9月1日から会社員に戻った。30数年間の会社勤めを辞め、友人と二人で自営業を始めたのが4年前。以来マイペースで仕事をしてきたが、やはり2人でやる会社にして往々に起こりがちな価値観の相違が顕在化して、喧嘩などをする前にコンビを円満解消したのが昨年末であった。そんな時「うちの会社に来ませんか?」とありがたいお誘いがあって、今の会社へ契約社員として勤める事になった。仕事の中味は勝手知ったる内容だが、この5年間で業務のシステム化が更に進んで、何をするのもパソコンに社員コードやさまざまな暗証番号を入れなければ、一歩も前に進まないのにアナログおじさんは困惑する。また大部屋での仕事も久しぶりで、今は「人とパソコンに酔っている」という状況か。それにしても還暦近くなって、また新規雇用してくれるとはありがたい事で、精々子供の様な若い社員達の邪魔にならない様、かつ少しでも私の経験が活かせる様、しばらく試行錯誤の日々になるだろう。
それはさておき、この前のブログ「ぼくの日本自動車史」の話である。私は、この本の著者・徳大寺有恒氏が「本格的スポーツセダンを目指しながら、あまりにも浪花節」と評するスカイラインのファンで、代々このクルマを乗り継いでいる。子供の頃にド・デオン・アクスルとかグリスアップ不要などとほとんど意味がわからないまま旧プリンス社(現ニッサン)が先進性を披瀝する広告に魅せられていたのだが、プリンス・スカイラインを決定的に意識し「大人になったら絶対買おう」と思ったきっかけが1964年の日本グランプリである。このGTレースで生沢徹選手のスカイラインが式場壮吉選手のポルシェ904を一瞬抜いたのがテレビで実況生中継されたのを見て、大いに興奮し戦後の日本の工業製品が、欧米製品の後ろ影を踏む位まで近づいた様に感じたのだった。
私の自動車選好の原点だったこのレースの真相が「 ぼくの日本自動車史 」に語られていて、「 なるほどそうだったか 」と最近、目からウロコの思いした。ちょっと長いがその箇所を「 ぼくの日本自動車史 」から引用してみたい。
<引用開始>
「式場君が持ち込んだポルシェは、スカイラインとは次元が違うクルマだ。904は重量がわずか570KGしかない本格的なレーシングカー。かたや2000GTは1t以上もある重戦車のような乗用車なのだ。この両車が本気で闘ってまともな勝負になるわけがない。そいつは式場君はもちろん、スカイラインに乗っていた生沢徹君も同様、よくよくわかっていたことである。」
「(略)、このレースには、紅一点の女性ドライバーが初代フェアレディに乗って参加していた。彼女は5周も走れば、早くも周回遅れになるという飛んでもないノロマな走りっぷりであった。式場君はこのフェアレディーをヘアピンカーブで抜こうとしたが、フェアレディーはいきなりフラフラと尻を振った。危ないとブレーキを踏む。そこをスカイラインの生沢君がドーンと抜いたのである。」
「式場君や生沢君はレースを通じた仲のいい仲間だった。このレースが始まる前も生沢君は、『 おい、式場、万が一オレが抜いたら、一周ぐらいトップを走らせてくれよ 』と、冗談で語っていた。式場君はスカイラインに抜かれた瞬間、この言葉を思い出した。その気になれば式場君はこのヘアピンの先の直線でスカイラインを軽く抜けたのだが、『 ひとつ、グラウンドスタンド前ぐらいは徹のやつに走らせてやるか 』と思い、生沢君のスカイラインを先行させた。かくしてスカイラインがポルシェを従えてグランドスタンド前に現れる、かの伝説のシーンとあいなったわけだ。」
「(略)スタンドを埋めた十数万人のファンは、ワーっと熱狂し、大歓声を上げた。その瞬間、みんなポルシェに憧れながらも、突然、日本人の血が沸き上がったのである。(略)」「式場君のポルシェはその大歓声の中で、悠々とスカイラインを抜き返した。そしてそれを最後にスカイラインは二度とポルシェを抜き返す事はできなかった。しかし、この偶然のドラマはスカイラインと云うクルマを日本人のクルマ好きの心に強く焼き付けた。(略)」
<引用終了>
日本のレースの揺籃期とは言え、なんと洒脱な戦いぶりであろう。生沢選手にしろ式場選手にしろ金持ちの息子で、そういう人達がレースをしていた時代の事である。もしこの話が本当だとすれば、スカイラインに憧れて購入した私などの消費者は、彼ら金持ちの一流のシャレに乗せられた事になるわけだ。しかし何だか世知辛い最近の世相からすると、微笑ましい「古き良き60年代」を思い出させる逸話であって、そんな夢の様な話に乗せられてクルマを代々選ぶのも良いか、とも私は思うのである。
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