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2011年9月

2011年9月27日 (火)

光速より速い物質

ニュートリノが光速より速く飛んでいるという説が発表された。と云っても、そもそもニュートリノって何?の文化系の私には、新聞やネットの記事を読んでもさっぱり解らない事が多い。しかし「 光速より速いものはない 」というアインシュタインの特殊相対性理論で説明できた、これまでの宇宙や物質に係わる概念が覆る可能性のある大事件である事くらいは理解できる。


中学生の頃「 宇宙の果てはどうなっているのだろうか? 」とか「 物質を細分化していくと最後はどうなるのか? 」等と云うほとんどの子供が疑問を持つ事に興味を覚え、新書のブルーバックス本を買っては、数式のあまりない「 お話 」としての物理学を楽しんだ時代があった。宇宙空間はエーテルで満たされているとか、相対性理論で時間が変化する等の解説には感動したのだが、結局のところあまりにも我々が日常知覚する世界を超えた現象で、ピンとこないまま読了した事を思い出した。


そんな門外漢も、光速より速く移動する物質が存在するという今回の発表には、大いに興味を持つものである。たしか光速に限りなく近い速さで飛ぶロケットで飛行すれば、ロケット内の時間は地上よりゆっくり流れるので、理論的には未来に行く事が可能だと云われていたはず。今回の発見で、光速を超えて移動する事が可能になると、時間が逆に流れて過去に行けるのでは、などと云う科学者の論評もあるが、そうなるといよいよタイム・マシンは理論的に実現可能なものなのか、とロマンの心が湧きおこる。なにやら「2001年宇宙の旅」でスタンリー・キューブリックが描いた世界を思い浮かべるが、人類が過去へ行けるとなると、「過去で起こった事で現在がある」と云う因果律は一体どういう事になるのだろう。世界は我々が知らない事で満ちているという事を改めて認識する。

2011年9月25日 (日)

船の科学館、閉館

東京のお台場地区、品川区東八潮にある船の科学館が9月末日を以って閉館するというので、これが最後と名残りを惜しみつつ、この連休に訪問した。ここは今まで何回か来た事があるが、37年間の展示にピリオドを打つと云う事で、入場料もいつもの700円が200円と安くなり、多くの家族連れで賑わっていたのだった。船の科学館は旧日本船舶振興会(現日本財団)が中心になって建設されたものだが、昭和40年代の”行け行けドンドン”時代ならではの壮大な白亜の建物で、館内には大型ディーゼルエンジンの実物大模型や最新の航海設備を備えたオブザベーションデッキ(操舵室)など様々な展示物があり、屋外にも砕氷船「宗谷」や旧青函連絡船「羊蹄丸」が保存され、いつ行っても新たな発見と知識が得られた楽しい場所であった。


今回は特別企画として設置された「日本の海」のコーナーが興味深く、尖閣諸島や竹島問題の経緯、日本の排他的経済水域(200マイル)の資源利用など、近年話題のトピックスが映像も交えて多様な角度からディスプレイされていた。この種の博物館の常で、館内は子供達が相変わらず駆け回っているのだが、「日本の海」のコーナーだけは中年以降の男性が熱心に展示を見ていて、この問題の注目度が高い事が伺え時宜を得た企画の設定にも好感が持てた。この「船の科学館」は、とかく様々な噂や憶測に包まれた故笹川氏の功績で出来た施設とかで、前庭に置かれる「老いた老人をおう笹川像」などは鼻白む思いでとても好きにはなれないが、これまでの財団の功績はそれとは別に賞賛されるべきものだと感じた。


それにしても思うのは、列車の休止にしろ、博物館や美術館の閉館にしろ、いつもこんなに人が入っていれば閉館する必要がないのであって、閉館や運転中止を惜しむくらいなら日頃ちょっとでも足を運んだり乗車したらどうかと問いたいものである。公営・私営を問わず各地にある博物館などは「 みなきゃ損 !」とでも云うばかりの立派な展示と工夫が成されており、それらを安い料金でゆったり見学できるから、歳をとって時間に余裕ができたら、平日の昼間にでも、せいぜいこれらの展示を見る事を皆に薦めたい。それにしてもここが閉館されると、新交通「ゆりかもめ」の「船の科学館」と云う駅名は来月からどうなるのだろうか?

