと思っていたら病院の前を通って虎ノ門2丁目(特許庁前)から新橋方面にかけての建物が整理され、いつの間にか撤去跡で道路の造成工事と高層ビルの建築が始まっている。雑然とした虎ノ門や新橋界隈のこの大規模な工事現場は、なにやら昭和30年代、オリンピック前に東京中あっちこっち道路を掘り返していた情景をふっと思い出させるほどである。これはかねてから計画されていた環状2号線の一部で、くだんの虎ノ門病院も、この道路計画の為にセットバックして建てられていたのかと合点がいく。


この新しい道路は虎ノ門から築地までの1.35キロ・幅員40米で、至近のアメリカ大使館から東京港まで直行しているため、人々はマッカーサー道路と呼んで、進駐軍の輸送目的に計画されたものだと云われてきた。本当は東京都の都市計画道路だそうで2005年に着工、いよいよ本年供用が開始されるが、将来は築地から豊洲方面まで延伸する計画だそうだ。注目されるのは虎ノ門1丁目付近で、道路が地下に潜る入り口の上に、52階建ての高層ビルが建つのである。森ビルによって造られるこの高層建築は「虎ノ門ヒルズ」と命名され、地上255.5米と都内でも2番目の高さのビルとなる。素人目にはトンネルの上にこんな巨大建築を建てる事が奇異にうつるが、地震などに対してはきっと緻密な構造計算が為されている事だろう。


この一画に限らず都内のいろいろな通りを歩いていると、表通り商店街の背後に、新しいビルが数メートルほどセットバックして建てられている場所がよくあって、東京の都市改造計画が着実に進行している事に気づく。近い将来、こういう道路の幅員が広がって車線が増え、街路樹などが植えられ町がきれいになっているに違いない、などと想像するとちょっと嬉しい気持ちになる。ただ幾多の計画の中で特に実施して欲しいのは、かねてから幾度もアップしている通り首都高速道路の地下化と、それによる東京の川べりの町の再活性化である。2020年の東京オリンピックでは、首都高のない日本橋を多くの国の人とそぞろ歩く事ができたらとても楽しいだろうなあ、と江戸っ子は夢見るのである。

蘇れ日本橋(2008年3月14日)
東京再生(2009年3月4日)
日本橋再生計画(2012年3月3日)

間もなく開通する”マッカーサー”道路の工事現場、「虎ノ門ヒルズ」下から地下トンネルになる。
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2014年1月26日 (日)

最後の霞ヶ丘・国立競技場 第12回新宿シティハーフマラソン

心配された天気も、午前中は穏やかな南風が吹いて絶好のマラソン日和となった今朝、恒例の第12回新宿シティーハーフマラソンが霞ヶ丘・国立競技場を中心に開催され夫婦で参加した。このマラソン大会、かつて出場者が集まらず選手の募集期間を延長していた時代もあったが、マラソンブームとともに”聖地”国立競技場を発着する都市型マラソンとして人気が出て、抽選で参加者を大きく絞っている昨今である。因みに大会パンフレットによると「全国ランニング大会100選」に選ばれているそうで、ハーフだけで約5000名がエントリー、10キロレースなどを含めると12000名が走る大規模なイベントである。その人気のレースも、国立競技場が2020年の東京オリンピック開催で建て替えられる事になり、今年がいよいよここで行われる最後の新宿シティーハーフマラソンとなった。


着替えなどを詰めたバッグを手に、多くの市民ランナーで賑わう競技場に入ると、見慣れたトラックや観客席を眼前にして、これで見納めかと感慨深い。考えてみれば当時アンツーカーだったこのトラっクを初めて走ったのは1970年代の初頭、たしか東京選手権の1500米競走予選だったから40年以上前の事になる。あの頃は市民ランナーやジョギングなどという言葉もない時代で、国立競技場を走れるのは一部の競技者だけだったから、「ああ、ここがヘイズが駆け抜け、円谷がゴール前で抜かれたあのオリンピックの競技場か」とただ走れる事だけで感激したものだった。それから今日に至るまで、陸上だけでなくサッカーやラグビーのビッグゲームなどをスタンドのここかしこで観戦したものだと、様々なスポーツの激闘の場面が脳裏を駆け巡る。何も建て替えなくとも2階席や屋根を作れば足りるのではと思うが、もともと1958年に完成した競技場では改造するにも限界があると云うものだろう。


