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2012年7月

2012年7月29日 (日)

中ジョッキの固定概念

夏といえば枝豆に「生ビール」である。仕事や運動が終わって大汗をかいた後、ジョッキに注がれた黄金色に輝くビールと、その上をほどよく覆う泡に口をつける時に、私などは大いなる幸福を感じてしまうが、その生ビールについて、本日の読売新聞の「いっぴつ経上」というコラムで編集員子が「『中ジョッキ』の固定概念」と云う面白い文を寄せている。それによるとかつては生ビールの大ジョッキは800から1000ミリリットル、中ジョッキは500ミリで小ジョッキが380ミリリットルが中心だったが、最近の「中」は380から430ミリリットル位に小さくなっており、全体的に容器が小型化しているそうだ。


ビール好きな我が夫婦は、お店で注文した生の「中」ジョッキが上げ底で量が少ないと見るや、2杯目にはきっかりと633ミリリットルある「大ビン」を頼みにいくのだが、最近は500ミリリットルの「中ビン」しかないと云うお店もあって、ジョッキ小型化にはおおいに閉口していたところ、同じ事を思う人がいるものだと、コラムを読んで思わずにんまりした。コラム子によるとこの傾向は「飲食店にすれば、中ジョッキの量を減らし、その分を安くしても、もう一杯飲んでもらえれば売り上げは増える」、「消費者からすればサワーもワインもあり、ビールばかり飲む時代ではない」という事によると分析し、「中ナマ」の様に絶対的な価値が示されないうちに、なんとなく人々がそう馴らされる商品を「固定観念が生んだロングセラー」と特徴づけているが、ビール党からすればこんな固定概念は真っ平ごめんでもある。


そんな訳で我が家では週末に外食する際、まず家でカンビールを飲んでベースをつくり、お店で胃をトップオフするために追加ジョッキを頼む事が多く、昔の様な1リッターくらいの”大ナマ”があれば、こんなせこい事もしなくて良いのにと最近の傾向を嘆くのである。ビール独特の酔いを楽しみながら、ジョッキに残る少々ぬるくなったビールを最後にちびちび飲むのも、ビールの飲み方の一つだと思うのだが、実質”小”の”中ジョッキ”が跋扈する今では、そんな経験ができる店も少なくなった。ちなみにイギリスのパブではビールはハーフかワン・パイント(568ミリリットル)かとメニューに表示があるし、ドイツではビール量がメニューに記載されている上、ジョッキに計量線まで引いてあって、そこまでは注がなければ法律違反になり、日本のなんとなく小さい『中ナマ』とは正反対の羨ましさである。さすがドイツである。

ドイツ客船アマデアのビールジョッキ(0、5Lの表示線が見える)
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2012年7月24日 (火)

イチローの移籍

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イチローがシアトル・マリナーズからニューヨーク・ヤンキースにシーズン途中で突然移籍する。アメリカの野球システムの事だからあちらでは珍しくはないだろうが、12年もマリナーズのユニフォームを着て、何らかの形でシアトルに残るものだと考えていたからちょっとびっくりした。そういえば私の米駐在時代の同僚も、シアトル勤務からニューヨークに移れとある日突然会社から辞令が出て、家の事や子供の教育などで大変だったそうで、同じアメリカでも西と東では全然違うと彼がこぼしていた事を思い出した。イチローの家はシアトル郊外のマーサーアイランドにあると云われているので、ニューヨークに移籍したら家族も引っ越すのだろうか、生活はどう変るのだろうかなどと、つい転勤族的な発想で心配してしまう。


イチローがいるのでマリナーズのホーム、セーフコ・フィールドからはNHK衛星放送でよく試合がテレビ中継され、私はそれを見るたびにパシフィック・ノースウエストの抜けるような夏の青空や、キングストリートステーションから聞こえる列車の汽笛の音を懐かしく思い出していたが、彼の移籍でシアトルからの中継も減るのだろうか。今でもアメリカに旅行に行くと、なるべくメジャーリーグ・ベースボール観戦を日程に組み込もうと思っていて、セーフコフィールドでも2002年、2005年に昨年と3回ほどイチローのプレーを観戦したが、ニューヨークに行ってしまうとそう簡単に彼のプレーもナマで見られなくなるのが残念だ。


