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2013年4月11日 (木)

島岡吉郎

法政大学野球部の金光興二監督が、春の東京六大学リーグ戦を前に辞任した。OB会に絡む内紛や選手の反乱が原因だと報じられているが、広島商業で夏の甲子園大会に優勝、法政では江川ら花の49年組の一員としてリーグ戦4連覇を成し遂げた”あの金光”が、こんな形で母校を追われるとは、まさに人生は一寸先は闇かと云う感じである。選手の反乱と云えば、東京六大学リーグの永い歴史の中でもいくつか事件があって、”御大”と呼ばれた明治大学野球部の島岡吉朗監督も就任初期には同じような事件があったという。という事で金光監督の辞任報道に接して、島岡監督ならどうだったろうとその豆タンクの様な姿を思い出した。


島岡監督が亡くなったのが1989年だったからもう4半世紀近く経つ事になる。だが今でも神宮球場で明治大学のユニフォームを見ると、島岡監督が血相を変えてダッグアウトから飛び出して来るのではと云う幻想がおきるほど印象強烈な監督だった。その島岡監督、中学時代に教師を殴り放校、あちこちの学校を転々とした後に入学した明治大学では応援団長、海軍では特務機関に所属したそうで、戦後に明治中学の監督を経て明大野球部監督に就任という何やらいわく有りげな経歴がこの人らしく面白い。選手経験がなかった事から就任初期にはいろいろ内紛があったとされているが、「人間力」と云われる指導で37年に亘って明治大学野球部を引きいた名物監督であったのは広く知られる通りである。


殴られなかったのは高田繁と星野仙一だけと言われる鉄拳制裁の指導、試合に負けると「グランドの神様に申し訳ない」と地面にひれ伏しての土下座、試合が劣勢の時の選手への指示は「なんとかせい!」、打倒早慶に燃え合宿所のスリッパに早慶の選手の名前を書いて日夜踏ませるなどなど・・・島岡監督に関わるエピソードには事欠かない。当時、明治の選手はエラーをするとすぐ交代させられベンチ裏に引っ込んだので、きっとその選手は陰で島岡監督に殴られているのか、と多くの観客が心配したものである。また75年秋の東大戦で審判の判定に島岡監督が激怒、守備に散っている明治の全選手をベンチに引き上げ、あわや放棄試合かと場内騒然となった事なども昨日の事の様に思い出す。


しかしその怒りは裏表がなく合宿で選手とともに開くシウマイパーティでは好々爺、何より裏方や控え選手を大事にして彼らの就職には身を粉にして奔走したと云われ、そんな熱血と人情の指導が”御大”といつまでもOBから慕われたゆえんであろう。島岡監督の様な名物監督も六大学からいなくなってしまってちょっと寂しいが、今年も間もなく春のリーグ戦が神宮球場で開幕する。ごたごたが続いた法政大学はどう巻き返すのだろうか、母校は今年は大丈夫だろうか、どんな高校球児が六大学に入学してくるのだろうか、今年はどんなドラマが待っているのだろうかなどと野球部のOBでもないのに毎年の事ながらソワソワする時期である。

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