さて今日のハーフマラソンだが、普通に飲み食いしているつもりでも、同年代の人には「良く食べるね」と言われるくらい根が卑しいのか、体重が昨年よりも2キロも重い。この一年はいろいろと忙しくて体を絞ったり長い距離をこなす練習をしてこなかったから、その結果レースでは昨年より2分以上タイムが落ちてしまい、「練習は嘘をつかない」と当たり前の事をあらためて実感した。それでも5000名強のエントリー者全体での順位は上位1割以内、60歳以上の部では上位入賞と云う事で昨年に引き続き年代別の部で賞状を貰う事ができたのはちょっと嬉しい。他の分野で私がこの先なにか快挙を成し遂げるとも思えないから、このまま行くと、人生でもらった賞状といえばランニングだけだったと云う事になりそうだ。ただ日頃、私と同じくらい飲み食いして体重が増えて困ると嘆く妻が、今日は自己記録を1分近く更新した事は褒めてやりたいが、これから記録は落ちるばかりの自分の歳を考えると、そのはしゃぎぶりがちょっと鬱陶しい。

さよなら霞ヶ丘・国立競技場
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2014年1月23日 (木)

大滝詠一の実年行進曲

昨年末に突然亡くなった大滝詠一を偲んで、このところ彼のLPアルバムやCDをよく聞く。といっても特別なファンという訳ではないから、所有しているアルバムはわずか3枚である。インストルメンタルのLPアルバム" NIAGARA SONG BOOK" 1(1982):=演奏はNIAGARAFALL OF SOUND ORCHESTRA=、同じ名前のアルバムその 2(1984):=演奏も同じ=、それに歌とインストルメンタルが入ったCDアルバム"A LONG VACATION 20TH ANNIVERSARY EDITION" (2001)の3つを、折りをみて取っかえ引っ換え聞いているのである。


こんな懐かしい音楽を耳にすると、それを聞いていた時代に一挙にタイムスリップスリップしてしまう。このLPアルバムを買った頃は、都心の会社まで1時間ほどかかる東京の郊外に住んでいて、通勤電車でウオークマンのカセットテープから流れるオーケストラの大滝サウンドをよく聞いていた。最寄の駅からの帰り道は北向きで、冬には多摩丘陵を吹き抜ける風が顔を打ったが、リリカルなリゾート風の音楽をイヤホンで聞きつつ、帰り道に次の休暇の事などを考えるのが楽しかった。思い出すとあの頃は残業も多かったしよく働かされたものだが、当時の会社の仲間達は元気なのだろうかと歌を聴くと皆が懐かしい。


実は大滝詠一は何と植木等やクレージーキャッツの大ファンで、彼の作曲や発言には多分におふざけが混ざっているそうである。聞く人をゆったりさせる彼の音楽は、そんな遊び心から生まれたものだろう。そういえばクレイジーキャッツのアルバムに”実年行進曲”というのがあって、青島幸男作の「俺たちゃ実年、文句があるか♪ 背は低いが血圧高い♪ 頭は薄いが小便はこいぞ~ 」などというふざけた歌詞がついており、この歌の作曲が大滝詠一なのである。こんな作曲も彼がクレージーファンである事に所以がありそうで、同じクレージーファンだった私としては嬉しいものがある。今、このブログをアップしている傍らで、私の好きな大滝の曲の一つ "FUN x 4"が流れているが、今度カラオケに行く機会があったら、彼の追悼のために”実年行進曲”を歌ってみようか等とふと考えた。

ナイアガラソングブックの2枚のLPとCD1枚、それに大滝詠一作曲の「実年行進曲」入りクレージーのCD
20140123


2014年1月21日 (火)

箱根 神山登山

近々やってくる『毎日が日曜日』をいかにして過ごすか、が結構大きな我がテーマである事は再三アップしたとおりである。いよいよそんな生活が現実になりそうな昨今、来るべき日々には楽器の再練習をするか、下手で当たり前と覚悟が出来つつあるダンスをまた習ってみるか、とアイデアだけは尽きない毎日である。ただの計画倒れに終わりそうな種目の中で、僅かにでも実現に向かいそうなのが若い頃にもやった軽登山であろうか。(リンク2000年11月仏果山)


