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2012年1月

2012年1月28日 (土)

自分の苦しみは・・・・

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いよいよ東京マラソンまで後一ヶ月となり、昨日は大会事務局からナンバーカード引き代え券や参加案内が送られてきた。ちょうど志望校の受験票が届いて、いよいよこの一年の成果が試されると、期待と不安が交錯する浪人生もこんな気持ちなのか、と妙な事を連想する。「フル・マラソンは嫌いだな」と渋る私を横目に「絶対に2年も続けて抽選に当たるわけないわよ」と妻が自分と私の分を応募したところ、私だけが連続当選して「話が違う、今年は出ない」とごねていたが、これも何かの縁と思い直して参加する事にしたのが昨年末。以前なら「出ないものは出ない」と頑張ったに違いないが、歳をとると境遇に従順になって、性格も丸くなったものだと思う。


ランニングブームを反映し、昨日の日経新聞では「ランニング特集」が掲載され、それによると「持久係数」なるもので10キロやハーフの記録から、フルマラソンの予想タイムが想定できるそうだが、私の場合はその係数に当てはめるとフルマラソンの記録が極端に悪い「想定外」のランナーである事がわかる。これは走るリズムが長い距離に合っていない上に、何よりも面倒なものは早く終わらせたいという”せっかち”な性分が重なっているのだと考えているが、昨年の30キロ過ぎからの「地獄」は二度と御免だと、今年は正月などに意識して長い距離を走ってみた。


今日は残りひと月と云う事で、最後の走り込みとして30キロ走を行うべく、昨日の「ハナ金」のお誘いも断り、会社に行くのと変わらない時間に布団を撥ねのけた。予定では10キロ50分(マラソン3時間30分)ペースで、30キロを楽に走り切ろうと考えていたのが、やはり自然にペースが上がり設定時間より先行してしまう。その分30キロ近くで、一挙に疲労が押し寄せると云ういつものパターンに陥りかけたが、まだ今日は比較的押さえが利いて2時間27分と3分のアヘッド程度で疲労困憊せずに完走できた。ただ、またペースを守れなかった自分への罰練習として、そのまま2.5キロ走り続けて結局32.5キロ走ったあたり、「走るのだけはストイックね」と云って妻は笑う。


それにしても、一人で皇居周回コースをぐるぐる走っていると、「ああつらいな、早く終わらないかな、何か適当な理由が見つからないかな」と悪魔のささやきがしばし脳裏を駆け巡る。そんな時には「 練習は不可能を可能にする 」と云う母校の教えや「走った距離は裏切らない」と云う野口みずきの言葉などを思い出すと何か元気が出てくるものである。それに加えて今日は、東洋大・柏原君の箱根駅伝のインタビュー「ぼくが苦しいのは1時間ちょっと、地震や津波で被災された方の苦しみに比べたら」と云う名言を思い出し「好い事いうなあ、よし、オレの苦しみは高々3時間~4時間」と思いなおして寒風の中を突き進んだのであった。

2012年1月23日 (月)

めはり寿司

昔は今と違ってコンビニ弁当などなかったから、外で買うお弁当といったら駅弁しかなかった。東海道線に乗ったら小田原の鯛めし、上越線なら高崎のだるま弁当、信越線では横川の釜飯とひたすら空腹を我慢し、列車が駅に着くと同時に弁当の売り子めがけてホームをダッシュした事が懐かしい。旅の原点とも云えるそんな駅弁だが、最近は東京でもデパートの客寄せの目玉として「駅弁大会」などが開催されて気軽に日本全国の駅弁が楽しめる。

そんな中、妻が新宿に用があると云うので、47年の伝統を誇る「新宿京王デパート」の「元祖有名駅弁大会と全国うまいもの大会」に行って、有名駅弁を買って来るという。妻は前日デパートのちらしカタログを見ながら、あれにしようかこれにしようか迷いに迷っているので、「それなら久しぶりに、南紀・新宮の”めはり寿司”を買ってきて」と頼む事にした。めはり寿司は紀南地方の農家が、農作業で忙しい中、酢飯などを使わず高菜の葉で握ったすしで、2~3個でお腹一杯になるように大きく握ったために、口を空けて目を見開いて食べた事が名前の由来だそうだ。

