地図と愉しむ東京歴史散歩
東京の表玄関である丸の内を歩いていると、三菱グループの会社名や大手の金融機関名を冠したビルが多い中、岸本ビルとか永楽ビルという平凡な名前のビルもあって、なぜそんなビル名がつけられているのか以前から不思議に思っていた。何でも岸本ビルは土地の持ち主が岸本さんという事でついた名前らしいと判ったが、永楽ビルの方は町の中華料理店の様な名前で、丸の内という土地柄からしてもそのビル名が疑問だった。ところが最近、中公新書から出ている竹内正浩著「地図と愉しむ東京歴史散歩」とその続編・「都心の謎」を購読したところ、そんな小さな疑問のいくつかが氷解して「ははーん」と納得したのであった。
この「東京歴史散歩」続編には東京駅が完成する頃の地図が掲載されていて、それによると有楽町に隣接するまだ茫漠としていた丸の内地区は、当時は永楽町と呼ばれていた事がわかった。永楽ビルという名前は、どうやら大正以前の町名に由来するらしく、私にとっては小さいがちょっとした発見である。で、さっそく家にあった東京の詳細地図を傍らに置きながら、この新書の本編と続編を一気に読んでしまうと、東京の忘れられた歴史がいろいろ判って面白い。たとえば浅草から東武鉄道の電車に乗った際、鐘ヶ淵を過ぎていきなり荒川の土手に線路がぶつかる事に驚くが、これも現在の荒川が大正・昭和初期に隅田川の放水路として堀削されたために、すでにあった東武線の線路を移設したのだと判り、目からウロコである。
同じく羽田空港からのモノレールを利用するたびに、なぜ便利な新橋でなく浜松町がターミナルなのかと不便を感じるのだが、東京オリンピック前の突貫工事のなか、新橋付近の土地買収が困難で現在の様になったのだとこの本で判り納得する。そのほか幻の山手急行電鉄の跡が井の頭線の明大前に残っている事や、現在の光が丘団地は東京空襲のB29を撃墜するために急遽造成された陸軍の成増飛行場であった事、新橋~品川に至る東海道線をくぐる通路のいくつかは、開業時に海の中の築堤にあった線路の下を漁船が通った橋の名残であるなど、なるほどそうかと思う数々の事実をこの本は教えてくれる。江戸時代や明治・大正、あるいは戦前の建物・遺跡をたどりながら、それが現在どうなっているのか、地図でどう表わされているのかを辿ってみるのも興味が尽きない。
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