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2011年5月

2011年5月31日 (火)

何でも言ってみるものだ

世界一周クルーズも半ばをすぎ、先日このクルーズ前半についてのアンケート調査があった。船内生活やクルーの態度、食事やエンターテイメントなどの各項目で、「 とても良い 」から「 とても悪い 」まで5択の質問に○をつけるという良くある方式で、最後にコメントがあらば書いて欲しいとある。ここまでまず快適なクルーズを楽しんでいる私は、ほとんどの質問に「 とても良いか 」か「 良い 」まれには「 ふつう 」に○をつけたのだが、コメントの欄には次のニ点を特に記した。


その一つは、以前にも書いた通り、ネット環境がお粗末であるという点である。最近のクルーズ船では持参のパソコンを船内のLANに接続する方法が主流で、旧飛鳥であるアマデアでさえ、ドイツ船になった今では自分のキャビンから持参パソコンをケーブルで船内LANに接続できる様になっていた。この点、飛鳥Ⅱは乗船前の説明会で、持参のパソコンを使えるか質問すると 「セキュリティーの問題があって、自分のパソコンを船内LANに接続できません 」 といささか時代錯誤の回答をもらったままになっていた。その上、乗船してみると船内備え付けのパソコンを通じたネット接続は、あまりにも遅く、乗客の中には「目的のサイトに到達する前に、料金カード残高がゼロになってしまった」と怒る人も居るくらいである。いくら乗船者の平均年齢が高くても、快適なネット環境を提供する事は現在のクルーズ船の常識、少なくとも世界標準には到達して欲しい旨苦言を呈した次第である。


もう一点は、食事の量の少なさである。高齢者が多いので仕方がないのかもしれないが、味が薄味の上、食事の量が少なすぎるので食べた気がしない事も多かった。ごはんはお代わりができるものの、おかずをもう一皿余分に持って来てと時々ウエイターに言うと 「 ちょっと上に聞いてきます 」 と言う有様で、毎回リクエストするのも気がひける事この上ない。大枚はたいて乗ったのだから、せめて食事の量くらい十分に出すか、あるいは少量の食事と普通の盛りのどちらかを毎回チョイス出来る様にしてほしいとアンケートに書いておいた。


このアンケートは匿名でも実名でも回答して良いが、私はこの種の調査には実名で答える事にしている。するとアンケートを出し終わって数日後、ダイニングルーム"フォーシーズンズ"の日本人チーフウエイター氏がテーブルに来て「 食事量が少ないとのご意見をいただきましたが、夕食にはEXTRA PORTION REQUESTという制度があります。ついてはカードをつくるので、夕食の際にどのテーブルでも係のウェイターにそれを見せていただければ、増量いたします 」と言う。


この種のアンケートなどでは苦情がどう処理されたのか、目に見えて反応が返ってくる事などは余り期待していなかったのだが、乗客の不平・不満を着実に取り上げ、改善できる点はすぐ手をつける姿勢は大変嬉しいものであった。それにしてもその後はカードを見せるたびに、普通の人は刺身3切れのところが5切れ、エビフライは2尾のところ3尾が盛られて来て、腹は充足するのだが、ここまで維持してた乗船時の体重が心配になるのである。


エキストラポーション・カード
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2011年5月29日 (日)

ベルゲンのハンザ博物館

飛鳥Ⅱは5月25日ノルウェイのベルゲンに入港した。ベルゲンには世界的な海運会社の本社がいくつかあって、以前から彼らに「一度ベルゲンに遊びに来いよ」と社交辞令ながら、町の良さを何回も聞いていたので、今回の寄港は以前からちょっと楽しみだった。天気は生憎な事に小雨がぱらつく曇り空であったが、朝入港すると早々に我々二人は、ジョギングで町の後ろに横たわるフロイエン山に駆け上って町の様子を俯瞰する事にした。標高320米の小山に分け入ると、木々の緑と山の気に身体が包まれ 「 海も良いが、珠には山の空気も良いものだ 」と贅沢な感想が胸に沸き起こる。