特別企画展「日本の海」
20110925

2011年9月24日 (土)

ボケ

新しいジャケットを着て、ちょっとした会食から帰ってくると、胸元にソースのはねた後を点々発見する云う事が増えた。昼食にラーメンを食べる時はどんなに注意しても、ネクタイかワイシャツにシミがついてくる。自宅のテーブルでご飯を食べてながらちょっと油断をすると、箸でつまんでいたはずの食べ物をぽとりと落として、傍らの妻に呆れられる。あまつさえ一旦口に入れたはずの食べ物が、どうした弾みかぽろりと口元からこぼれ出る事さえある。だんだん脳の中のどこかの神経が緩んで来ているのではないか、という思いが湧いてくる。


今日はジョギングの時に使っている、ラップなどが計れるストップウオッチ付きの腕時計が見当たらない。たしか昨日まではここいら辺りにあったはずと思い当たる場所をいろいろ探してみるがどこをさがしてもどうにもみつからない。昨日の行動を思い起こしてみるとジョギングした後にどこかに置いたのは間違いないのだが、その辺りの記憶がどうもあやふやなのだ。その時のスポーツウエアのそばに置いてあるかと考えるが、汗にまみれた服はすでに洗濯機に放り込んである。以前「ここへ持っていった事は間違いない」と豪語して、そこを調べたらまったく違う所から探し物が出てきた事があるから、自分の記憶などあやふやだとは観念しているが、あるはず、おいたはずの物がこうも見当たらないと不安にもなってくる。


今一度、少しでも可能性のある場所を、と思って洗濯機の中の昨日のスポーツウエアのポケットをまさぐるが、空しいかなポケットからは何も発見できない。とその時、洗濯機の浴槽にキラっと光る金属らしきものが目にとまる。もしやと思いつつ洗濯物の山に手を突っ込むと、あった、ありました、まさにその時計である。どうも汗まみれのウエアーと共に洗濯機に放りこんだらしく、妻に「あった、あった」と叫ぶが傍らで妻は複雑な表情を浮かべている。「 その洗濯物は、夕べ全部洗ってあるのよね、まだ浴槽から出してないけど・・・ 」「 それから乾燥もかけているから 」と彼女は冷たく言い放つ。そういえば夕べは洗濯機が深夜遅くまで「カラン、コロン」と派手な機械音をたてて廻っていた様な気がするが、まさかそれは我がストップウオッチが70度の温水でスクランブルされ、熱風でグルグル乾燥されている音だったとは露ほども思わなかった。


で、その洗濯・乾燥済みのストップウオッチをあわてて取り出し、おそるおそるボタンを操作してみるが、あちこちの機能を試してみてもどうやらどこにも支障がない様で、自分の軽率さは忘れて日本製の時計の優秀さに驚く。で、今日はジョギングに際してそのランドリー済みウオッチを再びはめてみたのだが、漂泊剤でやや色が薄くなった上、柔軟剤でベルト生地のさわり心地が柔らかになった気がした以外、ストップウオッチはとても正確に時を刻んでくれたのであった。それにしても物忘れや食事のこぼし、ついには時計を洗濯へとだんだんボケが入ってくる様で、この先どうなる事やら我が身を案じる日々だ。

20110924

2011年9月23日 (金)

帰宅難民

台風15号は夕方に首都圏を直撃して、JR・私鉄とも運転を見合わせた為、多くの人が帰宅の足止めを喰った様である。今朝は「 昨晩はどうやって帰ったか 」が各職場の話題になった事であろう。私の職場でも飲食店で時間をつぶした人、会社に戻って台風が通り過ぎるのを待った人など、それぞれ昨日の帰宅方法を話している中で、一人とてもうまい手を使って帰宅した人がいた。