大学時代に紀勢線のディーゼルカーの中で食べて以来40年ぶりのめはり寿司だが、弁当の原点「おにぎり弁当」にも似た素朴な形と味わい、かつ1000円以上の駅弁が多い中630円と値段も安く、これぞ元祖日本の有名駅弁だと堪能した。妻は大いに迷った挙句、同じ新宮で行くべしと「くじら釜飯」、紀勢線ついでに松阪駅名物・牛肉の「モー太郎弁当」もおまけに買ってしまえと、一挙に計3個の駅弁が夕食の食卓に上ったのであった。

めはり寿司とモー太郎弁当
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2012年1月21日 (土)

コスタ・コンコルディアの事故(3)

コスタ・コンコルディアの事故は、その後の報道やネットの情報で色々な事が判り、世界中の人達が事故原因に注目している様である。船長が島に接近するコースをとったのは意図的である事が判明したのだが、様々なサイトを見ると本船は15ノット以上の速力で島に向かいながら、ブリッジの怠慢か自船の位置誤認かでコースを変針するタイミングを失したらしい。島の直前で右に舵を切っているが時すでに遅しで、高速で回頭した船体が流体(海水)の中で運動する特性で、その後部が進行方向に流されて島の浅瀬を通過しているのが航跡図などから見てとれる。アジポット推進も運動性に関与しているのかもしれないが、これはクルマがドリフト走行でお尻を振ってカーブを切っている最中に障害物にぶつかった様に似ている。船体が右旋回すると、キックと言って予定のコースより外側を回る事も影響しているかもしれない。いずれにしても船体左舷後部に大きな破口があって、その前にあるフィン・スタビライザーが無傷であるという原因がこれで説明できよう。


ネットの航跡図によると岩に衝突後、本船は推進力を大きく失いながらジリオ島に沿って、約1マイル強ほど北上をしたのち沖合い半マイルほどの処で、急に右回頭をして島に戻ろうとしている様である。しかしこの頃には行き足は殆どなく、回頭後はただ東北からの風に流される様に、左舷を沖に向けたまま右舷から島に接近しているのが判る。この時間はイタリア半島西岸は満ち潮の時間であって本船に影響はないだろうから、推進力を失った船は風のままに岸に寄せられて行ったのでないだろうか。当初の報道では、本船は衝突後に左回頭して島に戻ろうとしたのではないかとされていて、左回頭した際に船体に侵入した海水が遠心力で右舷に溜まり、船体が右に傾いたとの説もあったが、どうやらこれは否定されそうだ。


その他に有力な説として左舷の破口の他に、船底にも亀裂があり海水が侵入していて、左舷への傾斜を防ぐ為に右舷タンクにバラスト水を張った処、今度は船体が右舷に傾き、座礁した際に大量の海水が右舷に押し寄せて右舷を下にして横転したと云う考えもある様だ。休日の素人考えで、私は今回の事故の経緯は、島への接近→見張り不十分→急回頭に依って船体後部が岩礁に接触(船底にも亀裂生じたかも)→機関損傷→右回頭で島に戻ろうと企図→推進力喪失→風に流され右舷から座礁→右舷が支点になって風の力および船内の海水が右舷に寄り横転という経緯を辿ったと推理したい。最近IMO(国連海事機関)が、客船は非常時に港への帰投を規則づけたそうだが、この事故の場合は推進力を失った時点で錨を下ろし、救命艇を出した方が良かったのではと今も思っている。

下図はわが家のIT主任(妻)の作成した本船の事故推定図
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2012年1月20日 (金)

旧正月に思う

この週末から中国を始めシンガポールなどは旧正月に入るというので、国際的な荷動きもこの間はしばし小休止である。私が会社に入った40年近く前はヨーロッパのクリスマス休暇と日本の正月だけが商売上で注目される期間だったが、今やアジアの旧正月が国際物流に影響を与える大事なイベントになっている。考えてみると日本も今の時期が一番寒くこれから陽が長くなって春めくのだから、新暦の正月休みを働き、旧正月を本格的な休みにして祝った方が「新春」と云う感じで良い気もする。