高福祉の北欧諸国はどこも物価が高く、まともに買い物などする気が失せたので、午後はベルゲン港の世界遺産ブリッゲン地区のハンザ博物館に行く事にした。ブリッゲンは港の岸壁に沿って、かつてのハンザ商人たちが使った三角屋根のカラフルな木造家屋が立ち並ぶ町で、その一棟が博物館となっていて往時の商人たちの賑わいの一旦をしのばせてくれる。ドイツといえば航空会社ルフト・ハンザ(空のハンザ)と言う事で知られる様に、13世紀から16世紀にかけて北ドイツのリューベックを本拠地に、ハンザ同盟が北海やバルト海沿岸で隆盛を誇ったが、そのハンザ同盟の貿易事務所がベルゲンにおかれ、一時は干しタラの交易で大変賑わったと云う。


改めて世界史の教科書を読み直すとハンザ同盟とは、かつて北海・バルト海沿岸の都市を中心に、貿易や商業の保護、安全保障などを目的とした自治都市の同盟機構で、ベルゲンからは干しタラを輸出し、見返りに英国やベルギー方面から食料や生活資材を物々交換したそうである。プリッゲンの木造の建物の中は干しタラの貯蔵や簿記・出納帳などをつける事務机が置かれ、多くの作業員が番頭や小番頭の下で、過酷な労働を強いられたとされる。木造の建物は火災に弱く、幾度も大きな火事に見舞われた為に、室内の灯りも極度に制限され暗かったそうだが、博物館はそれを再現しているのか、無料で貸し出してくれる懐中電灯がなければ歩けない程暗い。


ちょっと薄気味悪いほど暗い博物館だったが、以前北海道に旅行した際、旧松前藩の領地にあったニシン漁の運上家とブリッゲンの建物の内部の雰囲気がそっくりな気がして、大量に獲れた魚を管理し流通させる組織は、洋の東西を問わず同じ感じがするものだと思ったのであった。

写真は松前藩の旧下ヨイチ運上家とブリッゲンの商館
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2011年5月25日 (水)

ストックホルム武器博物館

スウェーデンの首都ストックホルムで、エストニアで仕事をしている友人にあって旧交を温めた。彼はエストニアでは単身で新しい仕事にチャレンジしていているが、若い頃にパリに駐在していた事もあり、ヨーロッパについては大変な知識を持っている。その彼の案内で、ストックホルムではノーベル博物館と武器博物館を訪れてみたが、その中で特に印象に残ったのは武器博物館だ。スウェーデンは第二次大戦で中立国でありながら、たしか現在はサーブやボルボなどの機器を中心に大変な武器輸出国だったと記憶している。(但しスウェーデンの現在の武器輸出については、船上のお粗末なネット環境でインターネット検索が事実上不可能なので、記憶に頼って書いているため、帰国後あらためて調べてみたい )


あの時代にスウェーデンが中立を選んだ理由が一体いかなる背景によるものなのか、僅かな滞在で博物館を訪れただけでは知るよすがもないが、ここまでヨーロッパを回って来て、色々な話を聞き旧跡を訪ねたり、また船内で西洋史の本を読んだりする中で感じる事は、ヨーロッパの有史以来の出来事は、血を血で洗う略奪と戦争が基本だという事である。異民族の移動や侵略、イスラムとキリスト教の戦い、カソリックとプロテスタントの抗争、王族の政略結婚などなど、その歴史の一駒一駒に戦いがあるのである。エストニアの友人によると、ヨーロッパの人々の遺伝子の中には「戦争」「侵略」が組み込まれていると言う。


ストックホルムの中心地に建つ三階建ての壮大な武器博物館は、どきっとするほどリアルな実物大人形などを使い、この国の戦いを年代に沿って展示・解説をしている。残念な事にディスプレイの説明がすべてスウェーデン語で書かれているために、博物館を訪れる際に必携する英和電子辞書が今回は役立たずで、おどろおどろしい戦いの写真や展示物をただ眺めるしかなかったが、それでもスカンジナビア半島の国々や、友人の住むバルト三国などは歴史的に常にドイツとロシアの大きな圧力の中で生存する道を模索してきた事は感じる事ができる。


展示の最後は国連の創設や機能にスペースがかなり割かれているが、かれら欧州の人々の血生臭い歴史を垣間みると、国連などという機関は、戦いが歴史の基本と認識している人々の理屈とご都合主義で出来ているものではないだろうかと感じる。小沢一郎など一部の人達は、日本が国際的な軍事行動に関わる時に、いつも国連のお墨付きを求めたがるが、戦いと権謀術中に明け暮れた欧州の連中とその子孫の米国が作った国連などに、我が国の基本を任せて良いのかと言う思いが、武器博物館を見ていて改めて込み上げてきた。

