縄文時代の東京都民
新宿区のマンション建設現場を発掘調査していたら、約4000年前の縄文時代中期~後期の遺骨11体が発掘されたと先日ニュースになっていた。という事で暇な我々は、さっそく現場を見に行ってみる事にした。場所は市ヶ谷の防衛省から数百米北側、市谷加賀町にある住宅地の一角で大手デベロッパーによるマンションの工事現場である。ここはちょっと前まで大きな古いお屋敷が建っていた所で、ついに業者に売られたとみえ周囲をフェンスで囲んで工事が始まっている。酸性土で覆われた武蔵野台地にしては珍しく良い状態の遺骨の群が今回見つかり、学術的には大きな発見なのだそうだ。
現場に佇み、いにしえにここはどんな景色だったのだろうかと想像をめぐらすと、これがなかなか住みやすい場所だった様な気がしてきた。南側にあたる防衛省前を貫く現在の靖国通りは江戸築城前には川だったと云われるし、ここから北に少し行くと神田川の大きな流れに突き当たる。すぐ西の外苑東通りは今でも小さな谷になっているから、当時はきっと小川が流れていたに違いなく、この場所は三方を川に囲まれた日当たりの良い台地だった事だろう。多分、武蔵野の雑木林が生い茂っていたから木の実などが豊富だったはずだし、遺骨の歯が一応に磨り減っていた事から動物の皮をなめしていたらしく、このあたりには獣も多かったと推測できる。
地下1米ほどから遺骨が出てきたと報道されているから、我々が生活を営む東京の他の場所も、ちょっと掘り下げれば様々な時代の遺跡などが埋まっているのだろうか。表面に残ったものは風化して無くなってしまうが、土に埋もれたものが時空を超えて今に現われたかと思うと、先人達が「俺達も東京都民の大先輩として、ここでこうやって生きていたのだぞ」というメッセージを伝えてくれている様にも感じる。先達が弥生人や他の人たちとどう交わり、今の我々に繋がってきたのかなどと思いを巡らせ、考古学とか先史のロマンを感じながらぶらぶらと加賀町の現場を巡ったのであった。
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