とは云うものの 「シャワーや清潔な寝具がなければ絶対いや」 と言う妻を山行に連れ出す事もできないので、イメージとしては『 初冬の関東近辺の低山、カヤトの陽だまり登山道を一人歩を刻む初老の男 』という設定になりそうだ。そんな場面を妄想しつつも、先に購入した新しい登山靴や衣類が押入れのコヤシになりかけていたところに、会社の若者たちがグループで箱根登山をすると云うので、勇んで彼らの計画にジョインしたのだった。


当日は寒波襲来で、あいにく箱根は小雪まじりの天候である。これなら登山などせず、湯本で温泉に浸かって朝から宴会にするか、などと行きの電車では安きに流れそうになるが、一同の心がけが良いのか雪もひどくならず登山決行となった。コースは大湧谷から箱根連山最高峰の神山(1438米)を経て駒ケ岳までの約3.5キロ、標高差は400米程度、富士山や仙石原を所々に望みつつ歩程は約2時間強で、案内もしっかりした気軽な登山道を楽しんだ。ただこのところの寒波で、箱根も標高1000米以上は雪が積もっており、簡易アイゼンや簡単な防寒具は必携であった。


帰り道、駒ケ岳からロープウエイで下山し、箱根湯本の日帰り温泉湯で一風呂浴びて、体を温めた後にこの日ばかりの山男・山ガールで飲んだビールは、これぞ登山の醍醐味といえる美味であった。今後、毎日が日曜日になったら天気の良い日を選んで山登りをするか、と再度心に誓ったのだが、あまり高い山や厳しいコースを歩くのも疲れそうだ。丹沢や奥多摩、日光あたりの低山を日帰りで廻って、夕方近くに帰りの駅前で都会から帰宅する通勤客を横目に、裏びれた茶店でおでんに日本酒を一杯、などは最高かと想念はさらに膨らむのだった。
20140121

2014年1月17日 (金)

「おおすみ」事故の報道

その後、自衛艦「おおすみ」と釣り船の事故についての報道が続く中、船舶に装備されているAIS(船舶自動識別装置)の航跡を見られるサイト(マリントラフィック)から、「おおすみ」の衝突までの航跡が判った。それによると事故が起きたと推定される時間(15日0800頃)に「おおすみ」は180度(真南)に真っ直ぐ向かい17.4ノットで航行していた。これに対してつり船の乗客は「100米の距離で併走していた『おおすみ』を右舷側から追い抜くかたちで左舷側に入ったが、10分後「おおすみ」の汽笛が一回聞こえ(おおすみが右転する事を示す)同時におおすみの左舷に接触して転覆した」(読売新聞の17日夕刊要約)と証言しているそうだ。


ここで第一の疑問が湧いてくる。釣り船は通常20ノットから30ノットのスピードが出る。「おおすみ」は約17ノットで真っ直ぐ航行していた事がAISデータで判ったから、釣り船が一度追い抜いたら時間の経過と共に両船の位置は離れるはずである。それが「おおすみに追突された」との証言になるのは、釣り船が大幅に蛇行したか速度を大きく減じたかの可能性が強い。またこの乗客は「おおすみを抜く前に、タンカーが対向してきた」と述べているそうだが、視点の低い釣り船からは直進してくる相手船がタンカーなのか、(乾)貨物船なのか砂利船(ガット船)なのか区別がつかないはずだ。なぜこの乗客は対向して来た船が「タンカー」とわかるのだろうか? つまりは事故で動転している釣り船の乗船者に、メディアが無理やり証言を引き出そうとして、却って乗船客の記憶を混乱させているのではなかろうか、という疑問につきあたる。仮に漁場に近づき釣り船が大きく速度を落とした場合、もし操縦困難なら漁船は法律に基づいた表示をする義務があるし、そうでなければ釣り船はなお直進する「おおすみ」を右舷に見て衝突するコースにいるので避航義務があるはずだった。