彼は電車で1時間ほどの郊外に住んでいるのだが、昨日は鉄道が運転見合わせというニュースを聞きつつ、会社を早めに出た足で都営地下鉄・京浜急行で羽田空港へ行き、そこで最寄の駅行きのリムジンバスに乗ったそうだ。いつもよりもちろん時間が掛かったが、最近は羽田から郊外の駅に多くのリムジンバスが運行されており、台風で運転が中止になる鉄道を尻目に快適に帰宅できたと言う。羽田をポイントにして、便利なバスで帰宅の足を確保するとは、なかなか着眼点が鋭いものだと感心する。


鉄道がない点から云うと、アメリカに出張する際の移動は、もっぱら飛行機かクルマという事になる。しかし飛行機は最近のテロ対策と赤字対策で、とにかく搭乗手続きが不愉快な事この上なく、200~300マイルくらいのフライトならなるべく地上を移動したいところ。となると残るはレンタカーになるのだが、レンタカーは片道乗り捨の場合には料金がとても高くなる上、そもそも出張でレンタカーを禁止している会社も多い。


そんな際に思い出すのが、アメリカの個人の運転サービスである。これは外国船のクルーがアメリカで交代する場合、空港と港の間でクルーを移送する必要がある時、自家用車を使ってパートタイム的に、それを請け負うサービスである。私もかつて9・11テロ後でフライトが乱れていた頃に、約200マイル程はなれたシアトルとポートランドを移動するのに、これを利用した事がある。3時間余りの車中、いろいろ運転手と話すと、彼は予備役の軍人で普段は地元で農業をしているが、船舶代理店などからクルーの送迎依頼があると自家用車で仕事をすると言っていた。まあ日本で云えば白タクの様なものだが、料金はたしか数百ドルで飛行機の正規運賃程度だったと記憶している。


こんなアルバイト的運転サービスは、日本では規制やら法律で禁止されているのだろうが、昨日の様な帰宅困難日には、自家用車を使って雨風の中を歩いている人を送るもっと効率の良いシステムが出来ないものか、アメリカの自由な例をちょっと思い出したのだった。


2011年9月21日 (水)

給与明細

契約社員ながらサラリーマンに戻って一ヶ月弱。今週末は3連休というので、明日が最初の給料振込み日である。以前サラリーマンだった頃は給料日とか給料明細などにはほとんど関心がなく、最後の支給額だけをちらっと見て「そんなものか」と思っていたが、自営業を5年経験してみると、この間に自ら支払っていた税金や社会保険の項目が、今月はどうなっているのか結構気になるものである。


という事で、明日振り込まれる明細を知ろうとすると、自分のものは各自で社内システムで検索しろと云われる。仕方なく画面のインストラクション通りにパソコンを操作すると、画面の最初に出てくるのは「あなたのパスワードを入れて下さい」、である。入社した日にバタバタしつつ訳のわからぬまま設定したパスワードだが、やっと使い慣れてきた業務システムのパスワードと違って何を入れたのかうろ覚えである。たしかこれだったかと思いつくまま入れてみると、「 同じものをもう一度入れろ 」と有難いシステムのご宣託。


おそるおそる又同じものをインプットすると、案の定「 パスワードが違っています 」と出てきてがっくりする。何度間違えてもペナルティがある訳でなしと悪戦苦闘、幾度かトライするうちにどれかがビンゴだったらしくやっとその先の画面に進めるのである。やれやれと思うのもつかの間、そう簡単に目標に到達するほど物事は簡単ではなく「 明細が表示されたファイルを開くにはもう一度パスワードを入れろ 」と相手はあくまでしつこい。つい「 勘弁してくれよ、自分の給与明細を見るのに三回もパスワードを入れなきゃいけないのか 」とパソコンに向かって大きな声を張り上げると、若い社員からは「このおじさんは何を叫んでいるんだ」と冷ややかに見つめられる。