球場からして町の中心から歩いて行けるセーフコ・フィールドに対して、ヤンキースタジアムは旅行者には便利な場所でもないし、球場内外の雰囲気もかなり異なる。なんといってものんびりと地元のファンが多いシアトルと、大都会で全国版のニューヨークの違いは大きく、ニューヨークでは味方の選手でもボヤボヤしているとブーイングだし、アジア系に対する聞くに堪えない野次なども飛ぶ。できればイチローにはゴーイング・マイ・ウエイでいろいろな記録を伸ばして貰いたいと思うも、ニューヨークでは勝手が違うのではないだろうか。ただシアトルの英雄、ケン・グリフィージュニアが22年間のMLBキャリアの最後の2年、古巣マリナーズに戻って歓迎された様に、彼も最後はシアトルに戻ってプレーするのではないか、などと密かに思っているのである。

写真は昨夏観戦のレッドソックス戦(上)とたそがれのセーフコフィールド(下)

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2012年7月22日 (日)

オリンピック・パラリンピック壮行会

競走部のロンドンオリンピックとパラリンピックの選手壮行会が、昨晩、日比谷の三田クラブで開催され、母校から選ばれた陸上中距離の横田、短距離の山縣、パラリンピック代表の高桑君を激励した。三田クラブと言えば帝国ホテル地下のこじんまりしたスペースで50人も入れば一杯になるところ、昨晩はOBが約100人、それに現役の学生や応援指導部などが加わって大変な賑わいである。試合会場に応援に来るいつもの顔ぶれに混じって昨日は若手のOBも多数参加し、当然といえば当然の事だが、やっぱり運動部は現役が強いと皆が集まるものだと感慨が沸いてくる。JOCの結団式を終えたオリンピック選手2人が駆けつけて、それぞれ挨拶や激励の言葉で盛り上がるなか、オリンピック後に行われるロンドンパラリンピックに100米、200米、幅跳びの日本代表に選ばれた高桑早生さんが紹介される。


彼女は子供の頃の病気で左足が不自由なところ、大学に入ってもどうしても義足で競技を続けたいと、断られるのを覚悟で体育会に入部を志願したそうで、一般部員に混ざって我々にはわからない相当な努力を重ねたに違いない。今回めでたく代表に選ばれた彼女の「オリンピックの代表選手とパラリンピックの代表が一緒に出られる大学なんて他にはないんです。」との挨拶を聞いて、不覚にも目頭が熱くなるのはこちらも段々年齢を重ねた証拠であろうか。「そうなんだ、日本を代表する選手から浪人して入った選手まで、等しく入部して切磋琢磨できるのがわが体育会の良いところだ」と改めて一人心のなかでつぶやいて、だから母校のスポーツの応援は止められないんだ、と云う思いが湧いてくる。


そのロンドンオリンピックがいよいよ7月27日、パラリンピックが8月29日から始まり、彼らが出場する日はテレビの前で応援という事になるが、横田君には自らの日本記録を更新を、山縣君には日本人初の100米9秒台、高桑さんには自己新を期待したい。それにしても毎年行うまことに僅かな寄付は、何かの結果を求めて続けてきたものではないにせよ、「皆さんの支援のおかげ」とOB会長の挨拶を聞くとちょっと嬉しい夕べで、応援指導部リーダーが音頭をとる恒例「若き血」の歌声もいつになく元気な気がした。ただ大人数のため年代別に4組に分かれての記念撮影では、一番の長老組に入ってしまい、「もうそんな歳なのか」と卒業してからの月日の経つ事の早さを感じ愕然としたのだった。
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2012年7月20日 (金)