そもそも広い海原の中での自船の位置は、2地点以上の目標を羅針盤で見比べ海図にプロットして初めてわかるものである。釣り船の乗客は自船が蛇行していたのか、はたまた「おおすみ」が航路を変えて自船の前に回りこんだのか正確には認識できなかったのではと考えられる。まして証言している乗船客は釣りの準備などをしていただろうから、積載されていたされるGPS画面を正確に監視しているわけでもなかったはずだ。なぜメディアは素人がちょっと考えてもわかるこんな疑問を一切検証しようともせず、事故で混乱している釣り船の乗客の証言だけから「自衛艦の見張りが不十分だったのでは」という憶測に基づいた放送をするのだろうか。自国であれ他国であれ軍艦に行き交った際には敬意を表し、自船の国旗を下げるのがシーマンシップの基本であると言うことを、報道する人達は知っているのだろうか。

2014年1月16日 (木)

四半世紀ぶりの電話

昨晩は新年会で酔っ払っていい気持ちで帰宅すると、護衛艦と釣り船が広島で衝突したニュースがテレビ朝日の報道ステーションで放送されている。同じ方向に同航していた船舶同士がなぜぶつかったのか、原因についてはこれからの調査を待たねばならないが、それにしてもまだ何も特定できないうちに、昨日は古舘キャスターの横に座った朝日新聞のコメンテーターがひどかった。「大きな船が見張りをしっかりしていないから事故に至ったのでは」と云う趣旨の発言を臆面もなく喋っている。サヨクの人たちは自衛艦と民間の船、特に相手が漁船の場合などは、原因がわかる前から自衛隊側に非があるかの様に言うのがお約束としても、この時点での一方的すぎるコメントに思わずテレビの前でのけぞった。2008年に房総沖でイージス艦「あたご」と漁船が衝突した事件の刑事裁判は、操艦していた自衛官が無罪になったが、当時のメディアは海上自衛隊を大いに叩いていたのが記憶に新しい。


大きな船であろうと小さな船であろうと、見張りは全船舶に義務づけられているし、海上衝突予防法の追い越し船がどちらかはまだわかっていないのに、大きいから責任が重いとの発言は余りに初歩的、というより意図的な間違いで視聴者を甘く見ている嘘である。で、つい酔った勢いもあって、なんと25年ぶりにテレビ朝日に抗議の電話をしてしまった。そういえば25年前は朝日新聞のサンゴ事件(朝日新聞のカメラマンが自分でサンゴに傷をつけ、自然破壊をする者がいると虚偽報道をしたもの)を、当時ニュースステーションが大した事がない様に報道したので電話をしたのだった。その時は 「テレビ朝日と朝日新聞は別の会社ですが」 と電話の相手が言うので、「では隣に座っている朝日新聞のコメンテーターは何ですか?」 と反論すると、「貴重なご意見を現場に伝えます」と誠意のない返事が返ってきたものだった。そんな事もあって不愉快なので永い間購読していた朝日新聞は止めてしまった。


今回、25年振りのテレビ局への電話は、「この電話は参考のために録音します」という録音された音声に続いて係りの女性が受話器に出てきた。さっそく報道ステーションのコメントについて「見張りの義務は双方にある。大きいから自衛艦側に責任があるかの様な予断を持った報道はおかしいのでは。あたごの件でも報道の基調とは違って、裁判の結果は自衛官には刑事罰が課せられなかったではないか」 と怒りを抑えつつ喋ったところ、「ご意見は関係者に伝えます」と予想通り紋切り調の返事が返ってきたのであった。まあこんな意見を彼らは万分の一にも参考にする事はないだろうが、いい加減な報道やコメントをたれ流しておきながら、先の特定秘密保護法の成立に際しては言論や報道の危機だなどとおよそ見当違いのニュースを放送するメディアである。ここはごまめの歯軋りでも一つ抗議をしなくては江戸っ子がすたるというもので、四半世紀振りにテレビ朝日に電話をかけてしまった新年会の夜だった。


2014年1月15日 (水)

飛鳥Ⅱ A-style :クルーズはこちらから楽しまなければ損だ

今回のA-styleクルーズ~冬彩~では一年ぶりの飛鳥Ⅱ乗船となったが、船内には各所に顔見知りのクルーがいて「おや、××様。お久しぶりです!」などと挨拶してくれる。驚いた事に日本人クルーだけでなく、フィリピン人クルーでも我々を見るとにっこり笑って名前で呼んでくれる人が結構いるではないか。こうやって歓迎されるとそれはそれで嬉しいものだが、我々は何百泊もしている金持ちの常連ではないし、クルーにすれば年間何万人も乗船してくる客の一人にすぎない。乗組員用の事務室などで「えーと、今日乗ってきたあのお客さんの名前なんだっけ?」と、皆で確認大会でもしているのだろうかと詮索したくなる。


