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2012年2月

2012年2月29日 (水)

幸福の確率

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マグニチュード7以上の首都直下型地震が近々起こる確率は70%と東大の研究者が発表して驚いたら、今度は京大からそれは28%だと云う計算が出されて、データと云うものは前提や計算のやり方に依っていかようにも変わるという事を改めて思い起こさせてくれる。地下鉄の駅構内で無料で配布されてる冊子”R25”の中で石田衣良と云う作家が書いているコラム「空は、今日も、青いのか?」の134回目は「幸福の確率」と題して、世に溢れる様々な統計数字の事が軽妙に書かれており面白かった。


いわく(地震の発生確率などは)「手ごたえがないにもかかわらず、やっぱり人を不安にさせる力が、数字のもつ悪しきマジックだ。」(病気の余命告知は)「生存率が50%とは、いったいどういう意味だろう。ぼくたちの命はみなひとつきりで、半分生きて半分死ぬことなどできない」と日ごろ私たちが”おやっ?”と思うことを率直に著している。私も新聞で「死亡率が20%減った」などと読む度に、人間は全員等しく死ぬのに「死亡率が減った」とはどういう意味だろうかとか、ごく稀に発生する事故や病気にたまたま遭った人は、現実には「遭ったか遭わなかった」のオール・オア・ナッシングで100対0だよな、と数字の持つ意味を考えたりする。


その点では世界一の長寿国なのに、メタボ健診など数値を年々厳しくして病人を増やす健康診断や、地球温暖化を示す様々な指標などは、医療やCO2売買で金儲けを企むその業界の影が見える様で、本当のところはどうなのかを知りたいと云う欲求に駆られるのである。コラム「幸福の確率」は、「数字などに踊らされずに、自分の実感をもって生きる。」「人と自分をくらべない。世の平均と自分をくらべない。ついでに、気のきいた確率は眉につばをつけて、軽く耳にはさむくらいにしておく。ぼくたちの人生には1パーセントの幸福などない。それを決めるのは、数式でも平均でもなく、きみ自身である。」と妙に納得させられる言葉で締めくくられている。


このコラムを一読して、無料の冊子などと侮ることなかれ、といたく感心したのであるが、それでも「血圧が高いかな」と無闇に何度も測ったり、「禁酒日を設けなきゃ」と却ってストレスを溜めては、「自分の事になると違うんだよね」と反省するあたり、数字に踊らされているのが自分の日常なのだと苦笑いをしてしまうのだ。

2012年2月26日 (日)

感謝・東京マラソン2012

ここ数日来の天気予報では、「晴れ気温13度」などと発表されていたから、すっかり安心して軽装で出かけた東京マラソン。ところが数日前の予報に反して、今日は寒々しい曇り空の東京で、走り始めても体が温まらずトイレばかり行きたくなる。それも昨年の失敗に懲りて前半は極めて慎重に入ろうと考えていたので、5キロ・10キロと二度もトイレの列に並び、結局4分ほどロスするはめになる。


それでもゆっくり走ったお蔭で、ガス欠も起こさずほぼ予定通りのタイム3時間40分ほどでゴールできたから、還暦ランナーとしては上出来、力をうまく出せたと満足する。石原知事はテレビで「ランナーが皆『ありがとう』と言うけどそんな事はない。苛酷な距離を頑張った方こそ凄い」と言う趣旨の発言をしていたが、いやいやマラソン大会と云えば、主催者・スポンサー・警察・消防・陸連などの関係者、それに多くのボランティアの尽力、沿道ぎっしりの応援などがなければ走れるものでない。そういう立派な運営に感謝すると共に、何よりこれまで支えてくれた家族やフル・マラソンを走れる体に生んでくれた両親に感謝するのである。