そういえばお盆も、かつて東京では7月だったと記憶しているが、いつの頃からか8月15日頃の旧盆が帰省時期になってしまったから、正月も旧暦に変更しても何の不思議はない。こんなものは慣れの問題で数年もすれば旧暦の正月の方が良いよ、となるのではないだろうか。戦後67年で折りしも東大が入学・卒業の時期を9月にしようとしている通り、日本独特の暦や年度も一旦見直す時期ではないだろうか。税務署の確定申告は1月~12月ベースなのに事業年度は4月~3月と云うのも違和感があるが、これは徴税と予算の都合による「お上」の論理に過ぎないのだろう。

私は日本でも4月~10月までは2時間ほど時計を早め、デイライト・セービング・タイムとして、夕方を楽しむ事にしたらどうだとブログで幾度も書いている。人々の生き方が変わり省エネや新たな消費が喚起されると信じているのだが、電力不足の昨年もアイデアとして挙がっていたものの真剣に議論はされなかった。戦後の一時期に実施され不評で元に戻ったと云うが、時代も変わったのでもう一度やってはどうかと思われる。

暦といえば、イベント好きの我が家では、昔の人々が長い年月を経て積み上げた知恵も少しは体験できようかと、旧暦の祭事を時々意識してみる。先日は小正月の1月15日に作ったといわれる小豆がゆを妻が作っていた。お粥を見るとちょうど正月の飲みすぎ胃腸を、もう少しいたわりなさいと云われている様な気がしてきたが、こういう風習も旧暦を意識して実行してみると本当に奥が深く、色々な意味がある事に気づくものだ。

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2012年1月18日 (水)

コスタ・コンコルディアの事故(2)

コスタ・コンコルディアの事故では、その後の報道で当夜に何が起こったのかが段々分かる様になってきた。船長があるクルーの為に意図的に島に近寄るコースを採ったとされているから、自動操舵や電子海図の問題ではなく、単に見張り不十分で島に近づき過ぎた事が原因の様だ。もっとも客船は最短航路を航行する事が要求される貨物船やフェリーでないから、島に近寄って航海してもそれが特別に問題とはいえない。

この点では「航路を逸脱した」とか「島に近寄ってサービスする事が常態化していた」のが問題だとする評論家のコメントがメディアに散見されるが、そもそもクルーズは物見遊山の船だから航路を離脱するのも仕事のうち、浦賀水道航路や備讃瀬戸航路を航行する様に法律に則って決められた航路を進むのとは訳が違う。ただし通常の航路を逸れて岸に近寄る選択をするならば、浅所と自船の位置確認は最も重要な船の仕事であると言えよう。

ジリオ島に近寄る航路をとった場合には沿岸航法の常として灯台や目標の灯火を確認しながら、レーダーや場合に依ってはエコー・サウンダーで常に自船の位置を把握する必要があるが、クルーズ船がこのコースを航行するのが特別な事でないなら、この船の船長はさして注意も払わずに自船の位置を誤認して悲劇に至ったのたであろう。私はむしろ船体に破孔が生じてからの船長の判断が、今回の事故のポイントだと思っている。機関室に浸水があったとされているが、ブリッジでは発電機の稼動状況もモニターできるし、現場のエンジニアーからの報告もあったに違いないのに、結果として避難前に推進力を喪失し座礁して最悪の結果になった様である。

ジリオ島の港はごくローカルな設備で、全長290米かつ喫水9米に達する大型船が安全に避難できる規模や設備はないだろう。地元を知ったる船長ならば、そんな港に近寄るよりは当夜は気象・海象も悪くなかったのだから港の沖で錨を打って、船体が大傾斜する前に救命ボートを繰り出せば被害者ももっと少なかったに違いない。どうもこの船長はさっさと船を離れた事などから、事態を軽く見て適切な手を打つ事が苦手なタイプで、船長の資格があったのか疑わしいと感じる。これがイタリア人気質なのかもしれないが、コスタ・クルーズも大カーニバル・エンパイアの傘下となっているのだから、キュナードやP&O、ホーランド・アメリカなどから相応しい船長やクルーの供給を受けてはどうなのだろうか?