昔の様に給与は現金で配れとまでは言わないが、各月の労働の対価である「振込み明細」くらいは、少なくとも封筒などで各人の机に配られるもので、パスワードと引き換えに個人が得るものではないと私は思うのだが、ちょっといない間にサラリーマン社会も随分変わったものである。進むシステム化に対応し幾つかの不自由に堪える事によって得る雇用の安定と、連休の前日に間違いなく自分の口座に金が入ってくるという安心感、自営業と雇われ人の間を行き来すると、どちらの身分にも一長一短あるものだとの感慨が湧き上がる。それにしてもこの暗証番号だらけの社会、老齢化に伴ってそのうち何が何やら判らなくなる場面が社会のあちこちで起きるだろうな、と苦笑するのである。

2011年9月17日 (土)

夜の皇居ランニング

自営業者から会社員に戻ったから、以前の様に「 ちょっと空いた時間にジョギング 」と云う訳には行かなくなった。仕方なく仕事が終わった後に、夜の皇居などに行って走っているが、最近トミに仕事帰りのランナーが増加しているのに気が付く。特に企業によってはノ-残業デイが設定されている水曜日の夜は、皇居周回の5キロのコースは夥しい数のサラリーマン・ランナーで溢れかえる。午後7時から8時のピーク時には、各100米当たり少なくとも20人のランナーが走っている様で、さながらマラソンレースのスタート直後の様だ。


大抵は職場の仲間が集まって数人で走っている様だが、半数くらいは女性ランナーで楽しそうにゆっくりと走っている。私とくれば、先の東京マラソンで、予定より速く飛ばして後半大失速した様にどうもゆっくり走るのが苦手で、水曜日の夜などは彼らの集団を抜きつつ走る事になるが、何しろ100米で20人だから1周5キロで1000人を抜く事になって、狭い歩道を右に左にジグザグに走る。昼はエリック・ワイナイナとか谷川真理などのほか、ほんちゃんの長距離選手や高校生が時々走っているので、抜かされる事もままあるが、夜はまず抜かされない。


そう云えば大学の4年間は駅伝の他、5000米や10000米で一周遅れになって抜かされた恥ずかしい事もあったから、皇居で前を抜くたびに、あの時のリベンジの様な気持ちも湧いて来て、思わず予定以上に突っ走ってしまうのだろうか。それにしてもアラ還ランナーが若い男女を抜き差って行くと、学生時代に抜かれたランナーの何倍の人数を抜きかえしたのだろうか、などと云う変な考えが湧いて来て、人生ってのは抜かれたら抜き返す事もあって、どこかで辻褄があってくるのか、といささか場違いではあるが、そんな気持ちにもなってくる。


それにしても、最近のランナーたちはランニングパンツの下などによくスパッツをはいている。この度の世界一周の途中、ヨーロッパやアメリカでジョギングして、その国のランナーのコスチュームを観察してきたが、スパッツを多用するのはどうやら日本だけの様である。最近の製品はいくら機能性スパッツなどと謳われていても、何かに肌が覆われるより、素肌で走る方が気持ち良く走れるのではと昔かたぎの私などは思う。特に夜は紫外線で肌が焼ける事もないし、まだ蒸し暑い季節なのにスパッツで厚着して走っているランナーを見ると、形から入るのも走るモチベーションの一部なのだろうなと、微笑ましくも思うのである。

2011年9月13日 (火)

宴会の開始は?