写真は武器博物館の外観
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2011年5月21日 (土)

ダグラス・ワード氏のサイン

アムステルダムで飛鳥Ⅱからアマデアに乗り換えて船内をぐるっと一回りすると、どうみてもクルーでなさそうな外国人のカップルが我々と同じデッキに乗船している。アムステルダムからワルネミュンデまでキール運河を通航するアマデアのクルーズは、飛鳥が借り切って日本人乗客だけのはずと思っていぶかったが、その刹那この外国人はどこかで見たことがあるぞ、という気がしてきた。そうだ、彼はクルーズ評論の第一人者であるダグラス・ワードではないかと閃いたのである。


というのも、世界の各地で客船を見た時に参考にしようという事で、今回の世界一周クルーズには、彼の著書ベルリッツ版 "CRUISING & CRUISE SHIPS 2011" を持参している。その裏表紙に載っている著者の顔写真を、客船と行き合って本を開くたびに見て来たので、ピンと来たのかもしれない。そんなダグラス・ワード氏に船上で会えるとはなんという奇遇、すべて自費で年間200日以上をクルーズ船に乗って論評するという氏が、どういう経緯でチャーターされたアマデアに乗船しているのか知る由もないが、ここは是非話しかけねばと勇気を奮い起こしたのであった。


「 あのー、失礼ですが、ダグラス・ワードさんですか?私はあなたの本の読者で、今回のクルーズでは飛鳥Ⅱの私のキャビンにあなたの本を持って来ています。あなたがもしOKならば、その本にあなたのサインを頂きたい。残念ながら本は飛鳥Ⅱにおいて来たのだが、あなたはこの後飛鳥Ⅱに来られる予定なのですか?」と一気に質問する。それに対してワード氏は 「 それは光栄です。喜んでサインをするが、残念ながら飛鳥Ⅱには訪船する予定はありません。どうしようか。そうだ、貴方と奥様の名前を頂いたら、アマデアの用紙にサインをしてお部屋に届けましょう。本当は本にサインする方が良いけどね。」と親切に言ってくれた。


後刻とどいたその紙には、私達の名前と " BON VOYAGE AND BEST WISHES FROM DOUGLAS WARD"とのコメントが添えられていた。この貴重なサインは、帰ったらパウチにでもして、これからクルーズに出かける際にお守りとして持参する様にしようか、などと今飛鳥Ⅱの船上で考えているところである。 それにつけても普段、新幹線や飛行機で有名人やスポーツ選手と乗り合わせても、まったく他人同士なのが普通である。しかし同じクルーズ船に乗ると、人との距離が随分違って声がかけられるものものだと、改めて感じたのであった。ちなみにベルリッツ2011年版ではアマデアは中型船の部で1600点(飛鳥Ⅱは1685点)4スター+となかなか健闘しているのであった。

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2011年5月19日 (木)

アマデア

アムステルダムの客船ターミナルで、飛鳥Ⅱの前に停泊したドイツのフェニックスライゼン社アマデアに乗り換えた。これは旧飛鳥一世であるアマデアに乗り、飛鳥Ⅱでは大き過ぎて通行できないキール運河を2泊でクルーズするという、今航海の目玉企画の一つなのである。我々は旧飛鳥には乗船した事はないが、折角のキール運河通行のチャンスとあって、他にはあまり申し込んでいないオプショナルツアーではあるがこれは外せぬと乗船したのである。そのアマデアではあるが、旧飛鳥に乗船した人達は「すっかり中が変わったね」との声が多いものの、大変きれいな室内で船体も手入れが良く、飛鳥Ⅱよりきれいなのではないか、と思うほどである。


ドイツのフネに乗るとあって、旨いビールをしこたま飲んでやろうと、飛鳥Ⅱの前夜は禁酒をしてアマデアに乗船した我々は、運河を通行開始する昼過ぎからドイツの生ビールをジョッキでグイグイとピッチを上げる。飛鳥から200人、そのほか区間乗船のツアー客も加え総勢300人弱の日本人客にチャーターされたアマデアは、小鳥がさえずる北ドイツの田園地帯をゆっくりと進んで行くが、酔眼朦朧とした頭で、現地の若者の催し物であるローカルダンスを後部デッキで見ていると、この一瞬が永遠に続いて欲しいという気持ちも湧き起こってくる程だ。