それにしても、マラソンと云う競技は一体誰が考え出したか、42.195キロとは実に幽玄微妙な距離で、我々市民ランナーは20キロやハーフ・マラソンの様に力やスピードで押し通せば、かならずスタミナ切れを起こす。かといって持久力勝負だとゆっくり行っても、結局35キロ過ぎからはそれなりに減速するし、40キロ過ぎて疲労した体で「あと2キロかよ」と考えると気が遠くなりそうにもなる。かつてマラソンも速かった歌手の高石ともやが、「最後の195米は皆に感謝し、自分にごくろうさんという区間です」と言っていたが、まさにそれぞれの区間が意味を持っているレースにも思える。


この一ヶ月、通勤ではマスクをし外出から帰ってはうがい手洗いを怠らず、風邪予防に努めたのもこれで終わり。マラソンの数日前からはカーボ・ローディングと云って、ご飯やスパゲティ、麺類など普段あまり摂ってはいけないという澱粉をたらふく食べるべしと云う夢の様な数日間もあるのだが、それもこれで終了である。応援の家族ともども、今は祭りの去った後の様な充実感と虚脱感を味わっているのである。

トップ・ランナー達はあっと云う間に通り過ぎていった
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2012年2月22日 (水)

メトロホームライナー

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帰宅途中の地下鉄のホームでメトロホームウエイの電車に合う。アルマイトの弁当箱みたいな車両ばかりの地下鉄線で、豪華な色彩で木目調の車内、暖色系の車内照明もまばゆい特急用電車は、殺風景な帰宅時のホームでひときわ通勤客の目を引く。JR線だと成田エキスプレスや房総方面への特急などが地下区間を走るし、関西では近鉄の特急が難波から鶴橋までが地下だが、東京の地下を私鉄の優等車両が走る例はあまりなく僅かな違和感を覚える。


メトロホームウエイに使用される電車は小田急のMSE(MULTI SUPER EXPRESS)と呼ばれる最新鋭車両で、リクライニングシートに絨毯敷きの床面、「ゆったりトイレ」などの設備があるから、会社帰りにビールなどをしこたま飲んでもトイレに困る事もない。東京都心のメトロ駅から小田急多摩線の唐木田または小田原線の本厚木まで一時間弱で、普通運賃に600円(唐木田まで)750円(本厚木まで)の特急料金を払えば、ちょっとした旅行気分が味わえる。


そういえば高校時代にはふざけ半分で、山手線の電車の中でよくお弁当を広げたものだが、たまには会社帰りにコンビニ弁当でも買ってこんな車両に乗り、缶ビールの蓋をプシュっと開け、日刊ゲンダイなどを読んでみたいものだ。悲しいかな帰る方向が違うので、その夢をかなえた事はないが、もう少し陽気が良くなれば、永年の思いを是非とも実現してみようか。ただ終点に着いた後、方向違いの自宅に帰る為に普通の通勤車両に、とぼとぼと一人で乗る事を想像すると、ちょっとその気が萎えるのも事実である。

2012年2月20日 (月)

こんなのありました

”ALWAYS三丁目の夕日'64”にはあの時代を表わすアイテムが、いろいろ出てきて懐かしさに一杯だった事は昨日アップした通りである。一日経ってもその余韻は覚めやらず、映画の中で出てきた”あの頃”を追想したくなってきた。ネタばれにならない程度に画面を思い出してみる。

