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2013年4月

2013年4月27日 (土)

”ボイジャー・オブ・ザ・シーズ”@大井埠頭

休みになるたびに天気が悪かったこの処の傾向を吹き飛ばす様な晴天、待ちに待ったゴールデン・ウイークの初日が来た。今朝は東京港大井水産埠頭に停泊している米ロイヤル・カリビアン社の13万トンのクルーズ船”ボイジャー・オブ・ザ・シーズ”を見ようという事で、ドライブがてらお台場地区に妻と出かけてみた。行った場所は大井コンテナ埠頭を対岸にのぞむ青海南埠頭公園、ちょうどエバーグリーンのコンテナヤードのすぐ北隣である。遠くからでも一目で判る巨大なボイジャーの船体は朝の順光に白い船体が映え、積み上げで賑わうコンテナ船郡の中でひときわ大きく美しい。私達が着いた時間には、すでに船オタクらしい人たちが何人も集まって写真をとっていた。


望遠鏡で望むとメインマストには寄港地である日本の国旗と共に、大井埠頭入港を示す青・白の第2代表旗+赤・黄色のO旗が掲げられている。クルーズ船が利用する晴海の客船ターミナルに入港する際は、第2代表旗+フランス国旗風のT旗だから、この信号旗を掲げて入港する客船はおそらく初めてで、珍しい光景が見られたとちょっと嬉しい。ただ大井埠頭や大井水産埠頭に入港する船は通常入船・左舷付けなのに、今回ボイジャー号だけは珍しく出船・右舷付けである。午後5時の船舶輻輳時に出港する本船を航路内で回さず、操船を容易にする為の配慮だと思うが、青海埠頭から望むボイジャー号は後ろから見る形になって、その点はやや残念であった。


さて同型船の”マリナー・オブ・ザ・シーズ”を、かつてメキシコのマザトランで間近に見た事があって、その大きさに驚いたものだった。この様な巨大クルーズ船が東京に来航し日本人の乗客を多数乗せて、これから長崎などを巡ると聞くと、日本市場にもいよいよ外国船の殴りこみが始まったのかと感慨深い。ニュースによるとボイジャー号の約3000人の定員に対してキャビンは満室というから、この後どういう風に日本のクルーズ事業が展開されるのだろうか。今日はロイヤルカリビアン社のライバル米プリンセスクルーズが所有する8万トンの”サン・プリンセス”も横浜に停泊しており、これからゴールデンウイークの日本人向けのクルーズを行う。これらに対して日本船は今後どういう形で迎え撃つのか、その対応ぶりと競争が利用者としてとても楽しだ。我々も、もうすぐイタリア・コスタ社の”コスタ・ビクトリア”に乗船という事で、ボイジャー号を見ながら心がはやるのであった。

大井埠頭のボイジャー号
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マザトランに入港するマリナー号
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2013年4月24日 (水)

がんばれ安倍首相

私達は靖国神社に時々行ってお参りをする。この国の為に命を捧げる事など怖くてできない臆病で弱虫の私が、唯一できる事は国の為に散った英霊をお祈りする事だけである。副首相を含む日本の議員団が靖国にお参りしたといってまたぞろ馬鹿げた中・韓による揚げ足取りに、「閣僚の靖国参拝が外交に障害になる」などとメディアはかまびすかしいが、こんな報道が昼夜流され何か日本が悪い事をしているかの物言いにいい加減うんざりする。中国や韓国が何を言おうと靖国は我々の心の問題であって他国にあれこれ言われるものではない。中学や韓国の抗議は一切無視したら良いのに、さも相手の言い分を聞くことに意味があるかの報道は腹立たしい限りだ。ここで日本の要人が靖国参拝をやめれば、相手は次は売春婦問題、ありもしない南京事件その他ありとあらゆる難癖を見つけては、日本をへこませようと笠にかかる事は目にみえている。