飛鳥Ⅱのワールドクルーズも中盤にさしかかり、船内生活にもややマンネリを感じてきた頃である。飛鳥Ⅱでは顔を知っていても、実際に話をした事がない乗客とアマデアではお近づきになれたり、また新たな人と知り合ったりと、ちょっとした息抜きにちょうど良い2泊のショートクルーズであった。それにしても妻は学生時代に第二外国語で覚えたドイツ語を断片的に思い出し、先ほどから何かと言うと「ヤー、ヤー」と連発して、ドイツ人クルーのウケをとっているが、昨夜の50年代ロックンロールショーも良かったし、ネット接続が早くて(飛鳥Ⅱより)安いと言う点など、外国船の良さもしばし味わえるアマデアの船上である。

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2011年5月16日 (月)

久しぶりの満腹

飛鳥Ⅱは5月14日早朝フランスのル・アーブルを左舷にみながらセーヌ川の河口に入った。ここから目的地ルーアンまでの6時間は、セーヌ川が大きく蛇行を繰り返す中を航行するリバークルーズとなる。両岸に連なる森や畑、次々に現れるお伽の国の様な集落を見ながら川を遡上すると、ひさしぶりに小鳥達の鳴き声が聞こえ、おもわず北島三郎風に 「♪はるばる来たぜフランスへ、逆巻く波を乗り越えて~ 」と口ずさみたくなってくる。ルーアンに近づいてくると、川辺には化学工場などに混じって本格的な穀物の船積み設備(グレイン・エレベーター)をいくつか見る事ができ、ここフランスは農業大国である事を思い出す。


今回のスケジュールでは、飛鳥はオーバーナイトでルーアンの岸壁に停泊するが、我々は特に予定もない。午後2時すぎに着岸すると45日ぶりに土の上で走れるとあって、まずはジョギングウエアーに着替え町を見学しに走り出す事とする。コンパクトな町なので岸壁から遠く見えるノートルダム大聖堂や市街地の中心を走ってまわり、今晩繰り出す予定のフランス料理店の「あたり」をつけておこうという魂胆である。とにかく西欧先進国は安全の面で、いきなり港からジョギングに町に出かけられると云うのが良い。舷門を飛び出せば、毎日揺れる船上の木のデッキやフィトネスマシンで走るのに疲れた足の筋肉には、コンクリート路面がかえって新鮮で走り易く感じる。


という事で、ノートルダム寺院やジャンヌ・ダルク広場はさくっと走ってまわり、美味しそうなフランス料理がありそうな繁華街を下見し、一旦本船に戻ったのだった。で、本船の大浴場で一風呂浴びて夜七時に入った店は、市のツーリストビューローのマネージャーが個人的にそっと教えてくれた”ラ・クロンヌ”というフレンチ・レストラン。なにしろ1345年創業で、フランスでも一番古いレストランというから半端ではない。


シーフードやフォアグラのスターターに、この地方名産の林檎から蒸留されたカルバドス酒をかけた食間のシャーベット、それにステーキなどとにかく大変なボリューム。上品な雰囲気の中で、味付けもしっかりした料理を食べると、これまでの船の食事が薄味であまりにも少量であった事を改めて実感したのだった。高齢者が多い長期航海には、この薄味・少量の食事が良いのだろうが、たまにはしっかりした味付けのボリュームある料理を食べたくなってくるのである。

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2011年5月14日 (土)

リスボン名物イワシの塩焼き

5月11日、飛鳥Ⅱはヨーロッパの初寄港地リスボンに寄港した。もとのスケジュールなら4月30日にイスタンブールに寄港したあと、本格的なヨーロッパクルーズが始まる筈であったが、延々遠回りをしてやっとヨーロッパに到達したのである。さてそのポルトガルは、ギリシャと共に経済的にはEU加盟国の中で最も問題多き国。この地に31年住むという日本人ガイドの女性から、人々の楽天的な生き方を聞くうち、ポルトガル経済が行き詰まるのも無理ないかなと納得する。いわく 「 タバコは健康に害がある 」 と云われると 「 どうせ皆死ぬからいいじゃない 」 と喫煙率が高い事、成人病が極めて多いのに長寿国なのはストレスが極めて少ない事など、我々日本人もちょっと生き方を考えさせられる国である。すべてがこの調子で、貯金などない人が国民の大半だと云うと、経済的破綻も止むなしかと感じる。

