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2011年7月

2011年7月27日 (水)

クルーズ船は揺れない、のか?

近頃クルーズ船の広告が雑誌や新聞をにぎわしている。クルーズを紹介するにあたり「ドレス・コードとは?」とか「船旅は退屈しない?」などと言う質疑コーナーが広告にあるのだが、その中には決まって「船は揺れるので心配ですが? 」という質問がある。それに対して「 最新のフィンスタビライザーがついているので揺れはほとんど問題ありません 」と云うのがお決まりの答えなのだが、プロモーション側にとってはこれが常套文句ではあっても、常々こんな紋切り調の返事で良いのかと私は疑問に思っている。最新の大型客船で豪華な設備に美味しい食事が食べられても、船酔いをしては旅の楽しみも相殺されてしまうのだが、船というのは陸上の乗り物と違って、一旦港を出れば「 気分が悪いから降ります 」という訳に行かない。


私は、この種の質問を受けた時「 船は海に浮かんでいる以上、大きさに係わらず必ず揺れます。フィンスタビライザーは確かに横波には有効だが、縦の波や大きなうねりに合えばあまり効果はない様です。ただ客船は食事の際は進路を変えたり、なるべく島影を通るなどの揺れない工夫はします。それでも揺れるのがどうしても嫌ならお止めになった方が良いかもしれないですね 」と言う事にしている。また私の体験から「 大型の船の方が普通は揺れは少ないが、うねりの大きさや周期によっては、むしろ小さい船の方が酔いにくい事もあります 」とも答える。


実際、本職の船乗り達に聞いても「船は揺れるよ、揺れないのはVLCC(20万トン以上の超大型タンカー)が荷物を満載している時だけど、その時は本船のオモテ(船首)がググーと波に持ち上がるのがわかる」と言う。今回の飛鳥Ⅱのワールドクルーズでも、シンガポールを過ぎてインド洋を横切りアフリカ大陸に着くまでは、南の海上に優勢な高気圧が居座り、そこから噴き出した風による大きな周期のうねりが毎日続いたのだった。乗客の中には「あの時は揺れるのでご飯も食べられず、もう乗るのを止めてケープタウンから帰ろうかと思った」と感想を漏らす人も確かに何人かいたのである。


今回、世界を廻る約70日ほどの航海日のうち、揺れていると云う日と、静かな海だなと感じる日が大体半分づつくらいだったと回想している。かつて正月のグアム・サイパンクルーズで生まれて初めて船酔いを経験した私だが、今回のワールドクルーズでは幸いな事に、酒の飲みすぎの二日酔いは何度かあったものの、揺れて酔い止めを飲むほどの事はなかった。むしろ「 ああ揺れている、これもクルーズの楽しみ 」と思って、動揺の周期に体を同調させる位に考えているのが酔わないコツではないだろうか。それでも人間の順応性と云うものは大したもので、ほとんどの乗客は航海半ばから少々の揺れにも慣れてきた様子だし、殊にクルーズ後半の太平洋は、ブリッジの傾斜計も最大で7度くらい傾ぐだけの平穏な航海だったので、下船してみると総じて穏やかな良いクルーズだったと懐かしくなるものである。

写真はブリッジのクリノメーター(傾斜計)
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2011年7月24日 (日)

飛鳥Ⅱ・村上和雄博士の講演会

長期クルーズでは、社交ダンスやコントラクトブリッジ教室などの習い事の他に、各界の著名人による講演会が船内で催されるので、それを聞くのもクルーズの楽しみの一つである。今回の飛鳥ⅡのワールドクルーズではNHKの元特派員や有名アナウンサー、元スポーツ選手や考古学の研究家、その他女性宇宙飛行士の夫や青年海外協力隊員、管理栄養士などその道の専門家が区間区間で乗船して船内で講演を行い興味ある話をしてくれた。その中で私にとって印象深かったのが、フランスのルーアンからニューヨークまで乗船された遺伝子の世界的な権威、村上和雄博士の3回にわたる講演であった。


