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2013年8月29日 (木)

土橋投手訃報

東映フライヤーズのエースだった土橋正幸氏がなくなった。江戸っ子で軟式野球出身、東映フライヤーズにテスト入団したが、その後長らくエースとし活躍し、昭和37年の日本シリーズで阪神を破り日本一になった際にはシリーズMVPにも輝いた名投手であった。そのフライヤーズは今ではニッポンハムファイターズとなって札幌に行ってしまったし、本拠地だった駒沢球場は東京オリンピックの際に取り壊されてしまい、土橋氏の訃報を聞くにつけ、フライヤーズ時代の痕跡が東京には何も残っていない事が思い起こされて残念である。


地元、駒沢で育った私には、野球と云えば何といってもフライヤーズで、今でも昭和37年の日本シリーズ優勝時のメンバー、1番サード西園寺・2番セカンド青野・3番ライト毒島(ぶすじま)・4番レフト張本・5番センター吉田(勝豊)・6番ファースト山本(八郎)・7番ショート岩下、8番キャッチャー安藤(順三)・種茂、ピッチャー土橋・久保田・尾崎・安藤元博という強烈オーダーを思い出す。張本のバッティング、青野の軽快なプレーや駒沢の暴れん坊・山本八郎(ヤマハチ)の猛プレー珍プレーなど、目をつぶっていても駒沢球場のカクテル光線と共に個性的なあの選手、この選手の姿が脳裏に浮かんでくるのである。
山本八朗の事

当時、世田谷の田舎、駒沢の弱小球団だったフライヤーズも、昭和36年に球界の紳士と呼ばれた水原監督が巨人から来て戦力が整い、怪童・浪商の尾崎や早慶六連戦のヒーロー安藤などの入団で、地元のファンとしてもこれは強くなるのでは、と期待に胸を膨らませたものだった。そんな中、初めてリーグ優勝した勢いに乗って日本シリーズを制し日本一になった昭和37年秋は、子供心に事のほか嬉しく、玉川通りの優勝パレードには深沢の合宿まで選手と一緒について行ったりしたものだ。そんな訳で私には、少年時代の思い出とともにフライヤーズがあるのだが、安藤元博氏はすでに鬼籍に入り、先般、優勝の中心だった尾崎氏が亡くなり今回また土橋氏の訃報を聞くと、また一つ昭和は遠くなりにけりか、と少し寂しい気分がするのである。

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コメント

いましたねー土橋って。やや太っていたけど安定感抜群で、稲生、中西の時代でしたね。

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