  1. ”シェー”:あの頃の子供たちの会話は「シェー!ミーはお家に帰るざんす、チミは?」「ジョエー!ミーも帰るざんす」という具合であった。
  2. カラーTV:我が家にカラーTVが来たのは昭和42年初め。鈴木オートより遅れている。そういえば「うちのテレビにゃ色がない、隣のテレビにゃ色がある」というのエノケンのCMがあったのは昭和40年。
  3. ひょっこりひょうたん島:映画の中の子供たちは”ひょ”にアクセントをおいて喋っているが、東京ではもっと平板に喋っていたはず。とにかく夕方6時が待ち遠しかった。
  4. 模型飛行機:紙と竹ひごとニューム管、動力はゴムの飛行機をわくわくしながら組み立てたが、私の様な不器用な子供はなかなか翼の紙がピンと張れず苦労したのだった。
  5. 東洋の魔女:悪がきたちは「東洋の魔女、西洋の美女」と言って喜んでいたっけ。
  6. ごみ捨て:街のあちこちにコンクリート製で前面に木の戸がついたゴミ捨て場所があってハエがたかっていた。あれはいつから無くなったのだろうか? 
  7. オープンリールのテープレコーダー:家族全員を黙らせてテレビの主題歌などをマイクで録音した覚えがあるでしょう。
  8. 汲み上げポンプの井戸:冷たい井戸水を金たらいに入れて、夏はビールやサイダーそれにスイカなどをよく冷やしたものだった。
  9. ミゼット:後期のオート三輪は丸いハンドルなのがちょっと粋。
  10. 客車列車の音:機関車の唸りの後に客車が軽快にジョイントを刻む音は、今の電車の音と違って旅心をかきたてたのだった。
  11. 流行語:「イカす」「八田イズム」「バカンス」「BG」などなど。「はんぱない」等と言う今風の言葉もこれらと同じ運命を辿り将来はなくなるか?
  12. 受験:「東大を出れば一流企業に入れて一生楽ができるんだぞ」という本音が明快に語られた時代でしたね。
  13. サッカー:東京オリンピック時代はたしかに人気がなかったスポーツ。メキシコの銅メダルで日本人はサッカーを知った。
  14. 電話:女の子の家に電話すると、大体オヤジさんが出て「あんた誰?」「ムスメに何か用?」などとぶっきら棒に言われて困ったのだった。男ならみんな経験があるはず。


その他「あれあったよね」「あのクルマはコロナだよね」「VAN JAKETに憧れたよね」などと思わずにんまりしてしまうシーンが枚挙に暇ないほどで、我々の世代には懐かしくて堪らない時代設定でした。

2012年2月19日 (日)

ALWAYS三丁目の夕日'64

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ALWAYS三丁目の夕日'64を見た。これまでの二編の後を継いで昭和39年オリンピックが開催される頃の東京を舞台に、鈴木オートの家族の様子や小説家・茶川の生き様がノスタルジック一杯なシーンと共に展開される。画面を見ていると昭和39年ごろは高度成長が始まった一方、近所付き合いがそこかしこで残っていた事、東京でも一歩表通りから入れば、ほこりっぽい横丁だらけで、町も職場もタバコの煙っぽかった事などが思い出される。

この映画が人気なのはストーリー展開のダイナミックさや面白さと共に、時代考証に破綻がなく観客を自然にあの時代に運んでくれる事であろう。この種の映画を見ていて、ふと「ちょっと違うんだよね~」と違和感があると、急にその事が気になって白けてしまうものだが、ALWAYSはその辺は綿密に往時の風景や風俗を再現していて、その緻密な映画つくりが人気の一つなのであろう。

例えば劇中の音楽「無責任一代男」は昭和37年、「学生節」は昭和38年のヒット曲だし、鈴木オートに入庫してくるホンダS600は昭和39年発売の人気スポーツカー、茶川の帰郷シーンは、中央東線のおそらく急行「アルプス」と思われるキハ58系で、二両の2等車をはさんだ長大編成は「ああ、あの頃の国鉄線はこうだったな」と思わず観客を昔に引き戻す。そういうディテイルにこだわった演出が映画を飽きさせなくしているし、鈴木オートの住み込み「ろくちゃん」の交際相手のクルマがトヨタ・パブリカだと言うのも、妙に説得感があって時代のアイテムを物語の伏線として使う演出は憎い処である。

ALWAYS'64は笑いあり涙ありペーソスあり、寅さんの様に安心して見ていられる映画で、始めて見る3D画面の2時間はあっと云う間に過ぎてしまった。そういえば、ろくちゃんの交際相手の着ているセーターと、今日映画に行った私のセーターはまったく同じチルデンセーター、キャメルのVAN JACKETのブレザーも同じものを持っているし、当時のみゆき族の細身ズボンを除くと、映画の彼と私のワードローブはまったく同じ。やはり私はMAN FROM 60'Sと改めて思いながら、暖かい気持ちで映画館を後にした。