そもそも中国や韓国はA級戦犯が合祀されているから日本の閣僚の靖国参拝がけしからんと言うが、いわゆるA級戦犯と云われた人々は当時の軍人や政府の要人で、政治家の中には民主主義によって日本人が選んだ代表も含まれている。戦後ドイツの様にナチス党とその一派が悪かったとして、国家の罪を彼らにおっかぶせて頬被りするのではなく、わが国は戦後みんなで「一億総ざんげ」したのではなかっただろうか。進駐軍が決めたA級戦犯だけが日本を戦争に巻き込んだのではなく、彼らは当時の世界情勢や日本の立場から戦争に突き進まざるを得なくなった時代におけるリーダーで、日本人に「悪い日本人」とか「良い日本人」などが居たわけではないと私は考えている。なのでA級戦犯が悪く一般の日本国民は悪くなかった、などいう中国のプロパンガンダは臍で茶をわかす位ちゃんちゃらおかしいし、何より侵略されたと騒ぐ中・韓は19世紀末から20世紀前半に外国の介入を許さない立派に独立した国民国家だったのだろうか。


A級戦犯はそれまでになかった「平和・人道に対する罪」と云う後付けの戦勝国の都合で急遽造られた”犯罪”で裁かれたそうだが、戦勝国の勝手な都合を当時諾々と受け入ざるを得なかったのは仕方がないとしても、そんな一方的なくびきに我々の世代まで惑わされる事はないだろう。「平和や人道に対する罪」を言うなら一般の市民を虐殺した東京大空襲や原爆こそが既存の戦争犯罪と共に明白に人道に対する罪に当たるのだろうが、日本人は当時の米国の戦争指導者が葬られているアーリントン墓地に米政府の関係者が参るな、などと言う子供じみた発言はしないのである。一方、金の事しか考えない経済界にも、政府に中・韓との外交を考えて欲しいという趣旨の発言があると報道されてとても残念だ。中・韓との関係が遠のき経済が大きく落ち込もうと心の問題は譲れない一線で、腐っても我々はサムライの末裔、たとえ貧乏になろうとここは筋を通したい。石原元知事が尖閣を買うと動いた事で中国の本質が日本人にも判った様に、安倍首相の村山談話見直し発言など一連の真っ当なコメントによってこれから中・韓の本音と策略があぶりだされる様である。ここはがんばれ安倍首相。

いやあ今日は言いたい事が言えてすっきりしたわー!。

2013年4月23日 (火)

コスタビクトリア 済州島・長崎・伊勢クルーズ

“コスタビクトリア”のチャータークルーズ、”ゴールデンウイーク済州島・長崎・伊勢(鳥羽)クルーズ”が迫ってきた。先週末は冷雨にたたられて出かける気持ちもなかったので、私にしては珍しく船内で着る衣服のパッキングを早めに始めた。この季節は暑くなったり寒くなったりと衣装の選択も大変な上に、久しぶりの外国船クルーズとあって、これまで各船で買った船名入りTシャツをコスタで着て楽しんでみるか、はたまた好きなポロシャツでも持っていくかといろいろな考えが浮かぶ。初めてのイタリア船なので船内の情景をあれやこれや想像するしつつ、好みの衣服を選んでいるとクルーズの気分が盛り上がって何となく楽しくなってきた。


今回はドレスコードのフォーマル指定日が一日あるので、久しぶりにタキシードを着るかとひっぱり出すと、白いドレスシャツの襟がけっこう黄ばんでいる。せっかくクリーニングしたのにと残念なるも、まあ上着に隠れてわからないだろうとこれはそのまま詰め込む事にした。昨年やっと見つけ妻に誕生日のプレゼントとしてもらった黒のエナメル・パンプスシューズは初めてのお披露目で、これを履いてちょっと踊ったら下手なダンスも誤魔化せるだろうかと思ったりもする。「乗客の織り成す雰囲気」というのがクルーズの良さを決める要素であるから、音楽一杯の陽気なイタリア船に溶け込み、気分を盛り上げるのは乗客の努めとばかり、あれやこれや考えていると時間があっと言う間に過ぎてしまった。


今回はマスカレード(仮想パーティ)が船内であって「キャラクターのコスチュームOK」だそうで、毎度お得意の麦わら帽・ダボシャツ・腹巻・ステテコ・雪駄の彼の植木等大先生のコスチュームを持参する事にした。ただこれを船内で披露するのはちょっと勇気がいるもので、いつもこそっとパーティ会場を覗いては「まあこの雰囲気なら顰蹙を買わないか」と確信してから出ていくのである。それでも飛鳥Ⅱのワールドクルーズ序盤で開かれたアジアン・ナイトで扮装したら、「何か悪いものを見た」とでも云う顔と「それすごく良いよ」と絶賛してくれる乗客の両方がいて、クルーズ後半に顔なじみになった人たちの感想を聞いてみると「てっきりクルーの変装かと思ったよ」などと云われてがっくりきたのだった。