村上博士は高血圧を引き起こすと云われる酵素レニンの遺伝子情報を解明して、現在日本人で最もノーベル賞に近いと云われている分子生物学者なのだそうだが、船内講演では遺伝子の働きやその研究経緯を語る事はもとより、真理の探究を進める者だけが達するであろう人生観やその哲学などを披露してくれた。村上博士の話では人には60兆もの細胞があり、そのすべての細胞が30億個の同じ遺伝子情報を共有しているそうである。その中で胃の細胞の遺伝子が胃として働きをし、髭の細胞が髭として機能するために、それぞれの遺伝子にスイッチがあり、それぞれに固有な働きをする様に仕組まれていると云う。クローン羊などの例でも解る様に、人類はその遺伝子の情報を解読する研究は進めているものの、研究すればすればするほど、それは人知を超えた設計図(サムシング・グレートと博士は名づけている)に依って作られ、機能している事に驚くと博士は述べる。


そして人の遺伝子はその持っている機能の一部しか使っていないが、環境やストレスに対処するやり方によって、良い遺伝子のスイッチをオンにする事ができ、その人の能力はもっと発揮する事ができると云う。そのためには常に積極的で楽観的な考えを持ち、笑いやユーモアに満ちた生活態度をとる事が良いと云うが、この辺りの話となると講演内容もいささか宗教的な感じで、遺伝子が世の中ほとんどの事象の決定因子である様にも聞こえる。しかし博士の話がさすが科学者のものだと納得させられるのは、そういった考えはあくまで仮説であって、まだ科学的には一部しか立証されていないと言明し、仮定や推論・観察と結論を峻別する科学的なアプローチから議論を展開している点であって、その内容にとても興味引かれる面白い講演であった。

さて新幹線や飛行機でも、我々は時々テレビなどで顔を見知っている人たちと乗り合わせる事があるのだが、それはたかだか数時間で、かつプライベートの場面なので、それらの高名な人に話しかける事もない。しかしクルーズの船内では、有名人も乗客も一つの船の中で何日も生活を共にするのである。講演する著名人もコンサートを催す芸能人も、一旦ステージから降りれば同じ風呂に入り、同じ飯を食べ、身近に挨拶したり話かけたりする「 同じ舟に乗り合わせた友人 」になる。食事をしながら、或いはコーヒーを飲みながら、船内のあちこちで、その道の有名な人と一般乗客の会話が弾んでいるのを見ると、長期クルーズは面白いものだとあらためて認識したのだった。


村上博士の講演会の様子
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2011年7月21日 (木)

飛鳥Ⅱの重さと安定

航海も終盤、3度目のブリッジ公開の日に壁面に掲載されていた飛鳥Ⅱの青図をつらつら眺めていた。それによるとこの船の排水量(DISPLACEMENT) は30,862トン、ライトウエイト(実際の船体の重さ)が23,314トンで、本船の積載可能トン数=載貨重量トン(DEAD WEIGHT)は7,548トン、その際の満載喫水線は8.022米(海水で)と表示されている。客船は、ふつう船の容積で計る総トン数を使うため( 因みに飛鳥Ⅱは50,142総トン )重さを示す重量トンはあまり使わないが、そういえば飛鳥Ⅱの載貨重量トンはいくらなのか、職業がら俄かに興味を覚えた。


アルキメデスの定理で習った様に、物体は押しのけた水の量だけ浮力を得るので、飛鳥Ⅱの場合は船体の下部が8米ほど水面から入って押しのけた水の量(排水量)が約3万m3、水の比重を約1とすると3万トンの浮力を得る。そのうちエンジンや鉄板などの実際の船の重量(ライトウエイト)が23,314トンで、残り最大7,548トンのキャパシティーに燃料油(最大で2,000トン強くらい)やバラスト水(最大で数百トン)や飲料水、乗客やクルーとその荷物、食糧や外部から持ち込んだ備品など、本船外から積むものが収まる様に設計されている事になる。


一般の貨物船では3万トンほどの排水量だと、船種によってやや異なるもののライトウエイト(実際の船体の重量)が5千トンほどで、残り2万数千トンが貨物や燃料油、バラスト水の為に使われるから、客船はいかに鉄の固まりであるのかがわかる。航海中はその鉄の船が、あちこちで始終ギシギシと音を立てて、波浪で船体にかかったストレスを逃したり吸収したりする事が感じられるが、明け方などに寝ぼけ眼でまどろみながら、このギシギシ音を聞いていると、ああ船に乗っているのだなあと云う実感が湧いてくる。