渋滞の理由

夏休みでドライブの機会も多くなると、また高速道路が渋滞の季節になる。おりしもJAFから送られてくる冊子の最新号に「渋滞の原因となるドライバーは何人いるか?」という興味深いコラムがあった。上り坂などで自然に速度が下がるクルマがいると後続車がそれを見てブレーキを踏み、そのブレーキランプを見てまた後続のクルマが手前から減速し・・・・・、という繰り返しで渋滞が発生し、毎回同じ場所で同じ様に大渋滞が発生するのである。


という事で、JAFは実際にどのくらいのドライバーが減速するか調べたそうで、計測場所は渋滞の名所・中央道上り相模湖バス停付近、ここは週末になると信州や富士五湖などから帰京するクルマが多い上、小仏トンネルまで上り坂が続くので速度が低下しがちで有名な場所だ。計測結果によると256台中169台が気がつかず自然に減速している事がわかったというから、なんと3分の2のクルマがゆっくり走って渋滞の原因になっている事になる。


同じ現象が渋滞の名所といわれる東名の綾瀬バス停などで起きているのだろうし、トンネルで視界がさえぎられ減速しがちな大和トンネル付近でも同様であろう。せっかちで渋滞の表示を見るとすぐ一般道に下りたくなり、却って遅くなって「あのまま渋滞に突っ込んだいた方が良かったなあ」などといつも反省する私としては、速度低下が渋滞の原因なら当局は速度を上げさせる施策をなぜ考えないのかと不思議に思うのである。


渋滞する区間がわかっているのだから、その手前から最高速度制限を100キロから120キロに上げ、最低速度制限を95キロ以上などと表示すれば、ドライバーはアクセルを意識して踏むに違いない。また鉄道のトンネルでは、車両の進行速度に合わせて電光表示が移動するディスプレイを時々見るが、同じような仕組みで制限速度以下で走るクルマに注意を促す電光表示などの技術開発も有効ではないだろうか。


かつて原則55マイル、郊外でも65マイルと規制されていたアメリカのインターステート・フリーウエイ(高速道路)は、近年郊外の速度アップなどフレキシブルな運用をしている。ひるがえって連休や夏休みになると、いつも同じ場所の大渋滞でウンザリという日本の高速道路は、我が国民経済にしても大きな無駄であろう。地方の高速道路整備も良いが、渋滞に対する知恵をもう少し各高速道路会社に望みたいものだ。

2012年7月18日 (水)

原発反対官邸前デモを見たか?

私の勤務するビルは霞ヶ関に程近い。ときどき国会前を歩いて帰宅する事もある。ほとんどの休日は国会や官邸と目と鼻の先の皇居でジョギングしているのに、反原発で埋め尽くされているはずのデモの参加者などは、これまで見た事はない。報道によると4万人もの人が集まっているというから、最寄の地下鉄・霞ヶ関駅や溜池山王駅はデモ前後に参加者で溢れかえっているはずだと思うのに、これは一体どういう事なのだろうか?東京マラソンは3万5千人のランナーが出場するが、これだけのランナーが集まるとスタート地点の新宿の高層ビル街はランナー一色になるのに・・・・。


ドーム球場や神宮球場で3万人の人が集まると、その前後に最寄の駅は大混雑する。ドーム球場で試合が終われば、JR水道橋駅はもとより地下鉄・水道橋駅や後楽園駅も立錐の余地がないくらいになる。秩父宮ラグビー場でビッグゲームが行われ、1万5千人の観客が帰宅し始めると、地下鉄・外苑前や青山一丁目までイチョウ並木や青山通りが大混雑するものだが、原発反対デモが行われたと云う7月13日の夕方も、帰宅時にデモ参加者で虎ノ門の駅がいっぱいだったなど云う事は感じなかったのである。一体4万人とされる参加者はどこから集まりどこに消えるのだろう。