2013年4月19日 (金)

浜離宮恩賜庭園

初夏へ向かうこの時期は外に出るととても心地良い。会社の昼休みにはオフィスに居たり、食べ物屋に行くより太陽の下に出たいという誘惑にかられ、ぶらぶらと浜離宮まで歩いてみた。浜離宮は徳川将軍家の鷹狩り場に造られた海に面した大名庭園で、六代将軍家宣の時代に将軍家の別邸になったと云う。明治維新後は皇室の離宮だったが、第二次大戦が終わり東京都に下賜されて一般公開される様になり、現在は国の特別名勝、特別史跡に指定されているそうだ。


東京にも幾つか有名な公園があるが、有料の公園(浜離宮は300円)などはそこに行くという明確な目的がなければなかなか訪れるものではなく、実は私もここに来たのは2度目である。面積が25万平方米と日比谷公園などより一回り大きく広々としているうえ、海水を取り入れた汐入りの池、再整備された鴨猟の場などの他、ボタンやフジの花が今を盛りと咲いていて昼の散策にはうってつけである。ポイントとポイントの間は雑木林で仕切られ、築山がところどころ点在する変化にとんだ景色が目を楽しませてくれる。


園内の売店では飲み物の他、おでんやおにぎりも売っているので簡単な昼食ができるが、外から弁当を持ち込んでも良く、昼休みにはのんびりと昼食をとっている勤め人がちらほら。もっとも入場料がかかり、最寄の新橋駅からちょっと離れた場所のため、都心にありながら園内が閑散としているのだが、それがかえって非日常で気持ち良い。前には東京港、振り向けば汐留の高層ビル群と、緑と大都会が混在したちょっと異次元の空間である。売店で買ったおにぎりを食べ、広い庭園をあちこち歩いているうちに昼休みの時間はとっくに過ぎ、あわてて会社に戻ったのだった。
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2013年4月17日 (水)

そば屋

最近の会社はOA化によって事務の女性という職種がほとんどなくなって、若者たちはパソコンで伝票の作成や日々の総務的な仕事を自分でこなしている。「 ちょっとコピーとってきて 」などと女性に頼めない時代なのである。日々締め切りに追われ忙しく働く彼らと飲もうかとなるとスタートは早くて夕方の7時、普通は夜8時以降である。若者との飲み会はそれなりに楽しいのだが、何しろ部長でも私より10歳以上も年下、担当者にいたっては親子ほど年齢のギャップがある。当然、我が年代の共通の関心である年金・医療や健康・定年後の生活などと云う話題をとりあげても彼らには興味がないから、酒席でこちらがしゃべる事と言えば「昔は仕事はこうだった」と云う話になりがちで、これが自慢や説教調にならないか、「 いやなオヤジ !」といわれないかとけっこう気を使いつつしゃべる飲み会でもある。


という事で、珠には「オヤジ」らしい雰囲気にどっぷり浸りたいと思う時があって、先日は近所のそば屋に飲みに入ってみた。夕方6時過ぎだと云うのに、店内は焼酎の壜をテーブルにすでに酔っ払っているらしいカジュアルスポーツシャツの年配男性3人グループが一組。彼らの近くに陣取り、こちらもナスやら大根おろしなど定番のツマミでビールを飲んでいると、その3人組がますます賑やかだ。「あの支店長はこうだった」などと話しているから、どうやら銀行をはるか昔に退職したオヤジ達らしいが、アルコールがすでに廻っているらしく声も高らかで「あの娘可愛かったよな。本当は彼女は俺に気があったんだぜ」と若い頃の誰も検証できない自慢話が面白い。「 しかしその彼女も今やあんた達と同じ皺くちゃの老人だぜ 」などと横で密かに悪態つきつつ、これが定年オヤジ達の正しい飲み方だとこちらもなぜか楽しい気分になってきた。