飛鳥Ⅱブリッジの発電機モニター
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2012年1月16日 (月)

コスタ・コンコルディアの事故

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イタリアの大型クルーズ船”コスタ・コンコルディア”の事故が朝からテレビのニュースで流されているが、この2日間報道を見ていて様々な疑問が湧いてきた。それを列挙してみたい。

  1. YoutubeにアップされているAIS航跡から、本船はジリオ島の南あたりからコースを転じて急に島に接近を始めている様だ。そのコースは船長のプランであったとUSA TODAYのウエブ版で報じられている。事故は夜の9時頃に発生しているのでジリオ島に接近しても、島の景色を楽しめる訳ではないし、さして距離の短縮にはならないはずである。本船は何故その様なコースをとったのか。
  2. 船長は晩餐中でなくブリッジに居たとされるが本当か?見張りは適正であったか?
  3. 現場の様な水道では通常は自動操舵を使わないと考えられるが、仮に自動であったとすると気象・海象の変化で船位が予定したコースに乗らない場合に手動で適当な修正を行ったのか。
  4. 電子海図に依って操船していたと想定すると、コースを逸脱した際のアラーム設定などインプットに間違いがなかったか。
  5. 避難訓練は、乗船24時間以内に行う規定だそうだが、それが妥当なのか。
  6. 島に近寄りすぎて岩礁にぶつかり、船体に破孔ができたと思われる直後に、多くの乗客が船内電気が消えたと云う。ところが座礁後の報道写真では本船はライトを点けて救助を待っているが、機関室のディーゼル発電機はどの程度損傷したのか。岩にぶつかった後、機関室に浸水があったのか。
  7. 6基のディーゼル発電機で作られた電気で本船は推進力を得るが、事故から座礁に至るまでどの程度推進力が確保されていたのか。救助の為に島に近づこうとしたと報道されているが、動力が失われようとする船舶でそれは妥当な判断であったか。
  8. 島に近づいたのは船舶の輻輳水域から離れるとか、風や潮流の影響を島影で避ける事なども理由として考えられるが、現場はそれほど頻繁に他船が往来する海域でもない様だし、強風や大きなうねりなどもなかった様だ。なぜ岩に接触した後、安全な沖で救助を待たなかったのか。浸水がひどかったのか。
  9. 座礁して横転した写真からはフィン・スタビライザーが展開されたままであるのが判る。座礁せんとする時にスタビライザーが出たままなのは何か理由があるのか。
  10. 船長がいち早く本船を離れたり、乗客への適切な説明・指示・誘導がなかったのは何故か。

いずれにしても、VDR(ブラックボックス)やログブックの解析、クルーや乗客への聴取などで真相を究明してもらいたい。それしてもイタリアと云えば古くからの海運国であり、今でも多くの船会社がある。その一角で乗客を置き去りにしてイタリア人船長が避難したのならば、その伝統に傷がつくと云うものだ。ドイツ人が良く云う「いつの日かまたドイツと日本で組んで世界を制覇しような、ただし今度はイタリア抜きでな」と云うジョークが今日は妙にリアルに思い出される。

2012年1月15日 (日)

”かけっこ”はやめられない

東京マラソンの調整で、国立競技場周辺で行われた新宿シティーハーフマラソンの10キロの部に出場した。フルマラソンの前哨戦として、本当はメインのハーフを走った方が良いのだが、新宿の10キロにエントリーした後に東京マラソンの抽選結果が来たから仕方ない。というか長い距離をとことこ走るのも飽きて、たまには10キロ位のレースで短く切り上げたい、と云う気持ちが強い此の頃である。妻や義理の妹夫婦は朝から行われたハーフマラソンに出場するが、私の出る10キロは11時40分スタートというので、一人ゆっくり朝寝坊できるのもちょっと儲けものだ。


今日の東京は気温5度とやや寒いが、無風でマラソンには絶好の日和。ハーフに6000名、10キロに2700名、その他子供たちのレースも含めて約13000人のエントリー者、それに応援や付き添いの人も加わって、国立競技場はいつもながら市民マラソン愛好者で大賑わいである。そんな中、先にハーフマラソンを終えた妻や義妹夫婦3人がみな自己新記録で意気揚々と帰って来ると、今日は俺もやるかと云う気持ちが湧いてくる。まあマラソン練習の一環だから、スタートからあまり飛ばさずにイーブンペースで行こうと押さえ気味に走ったのが良かったのか、結果は41分半ほどのタイムで10キロの部で総合100番強、若い者に混じって還暦ランナーが上位5%以内に入る事が出来たと云うものだ。