昔の職場の先輩や旧友から飲みに行こうぜと時々声がかかる。酒は好きなので都合がつけば快諾するのだが、問題は開始時間である。相手は「 俺は暇だから、3時に京橋でどうだい 」などと言うお誘いが最近トミに増えてくる。「 いや、今は新しい会社に行き始めた処だから、少なくとも5時過ぎないと無理だよ 」と答えると、「どうせ、呑み助ばかりですぐに終わる訳ないから、夕方あいたら来いや 」などと云われる。若い人が一生懸命残業しているのを横目に、悪いなと思いながら会社を抜けて2次会などに駆けつけると、まだ夕方の酒場に集まった連中はみんな年をとって酒に弱くなり、よだれを垂らす奴やら寝ている奴やらも多い。そんな酔っ払いには何を言っても次の日は覚えていないから、気楽に楽しく呑めるというものである。


10年ちょっと前までは昼酒が当たり前の職場で、お昼に出て行ったきり夕方まで帰ってこない猛者も随分いて、携帯がなかったから当人を呼び出す時は、行きつけと思われるホテルのバーなどに片っ端から電話したものだった。大した秘密があるわけでもない職場の出入りに、最近はセキュリティーとかで鍵がないと入れなくなった為、お客さんや業者の人が滅多に来なくなり、若者は何かにとり憑かれたかの様にパソコンと格闘している。そういえば最近、某大商社の元幹部だった2人のシニアーと法事で、その話をしたら、「あんな鍵のかかった職場に誰が顔を出すものか」「誰に用事ですか、アポはありますかなどと受付で聞きやがる」と怒っていたので、皆考える事は一緒だと思わず笑ってしまった。


そんな世知辛くなる世の中から逃れる様に、もと居た会社や部署のOB会に参加する回数が増えてくるが、もう誰が出世したなどという生臭い話もしなくなり、名刺の交換枚数も少なくなる。私の様にまた会社員勤めに戻ったと言っても、一同「フーん」と云うだけで、さっぱりした会話が気持ちよい。まだ本社に残って役員で活躍している連中などは、今は顔を出さないが、彼らも数年後にはすっかり油ッ気がぬけて、ワイワイ若い時の様な他愛のない会話に戻るのだろう。しかしこのままこの連中が年を取ると、そのうち「朝から飲もうぜ」とかいうお誘いになる様で怖くなる。

2011年9月12日 (月)

夏の節電が終了

東京電力の夏の節電運動が先週末終わったそうだ。一斉節電の掛け声で、暗い駅構内を我慢し、冷房の温度を上げ、電車の間引き運転はおろかビルトイレの温風乾燥機まで止めて「 国民 」はこの間「 協力 」してきたはずである。ようやく夏の電力需要のピークが終わった今、この節電運動も終了したと報じられるが、当事者である東京電力からは一向に「お礼」や「お詫び」のアナウンス・広告がない。


経営破たんしたJALでは出直しに際して、新聞に大きな新生JALの広告を出して、過去の訣別と新たな決意を述べていたと記憶する。それに比べて同じ親方日の丸の東電は一体どうなのだろう。今夏の電力需給見通しも嘘だらけ、電力料金認可の為のコスト計算も大幅な水増し、役員・社員は高給、そして原発事故で雲隠れした(元)社長などなど、この会社の社会を舐めた様な姿勢を見ていると、こんな企業が社会のインフラを担っていたのかと思わずぞっとする。


仮にマスコミを通じての感謝広告がコストがかかると云うなら、この時期社員一人一人が街角で、或いはお得意先の企業や家庭を廻って、この間の協力に対する謝意を直接表わしたらどうなのか。これまでもIHレンジを始め、家庭内エネルギーのオール電化をアピールしてきた企業姿勢を、改めて検証する広告も見た事がない。きっとこの会社は、自分達は国策の被害者で何も悪くない、悪いのは津波と国くらいに思っているのかと思ってしまう。


今日の東京電力のホームページには、とってつけた様に「節電にご協力いただき、ありがとうございます。皆さまのご協力により、電気の供給は、比較的余裕のある一日となりそうです。」とだけあった。

2011年9月11日 (日)

夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが 一羽、二羽、三羽

20110911

春は飛鳥Ⅱ・ワールドクルーズの船上にいたので、何十年も通っている東京六大学野球リーグ観戦に行けなかった。しかし船上に届く新聞の衛星版を見て、母校が優勝した事を心中密かに喜び、船内のバーで一人ウイスキー水割りで乾杯をしたのであった。なにしろ昭和40年代初頭から今までに行われた春・秋100回近いリーグ戦のうち、1試合も観戦に行かなかったのはアメリカに居た6シーズンと飛鳥Ⅱクルーズでの1シーズン計7シーズンだけだから、私にとって春・秋のリーグ戦の季節と云うと、試合予定を見てはそわそわするのである。


さてそんな訳で、今日は昨秋以来になる神宮球場、2011年秋季リーグ戦第1週カードに神宮球場に馳せ参じたのだった。真夏の様な陽射しの中で行われたゲームだったが、8週間に亘るリーグ戦最後の早慶戦の頃になると秋も深まり、「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが 一羽、二羽、三羽・・・・・」と戦前のNHK松内則三アナウンサーの名調子が脳裏に浮かんでくる様な季節になるのである。陽光輝く春の神宮外苑も良いが、つるべ落としの夕陽の中で行われる秋のリーグ戦はこれまた風情があるものだ。


今日は開幕週の第2日で第一試合は早明戦。早慶戦に劣らない人気カードが、第1週から組まれるのは両チームとも今春4位・5位と振るわなかった為で、両校のファンにとっては何とも残念な事だろう。試合は3対3の拮抗した試合だったが、9回明治4番手ピッチャー森田(4年・大垣日大)が投前バントを2度も内野手に悪投(1回は公式記録は野選)して自滅、6対3で早稲田が勝ち1勝1敗になった。それにしても明治はエース野村(4年広陵)で第1戦を取っても、第2戦を勝ち切れないという春以来の課題が露呈した様である。


第2試合の慶東戦、慶応は白村(慶応高校)の先発で大いに期待したのだが、彼のピッチングには少々がっかり。高校時代からプロも注目していた地を這うような豪速球はなりをひそめ、変化球でカウントを稼ぎせいぜい143キロくらいのストレートで打ち取っていたが、こんな事を昨秋から練習してきたのか。しかしその制球も時々ままならないとあっては、もう一皮剥ける必要がある様だ。まあ素人の勝手な願望や批評が許されるのが野球観戦の面白さで、そんなこんなを思いながら炎天下、日がな学生野球を見ていると、明日からの会社の事もすっかり忘れて身も心も軽くなるのだった。そして今も耳の裏では、一日中ガンガン聞いていた早明・慶東の応援歌が鳴り響いて、何故だが幸せな気分になるから不思議なものだ。

2011年9月 8日 (木)

嗚呼パスワード

昨晩の事である。携帯にメールが入るので「こんな時間に何だろう?」とそれを開くと、再就職先の会社が委託している従業員安否確認システムから、「北海道沖で震度5弱の地震があったので、念のため安否を連絡せよ」とのメッセージである。そう云えば入社日早々に、そのシステム案内メールがデスクのパソコンに来ていたから、連絡先として自分の携帯アドレスをインプットしていた事を思い出した。あわててそういう連絡に慣れている妻を叩きおこし「これはどうやって返事するのだ」と夜中に三拝九拝して返事を打ってもらう。


と思うと、会社では「ブラックベリーをお渡しするので、システムの部屋に来て下さい」と呼び出される。「 あのな~、サラリーマンはな~、通勤の往復に財布と定期以外持たないからサラリーマンなんだ、そんなもの誰が持つか 」と思わず喉まで声が出掛かるが、そこはアラカン契約社員の弱み、すごすごとオタクっぽい社員がたむろするシステム関連の部屋に出向くと、若いあんちゃんが「こんなの簡単で全部わかっているでしょうが」とでも言いたげな訳のわからない説明をする。


という具合で9月1日に再就職して約1週間が過ぎた。業務内容などは目をつむっても出来ると豪語したいところだが、現場に復帰して驚くのはここ10年のIT化の進行。出勤してパソコンの電源を入れると社員IDやらパスワードを入れなくてはならない。生来このテのもの、例えばキャッシュカードの暗証番号を入れる際にも気の小さい私などはドキドキするくらいであるから、朝一番から次々とスクリーンに登場する暗証にウンザリである。会社のパソコンなど、誰かが私に成りすまして何をしようと大した事もないのに、この仰々しさは一体何なのかと辟易とする。