午前中の散策に次ぎ、午後はリスボン名物の路面電車を借り切って市内見学などを終え、最終帰船時間まで2時間ちょっとあるので、名物のイワシ塩焼きを食べに妻と町に繰り出す事にした。事前にガイドに聞くと 「イワシは大衆料理で、その辺の町のレストランならどこに入ってもハズレはないですよ 」ということだったので、「イワシの塩焼き」がメニューに書いてある港にほど近い町の料理屋に入ってみた。店の前は狭い石畳の坂道、家の前には洗濯物が一杯干してあり、「 お、ここは南欧だね、やっと着いたよ 」と自然と笑みが漏れる。

日中は30℃近く、鰯を食うにはビールは必須、数少ない知っているスペイン語から「 ドス、セルベッサ?」と店に入るなりウェイトレスに聞くがちんぷんかんぷん。「 ブラジルにいたんだろ、何とかビールを頼んでくれよ 」と妻を振りむくと 「 セルベージャ! 」と後ろから彼女の声がし、それを聞いてウェイトレスはやっと頷いてくれた。スペイン人はポルトガル語が判らないが、ポルトガル人はスペイン語をわかると云われるのは一体どこの話だ?と思わず言いたくなっている。ここはしかたなく一皿に鰯が何匹のっているのか妻の通訳に任せて、やっと鰯の塩焼きにありついたのであった。

で、これが出て来たリスボン名物のイワシの塩焼き、イワシをはらわたごとオリーブオイルと塩で焼いたシンプルな料理だが、獲りたてのイワシは日本の秋刀魚の塩焼きにも似た美味。やおら一気にほおおばると、やわらかい魚の肉は塩味が効いて、ほこほこと口のなかでセルベージャとマッチする事この上ない。「 船のメシもいいが、たまにはこんなローカルなメシがおいしいやね 」と遠路はるばる訪れたポルトガルの味を堪能したのであった。

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2011年5月12日 (木)

ダカール

飛鳥Ⅱは5月7日今回のアフリカ諸港の中でも最もアフリカらしい町と云われるセネガルのダカールに入港した。天気は日本の初夏の様なからっとした過ごし易い好天気、ダカール市内への半日観光に貸切バスで出かけた。今回は急なアフリカ各地への寄港とあって、どの港からのツアーも現地のガイドの案内で、残念ながらすべて英語のガイドである。セネガル人のほとんどは回教徒だそうだで、ダカールの市内観光で我々のバスに乗った現地ガイドは 「 自分はモスリム教徒だが、オサマビンラディンのやった事は憎むべき事。セネガルの回教徒はキリスト教と平和共存し、日本を大変尊敬している 」と幾度も賛辞をくれた。お世辞半分としても日本人が戦後65年ODAや海外協力隊を通じてやってきた事は、世界どこに行っても評価されている事に嬉しくなる。


船に帰って夕食の際の話では、「 ダカールは良かった 」という人と「 何でこんな何もない街を寄港地にしたのか 」と云う意見が、乗客の間で2分されていると聞いた。たしかにこの様な喧騒と埃にまみれた街は世界中にありふれていて、ここがインドやミャンマーの市街地とどこが違うといえばそう大差はないのかもしれない。しかしちょっと目を転じれば、高級住宅地と云われる場所では欧州人のフランス語が聞こえ彼らが浜辺でジョギングしているのを見る事ができるし、町一番のスーパーはフランス系であると事を発見したりと、ここがフランスの植民地支配であった名残りを見つけるのは興味深い。