彼らが早々に帰ると、次はどやどやと60台後半から70台の男性が大勢で入ってくる。どの顔も元サラリマーンとはちょっと顔つきが違うな、と観察しているとそのうちお互いを「先生」と呼び合っている。医者か弁護士かと思ったら話題は税金になって「最近の税務所は法律の前に人間の行為がある事をどう思っているのか」などと盛り上っているから、どうやら税理士の集まりのようだ。そういえばそば屋の近所のホテルで税理士会をやっていたからその流れなのだろう。この世界には老いてもきちんと年齢の序列がある様で、下っ端らしい(それでも60歳代後半か)男性が、年上に気を使っているのを見ると、独立の事業者は幾つになっても大変なものだと先ほどの屈託ない銀行OBと比較したりしてしまう。蕎麦屋の早い夕方はこれら老人達の飲み会で盛り上がっていて、こんな世界を垣間見るのも面白いし、我が近未来を見ている様な気もして大いに参考になったのであった。

2013年4月15日 (月)

Reebok Urbanathlon

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この週末は国立競技場でスポーツシューズメーカーのリーボック社が開いたアーバン・アスロンと云う大会に参加した。アーバン・アスロンは競技場のトラックや周回回廊を8キロ走る間に、コース途中に設置された8箇所のバリアーをくぐり跳び、かつ乗り越えながらゴールを目指すと云う障害物競争で、なんと日本で初めての試みだと云う。一体どんな雰囲気なのか、障害をクリアーするのはどのくらい大変なのか、みんな本気で走るのか等など、なにしろ本邦初の開催なので誰もがわからないところなのだが、とりあえず運動会気分でやってみるかと云う事で国立競技場に行ってみた。


障害物はタイヤが敷かれたフロアーの通過、スタンド階段の上り下り、陸上競技のハードル、パレットのジャンプ台超え、駐車中の自動車のフロアーくぐり、うんてい、ロープが縦横に張られた空間通過、約2米の壁越えと何やら海兵隊か自衛隊の訓練のようで、これが8キロの走路に設置されて走る者の行く手をさえぎる。「うんてい」は小学校のとき以来やった事がないので通過できるのか不安な上に、集まった数百人の参加者を見ると普通のマラソン大会よりややマッチョ系の若者が多い様で、国立競技場のトラックもいつもとちょっと雰囲気が違う。


やけにノリの良い場内司会やプロのチア・ガールに送られてスタートすると、トップの若者たちは脱兎の如く走路を突進するが、還暦すぎたこちらは精々怪我をしない様にとセーブしてついて行くのが誠意一杯。それでも中盤になってハードルを越える辺りからマッチョ系は次々脱落していくのに対し、私の様な長距離系は走っている間が休息の様なもので、つぎつぎと先行のランナーを抜けるから面白い。心配した「うんてい」も取り付いてみると、子供頃の感触というのは忘れないらしく自然に10米ほどの距離を通過できたし、壁上りも係員の補助のおかげか無事突破してゴールできたのだった。


総じて見ると運動会の障害物競走が大規模・本格的になった様なイベントで、それはそれで楽しい大会だったものの、走者が周回する途中で次にどこに行って何をするのか案内が足りず、私を含めて多くの参加者が途中コースをもう一周まわるべき所で道を間違えて、どうやら1キロほど走った距離が少なかったような気がする。陸上競技協会の競技役員でもいればこんな事はなかったと思うが、もし来年も行われるならシリアス競技者の部と楽しむグループの部に分けて、シリアスの部は距離を長くかつ真剣に記録を狙い、ファン・ランの方はパン食い競争とか借り物競争などを追加したらもっと盛り上げるに違いないと思いながら会場を後にした。

5番目の難関クルマくぐり
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2013年4月11日 (木)

島岡吉郎

法政大学野球部の金光興二監督が、春の東京六大学リーグ戦を前に辞任した。OB会に絡む内紛や選手の反乱が原因だと報じられているが、広島商業で夏の甲子園大会に優勝、法政では江川ら花の49年組の一員としてリーグ戦4連覇を成し遂げた”あの金光”が、こんな形で母校を追われるとは、まさに人生は一寸先は闇かと云う感じである。選手の反乱と云えば、東京六大学リーグの永い歴史の中でもいくつか事件があって、”御大”と呼ばれた明治大学野球部の島岡吉朗監督も就任初期には同じような事件があったという。という事で金光監督の辞任報道に接して、島岡監督ならどうだったろうとその豆タンクの様な姿を思い出した。