長距離の記録は天候やコースで大きく変わると云うものの、このタイムは5年前、50代半ばで同じ新宿マラソンの10キロの部で出した記録より20秒ほど良い。最近は血圧が気のせいかいつもより高かったり、腕が重くて上がらなかったりで、医者に行こうか行くまいか逡巡して落ち込んでいた処なのである。妻の「いつも何をぐずぐず思い悩んで血圧ばっかり測っているのよ、一緒に居て健康そのものだけど、そんなに心配ならさっさとお医者さんに行ったら」とにべもない言葉にますます傷ついていた毎日なのだが、これで少なくとも5年前に比べて動脈硬化などが進んでいない気がして嬉しくなった。それにしても練習を続ければ、年齢に比例して体力が落ちるわけではないと実感し、これだから「かけっこ」は止められないよ、と思う日曜日である。
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2012年1月10日 (火)

ステーキで誕生日

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妻の誕生日に「何が欲しい」と聞いたら「ステーキが食べたい」と言う。妻は前世で肉が食えずに餓死したのかと思うほど、肉食(特に牛肉)にこだわりがあって、彼女とスーパーではぐれたら、肉売り場に行けば必ず見つかるという位だ。そこで牛肉のパックを手に取り、ためつすがめつ、どれを選ぼうかえらく逡巡しているのが、妻の買い物の常である。若い頃と違って今年もまた一才歳を取るのだから、あまり「ニク、ニク」言うなと説教するのだが、こればかりはどうにも止まらないのが彼女の性分らしい。

「ステーキ屋ならどこにする?」と聞くと、妻はネットであちこち検索した挙句、以前二人で行った事のある、丸の内国際ビル(帝劇ビルの棟続き)地下の”SCOT(スコット)”にしようと言う。何でもホテルなどで食べると飲食代の他にサービスチャージなどが付くので、スコットで食べたステーキの方が、同じ値段なら食べがいがあるらしいが、その肉に対する貪欲な姿勢に、私はいつもたじたじとなるのである。そういえば外国に行くと、妻は草履の様なステーキを注文して無理やりお腹に詰め込み、ホテルに帰っては「苦しい」と胃腸薬をよく飲んでいる。

国際ビルの「スコット」は開店してから40周年という事で、お店に入ると肉は旨いし、値段はステーキ屋さんとしてはリーズナブル、主に接待に使われる平日と違い休日はカップルや家族連れも利用している様だ。料理とともにアット・ホームなサービスを味わうと、この店が目立たないながらも丸の内の一等地で40年も続いて来た理由が何となく分かる気がする。当日は生ビールに始まり、ステーキコース(突き出し、サラダ、黒毛和牛ステーキ、焼き野菜、ガーリックライス、赤だし、おしん香、デザート)に足し肉を追加し、牛刺しや海老もついでに注文して、美味しいフルボトル・ワインをあけ二人で約二万円。「良質のタンパク質を食べると、幸せな気分になるものよ」と満腹で機嫌の良い妻を見て、やれやれ誕生日の義務を果たしたと肩の荷を降ろしたのである。

2012年1月 9日 (月)

ふるさと祭り東京

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東京ドームで開かれている「ふるさと祭り東京」に出かけてみた。「北海道から沖縄までご当地の逸品や話題のB級グルメ、魅惑のスイーツ・地ビールなど郷土ならではの”うまい”を思う存分お楽しみ下さい」と云う謳い文句に連れらてドーム内に入ると、各地のお祭りの演舞と共に、グランド一面ところ狭しと日本全国の名物料理のブースが並んでいる。何から買ってみるかと思案するが、その前にドームのグランドに降りるチャンスも滅多にないと、巨大なドームの屋根や観客席を下から眺め、しばしプロ野球選手の気分を味わう。