アフリカン・ルネサンスという高さ50米の像は、当時の大統領が自分の力を誇示するために作ったそうだが、受注した北朝鮮が建設する代金の代わりに、巨大な像の周りの土地を北朝鮮の私有地にしたり、市内観光ツアーで立ち寄ったホテルのトイレでは、モスリム教徒が尻を洗う為の洗濯機の下に置く防水パンの様な便器に出くわしてびっくりするなど、なかなか日本人が知らないワールドを体験できた。名所旧跡などがなくても、どこの場所にも新たな発見があって、多分二度と訪問できない様なダカールの様な町は、もう少しゆっくり訪ねてみたい気が私などはするのである。
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2011年5月 8日 (日)

クルーズのかげには

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乗船して一ヶ月あまり、ふっと気付くと髪の毛も伸びきたので、今日は船内の床屋さんに行った。本船の資生堂スパ・アンド・サロンは普段は美容師だけが乗船しているそうだが、長期クルーズになると理容師も乗船する。値段を聞くと髭剃りなどがついた普通の床屋さんコースが4千円だと云う。最近は東京も安い床屋が増えてふだん2600円也で調髪してもらっている私にとって、この料金はちょっと高いと感じるが、他にチョイスがないのでしょうがない。


昔の外航の貨物船には司厨員やボーイなどに散髪の上手な人がいて、船内で気軽に髪を刈ってくれたものだった。私も若い頃に研修で乗船していた際は、航海中に幾度かおやじさん(船の用語でコックの事)の床屋にお世話になったのだが、あれから30数年経ってまた洋上で散髪するとはちょっとした感動である。当時の殺風景かつ男だけのむさくるしい貨物船の事務室の床屋と違って、ここではきれいな美容院で、ホテルの様なしゃれた雰囲気で髪を刈ってもらえるのである。チョキチョキとはさみの音を聞いていると世界一周するクルーズにはいろいろ職種の人が乗船していて、それぞれの仕事のおかげで我々が快適に船内生活を送れる事をあらためて思い起こす。


そういえば今日はアフリカ最後の寄港地セネガルのダカールに入港したが、ここまで横浜から一緒に乗船しながら、アフリカ各港のツアーを準備してきた日本の旅行社の代表が無事お役を果たして下船した。モーリシャスからこれまで4つのアフリカの港では、着岸すると真っ先に彼が岸壁に降り立ち、ツアーバスの手配が予定通りできているか、諸準備が手配通り行われているか、心配げに立ち回っている姿を見てきた。今日は最後とあって、一声 「 大変でしたでしょう 」と声をかけると 「大変なんてもんじゃなかったです。港に着くと真っ先に予定通りバスが来ているか、心配で心配で。不整脈が止まらなかったんです。」と笑っていた。


なにしろ万事が予定通り進む日本とは違うアフリカの地、急な航路変更で準備の時間もない上、普段は訪れる日本人も少ない土地に400人もの日本人が一挙に上陸するとあれば、ツアーの手配を準備するのは、大変な仕事であろう事は彼の言葉を聞くまでもなく想像がつく。うまく行って当たり前で、予定したツアーが手配のまずさで催行でもされなかったら、大変なクレイムになる事であろう。何気なく本船から上陸しツアーバスに乗車する間にも、彼の様に胃が痛む思いをしている人がいて、つつがなくクルーズが進む事に改めて感謝した次第である。今日はダカールの町のどこかで、あの社長は無事一仕事こなしたうまい杯を傾けているのだろうが、そのほっとした姿が目に浮かぶ様だ。

2011年5月 6日 (金)

セントヘレナ島

飛鳥Ⅱはナミビアのウォルビスベイを出てから、一路ダカールを目指さずやけに西よりに針路を取り、大西洋の真ん中の方へ進んだ。一体どこへ行くのかと思っていた処、大西洋上の浮かぶ孤島セント・ヘレナ島を見てから、北に向かい次港ダカールを目指すと船長の船内アナウンスがあった。洋上なので離路(デビエーション)が何マイルになるのか私には計算する術もないが、トン当たり600ドルもするバンカー(C重油)を毎日100トンも焚いているから、このデビエーションだけで数万ドルのコストアップになるのは間違いない。考えてみると何と贅沢な旅なのかという実感がふつふつと沸いてくる。