広い新宿西口の高層ビル街があんなにランナーで埋まるのに、それ以上の人が集まったとされる原発反対デモで、どうして霞ヶ関近辺にいるのに何もうねりが感じられないのだろうか。デモ行進をする事は憲法で認められた行動で、主義主張を表現する事はまことに結構だが、こうなると参加者の数については、あまりに水増しされた出鱈目な数字を使っているのではないかと疑問をいだく。プロ野球でさえ最近は正確な入場者数を発表するのに、主催者の発表した数字をそのまま使い「反原発のうねり」などと報道するメディアも、はじめからある意図をもった報道をしているのだろうとその姿勢に首をかしげるのである。

2012年7月16日 (月)

エアコンをつけつつ考える事

東京理科大学の生涯学習センターで「鐵道」の講義を聞いた際、たまたま講義をされた同大学の化学の教授が分析を専攻されていたので、東北の放射能汚染について教授の知見を伺った事は前回のブログのとおりだ。それによると放射能汚染の危険はヨウ素・キセノン・セシウムの3種類からなり、そのうちヨウ素は半減期が8日なので80日もたつと2の10乗、すなわち1024分の1に濃度が薄まるそうだ。キセノンは大気に拡散してしまうし、セシウムは半減期が27年なのでそれだけ日々出る放射線は少ないと云う。ただし土壌に残る可能性があるので食品は検査する必要があるけれど、食品は検査体制が整ったし、旅行者がいたずらに放射能を不安がる必要はないと言う趣旨であった。


今回の原発事故に関する放射能汚染については、いい加減なメディアや評論家・学者などの不安を煽る報道が相次ぎ、国民を重畳の不安に陥れているが、教授は放射能の専門家ではないものの、分析を専門とする立場からは、東北に旅行する事やそこで食べる食品については何の問題もないとの事である。昨年来、わが家では「がんばれ福島」という事で、わざわざ福島産の米を通信販売で買っているので、私は教授の説明を聞いて「ほれ!」と納得したのである。そういえば福島県から東京に来ている知人は「実家からおいしい米をいつも送ってきてるけど、検査後で問題ないのに福島産が売れないとは本当に困ったものだ」と憤慨していたが、それだけ皆が風評に左右され易いという事なのだろう。


大体、一国のリーダたるべき前首相が福島の事故に狼狽して、法律に立脚せず何の根拠もなく日本全国の原発を次々止めてしまったのには驚いた。しかたなく電力は化石燃料や天然ガスで補う事になって、貿易収支が一挙に悪化したが、経常収支がマイナスに転じれば国債の信任、ひいては金利の上昇やハイパーインフレにもつながると云う事を彼はどう考えていたのだろうか。電力料金が値上がりすれば、電量消費型の製造業は海外に逃避、すでに精錬会社などは国外で事業展開しているに、これ以上産業が空洞化して雇用の機会が減る事をどう考えるのだろうか。化石燃料が増える事による環境対策は一体どう説明するのか。海外の資源は無限にあると考えているのだろうか?


風力や地熱などの自然エネルギーについては、直ちに実効性や経済合理性が見出せない現在、脱原子力という方向性を決めたとしても、電力の問題は最低10年、普通なら20年30年のスパンで考えるものではないだろうか。その間に原発の防災対策を強化しつつ、日本の人口動態や産業構造、代替エネルギーの確保・開発を急ぐ事と相俟って検討しなければならないはずであろう。まさに今回の震災をきっかけに国民的に考え直す問題で、すべての原発を直ちにやめろと叫ぶ事はあまりに無責任に感じるのである。人間にとってアンコントラルーブルな要素をもつ原発に依存する事を見直す事は、私も良いと考えるもののもう少し冷静な議論が欲しいところである。その点、野田総理はぶれずに、一国のリーダーとしての電力確保の責任を果たしており、民主党にもまともな人がいたのかと、ちょっと安堵している。

2012年7月15日 (日)