2012年2月17日 (金)

反エストッペル

会社で20歳代の若い人達と海運の契約について勉強会を開いている。英国法で成り立つこの世界で、例えば船荷証券に真実と異なった記載(不実記載)をなぜしていけないのかなどと云う事例を勉強していくうちに、英法に由来する「エストッペルの原則」に行き当たるが、これは日本の民法にも「真実誠実の原則」という形で摂取されている法理念である事を知る。


エストッペルの原則は日本語では「禁反言の法則」と呼ばれているもので、「自分の摂った言動(または行為)に矛盾する言動(行為)をとってはいけない」と云うものである。例えばAさんがBさんにお金を借りていて、町で二人がばったり会った時に、「あのお金は1ヶ月後に返します」とAさんが口にしたら、1ヶ月の間に借金の時効が来てもAさんはBさんに「時効だから払わない」と云う事はもはや許されない。AさんがBさんに一旦信頼を与えたら、この信頼を由なく背く事はできない、という事である。


同様に海賊が跋扈するソマリア沖に船が行く場合に、乗組員が「特別にボーナスを出せ」と船主と交渉し、一旦金額が合意した場合、仮にソマリアで海賊の被害にあって乗組員が船主に自らの被害の賠償請求をしても、それが認められるかはエストッペルの原則で簡単ではないとこの法則は教える。交渉をして合意した以上は、その後に被害にあっても必ずしもすべて求償できる訳ではない様である。


若い人たちとそんな事を勉強していたら、メディアでは複数の交際相手が次々と不審死を遂げた女性の裁判に関するニュースが流れている。真実は公判で明らかになるだろうが、言葉や行動で結婚を匂わせながら、裏では他の複数の男性と同時に付き合う事を「そういう事が特異な事とは思っていなかった」と被告は答えたと云う。結婚をしたいと発言して信頼を得ておきながら、つぎつぎ相手を変える行動を見ていると、世の中にはエストッペルの完全に反対を行く人もいるものだ、とあらためて人間の多様性に驚くのである。

2012年2月14日 (火)

世論調査

朝のNHKニュースで最新の世論調査の結果が報道されていた。出勤前のバタバタの中で詳しい数字は覚えていないが、最近のトピックス三題についての世論調査である。最初に原発を再開する事に賛成か反対と云う質問では”反対”の方が多いとアナウンサーが言っている。次にTPPに参加するか否かの問いには、賛成が反対をやや上回ったものの”わからない”が一番多数だそうだ。最後は米海兵隊のグアム移転についての質問でこれも”わからない”という答えが多かったと記憶している。



聞き終わってトイレに座りながら、あらためて世論調査について自分なら何と答えるか考えてみた。今回の調査で「原発があった方が良いかどうか」と質問されたら、それは単純には”ない”方が良いと言うだろう。しかしもし設問が「急に原発を止めると電力が不足する事になる。それでもあなたは我慢しますか?」と言われれば、「いやそれは困る」と私は答えるであろう。さらに「すぐに原発を止めれば、石炭など化石燃料を燃やして電力を作るので電力料金の値上げ必至、さらに環境問題が起こる可能性がある。よって原発をなくすのは中・長期的に考えるべきか、即刻止めるべきか」と問われれば「中長期の目標で」と私なら返事する。



TPPに参加するか否かの問題については、今さかんにメリットやデメリットが議論されている処だし、米国海兵隊の移転計画などは、余程ニュースを熱心にフォローして勉強しなければ理解できるものではない。電話でちょっと聞いただけのフィーリングで世論とやらを構成する事は、逆に事の本質について世の中をミス・リードする可能性さえある。その意味では”わからない”と云う答えが多いのは答える方が健全なのかもしれない。まあ世論調査などは、設問方法によって如何様にも答えが操作ができるものかと改めて認識したのであった。

2012年2月11日 (土)