ちょうどビールの売店あたりがショートかなどと、きょろきょろしているうちに外野の切り立ったフェンスが目に入るが、最近の球場は外野フェンスにラバーが張られて、イチローの様な妙技が見られるハズなどとと思い出すのは私だけか? テレビで見慣れたドームのフェンスを見ると、急にその硬さを調べてみたくなって、食べ物の売り場の横からやおら小走りにフェンスに向かって走り出すると、周囲の人はあっけにとられて食べ物片手に一人走る私をポカンと見ている。ポーンと肩でフェンスにぶつかってみると、何人かから「結構柔らかいの?」など聞かれて、皆やっとここが球場である事を思い出した様だ。
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ソース焼きそばの匂いなどに触発されて、集う人はみな食べ物の事しか頭にないグランド模様である。外野フェンスの感触を楽しんだ後は、缶ビール一本片手に各地の名物食品サンプルを手当たり次第に口にいれていくと、結構これがツマミになって腹も膨れてくるのだが、良い歳をしてそれだけで帰るのもあまりにもみみっちくていけない。というわけで、富士桜高原の地ビールを飲んだ上に、鳥取のイカのうる焼き、値段の割りにボリュームのある石川県名物の「金沢カレー」に讃岐名物「オリーブ牛弁当」などをたらふく食べてお祭りを楽しんだ休日であった。

一緒に行った義妹のブログ「ふるさと祭り」

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2012年1月 8日 (日)

七草がゆ

新年は三日ほど会社へ行ってまた三連休である。自営業の時は正月明けに休みが多すぎる等と思っていたが、安定して月給を貰えるサラリーマンの身に戻ると、早々に嬉しい三連休と思えるから、自分も随分と現金なものだ。で、連休の初日に寝巻きのまま寝ぼけ眼で起きてくると、台所で妻が何やら甲斐甲斐しく調理をしている。何をしているのかと思っていたら、朝食のテーブルに出てきたのが「七草がゆ」であった。普段は朝まるで弱い彼女だが、節目毎のイベントには俄然張り切る「お祭りオンナ」の面目躍如である。

そういえば子供の頃”セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ春の七草”と覚えさせられたが、七草がゆは中国伝来の風習に加え、歳の初めに若菜を食べて一年の無病息災を祈る平安時代から定着した料理なのだそうだ。ちょうどこの時期、お正月の飲み食いで疲れた胃腸の回復に、お粥を食べてお腹を休めるのも先人の知恵だと言われている。たしかに昔は「盆と正月が一度に来た」と云う言葉が幸せのシンボルで使われた様に、お正月は人々にとって年に一度の大イベント、この後に簡素な食事で胃腸を整える意義は大きかったと想像できる。

考えてみると、私も最近は昼の会食がほとんどなくなり、昼にアルコールを飲む事もめっきり少なくなったのだが、この時期は「お正月だから昼からちょっと飲んで良いか」とつい油断して明るい中から飲んでしまう事も多い。そんな折、今年もがんばって週に1~2回は必ず禁酒日を設けようなどと殊勝な一年の計を考えつつ、妻のつくった「七草がゆ」を食べたのであった。数えてみると昨年は禁酒日が70日程だったが、今年はそれをもう少し増やそうか、いや我慢する方が却ってストレスか、などといつもながらに逡巡する正月明けである。
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2012年1月 6日 (金)

クアイ川

正月休みにBS放送で見た「世界の豪華鉄道の旅」で、映画「戦場にかける橋」の舞台になったクアイ川を渡る鉄橋が写っていた。この映画は連合軍捕虜の過酷な労働や日本兵との対立を通じ戦争の不条理や悲惨さを表現した名作で、これを見ると戦争中インド洋の制海権を持たない日本軍がビルマ(現ミャンマー)に進出するために、いかにこの鉄道の建設を急いだかが判る。アジアの地図を俯瞰すればミャンマーは中国のインド洋進出の南の窓口に当たり、戦略的に重要な場所で今でも中国が権益をさかんに拡大しようとしている通りである。