島岡監督が亡くなったのが1989年だったからもう4半世紀近く経つ事になる。だが今でも神宮球場で明治大学のユニフォームを見ると、島岡監督が血相を変えてダッグアウトから飛び出して来るのではと云う幻想がおきるほど印象強烈な監督だった。その島岡監督、中学時代に教師を殴り放校、あちこちの学校を転々とした後に入学した明治大学では応援団長、海軍では特務機関に所属したそうで、戦後に明治中学の監督を経て明大野球部監督に就任という何やらいわく有りげな経歴がこの人らしく面白い。選手経験がなかった事から就任初期にはいろいろ内紛があったとされているが、「人間力」と云われる指導で37年に亘って明治大学野球部を引きいた名物監督であったのは広く知られる通りである。


殴られなかったのは高田繁と星野仙一だけと言われる鉄拳制裁の指導、試合に負けると「グランドの神様に申し訳ない」と地面にひれ伏しての土下座、試合が劣勢の時の選手への指示は「なんとかせい!」、打倒早慶に燃え合宿所のスリッパに早慶の選手の名前を書いて日夜踏ませるなどなど・・・島岡監督に関わるエピソードには事欠かない。当時、明治の選手はエラーをするとすぐ交代させられベンチ裏に引っ込んだので、きっとその選手は陰で島岡監督に殴られているのか、と多くの観客が心配したものである。また75年秋の東大戦で審判の判定に島岡監督が激怒、守備に散っている明治の全選手をベンチに引き上げ、あわや放棄試合かと場内騒然となった事なども昨日の事の様に思い出す。


しかしその怒りは裏表がなく合宿で選手とともに開くシウマイパーティでは好々爺、何より裏方や控え選手を大事にして彼らの就職には身を粉にして奔走したと云われ、そんな熱血と人情の指導が”御大”といつまでもOBから慕われたゆえんであろう。島岡監督の様な名物監督も六大学からいなくなってしまってちょっと寂しいが、今年も間もなく春のリーグ戦が神宮球場で開幕する。ごたごたが続いた法政大学はどう巻き返すのだろうか、母校は今年は大丈夫だろうか、どんな高校球児が六大学に入学してくるのだろうか、今年はどんなドラマが待っているのだろうかなどと野球部のOBでもないのに毎年の事ながらソワソワする時期である。

2013年4月 8日 (月)

帰るコール

外出先から”帰るコール”をしょうとすると、何やら携帯電話の調子がおかしい。液晶画面に霧がかかった様になって、メールを読もうとしても老眼鏡をかけ直して凝視しなければならない。液晶にかかる電圧に異常があるのかと思い、一旦電源を切って再稼動するが、画面は変わらず霧のカレリアである。仕方ないので一晩あけてドコモショップに行ってみた。受付で窓口の順番待ちカードを取ろうとすると、「 どうしました?」と店員が声をかけてくれる。「 いあや。液晶がおかしいので・・・・」と説明するとこの店員、やおら調子のおかしい携帯を持っていくつかのボタンを押している。と、「 故障ではありません。電車の中などで画面を他人に見られたくない時に、ここを長押しすると画面が暗くなるんです」。


思わぬ肩透かしに「 んな事言ったって、長押しなどした覚えはないし・・・・ 」と嬉しくもちょっと恥ずかしい一時だったが、礼を言っての帰り際にくだんの社員「今ならスマートホンの端末が大変お得です。この際お代えになったら?」と奨めてくる。「 いやあ、携帯といえば普段は”帰るコール”をするくらいだから 」と軽く断ると、スマートホンはとても便利な端末なのに、何故乗り換えないのかとでも云う店員の顔だ。考えてみると、最近電車の中では多くの人が新聞や本の代わりに熱心にスマートホンの画面を眺めているが、私は外出先で老眼鏡片手に小さな機械を扱おうという気持ちがおきない。ましてやネットの画面を眺めるのは家か会社で十分だと考えているので、今のところスマホが必要とはあまり思わないのである。


それにしても通信革命とかで、最近の若者たちのパソコンやらスマホやらの扱い方は見事という他ない。パソコンが職場に入り、一人に一台づつになったのは高々この10年ちょっとで、私などは50歳近くになってからの事だ。かたや若者たちは物心がつく前から身近にこれらがあったのだからその違いは歴然であろう。携帯もない時代、職場から”これから帰って家で食事をする”と電話した後に、エレベーターの踊り場で久しぶりに同僚に出合い、そのまま再連絡もせずに飲み屋に直行。行き足がすっかりついて、深夜に帰宅したら奥さんがカンカン、などと云う現象がよくあったがそれも今では昔話となってしまった。職場の若者たちが昼休みにスマホでネット配信の映画を一人見ていたり、夜中に自宅のパソコンから仕事のメールの返事をしたり、SNSだかに参加しているのを見ると時代は変わったと感じるのである。