一方飛鳥Ⅱの最上部にあるプールや大浴場に浸かる際に、いつも脳裏に浮かぶのが、これらの水が前後や左右に移動する度に、船体の安定性にどの程度の影響を与えるのだろうかと云う事である。かつて海運会社で営業を担当していた際、デッキ上に荷物を高く積み上げるコンテナ船や材木船の船長と話をすると、「こんなにデッキの上に積んだら、重心が高くて危険だ、もうこれ以上積むのを勘弁してくれ」とか「 仕切りの大きいタンクの中の水が、時化で動くので本船は怖い」などという話を散々聞かされてきたので、船の上部に自由に動く水面があると、どうしてもそんな会話で各船長や一等航海士と争った事が脳裏に蘇る。


という事で、客船の上部に蓄えられた水の移動に対しては、漠然とした疑問を持っていたが、ブリッジ公開の日に見た青図で確かめると、プールや浴場の自由水の移動による船体への影響は、当然の事ながらほとんど無視して良い様な数値の様だ(当たり前か)。その他、船に乗ると、この船の償却費は一体今いくらくらいなのか、クルーの人件費や潤滑油は昔と桁違いに上がっているのだろうか、外国船ならタグを使わないのに日本船は慎重だなどと、ついつい様々な運航コストを考えてしまう。特にスピードを上げて次の目的地まで突っ走り、入港一日前くらいから予定時間に合わせて減速調整していると、客船の宿命とは云え「ああ燃料がもったいなかった」などと老婆心ながら余計な心配をし、その運航の苦労に思いを寄せてしまう。


写真は日本政府(JG) が認定している飛鳥Ⅱの満載喫水線マークとブリッジの青図(キャパシティープラン)
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2011年7月20日 (水)

ワールドクルーズの食事

旅といえば最大の楽しみは何と云っても食事である。航海中、午後になるとメインのフォーシーズンズダイニング入り口にその夜のメニューが掲示されるので、夜の献立をにらみつつ、おやつを食べる量を調整したりしたのだった。さてこのワールドクルーズ中100日余のディナーのうち、約60回が和食で約20回が洋食というラインナップだったが、和食中心であるのもワールドクルーズの乗客年齢上こんなものかと感じる。ただ和食は先附け・向附・蒸し物・焼き物・煮物と続くいわゆる宴会料理で、味も高齢者に配慮してか、我々にとってはかなり薄めである( 揚げ物は出たり出なかったり )。もっと若い乗客の中には「 だしがいつも同じ味で薄味なので食べた気がしない 」と云う批判もあったが、味にこだわらない私でも、もう少ししっかりとした味付けをして欲しかったと言うのが感想である。


当初は一皿に盛られる量も極めて少なかったので、途中で提出した中間アンケートにその旨書いたところ、さっそくEXTRA PORTION REQUEST CARDを作成してもらったのは5月31日にアップしたとおり。それによって刺身が3切れのところに我々のテーブルだけは5切れ、焼き物が海老2尾のところが3尾と、お腹は満足したものの、いかんせん、最後までうす味は変わりなかった。この宴会料理という料理、たまに食べると美味しいものだが、毎日毎日続くとうんざりしてくるのは、忘年会シーズンや国内出張などで経験するところ。クルーズの後半は結構多くの乗客がダイニングに行かずに、リド・グリルでハンバーガーや焼きそば、ラーメンなど味の濃いジャンクフードの夕食を摂っていたのである。


シェフも一生懸命に工夫を凝らしているのだろうが、長期航海の際は、和食も宴会料理だけでなく、ハンバーグや玉子焼き、メンチカツやら野菜炒め、鳥の唐揚げなどのごく普通の家庭料理をディナーで出せないのだろうかと思った。火気の問題があるかもしれないが、すき焼きなども和食として出したらどうなのだろうと思ったのは、私たちだけではないはずである。また長期クルーズの場合は、夜にリド・グリルを開けて朝・昼のブフェ献立の一部でも供せば、こんな不満も出なくなるだろうにとちょっと残念であった。それにつけてもやや食傷気味の宴会料理を前にすると、家族に飽きさせない様に毎日毎日、限られた予算で献立を考える主婦は偉いものだと妙な事に思いを馳せたのであった。

