イチローの4000分の3
ニューヨーク・ヤンキースのイチロー選手が、日米通算で4000本の安打を放った。おめでとうと祝福したい。一部には日米の記録を通算する事について揶揄する向きもあるが、しょせん野球は相手があってのものだし、10対0で試合が決まってからの1安打も延長の末のサヨナラ1安打も同じヒットで、すべからく野球の記録とはそんなものである。時代によって球が飛んだり飛ばなかったり、バットの反発力が違ったり、はたまた球場が左右非対称であったりと、どの記録も違う環境の下で生まれていて、それは陸上や水泳の様な厳密なものとは違って良いのである。その様ないろいろな記録を比較し、数字を追いかけて楽しむのも野球観戦の楽しみの一つである。
と云う事で彼の4000本のヒットのうち、テレビでなく自分のこの目で見たのは一体何本だったのか、かつての手帳をあらためて繰ってみる事にした。オリックス時代にイチロー選手を見た事はなく、初めて彼のプレーをこの目で見たのは、2002年の6月12日のシアトルであった。それは彼が2001年にアメリカに亘った翌年で、出張で行ったシアトルで当時すでに話題だったICHIRO選手を是非見たいものだと思い、会食の誘いも断ってセーフコ・フィールドに出かけたのである。当時の新聞の切り抜きが手帳にはさんであったのでそれを確かめると、対戦相手はカージナルスで、この年にメジャーに初チャレンジした田口がカージナルス打線の代打で出場している。この日イチローは4打数1安打で打率3割7分5厘、試合はマリナーズが5対0で勝っているとその古新聞から判った。
次に彼を見たのがやはり出張で行ったシアトルのセーフコ・フィールドに於けるヤンキース戦で、2005年5月18日の事である。ここでもイチローはレフト前に1安打して、マリナーズが7対6で勝っている。この試合はイチローの他にマリナーズのピッチャーに長谷川が出て、さらにヤンキースの松井も3安打と縦横の活躍で、シアトルのゴージャスな夏の夕日とともに、彼らの活躍で幸福な気分を味わったものだった。きっと地ビールのレッドフックか何か飲みながら、イチローと地元マリナーズ、それに日本人プレーヤーの応援でもしていたのだろう。
そして直近は2011年8月12日の試合で、妻と行ったシアトルで見たレッドソックス戦であった。この日の試合は負けたもののイチローは1安打(2塁打)しているので、彼の4000本のヒットの内3本が生まれた際に、私はその場に居た事となる。それにしても野球に限らず、スポーツで日本の選手が海外で活躍するのを見るのは、日本人としてとても誇らしい気持ちになるものだ。ただかつての手帳を読むと、出張先では仕事の相手との出来事より、ゴルフのスコアや野球の詳細の方がそこには詳しく記載されていて、思わず苦笑してしまうのである。
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