春近し

今日は建国記念日、外はまだ寒いが陽射しが柔らかくなって春が近い様である。2月と云えばあの札幌オリンピックは、大学生だった1972年の2月に開催されたのだから丁度40年になる。「さあ笠屋、笠屋、”シャー(滑る音)”・・・・”飛んだ!決まった!」と言うアナウンサーの絶叫が昨日の様でもあるし、銀盤の妖精・ジャネット・リンは一体どんなオバサンになっただろうかと時の経過を感じたりもする。そういえば札幌オリンピックのノルディック距離スキー代表選手が、当時大学の隣の寮(合宿)に住んでいて、練習をよく一緒にしたのだが、彼は走るのも速ければ他の競技もうまく、「さすがオリンピックに出る人は違うものだ」と感心して見ていた事を思い出す。

身体能力の高さと云えば、ソフトボールから日ハムに入団した大嶋は、練習試合でなかなかの活躍をしていて非凡な才能をうかがわせる。軟式野球出身のプロ野球選手なら東映のエースだった土橋や、背面投げで観客を驚かした小川健太郎などすぐに何人かの顔が浮かんでくるが、ソフトボールと野球は似て否なるスポーツで、これまた大学時代に野球部の連中とソフトボールの試合をした時は、野球の選手も山なりスロー・ボールには戸惑っていた。大嶋の大学時代の監督が「バットコントロールが硬式野球のボールに合う様になったらもっと伸びるだろう」とテレビでコメントしていた通り、彼が硬式野球にどれだけ順応するのか興味深い。

春の話題で思い出すのは、上級生になってやっと補欠ながら春のリーグ戦の神宮球場のベンチ入りが決まりかけた野球部の友人が、新装開店パチンコ屋の殺到に巻き込まれ、割れたガラスで怪我をして出番を逃し、結局一度も六大学野球リーグ戦の選手として登録されず卒業した事である。この時期、晴れて希望の野球部に受かった新入生もいれば、浪人して捲土重来を期す者、春の開幕を目指して練習に励む選手の傍らで怪我に泣く者と、あちこちで競争が繰り広げられているのだろうが、センバツ出場校も決まりプロ野球のキャンプもたけなわとあって「球春近し」と感じるのである。

2012年2月 5日 (日)

東京ゲートブリッジ完成記念スポーツフェスタ

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東京の湾岸地区の慢性的な交通渋滞を緩和するために若洲と中央防波堤地区を結ぶ新しいルート、東京ゲートウエイブリッジが2月12日に開通する。羽田空港の航路規制の為に吊り橋など高い橋脚が立てられず、国内最大級のカンチレバー式(片持ち梁)となったそうで、その姿から東京湾の怪獣と呼ばれるユニークな長大橋である。この橋の完成を記念するスポーツフェスタが2月4日(土)・5日(日)に開かれ、クルマなどより一足早くランニング・サイクリング・ウオーキングの愛好者が渡り初めをした。

こんな行事にゃ出るしかないと云う事で、我々夫婦もスポーツフェスタの最初のイベントであるランニングの部(8キロ)に参加し、昨日は皆で新しい東京名物の完成を祝った。お祭りなので、ランニングの部では順番判定やタイムの計測もないが、集まったランナーはなんと5000人余り、みんな日頃の心掛けが余程良いとみえて昨日の天候は快晴で心配した風もない。主催者の猪瀬東京都副知事が「皆さんが東京都民として初めてこの景色を見ます」とスタート前にスピーチをすると、「都民じゃないし」とあちこちで笑いが起こるのは近県からの参加者か。

橋の上からは遠くにくっきりと富士山、近くにスカイツリーと抜群の眺望で、東京消防庁の消防艇によるカラー放水などを楽しみながら多くのランナー達が橋を渡った。景色の良い箇所ではデジカメや携帯を出して、走ることより記念撮影に専念する人が多いというのも他のマラソン大会とは一味違う。それにしてもタイムや順番がないだけで、こんなに解放されて楽しく走れる気分になるのかと、つい一生懸命に走り過ぎる私には目から鱗、ちょっと考えさせられる渡り初めであった。しかし橋は長さが2600米余だそうで、上り下りの区間だけでもそれぞれ1キロ以上あって、今日はいつもと違う足の部分が痛い。