2011年7月17日 (日)

乗客の織り成す雰囲気

飛鳥Ⅱより103日ぶりに東京に帰ってきた。横浜を通り越して最終港神戸で下船、折り返し新幹線で帰ってきたのだが、家についたら東京は震度4の地震である。新幹線はしばらく運転見合わせとのニュースで、一瞬の差で地震にあわずラッキーであった。とにかく病気や事故もなく無事帰宅できた事は嬉しいが、それにも増して不在の間に、郵便物の取り込みや税金の支払いなどの諸事を、滞りなく行ってくれた親戚や周囲の人の協力なしでは行ってこれなかった。皆様に感謝申し上げます。


さてハワイも過ぎ日本に近づき、残りの航海も少なくなると、今まで船内で顔は知っていたものの、話などをしなかった人が、名残惜しげに言葉を交わす様になって来て、あちこちで話がはずむ。ある人は「もうすぐ終わりだね。俺は前には”ぱしふぃっくびいなす”で世界一周したので今度が二度目だったよ」と言う。「 比べてみて、船内はどう違いました?」と聞くと「とにかくノリが違うよ、あっちはもっとフレンドリーな雰囲気だったね」と話す。それを聞いていたもう少しシニアーの男性は「私は飛鳥の2007年のワールドクルーズに乗ったけど、今回は以前よりすっかりにぎやかだよ」と会話に加わる。


なにしろこのワールドクルーズの乗船者平均年齢が70.4歳とかで、乗船前から予想してきた事とはいえ、私もクルーズの最中はずいぶん静かな船内だと思っていた。これまで乗った中では、ホーランドアメリカ社の英国周遊クルーズの旅が、高齢のヨーロッパ人乗客が多かったために静かだと感じたものだが、それにも増してこのワールドクルーズは、良く言えば落ち着いた雰囲気、率直に云えば乗客のノリが少なかった。


飛鳥Ⅱのコンシェルジェは「それでも、ここ数年は定年退職直後の団塊世代が徐々に乗船する様になって、船内の雰囲気も毎年変わって来ているんですよ」と説明する。若いクルーズスタッフ達は「お客さんを盛り上げる為に一生懸命やるのですが、今年はこれまでで一番乗客が盛り上がって下さいました」と口々に言い、「皆様に評判の良かったプールでの『大相撲・飛鳥場所』も、今年の乗客のノリなら、きっと受けるに違いないと初めてやってみました 」と喜んでいた。


飛鳥Ⅱのワールドクルーズも、毎年毎年船内の雰囲気が変わっていっている様で、我々の世代からすれば嬉しい事だが、永年この船に乗りなれたオールドファンの中には、落ち着いた雰囲気が変わるのを、にがにがしく思っている人達もいるのではないかと想像する。僅か400名の乗客だが、時々「あれ、この人は乗客かな?初めて見かけた」とか、フォトショップで販売されている写真で初めて見る人が写っていたりして、色々な人が乗船している事に気づく。それぞれが相当のお金と時間を工面して、200米余りの空間で一緒に生活する訳で、様々なニーズや不満があるのだろうな、と改めてクルーの苦労に思いを馳せたのである。


本船初開催、”大相撲・飛鳥場所”
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2011年7月13日 (水)

神戸まで乗船

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夢の様なワールドクルーズも下船地・横浜まであと数日と思うと、このまま乗っていたくなり最終港・神戸まで行ったらどうなるのか、クルーズコンサルタントに聞いてみた。するとワールドクルーズに限り、横浜乗船の船客でも、神戸まで同じ値段で乗船可能だという答えが返ってくる。神戸から東京まで帰ってくる新幹線代がかかるものの、主な荷物は神戸から宅配便で送れるし、普段なら一泊4万円以上もする飛鳥Ⅱにただ乗りできるという事で、もう一日乗って神戸まで行く事にした。自宅を目の前にして、神戸まで行って引き返すとは、自分でもバカじゃないかと思うが、また浦賀水道や友が島水道を航行できると思うととても得をした気がする。