このビルマはイギリスの植民地であった処、20世紀に入り独立の気運が高まり、1935年に分離して内閣と議会が設置されたのだが、イギリスの支配は強く大戦前は植民地とも独立国ともいえない状況だったそうである。日中戦争が始まると日本軍は英・米からビルマを経由して中国へ入る物資ルートを遮断するため、イギリスからの独立を企てていたビルマ民族主義者を支援し、「南機関」という組織を作って彼らに軍事訓練を施すなど様々な援助を行ったのである。彼ら民族主義者はのちにビルマ独立義勇軍となり、戦後イギリスから独立を果たす際に重要な役割を果たしたと云う。


大戦後に起きたインドネシアの独立戦争にも多くの旧日本兵が、旧宗主国のオランダ軍に対して義勇兵として参加した事はあまり知られていない。インドネシアの独立の為に戦って戦死した日本人は英雄墓地に祀られているとある冊子で読んだ事がある。先の大戦についての評論は無数あれど、結局のところアジア各国が欧米の植民地支配のくびきを離れ独立を果たしたのは、この戦争が引き金になった事は間違いなく、その事を我々は誇りを持って見直さねばならないと思っている。どう考えても辻褄の合わない南京大虐殺や事実と反する慰安婦問題などを持ち出す自虐的な歴史観を払拭し、日本人が辿った足跡を正しく見直す作業が求められていると、年頭に東南アジアの映像を見ながら考えた。

2012年1月 5日 (木)

流行語は生き物?

職場で若手のメールなどをチェックしているが、通信の手段がテレックスからE-MAILになって文章の表現も随分変わってきた。昔は鬼軍曹の様な掛長や課長代理に厳しく怒られたビジネス・イングリッシュのお約束も、近頃は随分いい加減になっているし、日本人だけでなく海外からのメッセージもかつての文語調・ビジネス風から今では口語的になっている。集合名詞で必ず語尾にSを付けろと云われた"INSTRUCTIONS"(指示書)と云う単語が、英語が堪能なはずのインド人のメールにもS抜きで書かれていてびっくりするし、テレックス用語のREVERTING(後刻連絡する)は、WE WILL REVERTの様に自ら発信する際だけの単語だと思っていたら、最近は英語圏からのメールでもPLEASE REVERT(連絡乞う)などと使われていて単語の性質が変わったのかと驚く。


和文メールでは若者達がやたら丁寧な言葉で文章を作成するので、「ここでへりくだる必要なし」と書き直しを命ずると、彼らはきょとんとしているが、『馬鹿丁寧化する日本語』と云う本が少し前に売れた様に、やたらめったら丁寧でさえあれば無難であるという風潮が社会に蔓延している様である。この正月にテレビを見ていて違和感を感じたのが箱根駅伝の監督・選手のインタビューで、「早稲田さんは速い」とか「東洋大学さんは強い」など盛んにライバル校を”さん”付けするのだが、これがいたって耳障りで、「スポーツの対戦相手くらい憎らしげに呼びすてにしろよ」とテレビに向かって叫びたくなる。


そう云えば「半端ない」とか「がっつり食べる」「私って○○っていう人じゃないですか~」等と言うテレビ由来の流行言葉も、今ではすっかり市民権を得た様だが、私は気恥ずかしくてとても口に出来ない。ましてや男性名で出された文章が「~して下さいませ。」などと結ばれていると、オカマの文章かとゾーッとするのである。一方、我々が若い頃にはやった「ナウい」とか「イマい」は今では時代遅れのオヤジ言葉になってしまったし、一世を風靡した「イカス」という言葉などは完全に死語になってしまった。言葉は生き物というが、一体十年後に今流行っているフレーズなどがどの位が生き残っているのか、テレビのバラエティー番組でも録画して検証してみたいものである。

2012年1月 4日 (水)

西武新宿線脱線事故

昨年の事は遠い過去の様に感ずるのだが、つい一週間前のクリスマス・イブの夜には、西武新宿線の東村山駅でおきた西武園発・新宿行きの電車脱線事故が報道された。事故は最新鋭20000系8両編成の7両目(モハ車)でおき、これまでの発表では線路への置石や速度超過が原因ではないとされている。幸い怪我人などは出なかったが、毎日、何百本の列車に何万人もの人が何事もなく現場を通過し、車両や設備・保線などに相応のコストや注意が払われていた大手私鉄でも、ハードに潜在する原因で脱線事故が起きると云う事を思い起こさねばならない。