そんな疑問を日本人のエンターテイメントクルーにそれとなく尋ねると、「だて眼鏡にカンカン帽、腹巻にステテコ(注)、クレープのダボシャツを来て雪駄でデッキディナーや乗客参加の船内イベントにいらっしゃる方はあまりいませんから、それは強烈に覚えてますよ」と返事が返ってきた。「いや・・・あれは、こそっと会場のデッキの様子を下見した上で、まあ大丈夫かと勇気を奮ってやったんだよ。実は顰蹙ではないかと心配で仕方なかったし・・・」と言うと「いえいえそんな事はありません」と彼女はお約束のお答えである。「ニューヨークでは持参の星条旗柄のトランクスでセイルアウェイに参加し、メキシカンナイトでも麦わらにつけ髭、それに持ち込んだメキシコ国旗のエプロンをしたし・・・。それは変な客だと名前くらい記憶に残るかもなあ・・」と妻とさすがに納得の会話である。


そういえば下手くそな社交ダンスも、以前よりは人目を気にせず船内で踊る事ができる様になってきた。夜のダンスタイムでも上手なカップルはごく少数だし、そもそも他人は私たちのダンスなどほとんど注目していない、という当たり前の事がやっと判ってきた訳だ。と云う様に最近はクルーズ船に乗船すると「せっかく大枚をはたいて乗ったのだから、船から与えられる楽しさだけでなく、自ら思い出を作らなければ勿体ない」とばかりに、普段よりもテンションを高めにして勝手に盛り上がる事にしている。


自分のことは元来シャイな性格だと思い込んでいた妻もいつの間にか同じ心境に至っており、今回も横浜出港時の恒例ダンス”ダンシングクイーン”の音楽が鳴るやいなや、クルーの間にいち早く混ざって船側の人間かの様にノリノリで盛り上がっていたのだった。日本船・外国船を問わず、クルーズでは変な自意識を捨て、人目を気にせず(もちろん最低限の節度を守る必要はあろうが)、自ら積極的に事に参加して楽しまなければ損というものである。福沢諭吉が言った「自我作古」(自らいにしえをなす=自ら歴史をつくれ)の精神だと云えば大袈裟な、と怒られようか?

注:ステテコ姿はクルーの扮装だと間違える乗客がかなりいた様だ。

2011年世界一周クルーズ中のアジアンデッキディナー(2011年4月9日)
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船上お楽しみキット
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2014年1月14日 (火)

飛鳥ⅡA-Styleクルーズ~冬彩~

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この三連休は飛鳥ⅡA-Styleクルーズ~冬彩~で楽しんだ。いつもながら横浜港の大桟橋からボーディングブリッジを通り、本船5デッキのレセプションに一歩足を踏み入れると、第二の我が家に帰ってきた様な気持ちになるから不思議なものだ。そういえば、かつてどこかの有名人が雑誌に書いたクルーズ乗船記を読んで 「世の中にはスノビッシュな金持ちがいるもんだ!」などと心の中でひそかに嘲ったが、定年後3箇所目の職場に勤める嘱託オヤジの私が、飛鳥Ⅱを「第二の我が家」などと感慨にふけるとは人生わからないものだ。「完全に仕事を辞めたら、きっとケチに徹しそうね」などと日頃から妻に揶揄されている私は、契約社員とは云え決まった給料が入ってくるうちが安心して遊びも出来るというものだろうか。


今回のAスタイルクルーズは、ゲストに世界的なジャズピアニストとフランス料理界の巨匠を招いている。音楽の方はちょっと選曲が懲りすぎで、もっとポピュラーでスタンダードナンバーのジャズを聞きたかったが、それ以外は駿河湾に浮かぶ新春の富士山を眺めつつ、ゲストシェフの料理を楽しみながら船上でゆっくりすごす事ができた。風や波を避けながら駿河湾をのんびりドリフト(遊弋)する飛鳥Ⅱのクルーズは、正に「船に楽しみに行く」という表現がぴったりである。ゲストシェフの食事を「おいしい、おいしい」とさかんに妻が誉めていると、私たちの大食漢ぶり (過去記事 「何でも言ってみるものだ(2011年5月30日)」 )を知っている日本人のサービスクルーが、すかさずお皿のお代わりを持ってきてくれたのはちょっと気恥ずかしかったものの、得をした様な「おもてなし」であった