この間は外出する際に、携帯番号を書いた付箋を自分の机に貼り、隣の若い女性に「 ここに番号書いておくから何かあったらよろしく 」と伝えると、「 それだったらワークフローシステムの然るべき場所に緊急連絡先を登録する場所があるからそこにも入れておいて下さい 」と言う。「出かけてくるぞ~」と大声で叫び、携帯の番号だけを大きく表示した方が簡単で、皆にわかり易いだろうと思いつつ、そこは新しい職場で変なオジサンとして嫌われたくない一心で、子羊の様に職場のルールに従う小心者なのである。


この話を妻にすると、どうやら私はPCやらシステム化など、「ヒト」・「肉声」・「対面」を介さない情報の流れに異常なまでの拒絶反応を示す傾向があると指摘される。「顔を見て隣の人に携帯番号を伝える方が確実じゃないか」と先の件を主張すると、最近の企業は経費削減で極限にまで人を減らしているため、PCが出来ることはPCにやらせるということらしい。しかし私の元の同期は、部長時代に部内連絡にパソコンでメールを使う事を禁止し、すべて大声を出すかミーティングすべしと命じていた。その他、未だに銀行の現金の出し入れは、通帳とハンコで窓口でしかやらないという友人もいる位で、ITを信じない人間はまだまだ社会に多いのである。IT化や業務効率化はサービスをプロバイドする側には便利なものだろうが、それを利用する側には余計な手間とストレスを与え、実は社会全体では本当に効率が促進されているのかは、甚だ疑問であるというのが、ITには反動的ないささか時代遅れの私の持論なのである。

2011年9月 6日 (火)

夢かうつつか

サラリーマンに戻って、改めて思い出したことは、勤め人はいかに時間に縛られるかという事だ。約定の収入を得る為には時間と労力を売らなければならないのだ、等と当たり前だがマルキストの様な事を考える。それにしても2週間前のハワイが、遠い過去の出来事だ。飛鳥Ⅱのワールドクルーズに至っては、あれは夢だったかとさえ思うのである。

で、夢でない証拠に、2週間前にオアフ島のノースショアへの途中に在った、人気屋台レストラン「ジョバンニ」の”ガーリックシュリンプ”の写真を引っ張り出してきて見る。バターのかかったライスにガーリックの効いたシュリンプ。これを昼に食べただけで、夕方になってもお腹が減らなかったものである。嗚呼又ハワイに行きたい…!!!


妻が横で「今日のは何だか最近の若い子のブログの様で、質が落ちてるわ」とのたまっている。でも、慣れない職場での労働後に立派な文章などなかなか出て来ない。明日も会社か。あれだけ遊んだのだから、社会復帰するのにこの位しんどいのは当然なのだろうな。

20110906

2011年9月 3日 (土)

ポルシェ904 VS スカイラインGT

9月1日から会社員に戻った。30数年間の会社勤めを辞め、友人と二人で自営業を始めたのが4年前。以来マイペースで仕事をしてきたが、やはり2人でやる会社にして往々に起こりがちな価値観の相違が顕在化して、喧嘩などをする前にコンビを円満解消したのが昨年末であった。そんな時「うちの会社に来ませんか?」とありがたいお誘いがあって、今の会社へ契約社員として勤める事になった。仕事の中味は勝手知ったる内容だが、この5年間で業務のシステム化が更に進んで、何をするのもパソコンに社員コードやさまざまな暗証番号を入れなければ、一歩も前に進まないのにアナログおじさんは困惑する。また大部屋での仕事も久しぶりで、今は「人とパソコンに酔っている」という状況か。それにしても還暦近くなって、また新規雇用してくれるとはありがたい事で、精々子供の様な若い社員達の邪魔にならない様、かつ少しでも私の経験が活かせる様、しばらく試行錯誤の日々になるだろう。


