東門 明 君の事
全日本大学野球選手権も法政の優勝で終わったこの季節、次は第37回を迎える恒例の日米大学野球選手権大会である。この大会は毎年この時期、日本と米国で交互に開催されているが、今年は日本で開催の順番、梅雨空の下、両国の選手が日本各地の球場で凌ぎを削るのであろう。
この大会を知らせる新聞の記事を読む季節になると、今日の様な梅雨空で行われた第1回大会2回戦の悲しい出来事を思い出す。あれは昭和47年の7月、日米の大学野球のオールスターが初めて雌雄を決するという事で、神宮球場を中心にこのシリーズが鳴り物入りで始まった年である。日本チームは各地のリーグ戦で優勝したチームの主力を中心の選りすぐりのメンバー、特に関大の山口高志投手の豪速球などが話題になっていたが、東京六大学からは優勝した慶應のエース萩野(土佐→新日鐵八幡)サード吉沢(大宮工業→東京ガス)ショート山下(清水東→大洋ホエールズ)池田(習志野→日本石油)などが選出されていたので、母校・慶應の選手の活躍に大いに期待してこのシリーズを注目していたのだった。
この年昭和47年、早稲田大学は丁度有望選手の入れ替わりの時期でリーグ戦の成績も春5位と低迷していたのだが、その中にあって神奈川・武相高校から入った2年生の東門明君だけが一人日本代表チームに選抜されて気を吐いていた。初の日米シリーズの第1戦はたしか山口高志の力投で日本が勝利を収め、第2戦は7月9日、日曜日のナイターの試合に、私も神宮球場に勇躍応援に駆けつけたのだった。
その日は生憎の梅雨空、降り続ける冷たい雨に日本の投手陣は不調でアメリカ勢の長打の前に一方的な防戦の展開、負け試合の上あまりの梅雨寒で、すっかり観戦意欲をなくして、その日私は早々に6回で球場を後にしたのであった。ところが翌日の新聞を見ると、直後7回の日本チームの攻撃で代打東門がヒット、次打者藤波(後中日)の二塁ゴロで2塁に滑り込む際、アメリカの2塁手の1塁への送球を頭に受けて昏倒・慶應病院に入院したという記事を見て驚いた。その後何日か新聞で彼の容態が告げられていたのだが、遂に治療の功なく7月14日に亡くなったのは大変ショックで痛ましい出来事であった。
その試合を見ていて直前に球場を出たので悲劇を見ずに済んだという偶然、同年代のアスリートが試合中の事故で命を落とすという親近の気持ち、低迷した早稲田から一人選ばれたばかりにその場に遭遇したとういう巡りあわせなど、この出来事は私にとって、大変悲しく感じた事であった。それとともに、野球というゲームがはらむ危険性を改めて認識して、当たれば死んでしまう様なボールを投げ、打ち、走り、守る野球選手のすごさに改めて思いを致したのであった。
この季節、雨の中の野球になると、時々あの神宮での試合を思い出してしまうのだが、今年も日本代表として選ばれた学生選手達は、事故や怪我に充分気をつけてこんな歴史があった事を胸に刻みつつ精一杯プレーして欲しいものである。東門明君の背番号9は早稲田大学の永久欠番だそうである。
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