東村山駅の脱線事故現場を写真や地図で見ると、西武園駅から支線を走って来た新宿行き電車が、下り(副)本線をポイントで跨いで上り(副)本線の駅ホームに入ろうと云う箇所の様だ。複雑な線路配置の中で電車が減速中、かつ乗客も少なく軽い車両状態で起こった事故であるから、ちょうど2000年に起きた日比谷線・中目黒の脱線事故を思い起こさせる。日比谷線事故で原因とされた「輪重のアンバランス」で西武線でも車輪が線路に乗り上げ脱線したのかもしれないが、その他レールと線路の摩擦とかブレーキ作動の問題、ボルスタレス台車の是非など色々な事が今後の調査で解明される事だろう。

国交省の運輸安全委員会のホームページには早速この事故が調査中として掲載されているが、この機会に改めてこのページを見ると、昨年だけでも我が国では12件もの脱線事故が起きている事を知り驚くのである。これまでに掲載された綿密な調査報告書を読むと、安全な乗り物とされる鉄道でも、その安全運転の為には過去の蓄積が充分活かされている一方、事故がその盲点を突いてやってくるのも解るのである。そんな中で西武線事故を念頭に描きつつ、最近の事故調査報告書を読むと、2009年に大阪・吹田信号所で起きた貨物列車脱線事故が停車直前の低速脱線事故としてなかなか興味深かった。


この事故は大阪吹田信号所に入線する25両編成の貨物列車の空の9両目で起こった脱線事故だが、前方信号が停止現示の場合にATSの確認ボタンを押した際、一定の条件の下では非常ブレーキが全列車にかかってしまうという電気的なソフトの問題が事故の誘因であった。加えて貨物列車のアナログな空気ブレーキの特性で、前から順に非常ブレーキが掛かって前部が停止しようとするに対し、ブレーキがまだ作用しない後続車両が慣性で前車両を突き上げた為に、軽い9両目が浮き上がって脱線したと云う。鉄道と云うシステムは最新のテクノロジーで成り立っている一方、昔ながらの部分も残っていて、未だにちょっとした事で脱線事故などが起こるという微妙なものでもある。こういう一面がシステムとしての鉄道をより興味深くさせるのだが、今回の西武線事故の調査からは、また脱線に対する新しい安全対策を見出して欲しいものである。


2012年1月 3日 (火)

箱根駅伝初日

5年ぶりに我が家で正月という事でまったりと過ごしている。昨日は近所の靖国神社へ初詣に行ったが、3が日にここに来るのも久しぶりと思ったら、随分と人出が多くなって驚いた。お参りするにも30分ほど列を作って待たねばならなかったが、善男善女に混じって拝礼した。境内には一部サヨクなどが建設を求めている「国立戦没者追悼施設」に対し、建設反対の署名コーナーが置かれていたので妻と名前を書いて帰ってきた。

そんな訳で今年はゆっくりと箱根駅伝のテレビ中継を見て正月休みを過ごす事になったが、それにしても最近の箱根駅伝の高速化には驚くばかりだ。往路トップの東洋大学は5時間24分台の新記録だそうだが、我々が走った昭和40年代後半は往路のトップは大体約5時間50分から6時間かかっていたから30分も早くなっている。昨日山登りで大ブレーキの東農大の記録は6時間6分で、これは昭和48年なら往路2位に入るほどである。往路は4区と5区の中継地点が変わっただけでコースは当時と変わらないから、いかにこの40年間でレースが速くなったかが判る。

当時は大学の進学率も低く、長距離を志す若者は大学に入るより実業団を志向したから、そもそも大卒生の長距離選手の層が今とまったく違った。その上昭和50年代にテレビ中継が始まる前は、箱根駅伝も関東学連の一ローカルレースであったから、下位出場チームは20キロを走る選手を10人集めるのに四苦八苦していた。現在の隆盛と高速化は、学生陸上として同慶の至りであるが、外人選手が走ったり私立学校の宣伝の場になったりしているのもちょっと残念ではある。せめて昔の様に伴走のジープに各校ののぼりを押し立て、応援団がトラックで伴走するアナクロな雰囲気くらい復活しても良いのではないだろうか。


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