このクルーズは当初の予定が変わり喜望峰経由となった為に、航海日が多く「走り放しで、ちょっとうんざり 」とか 「 もう家に帰りたい 」などという声もちらほら船内で聞く。私もインド洋や南大西洋では、船の位置が遅々として進まない様な感じに陥ったものだし、フランス沖ビスケイ湾では初夏になってもけっこう時化たりして疲れた覚えがある。しかし太平洋に戻ってからは、夏空と平穏な海に恵まれて、プールの水も揺れずにクルーズの最後をエンジョイしている。デッキやベランダに出て、飛鳥Ⅱがつくる引き波や航跡を飽かず眺めていると、いつかまどろんでいたりと、クルーズらしいゆっくりとした時に身をゆだねるのは心地良い。


顧みると104日のクルーズの中、寄港地や運河、フィヨルドなどの名所が3分の1、航海平穏な日が3分の1、ちょっと時化た日が3分の1くらいであったろうか。クルーズならではの経験も楽しんだが、それと共に航海日に一日2回行われる社交ダンス教室を、ぶつぶつ言いながらも、ついに最後までやり通したのは、自分にとってちょっとした飛躍であった。下船すればすぐに忘れてしまうのだろうが、今は音感が良いとか、初心者なのに進歩が早いなどと、おだてられて喜んでいるのである。将来、またワールドクルーズに乗りますかと聞かれた最終アンケートには、また乗ってみたいと回答しておいた。ただしお金の余裕があったらの話であるが・・・。

2011年7月12日 (火)

人生に存在しない日

飛鳥Ⅱは7月8日の昼に国際日付変更線を通過した。これまで西回りで地球をぐるっと回ってきたので、時計の針を都度1時間ずつ進めてきたのだが、グリニッジ標準時間に12時間を足した(遅れた)太平洋の真ん中で、7月8日のミッドナイトが7月10日の0時となり7月9日という日をスキップしてしまった。ジューヌ・ベルヌの小説 「 80日間世界一周 」は、東回りで地球をぐるっと廻ったため、暦の上で一日余分な日ができる事がストーリーのミソなのだが、西回りだとその逆の現象がおきてしまう。


そういえば若い時の貨物船乗船研修では、太平洋を往復してカリブ海に行ったから、当時も帰りに暦の日を一日とばしており、これで私の人生には”存在しない日”が2日できた事になる。この日付が変わると云う仕組みは理屈の上ではわかるのだが、実際にある日が日記などから消滅するととても奇妙な感じがするものだ。これが飛行機の場合ならアメリカから日本に飛ぶと、出発日と到着日が一日変わるものの、日付け変更線の前後にかなりの距離を一気に飛行するから、ある日がまったくなくなるという現象は生じない。仮に日付け変更線をはさんで1米の離れた場所に2つの島があったら、住人はその島を跨いで行き来するたびに暦の上で24時間増えたり減ったりする訳だが、現実的に日本人が暦の増減する経験をするのは、船旅くらいのものではないだろうか。


という訳で、飛鳥Ⅱの船上では7月9日という日が消え、急に帰国する日が近づいてきた感じがするが、そんな事とは関係なく、日本では震災復興をはじめ日々の生活が行われている。顔見知りばかりになった船客やクルーたちと、周囲とセパレートされたクルーズ船という特別な環境で100日以上の濃密な時間を共有してきたが、日々仕事に生活に忙しい陸上の人達は、日常の時間が流れていたはずである。光速に近い速さで動く乗り物に乗ったら、地上の人とは違う時間が流れるというのは、アインシュタインの特殊相対性理論が教える所だが、ゆったりと走るクルーズ船の空間に浸っていると、今浦島になってボケては来ていないか、そんな事も帰国を前につらつら考えるのだ。

写真は9日分がないアスカデイリー
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2011年7月10日 (日)

ミッドウェイ

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ホノルルを出て3日目、飛鳥Ⅱはミッドウェイ島の南250マイルを走り、日付変更線を越え約40日振りに東半球に戻って来た。優勢な太平洋高気圧に覆われた周辺の海域は穏やかで、一路横浜を目指して飛鳥Ⅱは全速で航行している。デッキに出て平和な海や青空を見ていると、かつてこの辺りで日米艦隊の壮絶な海戦が行われた事が嘘の様に思える。ミッドウェイ沖海戦は、昭和17年4月に米機動部隊から発艦した爆撃機が日本本土を空襲、これに肝を冷やした大本営が、防衛圏の拡大と敵空母をおびき寄せ殲滅する為に、太平洋の要衝ミッドウェイ島攻略を企図した事から昭和17年6月に起こった日米機動部隊の戦いである。