生涯学習センター「鐡道」

昨日は午後1時から5時まで東京理科大学の生涯学習センターで「鐡道」の講座を受講した。会社員生活も終盤になって退職後に自由時間が大幅に増える事を思うにつけ、生活を豊かにするには『楽しみのポケット』がなるべく沢山あった方が良いし、できればそれは財布に優しいものが望ましい。そんな折、気張らず一人で時間をつぶすには、子供の頃から好きだった鉄道にまた興味をもつのも良いかと思い、あらたな切り口を求めて受講したのであった。連休の初日、飯田橋にある理科大の会場に到着すると受講者は30数名、驚いた事に女性が若い人から年配まで10数名いて、最近「鉄子」が増えたというのは本当なのだと実感する。


講座の内容は、前半が理科大の化学の教授である宮村一夫氏の「鉄道の旅」。JRと民鉄全線を完乗した体験談で、多くの写真や地図を見ながら聞く講義の内容も面白かったが、「旅にトラブルはつきもの」とか「忘れ物は必ずする、と思っていた方が良いですね」などとちょっとした旅のヒントが講座のそこここにまぶされていて楽しい。今年は復興支援で東北の旅をお勧めするとの事で、化学分析を専門とする教授の立場から、東北の放射能は立ち入り禁止区域以外はまったく問題ないし、食べ物も検査済である事を強調されていた。


講座後半は、日本の鉄道技術を海外に輸出する日本コンサルタンツ(株)の秋山芳弘氏による「世界の鉄道」。世界の高速鉄道からメトロや市街電車の状況、東南アジアや旧共産圏の鉄道など、仕事を通じて得た海外の鉄道に関する豊富な知識を披露され、世界にはこんな鉄道もあるのかと感心したのであった。海外鉄道の旅をすべて自分で手配するのは、けっこうハードルが高いとはいうものの、トラブルの対処方法を考えた上で、鉄道に乗る事はその国の文化を知る事だと秋山氏は薦めていた。さて理科大の「鉄道」講座、今回は「乗り鉄」が中心であったが、理科系の学校だから鉄道のシステムや土木・車体の構造など、もう少しハードの視点から見た鉄道の講議を聞きたいと、アンケートを提出して帰ってきた。

2012年7月11日 (水)

地図と愉しむ東京歴史散歩

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東京の表玄関である丸の内を歩いていると、三菱グループの会社名や大手の金融機関名を冠したビルが多い中、岸本ビルとか永楽ビルという平凡な名前のビルもあって、なぜそんなビル名がつけられているのか以前から不思議に思っていた。何でも岸本ビルは土地の持ち主が岸本さんという事でついた名前らしいと判ったが、永楽ビルの方は町の中華料理店の様な名前で、丸の内という土地柄からしてもそのビル名が疑問だった。ところが最近、中公新書から出ている竹内正浩著「地図と愉しむ東京歴史散歩」とその続編・「都心の謎」を購読したところ、そんな小さな疑問のいくつかが氷解して「ははーん」と納得したのであった。


この「東京歴史散歩」続編には東京駅が完成する頃の地図が掲載されていて、それによると有楽町に隣接するまだ茫漠としていた丸の内地区は、当時は永楽町と呼ばれていた事がわかった。永楽ビルという名前は、どうやら大正以前の町名に由来するらしく、私にとっては小さいがちょっとした発見である。で、さっそく家にあった東京の詳細地図を傍らに置きながら、この新書の本編と続編を一気に読んでしまうと、東京の忘れられた歴史がいろいろ判って面白い。たとえば浅草から東武鉄道の電車に乗った際、鐘ヶ淵を過ぎていきなり荒川の土手に線路がぶつかる事に驚くが、これも現在の荒川が大正・昭和初期に隅田川の放水路として堀削されたために、すでにあった東武線の線路を移設したのだと判り、目からウロコである。