それはさておき、この前のブログ「ぼくの日本自動車史」の話である。私は、この本の著者・徳大寺有恒氏が「本格的スポーツセダンを目指しながら、あまりにも浪花節」と評するスカイラインのファンで、代々このクルマを乗り継いでいる。子供の頃にド・デオン・アクスルとかグリスアップ不要などとほとんど意味がわからないまま旧プリンス社(現ニッサン)が先進性を披瀝する広告に魅せられていたのだが、プリンス・スカイラインを決定的に意識し「大人になったら絶対買おう」と思ったきっかけが1964年の日本グランプリである。このGTレースで生沢徹選手のスカイラインが式場壮吉選手のポルシェ904を一瞬抜いたのがテレビで実況生中継されたのを見て、大いに興奮し戦後の日本の工業製品が、欧米製品の後ろ影を踏む位まで近づいた様に感じたのだった。


私の自動車選好の原点だったこのレースの真相が「 ぼくの日本自動車史 」に語られていて、「 なるほどそうだったか 」と最近、目からウロコの思いした。ちょっと長いがその箇所を「 ぼくの日本自動車史 」から引用してみたい。

<引用開始>

「式場君が持ち込んだポルシェは、スカイラインとは次元が違うクルマだ。904は重量がわずか570KGしかない本格的なレーシングカー。かたや2000GTは1t以上もある重戦車のような乗用車なのだ。この両車が本気で闘ってまともな勝負になるわけがない。そいつは式場君はもちろん、スカイラインに乗っていた生沢徹君も同様、よくよくわかっていたことである。」

「(略)、このレースには、紅一点の女性ドライバーが初代フェアレディに乗って参加していた。彼女は5周も走れば、早くも周回遅れになるという飛んでもないノロマな走りっぷりであった。式場君はこのフェアレディーをヘアピンカーブで抜こうとしたが、フェアレディーはいきなりフラフラと尻を振った。危ないとブレーキを踏む。そこをスカイラインの生沢君がドーンと抜いたのである。」

「式場君や生沢君はレースを通じた仲のいい仲間だった。このレースが始まる前も生沢君は、『 おい、式場、万が一オレが抜いたら、一周ぐらいトップを走らせてくれよ 』と、冗談で語っていた。式場君はスカイラインに抜かれた瞬間、この言葉を思い出した。その気になれば式場君はこのヘアピンの先の直線でスカイラインを軽く抜けたのだが、『 ひとつ、グラウンドスタンド前ぐらいは徹のやつに走らせてやるか 』と思い、生沢君のスカイラインを先行させた。かくしてスカイラインがポルシェを従えてグランドスタンド前に現れる、かの伝説のシーンとあいなったわけだ。」

「(略)スタンドを埋めた十数万人のファンは、ワーっと熱狂し、大歓声を上げた。その瞬間、みんなポルシェに憧れながらも、突然、日本人の血が沸き上がったのである。(略)」「式場君のポルシェはその大歓声の中で、悠々とスカイラインを抜き返した。そしてそれを最後にスカイラインは二度とポルシェを抜き返す事はできなかった。しかし、この偶然のドラマはスカイラインと云うクルマを日本人のクルマ好きの心に強く焼き付けた。(略)」

<引用終了>

日本のレースの揺籃期とは言え、なんと洒脱な戦いぶりであろう。生沢選手にしろ式場選手にしろ金持ちの息子で、そういう人達がレースをしていた時代の事である。もしこの話が本当だとすれば、スカイラインに憧れて購入した私などの消費者は、彼ら金持ちの一流のシャレに乗せられた事になるわけだ。しかし何だか世知辛い最近の世相からすると、微笑ましい「古き良き60年代」を思い出させる逸話であって、そんな夢の様な話に乗せられてクルマを代々選ぶのも良いか、とも私は思うのである。


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