走るより写真を撮るランナー達
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2012年2月 3日 (金)

赤外線通信

高校時代の仲間4人で新宿で飲んだ。うち一人は自宅パソコンの具合が悪く、今後連絡メールは携帯に送ってくれと云う。どうやって彼のアドレスを自分の携帯の電話帳に登録しようかと思案していると、一人が携帯どうし赤外線で情報が送れるはずと云うので一同「それは名案」とうなずく。ところがどうすれば携帯で赤外線が受信可能状態になるのか、それぞれ自分の携帯を出していじくり始めるのだが皆目見当つかない。仕方がないので料理を運んできた店員に「悪いけど赤外線受信ってどうするの?」と恥じもなく聞けるになったのは、歳をとって面の皮が厚くなった証左であろうか。


「こうすれば良いんじゃないですか」と一台を手にした若い女の子は簡単に受信画面まで操作してくれる。「何だ、簡単じゃないか」とおじさん達は一気に元気になるが、世の中いやITはそう甘くない。今度は赤外線を送信する出口と受ける口(ポートと云うらしい)が全員わからず、送り手が送信を始めても受け手の携帯に情報が一向に入らない。送り手と受け手のポートをくっつける様にしなければデータの伝送はできないらしいが、ただでさえ暗い飲み屋で自分の携帯の構造も良くわからない4人では埒があかず、「あーでもない、こーでもない」と喧々諤々10分ほど試した挙句、結局一台も赤外線受信ができなかったのである。


帰宅後、我が家のIT主任に話をすると、「こうやるのよ」といとも簡単に実践してデータを送ってくれる。今日の4人は高校時代は皆そこそこ勉強ができ秀才と言われきたはずで、一人は工学部卒、一人は医学部卒である。理工系なのに彼らも携帯の扱いはこんな程度なのかと、飲み屋のやり取りを思い出しつつ、文化系の私には「同年代だなあ」と云う共感が改めて沸き起こってくるのであった。それにしても4人とも今はやりのスマートフォンなどは持っておらず従来の携帯なのは嬉しいものだが、こういう調子で次第に時代から取り残され、最後はIT難民の老人になってしまうのかと、いささか将来を思いやりながら寒風の新宿の町で初老の男たちは別れたのであった。

2012年2月 2日 (木)

富山のますの寿し

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越中・富山の鱒寿司である。中学生の頃、友人のお父さんがある銀行の富山支店長で単身赴任していたのを幸い、春休みを利用してその友人と富山を拠点に能登半島をぐるっと巡った事があったが、その旅行で初めて鱒寿司に出会ったのである。当時の能登は「秘境」と呼ばれていて、半島の先に進むにつれ舗装道はなくなり、突端の禄剛崎にあったユースホステルは寂寥とした佇まい、夜中に持参のラジオを聞くと、日本の放送でなく朝鮮語ばかり聞こえた事がやけに印象に残っている。


わずか数日でもそんな秘境から富山に戻ると、都会の香りがしてほっとしたものだが、そんな折に銀行の社宅で友人と父君の男三人で食べたのが鱒の押し寿司である。そういえば酒飲みのお父さんが息子の訪問を喜んで寿司をつまみながら酒を飲み、中学生の我々もお相伴ですっかり酔っ払って、小さな冒険を成し遂げた様に感じたが、そんな様に富山のます寿司はこの地方で広く食されている食べ物だそうだ。


これが全国的に有名になったのは1912年に富山駅で売り出された駅弁による処が大と云われ、私も旅行で味をしめて以来、東京で駅弁大会があると「富山のますの寿し」を良く買って楽しむ様になった。で、今回も近所のスーパーの駅弁大会で、先週の紀州版に続き「富山のますの寿し」を買ってきて早速味わった。今では神通川産の富山の鱒ではなく外国産や北海道の鱒を使っているそうだが「火を通さない川魚は食べない」という信条もこの素朴な味の前には例外扱いである。

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