同じく羽田空港からのモノレールを利用するたびに、なぜ便利な新橋でなく浜松町がターミナルなのかと不便を感じるのだが、東京オリンピック前の突貫工事のなか、新橋付近の土地買収が困難で現在の様になったのだとこの本で判り納得する。そのほか幻の山手急行電鉄の跡が井の頭線の明大前に残っている事や、現在の光が丘団地は東京空襲のB29を撃墜するために急遽造成された陸軍の成増飛行場であった事、新橋~品川に至る東海道線をくぐる通路のいくつかは、開業時に海の中の築堤にあった線路の下を漁船が通った橋の名残であるなど、なるほどそうかと思う数々の事実をこの本は教えてくれる。江戸時代や明治・大正、あるいは戦前の建物・遺跡をたどりながら、それが現在どうなっているのか、地図でどう表わされているのかを辿ってみるのも興味が尽きない。

2012年7月 7日 (土)

学習しない産業?

1985年夏の暑い朝、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した事を大きく報じる新聞一面の片隅に、三光汽船倒産の記事が掲載された。当時、負債総額が5000億円を超える戦後最大の倒産と云われたが、ジャンボ機事故のニュースに隠れてあまり大きな話題にならなかったのである。三光汽船は自民党の派閥領袖である河本敏夫がオーナーで、運輸省の業界集約の指導にも応じない一匹オオカミとして世界最大規模の船隊を誇っていたが、長らく続いた海運不況によってついに会社更生法を申請したのであった。


その頃の三光汽船といえば河本氏の政治活動の資金源と云われ、同社によるジャパンライン株買占め事件では、大物フィクサー児玉誉士夫が暗躍したとされるなど、何かと話題の多い会社で、業界の暴れん坊という評判であった。社員も日本の会社と思えないユニークな人材にあふれていて、倒産した後に海運や貿易業界に流出した社員は「exサンコー」と呼ばれて、フツーのサラリーマンとは一味違った雰囲気を醸し出していたものだった。


その三光汽船が会社更生法で立ち直ってから14年余り、再び会社更生法を申請すると云うニュースが報じられている。新生なった三光汽船は以前と違い堅実に経営されているものと思っていたところ、実は短期で勝負するスポットビジネスが中心だったらしく、最近の不況で経営が再び悪化し2回目の会社更正法申請だと云う。2001年から社長だったM氏とは海外での会議に一緒に出席した事があって、温厚・堅実な人柄だと思っていたから、今回の経営破綻に驚くと共に、ここに至る過程でその心中はいかばかりであったかと推察する。


考えてみれば、海運各社が史上最高益を計上して浮かれていたのは僅か4年前の事で、中国の次にはインド経済が高度成長を続けるので、当分不況は来ないと云われていたのである。ところがその需要を取り込む様に中国のあちこちで造船所が出来、あっと言う間に船舶の供給過剰となって、今年が新造船のピークであると云われている。欧州はおりしもユーロ危機を迎え、中国を中心とした海上輸送も以前の勢いがない。本当に天国から地獄へと逆落としに合うのが設備産業の辛いところで、こんな事を10年くらいで繰り返しているのである。三光汽船の2度目の会社更生法申請で、世間から海運は「学習しない産業の代表」とまた云われるのだろうか。

林立する上海近辺の造船所のクレーン
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2012年7月 5日 (木)

万世橋駅復活

中央線快速電車の神田駅とお茶の水駅の間に、草むした古いホームの名残があるのを車窓から見る事ができる。かつて中央線のターミナルであった万世橋駅の遺構である。東京駅と同じく辰野金吾の設計による同駅は1912年に開業、堂々のレンガ造りの駅舎も1919年に東京駅が開業してからは中間駅になり、1923年の関東大震災で駅舎が焼失、戦時中の1943年にとうとう廃止となったそうである。その後は駅の一部が交通博物館として利用されていて、私も子供の頃はよく旧万世橋駅を訪ねていたが、2006年に交通博物館が閉鎖されてからはこの駅の事も忘れがちだった。