日本を出て既に1ヶ月以上経ったが、この間に陸地に上がったのはわずか5日。飛行機ならば半日で行けるヨーロッパに、こうして毎日毎日海を見ながらゆっくり到達するのも酔狂といえば酔狂。人によってはそんな事は真っ平だ、と思う事だろう。という私も、そろそろ新橋の焼き鳥が食べたくなったなあとか、車の運転がしたくなったなあ等と、ないものねだりの夢をみる様になってきた。わずか400人強の乗客が200米の船内で暮らすので、顔見知りも大分増えて挨拶を交わしたり食事を同席したりするのだが、なかにはこれまでの活動場所が違ったのか初めて見る乗客もいて、船内も狭いようで広い気がする。


「 あいさつをしてもまったく無視する人がいて、一体どういう育ち方をしているんでしょうね 」と先般食事でテーブルを囲んだ年配の方が嘆いていた。概して老齢になるに従って相手の反応などに疎くなるのか、今までの社会生活でそういう習慣を身に着けてこなかったのか、この小さな社会にも色々な人がいるもので、人はそれぞれ違うという事を改めて認識するのである。そんなさまざまな関わりも、同じ船内で一ヶ月以上海ばかり見て暮らすという体験から紡ぎ出されるもので、私はこれは貴重なひと時なのだろうと思う事にしている。


それにしてもルーアンに着いたらノルマンディの海岸にでも行こうかと思っていたが、パリの日本飯屋に行って焼き鳥をつまみ、韓国焼肉屋でカルビをたらふく食べようかなどと少し世俗が恋しくなってくる洋上である。


大西洋に浮かぶ絶海の孤島、ナポレオンの流刑地セント・ヘレナ島
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2011年5月 2日 (月)

植民地支配

飛鳥Ⅱはナミビアのウォルビスベイに初入港した。今回のワールドクルーズに当たり、海賊とアラブ騒乱で当初のスエズ経由ルートを変更した際に、急遽手配された寄港地であるが、これが思いもよらず興味ひかれた、いわば掘り出し物ともいえる場所であった。まず南アフリカ共和国の北に隣接するナミビアなどという所は、我々日本人には極めて馴染みの薄い国であって、こんな国に訪れる事ができるのは予定外のルート変更の賜物、このクルーズに彩りを添える港かと入港前から好奇心をそそられる。


船が航路灯標に沿って陸に近づくにつれ視野に広がるウォルビスベイ港は、我々が日ごろ馴染んでいる三菱製やIHI製の港湾機器でなく、ヨーロッパのリーブヘル社のクレーンなど欧州の機械で装備されており、いよいよここは大西洋なのだと感じさせてくれる。港の一隅にある立派な修繕ドックに入渠している船は、極東ではあまり見ないオスロ船籍やルクセンブルグ籍、岸壁に係留されるトロール漁船はジャマイカ籍などで、ここはヨーロッパやカリブ諸国の経済圏である事を思い知らされる。


ナミビアという国名はアフリカ大陸の西岸に広がるナミブ砂漠に由来するそうで、港の周りは南北800キロ幅80キロに亘る大砂漠、黄金色の砂丘を見ていると今にもハリソン・フォード扮するインディアナ・ジョーンズがテンガロンハットをかぶって現れるのではないか、という気がしてくる。ナミビアの歴史を聞けば15世紀以来、ドイツとイギリスの植民地にめぐる争いと南アフリカ共和国との確執に明け暮れた複雑な過去で、やっと1990年に現在のナミビア共和国になったと云う。


観光バスで港から30分ほどにある中心地、スワコプムンドを訪れると町はドイツの風情そのもの。4月末のからっとしたそよ風に、多数のドイツ人観光客で溢れる街はドイツ語の看板あふれ、ここはヨーロッパの一角なのかと一瞬錯覚に陥る。日本人が知らないアフリカの土地に、欧米のかつての強国はこんな旧植民地をあちこち持っていて、旧宗主国の人々は母国の延長の様な感覚で気軽にリゾートで訪れている様だ。これを見ると、何世紀にも亘った帝国主義の時代が、アフリカの歴史や経済に深く関わってきた事を改めて肌で感じる事ができる。砂漠の国で、瀟洒な家に住むヨーロッパ系の人々が黒人に混在して生活している様を見ると、我々の知らぬ世界が随分あるものだと、ちょっと学んだ気がしたのだった。


オプショナルツアーの場所:港から7マイルにあるためにDUNE(砂丘)7と呼ばれる大砂丘
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