ミッドウェイ島攻略を目指す南雲中将率いる機動部隊と、これを迎え撃つスプルーアンス提督の機動部隊との間で交わされた乾坤一滴の戦いは、日本の暗号がアメリカ側に解読されていた上に、幾多の作戦ミスが重なり、日本側の大敗北となった事は、多くの書物や映画などで知られるところだ。この戦いでわが国は、赤城・加賀・蒼竜・飛龍の4隻の制式空母や多くのベテランパイロットを失ったのに対し、アメリカの空母沈没は1隻でパイロットの損耗も日本の半分であり、ミッドウェイの敗北が、太平洋における日米の戦いのターニングポイントとなった訳である。


太平洋の中央付近に位置するミッドウェイ島の近海を航行してみると、当時の兵器の能力から考えて、ここに基地を構える事の重要性が実感できる。ミッドウェイ島攻略の戦略的な面と、それに乗じて真珠湾攻撃で撃ち損じた米国の空母をおびき寄せるのが日本海軍のもくろみであったと云われるが、ホノルルから船で3日、横浜まで5日の航程に島が位置する事を考えると、ここが決戦の場所となった地理的な必然性が理解できる気がする。


昭和17年6月、あの日わが空母が地上攻撃用の爆弾を、艦隊攻撃用の魚雷に換装している隙に、敵の急降下爆撃機が襲来した不運がなかりせば、以後の戦局はどう変わっていたのだろうか。水平線の彼方に広がる夏雲を眺めていると、歴史に”イフ”はないものの、劇画"ジパング”の様な”もしも戦史”ストーリーが白昼夢の様に脳裏に展開する。そして太平洋で亡くなった日米の多くの兵士の犠牲の上に、今こうして平和に航海できるという幸せをかみ締めるクルーズの終盤である。

2011年7月 8日 (金)

停泊時間

飛鳥Ⅱは、ハワイ島のヒロとオアフ島ホノルルで停泊した。ふつう雨の多いヒロの町だが今回は天気に恵まれたし、ホノルルもハワイらしい良い天気であった。その前の寄港地サンフランシスコは、これまでに経験した事がない一日中土砂降りという珍しい天気だったから、「江戸の仇を長崎で・・・」ではないが、その分嬉しく得をした思いもする。ホノルルの入港風景を見ているうち、自然に「♪晴れた空、そよぐ風、港出船のドラの音楽し~♯」と岡晴男の「憧れののハワイ航路」を口ずさんでいる私である。


残り日本までは1週間の航海で、普通のクルーズなら 「 まだまだ 」 と思うが、船内では「世界一周アンケート」用紙が配られたり、下船宅配便のダンボールの販売が始まったりと、徐々に終了に向けて手続きが始まってちょっと寂しい感じがする。それにしても総ての寄港予定地を無事回ったわけだが、寄港時間が短かすぎたというのが今の感想である。主要な寄港地ではもっと色々動き回りたかったが、とにかく帰船時間が早く、お仕着せのオプショナルツアーに参加しない時は、せいぜい港の周囲に行くのが精一杯だった。そのオプショナルツアーも、4年前”プライド・オブ・アメリカ”号でマウイ島のハレアカラ火山の船主催ツアー(日本語ガイドつき)に参加した時は半日で56ドルだったものが、今回のハワイ島滝めぐりツアーは催行時間も移動距離も少ないのに106ドル取られるなど、とても割高な設定である。


これだけの長期クルーズなのだから、主な寄港地では最低2泊停泊してくれれば、初日に下船して近辺の様子を肌で感じ、2日目には帰船時間を気にせずにゆっくり自由に行動できたはずである。そうすれば例えばゴルフ好きは下船して各地でプレーできるし、遠くへ出かけたい人は鉄道に乗ったりレンタカーを借りるなど、行動範囲も広がっただろうと思う。今回は飛鳥クルーズ20周年記念という事で、ストックホルム市庁舎での晩餐会が一つの目玉であった一方、アラブ情勢によって喜望峰回りになり航走距離が大幅に増えたことが重なった為、苦心のスケジュールだったに違いないが。