毎回、飛鳥Ⅱに乗船する度に感じるのは、クルーのフレンドリーなサービスに加え、クリスタル由来のリッチな船内意匠やシップデザインが素晴らしいという事である。船に限らず格好の良い乗り物に乗ると云う事は、乗り物好きにとって嬉しいもので、美しいプロポーションの船に乗っていると誇らしい気分にさえなる。ジョギングも出来る一周440米のチーク張りのプロムナードデッキの他、本格的なダンスが楽しめるクラブ2100や適当なサイズのプールと体が動かせる設備が整備されているのが心地良い。今回フィットネスに新しいトレーニングマシンやマッサージチェアが入っているのも、改良・改善を常に心がけている証であろう。燃料費が高騰し様々な規制やルールが導入されるため、船齢が高くなるにつれ運航コストも上がってしまうだろうが、私たちは新しい船など造らずこのままこの美しい飛鳥Ⅱが永く活躍して欲しいと思うのだった。横浜帰港の際に例によってヴィスタラウンジ外のデッキからウイングでの操船をつぶさにウォッチしていた妻は、下船する際に浅井船長から「毎回、操船の応援を上からありがとうございます」と挨拶され、嬉しそうに頬を紅潮させていた。

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大桟橋着岸作業中の浅井船長と小久江副船長

2014年1月 7日 (火)

2014年七草がゆ

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1月7日朝は恒例、七草がゆである。ふだんトーストにヨーグルトの我が家でも、今朝ばかりは妻が早起きしてお粥を煮てくれるのが嬉しい。”セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ春の七草”を具にした薄塩味の粥は、一年の無病息災を祈って古来から供されてきたそうで、ついでに正月の飲み食いで疲れた胃腸を整えてくれる役割もあると云う。


毎年、これを食べる頃はいよいよ寒さが本格化する季節である。都心でも気温が摂氏1度と寒かった今朝だったが、起き抜けに30分ほどジョギングしたので、すっかり冷え切った腹に餅入りお粥の暖かさがしみ入り、慌しくも心豊かなひと時だった。


昔は七草を全部揃えるのに随分苦労したらしいが、今は「七草セット」になってスーパーで売られているそうだ。妻はセットになって、とても楽になったと傍らで事もなげにしゃべる。毎年七草粥をこさえてくれる妻に感謝しつつ、来年の正月はいよいよ毎日が日曜日になっているのだろうか、等とこの一年の来し方を考えながら粥をすすったのであった。

過去の記事「七草がゆ(2013年1月8日)」

2014年1月 6日 (月)

大島合宿(2)

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三原山のコース

40年振りの伊豆大島は風が強かった。初日に三原山カルデラの登山路を2時間ほどジョッグした際には、強風に体が吹き飛ばされるかと思ったほどである。2日目は元町から海岸べりのサイクリングロード(サンセットパームロード)を走ったところ、これまた海から吹く強風にひどく悩まされたのだった。それでも宿舎の大島温泉ホテルで、名物の椿フォンデュや島で獲れた海産物などの料理に舌鼓をうちつつ大島温泉を堪能し、この合宿のメインイベントである3日目の大島一周走(約50キロ)に一同は備えたのであった。


さて大島一周走である。実は学生時代の冬合宿の際に長距離陣には一周走が課せられていたが、幸か不幸か4年間うまく逃げ続けてきた私にとっては因縁のイベントである。1年生の時はスピードをつけたいという事で中距離パートに合流して首尾よく欠席、2年生でも都合よく風邪をひいて不参加、3年では箱根駅伝に出場できた為に一周走は行わず、4年は箱根の予選会で敗退してすでに現役引退、という事で大島一周とは生涯縁なしかと思っていたものが、還暦すぎてからの予想外の展開である。しかし好事魔多しというべきか、肝心のフルマラソン出場予定の義妹が今回は風邪気味だった事もあり島の西側半分限定、半周の20キロ走にするかと提案すると、一同もろ手を挙げての大賛成である。練習は常に安きに流れるのが社会人ジョガーの良い点である。


