入試ネット投稿事件
かつて綜合商社を訪問した際には、10階の食糧本部でその日の主な用事を済ませた後、9階の鉄鋼本部に知人を訪ね、8階の建設本部で話をしたら7階の機械本部に寄って、6階の運輸部と生活資材部でまた雑談をするといった具合に、知っている部門を次々と訪れたものである。その過程で様々な情報を仕入れる事ができたし、「え、あの部ではそんな事言ってたの? 悪いけどもう一度その部に行って、情報を聞いてくれない?」などと社内ブローカーまがいの事をするのも度々であった。そうしている内に「生の情報」や「事の真相」を探る事もできたものだが、今やどの会社も各部のドアに施錠してあるばかりか、アポイントを予めとって受付を通さないと担当にも会えないのが実情で、「人と会って情報を得る」という商売の根本が揺らいでいる気がする。
私に言わせれば、それほどの秘密がどのセクションにもあるわけもなく、かつての様に、訪問客などは担当者のデスクまでいつでも行ける様にしておけば良いと思うのだが、昨今の性悪説に基づく行き過ぎた管理主義や、コンプライアンス至上主義が企業の活力を削いでる様な気がしてならない。これと正反対の極地にあるのが教育界で、携帯電話による入試問題投稿事件は、教育界では基礎的な管理もされていなかったと云う事のようで、改めて驚かされたのである。私にはこれまで試験会場に携帯電話を自由に持ち込めたという事自体が、受験生の性善説に依存する実にいい加減な対応であった様に思える。
どんな昔からもある様に(そして私も行った様に)、試験と言えばカンニングがあるべし、というのは人の世の常である。であるからこそ試験官が会場を見回りをし、カンニングが発覚した者は、失格や落第を課すという厳しい罰則がとられてきたのである。ましてや入試という人生の大事な関門であるなら、不正防止の為には予め想定しうる最大限の予防策を練っておくのが、試験を監督する側の最低限の責務ではないだろうか。辞書持込可能という試験でさえ、辞書に最大限の工夫をしてヒントを得ようというのが受験生の心境である。会場という密閉された空間で行われる事に意義のある大学入試において、携帯電話は外部と繋がる唯一の手段であり、まして写真撮影など様々な機能を備えた最近の携帯電話ならば、「試験会場入り口で預かる」というのがごく普通の措置である様に思えるのである。
国際的な競争にさらされている企業などでは行き過ぎた管理・監督が行われ、コンプライスやらガバナンス等と言う、一昔前には考えられなかった(ほとんどの部門では)おおよそ無意味な概念が導入される一方、教育に関係する部門では、やたら人権やら個人の自由が尊重され、行き過ぎた性善説によって「本人を信頼」する事を前提に、必要な対応が為されていないのではないか、と今回の大騒ぎを見て感じたのであった。 因みに「宅建」などの国家試験ではもうかなり前から、携帯電話は別の封筒に入れて試験中は封印されているのである。日本の社会に巣くう行き過ぎた性善説と性悪説、企業と学校では違うと云う反論もあろうが、どちらももう一度見直してはいかがだろうか?
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