しかしダグラス・ワードの年鑑によると、2011年にワールドクルーズを実施する船は世界で18隻でその航海日数は平均119日、寄港地数は50港であるのに対し、本船の日程は104日間で寄港地は23であった。航路変更により寄港地が5つ減ったことを差し引いたとしても、数字的にも寄港地が少ない。それならば寄港地でのオーバーナイトステイがもう少しあれば、上陸して自分の足でアクティビティや食事を楽しむ時間がもっと増えたのにと思う。外国船のクルーズでは22ノット以上で飛ばしている航海日もあるのに、本船は最大でも20ノット程度、特に各港に入る前日は速度を大幅に落として入港時間を調整していた。ワールドクルーズの特殊性や海象の違いを考えても、まったく余裕がないスケジュールとは言えないだけに、停泊時間の短さは残念に感じた。

写真は23ノットで航海する事を示す”レジェンド・オブ・ザ・シーズ゙”号の船内放送
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2011年7月 2日 (土)

海と島

飛鳥Ⅱはハワイ諸島に向かっている。クルーズでは寄港地が乗船客にとって最も興味ある場所なのは言うまでもないのだが、他に洋上にあって近くを通過して行く島々や、本船が航行する海域も興味深い。このクルーズでは海流が暖流から寒流に変わる度に、海の色や気温が変わり、海の生き物の種類が違うという自然の驚異を幾度経験しただろうか。大西洋に浮かぶ孤島セントヘレナは、スエズ運河が出来る前は、ケープタウンからヨーロッパに向かう重要な航路の中継地で、大陸からは数千キロも離れているのを知った。ナポレオンが晩年幽閉された島だが、絶海に屹立する崖を見ると、こんな所に島流しされたナポレオンの傑物ぶりが却って偲ばれる。


貿易業務では最も重要な書類の一つ、船荷証券(B/L)に関する国際統一条約、ヘーグ・ビスビー・ルールでその名を知られるビスビーは、バルト海のスエーデン沖に浮かぶゴドランド島の町である。こんな事も、今回のクルーズで飛鳥Ⅱが島のごく近くを航行した事で知ったのである。そう言えばロンドンにある世界で初めての海運集会所もバルチック・エクスチェンジと云うし、現在では海運の市況を表す重要な指標で日経新聞などでも引き合いに出される、バルチック指数もバルト海が語源である。国際海運における様々な用語は、この水域から発祥しているものが多いのだが、バルト海を航行して見ると、ここは昔からヨーロッパの重要な水路であり、歴史的にこの海域は日本の瀬戸内海の様な役割を果たしてきた事が実感できる。


第二次大戦で連合軍の輸送船を襲うUボートと英国海軍の間で激戦が行われたノルウエイのロホーテン諸島も、今回ノールカップへの航行途中でその場所を改めて認識した所だ。ノールカップの展望台には、この海域で行われた第二次大戦の英独海戦の経緯が詳しく展示されていたが、北の地ながら不凍の海の戦略的な意味を考えると、ロシアが日本の北方領土を手放さない理由も理解できようというものだ。今は美しくもひっそりと静まるノルウエイのフィヨルドに、かつてはナチスドイツの戦艦やUボートが、連合軍輸送船団を襲おうと潜むんでいた事を思うと不思議な感じに捉われる。


先日は太平洋に面するメキシコのセドロス島の近くを通過した。日本の工業塩や食塩の産地の一つで、「伯方島の塩」などと云って売られている塩は、セドロス島やオーストラリアから広島の三ツ子島に貨物船で運ばれ、国内で二次輸送されたものが原料である。我々の食生活や産業に欠かせない場所であるが、そんな島の沖を通過すると、我々の生活は海上貿易に広く依存していて、平和な海がいかに大事なのかと考えさせられる。中学や高校で使う様な1600円の基本地図帳を持参したのだが、しばしばその地図を開いて世界の地理を見ていると、これまで耳にしたが一体どこにあるものなのか実感の湧かなかった場所も、クルーズを通じて改めてその存在を確認できるのだ。


写真はノールカップの英独海戦の展示とノールカップ沖
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