その万世橋駅跡を、JR東日本が商業施設として来夏に復活させると云う。ホーム跡にカフェやデッキを整備し、高架下にはテナントが入るそうで、「当時の雰囲気を生かした憩いの場にしたい」と報道されている。万世橋にほど近い神田須田町あたりは、かつて東京の交通の要衝で、都電は須田町を起点にする系統が多数あった事などが懐かしいが、いつの間にか秋葉原や日本橋などに囲まれて都会のポケットの様な一角になっていた。その辺りは2008年11月のブログでアップしたとおりで、旧万世橋駅が再開発される事で往年の賑わいが少し戻ってくるかと楽しみである。


この一角のレトロな雰囲気や老舗の飲食店は、昭和の東京を彷彿とさせてくれて、変な再開発をして欲しくないという思いもひそかにあるものの、旧万世橋駅上にオープンエアのテラスなどが出来れば、神田川を望みつつ中央線の電車が走る景色を見られそうで、東京新名所が増えて欲しいと期待するのである。そういえば今日はイタリアの船舶代理店が来て会談していたが、「東京は本当にきれいで整っている。ローマとは大違いだ」と散々ほめて帰っていった。東京も海外の人から見ると、素晴らしい町に変身している様で嬉しいものだ。

旧万世橋駅跡
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2012年7月 1日 (日)

あれから一年

飛鳥Ⅱは2011年の7月3日にハワイ島のヒロに入港し、翌4日はマウイ島の沖をクルーズした後、独立記念日に湧くオアフ島ホノルルに入港した。我々はヒロでは午前中に港から町まで約1時間ジョギング、午後はオプショナルツアーの「ハワイ島滝めぐり」に参加して、ワールドクルーズ最後の寄港地ハワイをゆっくり楽しんだ。ホノルルでは、船が一旦オアフ島の東北海岸に近寄ってから、コースタルにホノルル港にアプローチしたから、「あれがハナウマ湾だ!」「あれがハワイアン・オープンが開かれるゴルフ場か?」「あれがダイアモンドヘッドだ」などと、友人たちとデッキではしゃいだのも良い思い出だ。そういえば本船の薄味な健康食にも飽きて、ホノルルでは「牛角」のチープな焼肉を食べに行った事が懐かしい。


ホノルル港アロハタワーの前のピア10に着桟した飛鳥Ⅱからは、独立記念日に打ち上げられるワイキキの花火がみえるだろうかと心配していたが、本船の大浴場を出てデッキで涼んでいると、思ったより近くで豪華な花火を眺める事ができ、あたかも日本の温泉がここに移動してきたのかと錯覚するばかりであった。あの頃になると船内でなじみの顔も増え、クルーズ生活もすっかり板についてきたが、一方気の早い乗客の中からそろそろ帰り支度の準備だとか、パッキングはどうしようなどという会話も聞こえて、現実に戻りたくない我々は、耳をふさいで最後の最後までパッキングをしなかったのだった。飛鳥Ⅱがホノルル港を出る直前には、アロハタワーに上がり、目の前に接岸している飛鳥Ⅱの全貌を目に焼きつけ、「次に本船を外から見るのは、日本で下船する時か」とひどく感傷的になった事が昨日のようだ。


そういえば、あの頃は帰国後に今の会社に勤める事が決まっていたから、船上生活のすっかり緩みきった心身で、果たして一社員として会社勤めに戻れるのか、日本が近づくにつれ段々不安になったものだった。あれから1年近く過ぎ、何とか会社員生活を続けているなか、朝の通勤電車に乗った時などには、あのクルーズの日々は夢だったかとほっぺたをつねりたい気持ちに襲われる。それとともに現実生活にアジャストして、なんとか仕事を一年続けている事にちょっと自信もつき、何より中高年でありながら働く先があると云う僥倖に感謝するのである。それにしても一年が経過するのは早いもので、来年の今頃は何を考えているのだろうか。将来、もしチャンスがあったらまた世界一周にいきたいものだと、日々ルーティンワークをこなしながら、かなわぬ夢を見るのである。

写真はおなじみハワイのモンキーポッドの木・アロハタワーから見た飛鳥Ⅱ
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