2013年4月 4日 (木)

JR時刻表50年

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JR時刻表4月号は、その前身である「全国観光時刻表」創刊から50年・通巻600号に当たり、それを記念して創刊時(昭和38年)の全国路線図や東海道線時刻表(一部)が掲載されている。当時の鉄道路線図を見ると現在は廃線になっているローカル線が多数ある一方、大都市近郊ではまだ開業していない路線や駅もあって「そうか、あの頃はこんなだったのか」と往時が懐かしい。特に新幹線開業が1年半後に迫った東海道本線東京駅の時刻表を見ると、鉄道全盛期の活気ある情景が目に浮かんできて、心は一挙に鉄道少年だった頃にタイムトリップする。


これによると昭和38年4月の東京駅の夕方は正に優等列車のゴールデンタイム、子供達が羨望のまなざしで見ていた数々の列車が発車している事が判る。まず15時50分に大垣行きの153系準急「東海3号」が出ると、16時にそのスタイルや設備が人気だった157系の準急「湘南日光」、その後151系こだま型の大阪行き特急「第2つばめ」と、同じく名古屋行き特急「おおとり」が続き、姫路行きの不定期急行「はりま」も出発する。当時は広島まで電化が完成していたので電車急行が東海道・山陽を長駆往復したのだが、急行のリクライニングもないボックスシート2等車(グリーン車がなく1.2等車だった)で皆よく我慢して長距離の移動をしたものだ。


九州行き寝台特急の発車は、まず16時35分の20系客車の長崎行き「さくら」、その後に在来客車による18時20分熊本行き「みずほ」、そして18時30分に白眉の博多行き「あさかぜ」で、牽引機のEF58を先頭に、14・15番線ホーム両側に寝台列車が並んだ姿は何とも華やかなものだった。寝台特急が東京駅に入線する時には、食堂車のボーイやウエイトレスがホームに向けて一斉にお辞儀をしていて、それを見ていつの日かあの食堂車の客になってみたいものだと子供心に憧れた事を時刻表を眺めると思い出す。その頃は列車の写真を撮影していると運転士や機関士が「出発までの間ちょっと運転台に入っていいぞ」とキャブによく入れてくれた事は以前にも書いた通りだが、駅員の許可を貰って線路に立ち入って写真をとったファンも居たと云う。今では考えられない大らかな時代だったと、50年前の時刻表を見ながらグッド・オールド・デイズが懐しい。

EF58(ゴハチ)を先頭に東上する寝台特急
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2013年4月 2日 (火)

旧・長期信用銀行ビル

日比谷のオフィス街を歩いていると、T字型をした一風変わった形のビルが目につく。表通りに面した部分はガラス張りのケースになって人目を引く上に、ビル全体が閉鎖されているので、その辺り一画だけ人の気配がなくちょっと不気味な空間でもある。云わずと知れた旧日本長期信用銀行の本店で、同行が破綻した2000年前後には盛んにメディアに登場したから建物の姿を覚えている人も多いのではないだろうか。


この旧長銀ビルは1993年に完成したと云うからまだまだ新しい。不動産バブルの崩壊によって破綻した長銀のシンボル的な建物で、その奇抜な形ゆえ、同行が立ち行かなくなった原因の一つはこれにあるなどと揶揄された不運なビルでもある。長銀が無くなった後はその後継である新生銀行に使われていたが、新生銀行が2010年に退去した後は使う人もなく、都心の一画でここだけゴーストタウンの様になっていた。


昨年末に外資系不動産ファンドや東急不動産などがこのビルを購入し新しく立て替えると発表したが、このビルが取り壊されるとかつての長銀の存在も人々の記憶から消え去る様で一抹の寂しさ感じるのである。思えば旧長銀は、三光汽船やイ・アイ・イ・インタナショナルなど時代の寵児と云われた企業との取引も多く、往時はその営業が話題になったものである。長期信用銀行法による興銀や日債銀などと共にその役目を終えたのだろうが、政府系の輸銀や開銀も無くなった今、日比谷近辺を歩くリクルートスーツの学生達は、これら日本を支えた銀行がかつて存在した事さえ知らなくなるのだろうか。
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