という事で3日目は、元町からスタートし伊豆大島の火山噴火史を見せつける間伏の大地層切断面を通り、「磯の鵜の鳥ゃ日暮れに帰る・・・ヤレホンニサなぎるやら」と歌われた波浮港まで、風光明媚な大島西岸20キロを駆け抜けた。この日は風も止んで日差しも暖かく、ちょっと起伏は多いものの道路は整備されている上にクルマが少なく、とても島は走りやすい環境だった。伊豆大島は高速船を使うと東京から1時間45分の至近距離で、自然に包まれた環境を考えると、多くの駅伝チームが、ここを合宿地に選ぶ意味がわかるというものである。そんなこんなでこの正月は10日間で150キロほど走ったが、それにしても走って走っても一向に体重が減らないと云うのは、一体どうした事かと妻とともに嘆く正月明けである。

パームロードと大地層切断面
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2014年1月 4日 (土)

大島合宿(1)

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40年ぶり大島ゴルフコース・今は小湧園とは関係ないらしい。

今年3月の名古屋ウイメンズマラソン(旧名古屋国際女子マラソン)に出場予定なるも、仕事とかでほとんど練習をしていない義妹と、4月の霞ヶ浦フルマラソンに出る義弟の夫婦とともに、我々夫婦もお正月の走り込みという事で伊豆大島の大島温泉ホテルで4日間の合宿を張った。これまでにも年末・年始には宮崎シーガイアや石垣島などでキャンプをしてきたが、今年は災害復興支援も兼ねて、近くて便利な伊豆大島である。大島といえば、最近は箱根駅伝に出る大学のチームなどもよく合宿を行う場所だが、私にとっても40年ぶりに訪れた思い出の地である。


かつて大島北部のゴルフ場の一画に、日本体育協会(体協)か日本陸上競技連盟(陸連)か、どちらの所有か忘れたがオンボロな宿舎があって、大学競走部時代に毎冬に一度、1週間ほどの合宿に来ていた。起伏のある芝を走るファルトレックと云う練習の為に作られた施設で、球がびゅんびゅん飛び交うコース脇で、ゴルファーの間を縫って芝を走るのだから危険な事この上ない。走る方も走る方だが、これを正式に認めていたゴルフ場もゴルフ場で、よくこれで誰も大怪我をしないなあ等といつも思っていたのだった。さすがにこんな危ない練習施設は閉鎖になったものの、ちょっと前までは安全面など配慮されず、トレーニングもずいぶん無茶苦茶だった訳である。


今回久しぶりに、ここに合宿所があった筈という跡を訪れると、当時の様々な思い出が一挙に蘇る。そう云えばご飯はゴルフ場を運営していた小湧園ホテルで食べる事になっていたから旨かったものの、木造2階建てのオンボロ宿舎は風が吹き込みとにかく寒いばかりだった。練習が終わって皆で「寒い、寒い」と言いつつ、段ボール箱のみかん早食い競争をした光景がフラッシュバックする。そういえばある年、たまたま実業団のトップクラスの駅伝チームと合宿が重なり、10キロの合同タイムトライアルをやった事も強烈な出来事であった。日本がまだそれほど豊かでなかったから、優秀な高校生の競技者は揃って実業団に進んだ時代である。


その時は「ヨーイ、ゴー」で一斉にスタートすると、実業団の選手は400米競走かと思う様なダッシュで突っ走って行ってしまうのにまず面食らった。落ちこぼれるまでこのスピードで押し通すのか、というすごい速さに驚愕しつつも、そのままどこまで行けるのかと後ろから行くと、案の定後半になってフラフラになった選手が落ちてくる。日本のトップクラスの集団でも調子の悪い者や疲労がたまっている数名は、平均ペースで走っている我々学生のチームの上位に抜かれてゴールする結果であった。すかさず監督の指示は 「学生に抜かれた者は昼食ぬきでもう一回10キロのコースを走れ」と云う事で、生活がかかっている実業団の厳しさを身近に感じたものだった。かつて宿舎があったと思われるゴルフ場脇の草っ原にこうして40年ぶりに立つと、走る事が中心だった学生生活を思い出して懐かしい。

ゴルフコース脇・かつて合宿所があった辺りの今
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